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〈 エスプレッソ 〉

作者: 杏寿

 昨日は雨が降った。というか雨と言えないほどの豪雨だったけれど、夜が明けると雨が降ったことがまるでなかったかのようにカラッとした晴天に変わっていた。

 地面もすっかりと乾いていて今現在では小さな水たまりさえもない。空もまぶしいほどの太陽が煌めいて、通りすがった公園では元気に子供たちが駆け巡っていた。


 俺はこの町が好きだ。都会からは少し離れているため通行こそ不便なのだが、その分青々と生い茂る草木、つまり自然が都会なんかよりずっと多く残されていて夏や秋なんかが美しい。理由を述べるとその他にも本屋が多かったり、街を少し出たところにある海なんかが綺麗だ。しかしこの町が好きな第一の理由というのが、とあるコーヒーショップがここから少し進んだところにあるということ。


 チリンチリンと来店を告げる鈴が高らかに鳴り響き、俺が数歩足を進めると奥からピンクのフリルエプロンをまとったマスターが出てきて軽くお辞儀をした。

「こんにちは、いらっしゃいませ。今日は何をご希望ですか?」

 マスターの微笑みはいつどんな時でも可愛らしい。俺はカフェ・ラッテを注文すると日差しが差し込む窓側、一番奥の席に腰かけた。


 俺は自分のバックをあさり読みかけの小説を取り出した。そして栞の挟んでいるページを開き、読むふりをして横目でちらりとマスターのことを見る。よほど上機嫌なのか今日は昔流行った映画のサントラの鼻歌つきである。

「お待たせしました。カフェ・ラッテでございます」

 マスターは俺の横にカップを置くと、店内に流れるBGMを変えに行った。俺が来店すると忙しい時以外こうやって俺が好きな曲を流してくれる。ちなみに初めてマスターに出会った時「好きな音楽はなんですか」と聞かれ答えた如何にもこの店の落ち着いた雰囲気に似合う洋楽だ。


「今日の本はいったい何ですか?」

 本を読んでいるとマスターは決まって俺のことをのぞき込んでくる。仕草までもが可愛らしい。

「今日はある作家のエッセイを読んでいるんだ。ためになるよ」

「夢はシナリオライターでしたっけ。素敵だと思います」

「あはは、ありがとう」

 隣良いですか、と彼女は俺に質問した。仕事はいいのかと聞こうとしたが店内には俺たちのほかに人影はない。そっといいですよと呟き椅子を引く。彼女は再び微笑みを僕に向けた。


「そういえば昨日はこの店開けてたの?」

「はい。あの大雨でしたからどうしようか迷いましたが、土日祝日以外はすべて開いているとお客様にお伝えしていますから開けていました。」

「すごいな。閉まってないと知っていたら来ていたかもしれないのに」

「やめてください。風邪ひきますよ?昨日来店していたお客様は皆さん雨宿りをされていました。新規のお客様も来たりして楽しかったのですが」

「風邪ひいてでも行っておけば良かった」

 君のコーヒーは毎日でも飲みたいんだからと俺は笑った。すると彼女は妙にしんみりとした顔つきで俺を見た。

「そのことなんですが、少し話しておきたいことがありまして」

 その瞬間俺は直感で聞いてはダメだと感じた。しかし彼女が話しておきたいといった以上聞かないわけにはいかない。聞くよ、と窓の外に視線を向けて彼女の言葉に耳を傾けた。そんな俺を見て彼女もまた窓の外に視線を向ける。


「ごめんなさい、私家庭の事情で引っ越すことに決まったんです。それと同時にこの店もたたもうと思って。母の体調があまり良くないのにわがままは言えなかったです。本当は、この店を手放したくなんてないけど仕方が無くて」


 働いている彼女を見ていたからわかる。きっと相当悔しいはずだ。毎日楽しそうに笑顔を降り注いでいたから。それに俺もこの店に来れなくなってしまうのは相当堪える。彼女の入れるコーヒーはとても美味しくて好きだし、彼女がかけてくれるお気に入りの曲が流れるこの店内で、小説を読んだりたまに執筆活動をするのも好きだった。なにより、彼女がいるこの空間、そして彼女自身が好きでもあったから。

「あの、その、私、もっともっと本当は、あなたと一緒にいたい。だって、ずっと前からーーーーー」

 少し焦り気味に言った彼女の口元を抑え、彼女の想いが詰まった言葉を止める。うすうすそうであってほしいと思っていた。だから今ものすごく嬉しいし、心臓の音がうるさいぐらいに響ている。だけど、今その言葉を聞きたいかと言われたらそうではない。だってこんなにも泣いてしまいそう。


「できることなら、最後に君の今飲みたいコーヒーを入れてくれないかな。俺と君の分。お金は払うから」

「はい、少々お待ちください」

 ちょうど時計の針がまっすぐになり時刻を告げる音とコーヒーをカップに注ぐ音が交差する。香りが店内にふわりと漂い、優しく包み込んでくれるようだ。

「これが本店最後となります、エスプレッソでございます。」

 本当は昨日が最後だったのにもかかわらず俺が来るのを待って今日だけ特別に店を開けていたのだという。

「もうここにもう一度店を持つことはーーー」

「母の体調次第ですかね。でも、もう意味がないのかなって」

「そっか。寂しくなるな、この美味しいコーヒーも飲めなくなるのか」

「お世辞、なんていらないです。」

「お世辞?そんなこと言ってないんだけど」

 彼女の微笑みは儚かった。だからだろうか、伝えてはいけないと思っていたけれど自然に声になってしまう。言葉にすれば簡単で、でも一番伝えたかった事。


「待ってるよ。何年たっても、君と君の注ぐコーヒーの味を待っているから」


 驚かしてしまったのだろうか。彼女の瞳が潤みだした。

「なぁ、俺は君が好きなんだ。嘘なんかじゃない、ひとめ惚れだったんだと思う。」

「ならーーーーー」

「俺は待ってる。待ってたいんだ。コーヒーはその時まで控えたいと思っている。君の入れたコーヒーじゃないと意味がないから。それに、君のお母さんのことも気になるしね」

 彼女の微笑みは、やっぱり可愛らしい。待ってるから、早く帰っておいで。

「絶対に、帰ってきます。またいつもみたいに美味しいって言ってもらえるように頑張りますから、ちゃんと私のこと忘れないでくださいね。約束、ですよ?」

 あぁ約束だ、忘れるわけない。君の微笑み、コーヒーの香りや味のこと。そしてこの店の可愛らしいマスターのこと。


 俺はエスプレッソを飲み干した。ほろ苦いけれど体の中に流れ込めば温まる。彼女も飲み干したようでカップを机に置いた。

「っっ!ほら、閉店です。お帰りください」

 背中を向けて言った彼女の声は震えていた。

「そうだね、帰るとするよ。それじゃあ、〝またね〟」

 チリンチリンとさよならを告げる音が鳴り響く。ずっと待っているよ、と心の中でもう一度呟いた。だから、泣かないで。


 これは、とある町のとあるコーヒーショップの物語。

 そこには変わらない出会いと想いがある。


 好きだ、とひとり呟いた。

 約束を果たす、その日まで。

ずっと待っているよ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  再会できるといいですね。 [一言]  大きく変わっていなければいいです。
2016/04/11 10:47 退会済み
管理
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