05
五日目、金曜日の朝六時。
ひととおり揉んでから、花村さんが言った。
「明日、どうしようか」
「そうか」
言われてみれば、気合が入っている部活なら土日も練習があるのは当然だろう。
「なら、来るよ。土日って何時からやってる?」
「九時頃から」
「早いね。わかった、八時半ぐらいに来るよ」
「いいの? 花粉症の薬あるから、それでもいいけど」
「いやいや薬じゃいまいちだからこんなことやってんでしょ」
「でも大変じゃない? 鈴木くんは部活でもないんだし」
「まあ、それは、それなりの報酬がありますので」
「うわ」
花村さんが苦笑いを浮かべる。
でも本気で嫌がってるわけじゃない、という共通認識。
「で、これからが本題なんだけど」
「なに」
「来週」
「ゴールデンウィーク?」
俺がきくと花村さんはうなずく。
「木曜から、3、4、5、6、って休みでしょ。そこで合宿があるの」
「へー」
うちの吹奏楽部はどれだけ本気なんだろう。
「大会前とか?」
「じゃないけど、レギュラーのオーディションとかあるから」
「あー、そういうやつあるんだ」
「他にもやりたいことはいくらでもあるよ。時間さえあれば」
「つまり、連休中も来てほしいっていう話か。まあいいけど」
「じゃなくて」
「?」
「学校で合宿するわけじゃないの」
と花村さんが一歩近づく。
いまはマスクを外して、鼻のティッシュもない。
花村さんはわりと、地味な女子というよりはかわいい女子ではないのか、そういうことが目前に突きつけられていた。
いいにおいもする。
こんな花村さんの花村さんを揉んでいた、という現実。
はー!
「どうかした?」
花村さんがさらに近づく。
「ななななんでもない」
俺は急いで目をそらした。
「? それでね。提案なんだけど、レギュラー決めのテストの日だけ、現場まで来てもらえないかなと思って」
「どこ」
「ここなんだけど」
花村さんは携帯を出して、地図アプリでその場所を示した。
学校じゃない。
いやそもそもここは市内どころか県外だ。
ん?
ここは……。
「ごめん、結構遠いんだけど、ちゃんと交通費は出すし、それになにか他にも希望があったら聞くから、どうにかならないかな」
「電車で二時間かかるかどうかくらい?」
「そうだよ。知ってる?」
「親の実家から近い」
「あ、そうなんだ」
「じゃあさ、俺がゴールデンウィークに親の実家に遊びに行けば、丸くおさまるよね」
「えなにそれすごい! え、え、いいの?」
花村さんが目前まで迫ってくる。
メガネの向こうにある目がキラキラしていて、思わず目をそらす。
「……いいよ。どうせひまだし」
「なにか特別な希望とかある?」
「ないけど」
「そっか。やったー!」
花村さんがジャンプをして喜んだ。
それを見ていたら、なんだかすごくいいことをしているような、そんな気になった。
あと、一時間くらい経ってから、特別な希望ってなんだったんだろう。直揉みは、アリだった……? 千載一遇のチャンスをのがした……? しまっ……!!
と苦悶した。
「いやー良かった良かった、助かったわ」
俺は父の運転する車に揺られながら、母の声を聞いていた。
「てっきり今年も来てくれないのかと思ったけど、安心したわー」
「……」
「田植え、久しぶりでしょー。覚えてる?」
「……」
ゴールデンウィークに母の実家に行きたいと言ったら、驚かれてから、大歓迎だった。
そして思い出した。
この時期は、田植えがある。
中二くらいから、なんだかんだと言い訳をして行かずにすませていた。
忘れていた。
やっぱりやめた、なんて言えるわけもなく。
窓の外の景色を見ていた。
高速道路を降りると、明らかに緑が多い。
一緒に走っていた車もどんどん数が減っていった。
道のアップダウンも増えて、道路は大きくカーブしたり、びっくりするくらいずっと先まで見通せるようになったりした。
そして横を見ると。
山。
森。
川。
田畑。
だいたいこれで構成されている。あとは要素のパーセンテージを調整しているだけだ。
家と家の間の距離がうちの近所とは全然ちがう。
景色の合間に家がある。
そうしてしばらく走っているうち、見覚えのある、気がする道になってくる道を通る。
土産物屋とか、数少ない、そしてここ以外では見ないスーパーとか。
大通りから細い道に入る。
完全に見覚えがある。
車が入っていって、低い植え込みに囲まれた家の駐車場にとまった。
車を降りる。
エンジン音がなくなると、すごく静かだった。
両親がしゃべってる声はする。
でも足りない。
車が走っている音、街頭の音楽、携帯の電子音。
そういうものがすっぽり抜けて、ささやかな鳥の声、植物がこすれあう音、そういったものだけになっていた。
自分の足音が大きく聞こえる。
玄関の戸が開いて、祖父母が出てきた。
「あら太郎、よく来たねえ」
笑顔で迎えてくれた。
「どうも」
どういう感じで接していたか覚えてなかったので、なんとなくスカした対応になってしまう。
「大きくなってー」
「ずいぶん成長したなあ」
なんだかむずがゆい。
祖父の家は瓦屋根。
中は全部畳の部屋だ。
サッシがばーっと開け放ってあって、中が見える。
不用心だなと思うと同時に、これで成立しているんだから、それはそれですごい。
だんだんそうじゃなくなるんだろうか。
中に荷物を置いて、母に言う。
「自転車借りて、そのへん行ってきてもいい?」
「どこ行くの」
「そのへん。コンビニとか」
「じゃあ番号鍵の自転車があるから、あれ、番号なんだったかな。ちょっとお父さん」
「自分でやってみるからいいって」
俺は祖父母の家にある自転車のひとつの、番号鍵を入力した。
何年も前の記憶だったけれども、外れた。
「開いたから」
俺は母に呼びかけて、自転車に乗った。
下見のつもりだったけれども、景色を見ていくと、ずるずると引き出されるように、その先になにがあるのか、ということが思い出せる。
ふだんまったく使ってない記憶が勝手に出てくるのは、なかなかおもしろかった。
携帯で連絡をとってみると、花村さんたちはまだ、合宿所には到着していないらしい。
合宿所の住所をGPSで確認できたので、行ってみることにした。
だいたい十五分、というところだ。
無事、到着した。
大通りの横道が坂になっていて、上の方に宿舎のような建物や、体育館みたいなものもあった。
こっち側に来たことがないから記憶はない。建物自体は、もう何十年も経っている用に見える。
手前には、大手ではないコンビニがあった。
駐車場がやたらに広いのは、トラックなどで通りかかった人用だろうか。
近所相手の商売じゃないのかもしれない。
「あ」
俺から見て奥の方。
遠くまで見通せる道の先の方に、バスがやってくるのが見えた。
あれか。
俺は自転車に乗って、離れた。
距離はまだまだ充分あって、運転手くらいしか俺のことを確認していないだろう。
高速道路から来たんじゃないとすると、駅から貸切バスみたいなものを使っているのかもしれない。
「おかえり。どこまで行ってたの」
もどると、家の前に母がいた。
「そのへん。これ、明日からも借りていい?」
「どれ」
「自転車」
「いいけど、ちゃんと手伝ってよ」
「わかってる」
俺は自転車を車が停まっている場所の手前に置いた。
それから、さっき撮影したコンビニの外観を花村さんに送り、ここならどうだろう、と提案した。
しばらくして、了解、ときた。
なんだか、緊張してきた。
いつもとちがう気分だった。
場所がちがうせいだろうか。
思考回路もすこしちがっている気がした。
風が吹いた。
涼しかった。