13 黒髪の少女
学院生活が始まってからまだ少ししか経っていないというのに、もう休むことになってしまったことに、ロニエは憂鬱になった。
逆に少ししか経っていないからということも考えられるが、それでも理由がちゃんとあるとはいえ、後ろめたさがロニエの中にあった。
ロニエは寝すぎたことで閉じることすら面倒になったまぶたを開ける。
念のためということで布団にくるまっているが、体感的には治っているように感じた。
「軽い風邪か、単なる体調不良か。どちらにしても、すぐによくなって良かった」
ロニエは布団から体を起こし、周囲を見渡した。
時計を見ると、もう昼の時間を回って、二時になっていた。
「あぁ、昼時過ぎっちゃった。けど、お腹空いてるし、下に行こうかな」
しっかりと連絡はしているので、今寮内を出歩いても、問題はない。
もっとも、基本的には部屋にいるようにと言われているので、むやみやたらに出歩くのは認められないが、食事くらいなら大丈夫だった。
ロニエは部屋着のままドアを開けて外に出ると、下の食堂へと向おうとした。
そんな時だった。
ロニエは急に体のだるさを感じ、壁にもたれかかった。
「な、何、これ?さっきまで大丈夫だったのに……」
急に訪れた隊長の急変に、ロニエは意識を集中させて現状を把握した。
このまま立ち上がるのは困難で、無理に立ち上がるとその後余計な怪我をする羽目になるかもしれない。
また、このままじっとするのもあまりよくない。
やはりベストなのは、自分の部屋に迅速に戻ってベッドに横になることだ。
「ていうか、それ以外の選択肢はないね」
そう苦笑して、ロニエは体の向きを反転させ、壁伝いに部屋に戻ろうとした。
「っ!?」
しかし、途中でロニエの意識は、目の前の寮内の姿を捉えられなくなった。
視界は歪み、所々がかすみ、平衡感覚までもおかしくなってきた。
「これ、は?」
どういうことなのだろうと思うロニエだったが、下手に動くことができない。
願うのは、これが長時間続かずに、すぐに元に戻ることだった。
そんなロニエは、歪む視界を見る意識の中で、声を聞いた。
それはどこからか聞こえているような声。
だが、それがどこから聞こえているのかはわからなかった。
しかも、声は一つではなく、いくつもいくつも聞こえてきて、次第にロニエの意識に満ちていく。
「何、これ?」
頭が痛くなり、吐き気もあった。
しかし、それ以上に何やら自分の中に何かが流れ込んでくるような感覚が、とても気持ち悪かった。
「これは一体……これ、は……」
そして、ロニエの意識は遠ざかっていった。
♢♢♢
ロニエが目を覚ました時、目の前には黒髪に黒に瞳を持つ、ロニエと同じくらいの年齢の少女が椅子に座っていた。
その椅子は豪華な作りで、椅子の縁には装飾が施されていた。
周囲を見渡して見ると、何もない。
本当に何もない。
まるでここが、ロニエと少女のためだけの場所のように、二人だけが照らし出され、光の縁の外側には真っ黒しかない。
そこまでわかると、自分の状況にも意識が向いた。
服装は部屋着のまま。座っている椅子は目の前の少女と同じ、豪華なものだ。
実際に座っていると、その素晴らしさがわかる。
「もうそろそろ、いいかな?」
「あ……」
ロニエに微笑みかける少女の黒髪はとてもきれいに見えた。
ロニエの周りには黒髪の人などいなかったために、その髪はとても珍しかった。
それに加えて、少女はとても美人だった。
見た目はロニエと同じくらいなのだが、かわいらしい、ではなく美人。
見た目の子どもさとは裏腹に、内面から大人らしさが見えた。
それにほれぼれしていると、少女は首を傾げた。
「もう、いいかな?」
「あ、いいですよ。はい」
「ふふっ、そんなに慌てなくてもいいのに」
「で、でも、初めて会う人ですし、それなりに、緊張して……」
言葉の最後の方が小さくなっていき、それでロニエが本当に緊張しているのだと少女はわかった。
「そう。私としては初対面という感じがしないから、そこまで緊張というのはないのよね」
「初対面では……ないんですか?」
「いいえ、初対面よ。私が一方的にあなたのことを知っていただけ」
「知っていた、ですか?どうして?」
「ふふっ、それはこれから話すことに関わってくるわ」
「話すこと?」
ロニエはこの場所、この少女についての情報が何もない。
今は優し気な対応をしているが、いつ何をされるかわからないため、ロニエは警戒を緩めない。
ただの初対面の人として見れば緊張するが、警戒すべき対象として見れば、ロニエの緊張はどこかへ行ってしまった。
そんなロニエの様子を見て、少女はまた笑みを浮かべる。
「そんなに警戒しなくてもいいわ。そのことに意味はないのだから」
「意味がないというのは、どういうことですか?」
「そのままの意味。私はあなたに危害を加えるつもりはないの。あえてもう一つ言うなら、いくらあなたでも私に勝つことはできない」
その言葉に、ロニエはカチンときた。
確かにロニエはまだ未熟かもしれないが、それでもそんな簡単に、しかも同世代の人に負ける気は全くない。
馬鹿にされていると思ったロニエは、その場から立ち上がり、一瞬で拳を突き出す。
剣を持っていないのは残念だったが、ロニエには大した問題ではない。
拳を当てるつもりはない。
ただ脅しと、自分の実力を見せるためだけだ。顔の寸前で止めるつもり、だった。
「え?」
ロニエが拳を止める寸前まで目の前で座ってた少女が、突如として消えた。
拳は予定通り止めたが、その先に誰もいないのであれば、止める意味はない。
「どう?満足した?」
「っ!?」
後ろから聞こえた声に振り向くと、少女はさっきまでロニエが座っていた席に座っていた。
実に涼しげな顔で。
「あなたは、何をしたんですか?」
「特別なことは何もしていないわ。ただあなたの拳を避けただけ。寸前で止めることはわかっていたけど、そのままそこにいても芸がなかったからね。だから、拳が止まる寸前に避けたの。それだけよ」
「なっ!?」
ロニエは信じられなかった。
ロニエはこれまで両親から厳しい訓練を受けてきた。
そんな両親の本気と戦ったことはまだないが、それでもある程度両親から力は引き出せていると思っている。
そんなロニエは、いまでは両親の動きを見失うことはなくなっている。
それは、一流冒険者の動きなら見切れるということだ。
それなのに、ロニエには少女の動きどころか、その予兆を見ることも感じることもできなかった。
それには驚愕するしかない。
「何で、私が……」
「いわゆる、経験の差というものね。あなたと私、鍛えてきた年月が違う。あなたは私が鍛え始めた年齢よりも、はるかに幼い頃から鍛えて訓練している。その年でそこまでできる人は他にはいないでしょうね。それでも、私の方が経験は上。今のあなたに負ける要素はないわ」
「…………それでも……お父様が言っていました。負けるとわかっていても、挑まなければならない時があると」
「いや、それは」
「いきます!」
「って、聞きなさいよ!」
真っ直ぐに突っ込んでいくロニエ。
その姿を見て、少女は思った。
ロニエはとてもきれいなのだと。
姿ではなく、心が。
少し強情なところはあるにしても、どこまでも真っ直ぐなのは、少女は嫌いではなかった。
ゆえに、少女はロニエにわからせようと思った。
ロニエが父親から教わった根性論では、どうにもならないことがある、と。
「止まれー」
その瞬間、ロニエの足が地面に縫い付けられたかのように動かなくなり、その急ブレーキのせいで、ロニエの体は前へと倒れた。
「いたたた……」
ロニエの全力疾走だったのだから、転んだロニエは本当に痛いだろう。
幸いなことに目に見える怪我はなかった。
「これでわかった?あなたは私には勝てないのよ」
ロニエが見えが得ると、目の前に仁王立ちした少女が立っていた。
「あ、えっ……そう、ですね。私の負けです」
「ありがとう。認めてくれて」
にっこりと笑顔になった少女は、先ほどまでの戦闘技術を持ってるとは思えないような、天使に見えた。