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幻実  作者: toru
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【後編】

寧々は消灯前、ベッドテーブルに教科書、ノートを置き一心腐乱に勉強していた。寧々は入院するまで勉強は大嫌いだったが今は不思議とストレスがない。子供が悪いことをした時の罪悪感から逃れるように勉強を利用していた。ただそれだけだった。将来への不安は不思議と無く、只目の前にある課題に反応するだけが自分の進む道だった。京香が寧々の将来を心配しているのは寧々にも痛いほど伝わっていたし、自分の生きる術は勉強しかないのも知っていた。二度とバトミントンができないかもしれないのも悟っていた。しかし、寂しさはなかった。自分の体がズタズタに破壊されている。そんな思いが現代社会の価値観から引き離してくれた。包帯でぐるぐる巻きにされた頭や腕、足を触るたびに皮肉にも安心感を得ていた。私には死の淵を彷徨うほどの大けがをし今はそのけがを治すために療養している。皆は心配し同情する。けがをする前は当たり前に自分でしなければならないものも今は何をするにも褒められる。そんな環境に居心地の良さも感じていた。日々、学校で自分の居場所を作るために切磋琢磨し傷つき傷つける生活から解放された。異様な高揚感が寧々を包んでいたのだ。そんな時、個室のドアがノックされた。寧々は自分を取り戻すと大きく返事をし教科書を食い入るように見つめる。

「おっ、勉強してるな!」

「あっ!的場先生!」

「えらいね~どれどれ、先生にも見せてくれない?」

そういうと的場は寧々に駆け寄り、テーブルに置いてある教科書を覗き込んだ。

「ほ~難しい問題だな~だんだん問題が難しくなって行ってるのかな?」

「先生、頭いいでしょ~こんな問題あっという間にできちゃうくらい。先生!どうしたらお医者さんになれるの?」

「おっ、寧々ちゃんお医者さんになりたいの!?そうだな~お医者さんはがり勉しないとなれないかも。でも寧々ちゃんの年から頑張れば必ずなれるよ!」

「先生はどうやって勉強したの?」

「先生はがり勉の中のがり勉!要領悪かったから勉強する時間を多くするしかなかったかな。医学部入って皆、僕の半分くらいの時間しか勉強していなことに気付いて落ち込んだよ~(笑)女の子とも遊べないから辛いよ~その当時、付き合ってた・・・」

「先生!喋りすぎ!!寧々にも喋らせて!」

的場はドキッとした。気付いたら夢中になって小学3年生に話を聞いてもらっていたのだ。的場が時間を忘れて話し込んだのは何年振りだろう。医師である以上病院漬けの毎日は覚悟していたが家族との時間が割かれるのは本当につらい。いや、それだけではない。寧々には年齢に見合わない落ち着きと母親の様な安心感があった。

「ごめん、ごめん。で、寧々ちゃん体の方はどう?痛いところない?」

「うん、痛いのは平気!体が動かないのは不自由だけど今はしょうがないよね。リハビリ頑張る!」

「うんうんうん。いいね。順調だね!リハビリも寧々ちゃんくらい若い子ならどんどん良くなるからね!リハビリのスタッフも若い子ばかりだから楽しいよ~一緒に頑張ろうね!」

「うん!的場先生に会うと安心する!寧々の体なんでもわかってるもんね。」

「そうだよ~なんでもわかってるよ~。先生にも寧々ちゃんくらいの娘がいるんだ。でも仕事で中々早く帰れなくてね。こうやって寧々ちゃんに会うと娘に会った気持ちになるんだよ。だから先生も寧々ちゃんに会うと安心する。娘も今頃、寧々ちゃんみたいにお勉強してるのかなーってそう思うんだよ。ゲームしてるかもしれないけどね(笑)」

「そんなことないよ!先生の子供だから絶対まじめで勉強してるよ!」

「そうかな?」

「そうだよ!きっと先生みたいなお医者さんになりたいと思ってるよ!」

「ありがとう。先生のほうが元気になっちゃったな!ごめんね、勉強の邪魔して。じゃあまた明日ね!」

「はーい!」

そういうと的場は病室を後にした。的場は病室のドアを閉めると何やら考え事をしている。こんないい子がなぜ自殺なんて恐ろしいことを考え出したのだろう。こんな短期間の付き合いでもいい子だと分かるほど寧々の心は成熟している。人を喜ばす方法を知っているし、年齢よりもずっと大人びている女性は男性に比べ子供の期間は短いというがこの子はまた特別だ。そんな精神に環境が反発したのかもしれない。子供の集団であろうとそこには大人となんら変わらない規律が存在する。いじめまでは行かなくても集団から逸脱した者は非難され標的となる。寧々ちゃんの場合は、集団から逸脱するほどのずば抜けた才能が次々と悩みを呼び起こしたのかもしれない。人は皆誰かから恨まれながら生きていかなくてはならない。それに気づく人間、気付かない人間どちらかに分かれる。気付かない人間は強く、自分の道を突き進むことができる。しかし、気付く人間は後ろを気にしながら、横を気にしながら自分の道を進んでいかなくてはいけない。どちらが正解なのだろう?どちらが幸福なんだろう?前者は社会的に忌み嫌われ冷守な人間に移り、後者は慈悲的で社会的評価は高い。前者は夢を追いかけ、後者は夢を捨てる。思春期はその二つの分かれ道で悩み苦しむ。ある者は選択できず命を捨てるか死んだように生き、ある者は取りつかれたように人のために生きようとする。この問題は自分で答えを出すしかない。大人になれば後者を指針とした生き方を選ぶ。自分だけのルールを作りそれに従って生きていく。それから反すれば罰が下るとこじつけた思考が規則的な生活を保障する。一つの行動をするときには必ず賛否が存在する。それは死ぬまで付き合って行かなければならない自然のおきてだ。勿論、俺にだって敵は山ほどいる。自分が占める資源を欲するものなど数えきれないほどいるだろう。自分の手から奪おうとする者を払いのけ一生肩に力を入れ生きていかなくてはならない。そういう強い精神力は子供には備わっていない。だからこそ親の役割が非常に重要だ。親はなくても子は育つ。そうなのかもしれない。しかし、この広い世界にこんなにも多くの人が存在するが自分を愛してくれるのは実の親だけだ。恋人でも愛する人でもない。親だけなんだ。自分の命を引き換えにしてまでも助けたいと思うのが親だ。そんな感情は子を持つ親しか分からないだろう。自分の子供は世の中で唯一の絶対的な存在だ。物思いに耽る的場に通りがかった看護師が気付いた。

「どうしたんですか?具合でも悪いんですか?」

的場は我に返った。

「あ~いやいや。」

的場は愛想笑いを浮かべるとどこまでも続く長い大学病院の廊下をスリッパの音を鳴らせながら歩いて行った。その背中はどこか悲しく、そして頼もしかった。


守はその日、いつもより早く目覚めた。最近、いくら寝ても疲れが取れない。寧々が入院した今、家には守しかいない。普段より家が広く感じ、静けさが辺りを包む。いつも賑やかなだけに一層不気味に感じる。守は体のけだるさを表情で表現すると力なく背伸びし新聞を取りに玄関まで向かう。不揃いのサンダルを履くと寝ぐせも直さないまま玄関のドアを開ける。今にも雨が降りそうなくらいの厚い黒い雲が日光を遮る。守は1度あくびをし天を仰ぐとポストに入っている新聞を取ると中身を確認しないまま家に戻る。玄関前の階段で躓き大きくバランスを崩しポーチに膝まづく。守は一気に目を覚まし恐怖心から肩で息をするほど鼓動が高まっていた。顔は目を大きく見開き転んだ時の自分を想像していた。ポーチと自分の顔は目と鼻の先まで近づき間抜けな姿のまま佇んでいた。そんな時、一匹のアリが目の前に現れた。アリは守に気付いているか、いないのか平然と淡々と歩いていく。その横にはぺしゃんこになったアリの死骸がいっぱい転がっていた。しかし、そのアリは死んだ仲間には目もくれずしっかりとした迷いない足で突き進んでいく。寂しくないのか?恐怖心はないのか?守は今まで気にも留めなかった。恐らくこのぺしゃんこになったアリは自分が踏んだアリだろう。自分は悪びれもせず、しかも気付かずに命を奪っていた。しかし、罪悪感なんてない。アリを気にしていたら歩けないからだ。しかも皆、そうやって生きている。いちいち小さいことを気にしていたら今度はこっちがぺしゃんこになり生きていけなくなる。しかし、どんな気持ちなのだろう?俺はこのぺしゃんこになったアリのことを全く知らない。家族、兄弟はいるんだろうか?かわいい娘はいるんだろうか?ただ単に運が悪かっただけなんだろうか?死ぬ運命だったんだろうか?自分が気を付けていれば今も元気に生きていたんだろうか?もし、1分、1秒家を出るのを帰るのを遅らせ早まらせれば死なずに済んだ命。しかし今、この世には存在しない命だ。彼は納得しているんだろうか?自分が死んだのは何の理由なく、なんの恨みもなく、なんの思い入れもない、只、身の上に降りかかった道理であることを。力の差が不平等に存在し、支配されることに怒りを覚えないんだろうか?人間が憎くないんだろうか?報復はしないんだろうか?我が物顔で地球を支配する人間をどう捉えているんだろう?単細胞だから感情なんて存在しないんだろうか?仲間を思いやり悼む感情は存在しないんだろうか?アリは前に歩くアリのお尻から出る匂いの付いた物質を手掛かりに進んで行くと聞いたことがある。仲間は自分がこの広い世界ではぐれないための道具に過ぎないのか?どう思っているんだろう?俺が思っている以上に人間を憎み忌み嫌っているのかもしれない。報復したいが自分たちの力を客観的に判断し、生存して行くには泣き寝入りするのが一番だと冷静に答えを出しているのかもしれない。しかし、僕たち人間はそんな苦悩は知らないし考えたこともない。こんなことを口にすれば、人は皆、頭のおかしい人間だと思い不信感を抱き爪弾きにあうだろう。強いものは弱いものに敬意を払わない。神が作ったルールだ。そのルールがあるから熾烈な競争を繰り広げ、強く、さらに強くなろうと切磋琢磨する。弱いものは何をされても抵抗もできず声も届かず消え去っていく。そこに慈悲はない。気付く前に存在がないのだ。誰にすがることもできない。だってそれは皆が崇める神が作ったルールなのだから。誰にも変えることのできないルール。そうこうしていると雷鳴と共に大粒の雨が降り出した。守は急いで玄関のドアを開け家に入る。皮肉にも急いで入った守はアリを踏みつけていた。これが誰にも変えることのできない事実なんだ。


眞代と修一郎はベッドの上で同じ朝を迎えていた。修一郎は呆然と天井を見つめる。眞代は、まだ眠りの中で布団の中にうずくまっていた。修一郎は以前、女性関係に走ろうとしたが不思議と誰もつかまらない。修一郎はモテるほうで女性に困ったことはない。しかし、何故か今回は女性が振り向かない。混沌とした静かな空間の中で逃げ出すことのできない現実に身をすくめていた。そうこうしていると眞代が目を覚ました。修一郎に抱き付いてくる。修一郎はそんな手を振り払うように反対側に寝返りした。眞代は強引に修一郎にしがみつく。そんな中、眞代が寝ぼけたかすれた声で優しく話しかける。

「もう起きてたの?」

修一郎は無言のまま一点を見つめ続ける。眞代は身を起こし窓を見つめていた。

「今日、天気悪いね。仕事行きたくない・・・いつまでこんな生活続くんだろうね。考えたことある?定年までこんな生活続くんだよ。定年が来たらぎりぎりのお金しか貰えない年金生活に切り替わるの。みんな何が楽しみで生きてるんだろうね。世間体気にして生きてるんかなぁ?なんにも考えてないんかな?修さんはどう思う?」

今まで沈黙を守っていた修一郎が眞代の方へ向き直り、睨みつけた。

「バッカじゃねぇの?朝起きたら仕事に行って、昼になったら飯を食うんだよ。そんで夜遅くまで仕事がんばってへとへとになる。家に帰る途中でコンビニで弁当買って食べる。週末は合コン、飲み会をして休日は二日酔いで1日が終わる。そんでまた仕事だ。それのなにがいけねぇんだよ。みんなそんなもんだろ?」

眞代はあっけにとられたがすぐに声を出して笑い出した。

「やっぱり修ちゃん面白いね!」

そんな眞代に修一郎はムカッとし言い返す。

「何がおかしいんだよ!真剣に言ってんだぞ!」

「ごめん、ごめん。」

眞代は緩んだ表情を引き締めなおし修一郎を見つめた。

「でも男の人らしい答えだなと思って。やっぱり男の人がいないと世の中回らないね。女の人だけだと無理だと思う。」

「おっ、珍しいな。眞代が男を持ち上げるなんて。」

眞代はにこやかな表情で修一郎を包み口づけをした。修一郎もその気になり眞代の肩に手を回そうとするが、眞代はすぐさま布団から抜け出し身支度を始めた。眞代は身支度が早い。あっという間にスーツを着ると化粧も早々に済ませた。そんな眞代を修一郎は布団の隙間から目をだし見つめていた。

「なんでそんな急いで会社行くんだよ?まだ時間早いだろ。」

眞代はピアスをはめながら鏡を見ていた。

「うん。今日はちょっとやることがあるの。」

そう言うと急いで修一郎のアパートを後にした。修一郎は眞代に引きずられるようにけだるそうにベッドから出た。修一郎はすぐさまソファーにドシンと座るとテーブルに置いてある煙草とライターに手を伸ばした。その時、テーブルの上に置いてあるピアスに気付く。修一郎はそのピアスを人差し指と親指で持つと不思議そうに見つめていた。どうやら両耳でつけるタイプのピアスでここに置いていったのはその片割れだ。修一郎はそのピアスを握りしめ何やら物思いに耽る。修一郎はピアスをスーツのポケットに入れると、思い立ったように洗面所に行き顔を洗い始めた。その後、身支度を済ませると眞代を追いかけるようにいつもより早くアパートを出た。


カシャーッ

勢いよく寧々の病室のカーテンが開く。

「おはよ~!!朝よ!!」

京香がまぶしい日光と共に大声を出す。寧々は日差しを左手で遮りながら重い瞼を持ち上げる。

「ママ?」

「寧々!起きて!いつもなら学校で起きる時間なんだから!」

「え?でも入院してるんだよ?もうちょっと寝かせて。」

「ダメ!生活が乱れると全部おかしなことになるの!規則正しく生活しなさい!」

「はぁ~い。」

「じゃあ、朝ご飯前のお勉強ね!!」

京香はベッドのテーブルの上にドンッと教科書を置いた。寧々は笑うしかなかった。そんなところへ看護師の郁美が朝の検温をしに寧々の病室を訪問した。

「あれ?京香?どしたの?」

京香はにやけながら勉強する寧々の方を向く。郁美は納得したように大きく頷きながら京香に微笑み返す。郁美はそーっと足音を消す様に寧々に近づいていった。寧々も郁美の存在に気付いている。郁美は寧々の見ている教科書を遠目から見ていた。そんな郁美に目もくれず教科書を見たまま寧々が口を開いた。

「郁美さん、なに?(怒)」

びくついた郁美は目のやりどころに困る。

「も、寧々ちゃん偉いね!朝から勉強なんて・・・」

「郁美さん!勉強の邪魔!」

寧々は郁美を睨みつけた。郁美は驚いてまたびくついた。

「じゃあまた来るね。勉強頑張ってね・・・」

郁美は小声で囁くと足早に扉の方へ向かう。京香は無言で郁美に申し訳なさそうな顔をし、病室のドアを割れ物のように扱い出ていく郁美を見送った。寧々は険しい表情で勉強している。そんな寧々を京香は翔太から貰った小説を片手にソファーに腰掛け見守っていた。翔太とは寧々が入院してから会っていない。しかし、入院前は翔太の妻が退院してからも何回も会っていた。入院生活の空虚感を不倫というスリルで埋めていたのだ。しかし、寧々の事件以来それどころではなくなった。そういうことをしていた自分を戒めた。翔太は優しく、自分の事をなんでも知っていた。暗闇の深い深い底に差し込むまぶしい光のように京香を導いているような気になっていた。京香は守に問題があるなんて思っていないし、これまで一度も思っていない。仕事真面目にこなし、家庭を愛する真っ直ぐな男。傍から見れば、いや妻から見ても理想の夫であり男性だ。しかし、そんな完璧な男でも満たせないものがある。愛はしっかり注がれていても満足できない本当の自分がいる。翔太と一緒になりたいわけではなかった。守と別れて翔太と新しい人生を踏み出す気も全くなく、むしろ誰と結婚生活を送ろうが一緒な結果にしかならないことを知っていた。京香は淡々とした日常生活、死の恐怖から自分を守っいをとっていたのかもしれない。なんの悪さもせず忠実に生きた京香を死刑囚の様に扱うこの世の中に反抗したんだ。でもこの世の中で生きていくよりほかない。寧々だって同じことだ。これからいくつものハードルを越えていかなければならない。そのハードルに一緒に挑むことを決心していた。親は先の世界を見据えて子供をより安全な道に誘導しなければいけない。それが親の義務だ。露骨にはできないし、露骨にすれば反感を買う。知られず褒められず遠くから子供の人生を見守る。子供は色んな規則やルール、風習、慣習を逸脱させ利害関係も忘れさせてくれる不思議な力を持っている。騙されても傷つけられても愛さずにはいられない。もしろ、騙そうとすること、傷つけることすら可愛く思えるのだ。愛が存在するのであれば親が子を思う関係でしか存在しない。恋人が軽々しく言い放つ愛という言葉は美しいものを連想させる。しかし、本当の愛は残酷で醜く、小汚く誰も近づきたくないものなのかもしれない。よく、おもちゃ屋さんの前で駄々をこねる子供に人目もはばからず大声を張り上げ叱責する親を見かける。親からすれば格好悪く、体裁も悪い。傍から見れば、みんなに迷惑をかけるぐらいならおもちゃを買ってやればいいと思う。しかし、親はそんなことを構いもせず叱りつける。「この前買ったでしょ!」「本当にいるもの!」「どうせすぐに飽きるんでしょ!」時には、引きずってでも家に帰ろうとするものもいるだろう。それが愛じゃないのか。泥臭く、地面を這いつくばるのが愛ではないのか。翔太から貰った小説は「罪と罰 フェードル・ドストエフスキー」。一つの微細な罪は百の善行によって償われる。人を変えるのは人でしかなく、人の情熱、信念が人を動かす。京香は自分の罪を無意識に感じていたのかもしれない。病気に負け神の前で誓った夫へ愛を汚した。過去は消せないがもし善行で罪が無くなるのであれば行わない手はない。今まで以上に家族に尽くし生きていくよりほかなかった。これは偽善で人間の本性とはことなる。誰もしたくない所業だ。しかし、世俗に生きる人々の仲間入りなどできるはずがない。人を傷つけないことを美として崇め、社会での位置づけを死守するしかない。自分は結婚をし子供を設け懸命に病気と闘っている聖者であると信じたかった。人は皆、美しいものが見たい。美しい音が聞きたい。美への追及が幸福をかたどる。死に対し抗うことで生が見えてくる。今にも倒れてしまいそうな体を支えるモノを求め続け、信じ込み、だまし続ける。信じる者は救われる。まさに京香は家族愛を信じ、敬い自分を支える糧に選んだ。

寧々の病室には小鳥のさえずり、木々の葉を揺らす風の音、そして煌々と照らす日差しが入り込み朝の静かな空間を演出していた。静けさの中に安堵や充実感が満ち溢れ、そこにはなん尾欲望も散在しない世俗社会から切り離されたエデンの園が広がっていた。憎しみも競争も一切存在しない。何の意味も持たない。唯一の幸せの世界。支配、服従で満ちた地獄から抜け出せた。そんな気がしてならなかった。このまま、この世界が、この時間が続いて欲しい。京香は本気でそう思っていた。そんな時、病室のドアをノックする音が響く。

「石川さん!朝ごはんですよ~!」

看護師が笑顔で寧々の朝ごはんを持ってくる。世俗に戻される瞬間、言い知れない寂しさと屈辱感が襲う。そんな看護師を京香は笑顔で迎えると背中に重圧を感じながらまた社会の歯車であることを再認識させられ、その一部として歯車を回し続ける。死ぬまで回し続ける錆びついて歪んでうまくかみ合っていない歯車を、それに気付いながらも時に力任せに、時に優しく意味も分からずそれが真実だと信じ込ませ昨日と変わらない行動をとり続ける。真実は何もないことを、真実は不幸しかないことを。紛らわせ、目隠しをし、時には加害者になり、時には被害者を装い感情で自分を弄ぶ。自分の心のよりどころを探し、作り出し、少しでも現実から、死から離れた場所に自分を位置づける。人間は、きっとそんな競争を一生をかけて続けていく生き物なんだ。そんなことを知ってか知らずか皆、懸命に生きる。自分の持てるありったけの力を出し切って一日を乗り切る。何かに追われるような一瞬の時間と平和な長い長い時間。どちらの時間を選ぶんだろうか?死を遠ざけたいなら後者を選ぶだろう。長い長い時間が一番の幸福だとされているのだから。愛は死を遠ざけ死を招く思想に過ぎず、思想が人生の質を濃密にさせてくれる。人は誰しも流れゆく人生に立ち止まり振り向くことがある。せわしく行き交う人を客観視し、行先を見据える。皆の終着地点から自分の道を選択する。自分だけの道を。ある者は自分の力で見つけ、ある者は他者の力を借り、ある者は見つからずに彷徨い続ける。彷徨った道が自分の道だと言う人もいる。彷徨い生きることが与えられたライフなのだ。守と京香は全く異なる人生を歩み成長し出会い子供を設けた。家を建てそこに移住しそこから人生を共に歩み続ける。赤の他人が一緒に生活し死を迎える。結婚式という契りを交わし自己を奮い立たせ離婚の世間体に恐れながら奴隷の様に働き続け子供を国へ献上する。自由を罰し安定を得ようとする国と自由を得ることを生き甲斐とし自分の生活に花を添える国民の大きな思考の違いがそこにはある。自由を謳歌すればそれなりの代償があり、国が変わって制裁を加え集団規律を守底させる。動物では人為的なシステムを理解し全うすることなどできない。人為的システムは人為でしか構築、運営できない。幸せという餌を巧みに使った調教師がヒトに順守の素晴らしさ、集団生活の素晴らしさ、非暴力の素晴らしさを教え込ませ人間本来の動物的な思考を麻痺させる。知らない事で、騙されていることで得られる治安の防波堤に、荒れ狂った時代の波が打ち付け今にも決壊しそうな現代社会システムを何とか保っているのがやっとだ。自分が何をすべきかを一日、一日を平和に暮らせることを喜び、そして明日を迎え同じような生活を繰り返す。そんなありふれた日常が世界の平和を支えている。男性は女性を欲する。女性は男性の向こう側にあるものを欲する。自己を愛することが生きる力になり、プライドになり集団社会を支えるモチベーションとなる。しかし、自己を愛するがゆえに人を傷つけ、愛を忘れ、非道に振舞うことになる。この矛盾が現世のバランスを保つ。姿あるものは全てこの世から存在しなくなり、また違う形で姿を表す。そうやってバランスを取っているんだ。生きるためにこの世のすべては存在し、それを利用するだけだ。生きる事が見失ってはいけない最大の掟だ。


守は朝出勤し待ち構えた捜査官によって逮捕された。長塚商社幹部会では全員一致により懲戒解雇が早朝決定され、守は社会的に何にも属さずただ一人の犯罪者となった。身柄は警視庁に移送され取り調べが続けられた。勿論、社内にも事情聴取が繰り返し行われたが守を擁護するものは誰一人としていなかった。部長の小林でさえも作り上げられたシナリオに従順に従っていた。下の社員たちは何が起こったか分からなかった。ただ、社内命令でメディアからの質問、警察からの質問は幹部を通さず行わないことが義務付けられた。守を不安視する声も少なくなかったが日々追われる仕事に徐々に守の影が失われていく。それは同級生である修一郎も例外ではなかった。必死に小林に説明を求める修一郎を叱責し、社令に従わせた。全国ニュースでも有名ワイドショーでもこぞって取り上げられ守の名は全国的に悪名で知られることになる。人々には、ずさんな労働環境で事故を起させ70名の尊い命を奪った非道な男と認知された。真実も知らず憎み、遺族に同情した。敗戦の将のごとく弾圧され、もはや守の生きる世界はどこにもなくなっていた。勿論、守は取り調べに対し、作り上げられたシナリオに対し真実のみを述べ対抗したが次から次へと出てくる身に覚えのない完璧な証拠にいつしか反論する気力すら奪われていった。連日続く取り調べに髭は乱暴に伸び、逮捕時に来ていたYシャツが黄ばみしわだらけによれ、もはやいつもきちっとしていた守の面影はなく別人になっていた。取り調べが終わり力なく拘置所のコンクリートの壁に寄りかかり格子越しに見える窓を見つめていた。思うのは病院に入院している京香と寧々のことばかり。守の頬を涙が流れ落ちる。無表情に、何もかも失った行き場のない心が感覚を全て失わせる。社会から放り出された守の行き場は家族しかなかった。敬愛していた上司に裏切られ、身を尽くし働いてきた会社からも爪弾きにされ、言いようのない怒りがこみあげてくる。自分の歩いてきた道は間違っていたのか。忠実に、真摯に生きてきた。ルールを破ったことなど一度もない。むしろルールを破るものを助け、居場所を作ってきた。そんな自分がこれほどまでの仕打ちを受ける理由なんて存在するのか。無いにきまってる。優しさは身を亡ぼす。自分の優しさがなんの意味もなさないことを悟った。こんな場所で悟るしかなかったのか。もっと早くに悟ることができなかったのか。守底的な弱者排除の姿勢を貫けば強さが生まれる。逆の姿勢を取れば何もなくなる。神の恩寵に生きるという無形の位置づけでは厳しい社会は納得しない。形あるモノを手に入れなければ認められない。自分が価値あると思わなければ軽蔑され尊敬の念は与えられない。しかし、新たな供給を生み出すことで激化する競争を鎮めることも可能だ。つまり、両者にメリットが生じるが本能的に生きる人々からは理解されない。守は優しさという美徳に依存し戦うこと、汚れる自分を恐れ逃げてきた臆病者でしかなかったのだ。唯一、社会的に認められる仕事での競争にすら身を置くこともできなくなっていた。仕事での競争は一定の公平性が保たれ表面的には汚れた自分を目の当たりにすることはない。しかし、結局は一緒な事なのかもしれない。ケーキを奪うために2者が殺しあうか、相手を欺きケーキを盗むかの違いだ。世界のGDPの99%は30か国足らずの国が占めている。豊かな国だ。世界的にもGDPの高い国は評価され低い国は軽んじられる。つまり、自国のGDPを上げれば上げるほど他国を押しやる結果となる。家族のため、国のためと自分を信じ込ませ労働することは結果的には貧民、難民、紛争を誘発する因子に過ぎなかった。この世の中、正しいことなどなにもない。あるのは強者と弱者のみだ。生きる者と死ぬ者。ただそれだけの世界を面白おかしく粉飾する。その粉飾に踊らされ愉快に弱者として生きる者と粉飾に気付き死んだように強く生きるのものが存在するだけ。人の生死は資本主義社会では到底説明ができる者ではない。守はその社会の本質に目を背け生きてきた。つまり、愉快な弱者だ。強者に睨まれれば生きていけない。守は粉飾に目を奪われその中で生のすべてを説明しようとした。規律に従い、人目を気にし、人の嫌がることは絶対にしなかった。しかし、皮肉にもその善良な行い今回の結果を招いたのだ。拘置所の中で何度も何度も涙をぬぐい、何度も何度もその手で壁を殴った。しょっぱい味と手に走る激痛に依存するように何度も同じ行動を繰り返した。守には有罪判決が下り、実刑判決が出た。懲役10年の冤罪だ。そこから10年守は地獄を、現実を見ることになる。


車いすのハンドルを力いっぱい漕ぎ軽快に走る綺麗な女性がいた。髪は肩をちょっと超えるくらいで真っ直ぐに伸びる綺麗なストレートヘアーが風になびていた。そんな女性に気付き近くの花屋の女性が声をかける。

「寧々ちゃん今日も早いね~!!」

寧々は笑顔で片手を上げた。

「うん!!仕事、仕事~!!」

そんな寧々を花屋の女性は笑いながら見送る。寧々は繁華街の古びたビルの一角にある小さな旅行代理店で事務の仕事をしていた。守が逮捕されてから京香や寧々は偏見と闘いながら、病気と闘いながら生きてきた。寧々の生涯は完治せず両腕は以前の様に使えるようになったが両足は事故の当時のままあまり回復せず自力で歩くことはできない。そんな寧々を雇ってくれる企業は少なく、必死の思いでパソコンを勉強した。京香も同じである。犯罪者の妻のレッテルを貼られ正社員ではどこも雇わずパートでしか働くことができなかった。寧々を大学へ行かす甲斐性もなく、そんな経済状態を察した寧々は高校を卒業するとすぐにパソコンを生かした就職先を探した。採用を中々取れなかったが今の会社の社長は人情味があり寧々たちの状況を察し雇ってくれた。今まで住んでいた一軒家に住むこともできず、ローンと売却の差額を3年前に返し終えたところだ。女二人の生活は厳しかったが、持ち前の明るさで今まで何とか生活してこれた。守の面会にも月に2度ほど行っている。こんな状況に追いやられた二人だが心の底から守を信じていた。守が犯罪を犯すわけがない。そんなこと誰に聞くよりも明らかだった。京香と寧々は守の性格を知り尽くしている。そんな残虐なことをできるわけもないし人道を外すことをするような人でもない。面会の席で何度も何度も泣きながら頭を下げる守を二人は何度も何度も励まし続けた。二人は愛していた。守が二人を心の底から愛するように、二人も守を愛し帰りを待ち続けた。寧々は守が刑務所から出てきたら一人前に働いている自分の姿を見てもらいたかった。そんな事件なんかに負けないことを肌で感じてほしかったし、そんな姿を見て元気なって貰いたかった。

寧々は職場に着くなりにこやかに大声で挨拶するとすぐにパソコンに向い仕事を始めた。その姿はどこか守の仕事をする姿に似通っていた。そんな寧々に20代後半のスラッとした好青年が声をかける。

「寧々ちゃん、頑張ってるね!」

「あっ!悟さん。おはようございます。」

悟は寧々の会社の先輩であり、寧々の彼氏だ。寧々のよき理解者でもあり、体の不自由な寧々をよく気遣ってくれる。誰もが逃げ出したくなる、言い方は悪いがお荷物になる寧々を悟は選んだ。寧々は最初、右も左もわからない会社という世界に迷い込んだとき、悟が優しく手を差し伸べてくれた。そんな悟の優しさに希望と自信が持てた。

「今日も帰り一緒に帰ろうな。」

悟は寧々の耳元で優しく囁くと自分のデスクに戻った。寧々は心の支えだ。寧々は更にも増して仕事に打ち込む。心の支えがあるからこそ仕事という暗闇にのめり込める。深く深く何も見えない暗闇に、戻れないくらい深くまで潜り込んだとき照らしてくれる人がいるから頑張れるんだ。そんな様子を遠くで見つめる女性がいた。その女性は立ち上がると甲高いヒールの音を鳴らし、きつい香水、ブランドスーツに身を包み寧々に近づいてくる。

ドンッ!

その女性は寧々の机に大量の書類を乱暴に置いた。その音に気付いた寧々は目をまんまるにし、その山ずみにされた書類を見つめていた。

「石川さん。お願いがあるの~」

「えっ?沙紀さん、これ全部ですか!?」

「そうなの。ごめんね。私、今日どうしても抜けられない用事があって・・お願いね!ごめんね!」

「そうなんですか・・・・分かりました!」

沙紀は寧々の上司でいつも相談に乗ってくれる優しい人だ。たまに、お洒落なカフェやバーに連れて行ってくれる。すごく綺麗なのに40歳、独身。寧々は沙紀の話を色々聞いているがやはり理想は高く、実際そんな男性いるのかなと思えるほどの完璧な男性を求めている。一番近く飲みに行ったときは、外人男性に興味があると言っていた。とても40歳にはみえず、仕事もでき寧々の憧れの女性だ。そんな様子を悟はパソコンから顔をだし心配そうに見ていた。沙紀は悟の前を通る時、悟と目を合わす。悟は愛想笑いを浮かべると仕事に戻ったふりをした。沙紀は自分のデスクに戻ると満足そうに椅子に腰かけ両頬杖をついた。そこに一人の中年男性が近づいてくる。

「沙紀君どうしたのかね?ご機嫌だね。」

沙紀は我に返ると姿勢を取り直し立ち上がった。

「あっ田神部長!おはようございます!」

「いやいや。女性社員が生き生きしているのはいいことだ。ウチの会社もずいぶん変わったね。石川君が来てから一層明るくなった。社長も面接のとき彼女の本質を見抜いていた。しかも、彼女は顧客からの評判もいい。特に男性からのね。(笑)君の指導のおかげだよ!」

田神は沙紀の肩をポンと叩くとその場を去った。沙紀は愛想笑いに終止符を打つと寧々の方を見た。寧々は一心不乱にパソコンに向かっていた。寧々の綺麗で大きな瞳、年頃の女の子が付ける爪まつ毛、白い肌で鼻筋の通った非の打ち所がない容姿が無性に腹立たしかった。沙紀は勢いよく椅子に座ると腹の底から湧き上がってくる憤りを大きな息をつくことで治めようとしていた。確かに寧々はお客さんからの評判はずば抜けていい。男性客は勿論、女性層の支持も厚くおばさんからはよく漬物を頂いている。最近の若者には珍しく、年齢にかかわらず人と接することができ、人からよく可愛がられる。そんな完璧にこなす寧々を沙紀は鼻につく存在だと思うようになっていった。


「新出部長。確認お願いします!」

修一郎はパソコン操作を止めると大吾の方を見上げた。

「おっできたか!どれどれ。」

修一郎は大吾が持ってきた書類を食い入るように見る。しかし、表情を濁らせたまま大吾に話しかけた。

「予算と企画趣旨が不明瞭だな。ちゃんと考えてきたのか?」

修一郎は書類を丸めると大吾の頭をポンと叩いた。

「あたっ!修一郎さん部長になってから各段に厳しくなりましたね。」

大吾が頭を押さえながら答える。修一郎はそんな大吾を睨みつけた。

「会社で修一郎さんっていうんじゃないよ!新出部長だろ!まあちょっとは責任感じてるけどな。そんな事どうでもいいんだよ!さあ戻ってやり直し!」

「は~い」

修一郎は守が逮捕されて1年後に主任の後任に選ばれ晴れて

先月から部長へ昇進した。小林は守逮捕後、人が変わったように仕事に打ち込み常務にまで上り詰めた。修一郎は不謹慎ではあるが守が会社から姿をけし、内心安堵していた。現在のポストは守が在籍していたらなしえなかった。修一郎の夢であった出世街道が目の前に広がっていたのだ。眞代とは以前中途半端な関係が続いており、未だ独身生活を貫いている。今は仕事一筋であり女性には欲望以外何の興味も湧かなかった。生活は仕事中心に回り、以前は充実していたプライベートも姿を消していた。眞代は主任へ抜擢されいつも通り淡々と仕事をこなす。女性には珍しく組織を熟知しており感情では決して流されない。冷守に仕事ができる女性だ。今も長塚との関係は続いている。長塚だけではない。長塚商社内の主要ポストの男性社員と関係を持ち自分の地位を守っている。年下女性社員からは憧れられ、年上女性社員からは枕営業と罵られ後ろ指を差されている。しかし、彼女は顔色一つ変えず自ら選んだ道を只一人歩いている。そんな眞代に修一郎は恐怖さえ感じている。そんな眞代の存在を気になりながらそんな感情を仕事で麻痺させるように打ち込むのだった。あの事件からもう10年が経つ。長塚商社はメタンハイドレード採掘とは一切関係を持たず無関心を貫いている。現在、採掘にはITネットワークという大企業が携わっている。この企業は政界とも太いパイプでつながっており他者参入はまず不可能と言ってもいいだろう。都市伝説的な噂では、あの事件も全て工作員により仕掛けられ長塚商社を蚊帳の外へだす口実だったとの陰謀説も浮上している。また、この事件にかかわった人達は不可解な死を遂げている。しかし、真相は闇の中である。いずれにしてもこの企業がメタンハイドレード事業で莫大な利益を得ているのは確かだ。ジャイアンがのび太のおもちゃを横取りしたようなものだ。弱肉強食の世界は覆らない。弱者は強者が満腹になり残した屍を食い漁るしか生きる道はない。それが嫌なら強くなるしかないのだ。


とある高級ホテルのパーティー会場でスポットライトを当てられ脚光を浴びている男がいた。ITネットワーク代表取締役坂本である。右手には煌びやかに反射するクリスタルのトロフィーがあった。坂本は笑顔で観客の拍手に答えると四方に向け何度も会釈した。今日は「MAN OF THE YEAR ~ECONOMICS~」の授賞式で今年、経済界で一番輝いていた人に贈られる名誉ある賞である。坂本は勿論、メタンハイドレードの採掘による多大な利益を讃えられ子の会場を支配する事になった。坂本は選考委員に深々とお辞儀をするとゆっくりとマイクに顔を近づけた。

「ありがとうございます。この賞を受け取ることはすごく名誉あることだし私の夢でもありました。このような賞に選んで頂いて選考委員の先生方、また今注目を集めるメタンハイドレード採掘に携わっている従業員、関連会社様にも深く感謝の気持ちで一杯です。皆さんもご存じの通り、メタンハイドレードの採掘にはいたたまれない悲惨な事故がありました。しかし、私たちはそんな暗い過去をちょうどこのトロフィーの様にキラキラ輝く希望に変える力を持っています。ITネットワークだけではありません。もはや、メタンハイドレードの採掘は日本人の希望と言っても過言ではないでしょう。デフレ経済、就職氷河期、高齢化社会など後ろ向きな話題が先行される中で数少ない明るい話題のひとつではないでしょうか。そんな一大事業に携われて光栄であるとともに大きな責任をこの背中に感じています。悲惨な事故に見舞われた犠牲者の方々、またその遺族の方々のご冥福をお祈りするとともに感謝の言葉に代えさせて頂きます。今日は本当にありがとうございました。」

坂本はマイクから一歩離れると深々と頭を下げた。そして、頭を上げると笑顔でまた観客席に目をやる。そこには若山大学安藤の笑顔と割れんばかりに叩く両手があった。坂本は安藤と目を合わせるとトロフィーを少し上にあげ、笑顔で会釈した。


大学の講義室で解剖学を受講している一人の女子大生がいた。聞きなれない言葉の連続に頭をかしげ、ノートを取るのに一生懸命だ。髪は茶髪でボブカット、セーターとショートパンツ、膝まで届くブーツに身を包んだ今どきの女の子だ。そう、この女の子は寧々と小学校で共にバトミントンで汗を流した親友の由佳だ。由佳はみえや寧々の事件に影響され生命について深く悩む時期があった。その謎を解くためか医学の道に進むことに決め猛勉強した。高校も県内有数の進学校に進み何とか今年の春に地元の三崎大学医学部に進むことができた。由佳は念願であった医学生になれ心躍る気分でキャンパス内を練り歩いていた。由佳は最後の講義が終わるとそそくさと教科書をまとめ大学を後にした。そんな由佳に声をかける青年がいる。由佳と同期に医学部に入学した健吾だ。由佳と健吾は新入生歓迎会ですぐに交際を始めた。健吾の一目ぼれだった。健吾の両親は医者でなるべくしてなった医学生であり、大学へ通うために親に買ってもらった車も高級外車であり由佳とはまた違った境遇で育った人間だ。由佳は健吾になんの魅力も感じていなかったが入学早々同期と気まずい関係になることを恐れ交際を受け入れた。由佳の思いとは裏腹に健吾は大学では女性から人気があり、シャープな顔立ちにすらっとした高身長で一見、モデルのようないで立ちをしていた。このルックスで医学生ともあれば女性はほって置かないだろう。

「由佳!もう帰り?一緒に帰ろうよ!」

由佳は立ち止まり一瞬、表情を濁らせるとすぐに笑顔を作り振り返った。

「ちょっと今日用事があるの。ごめんね。また明日!」

そういうと由佳は足早に健吾のもとから去っていった。健吾はそんな由佳に手を上げると不安そうに由佳の背中を見つめていた。由佳は口では好きだと言うがいつもどこか違うところに心が向いていた。健吾はそんな由佳に不信感を抱いていた。健吾のこれまで付き合ってきた女性は健吾に夢中で嫌気が差すほどべったりくっついてきたものだ。しかし、由佳はそんな過去の彼女とは正反対であり、一層、健吾は由佳に心奪われていく。そんな由佳の行動が気になってしょうがなかった。由佳は大学の校門を自転車で颯爽と通り抜けると脇目も振らずペダルを漕いだ。由佳の向かった先は繁華街の一角にある雑居ビル。そう、寧々の職場だ。由佳は自転車を乱暴に止めるとビルのエレベーターに急いだ。由佳はエレベーターに乗ると寧々の旅行会社がある5階のボタンを押した。エレベーターの扉が開くか開かないかぐらいで扉に手を入れこじ開ける。ガラス張りの旅行会社の外壁から一生懸命パソコンに向かう寧々が見える。由佳はそんな寧々の姿に笑みを見せると勢いよくドアを開いた。寧々がチャイムに気付き入り口の方を見る。

「いらっしゃいま・・・由佳!」

満面の笑みを見せる由佳が立っていた。寧々は慌てて車いすハンドルを掴むと入り口に急いだ。そんな寧々に由佳は手を上げて反応する。

「由佳~!学校おわったの??」

「うん!寧々と一緒に帰りたくて!!」

「そうなんだ~でも今日は残業がありそうで・・・」

そんな時、横から悟が顔を出した。

「おっ由佳ちゃん!こんにちわ~寧々残った仕事俺しといてあげるから一緒に帰りなよ!折角こうして来てくれたんだし。」

「えっ?いいの?」

「いいよ。今日は俺なんにも予定ないし。しかもその仕事、沙紀さんのだろ?」

「うん。ありがと~!」

「じゃあ一緒に帰れるね!」

悟がそんな様子を楽しくない顔で見る沙紀に気付き寧々の肩を叩いた。それを察知した寧々は小声で由佳に囁いた。

「じゃあ下で待ってて。すぐ行くから。」

寧々は由佳にウインクするとすぐに自分のデスクに戻った。先の視線が痛いほど感じパソコンを盾にする寧々。悟が今朝沙紀が置いた書類を静かに持ち去っていった。沙紀はそのことに気付かないふりをしてトイレに立った。寧々はその隙に鞄に荷物を詰めると早々に退社した。そんな寧々に笑顔で悟は手を振り山積みの書類を見つめ肩を落した。


京香はスーパーのパート勤務が終わりアパートのドアを開いた。築40年は超えているだろうボロアパートで時代遅れの畳が広がっている。しかし、広さは結構あり部屋が2室ある。キッチンもトイレも昭和を思い起こさせるデザインだが綺麗に掃除され清潔感は保たれていた。女二人生活するには十分な広さで見かけ以外は二人とも満足していた。京香が今に鞄を置いて畳に座りこんだ。今日も立ちっぱなしのふくらはぎを摩っていた。その時、京香の携帯が鳴る。相手は寧々だ。

「寧々?どうしたの?」

「ママ?今ね、由佳と一緒に帰ってるの!夕ご飯誘ってもいい??」

「あら!由佳ちゃん?いいよ~じゃあ今から夕ご飯作るからね~」

そんな時、寧々の携帯に由佳が出る。

「すいません!おばさん、急に・・」

「いいのよ~!それより食べたいのある?」

「ん~肉が食べたいです!」

電話口から寧々の笑い声が聞こえる。

「肉?わかった!!肉料理作っとくね~!」

「ありがとうございます!!」

電話口が寧々に代わる。笑いも絶えない声で京香に帰る時間を言うと電話を切った。京香は携帯をテーブルの上に置くとキッチンに向かった。冷蔵庫の中をあさると食材を一つずつ取り出していく。京香はこうして誰かのために夕食を作るのが大好きだった。由佳の優しい心遣いもうれしかった。守が逮捕されてから身の回りの人間がまるで汚物を避けるように去っていき孤立していった。親しかった友人たちとも疎遠となり本当の孤独を味わった。今でこそなれたが当時は家から出ることもできないくらい落ち込み、世間が怖かった。しかし、そんな京香を励ましたのはほかでもなく寧々の存在だった。寧々は障害を抱えながらも懸命に前を向いていた。守を信じ決して恥じなかった。堂々と表の道を車いすで駆け抜け、近隣の人に大声で挨拶する寧々を見て逆に京香は自分を恥じた。心の底から自分を恥じた。自分の夫信じずにどうする。自分は被害者ではなく支える側の人間ではないのか。本当のの被害者はなんの罪もないのに10年も刑務所に入っている夫なのだから。京香は強くなった。人の目、世間の目ばかり気にすることをやめ自分の生きる道を見据えた。なんにも恥じることなんて一切していないのだから。ありったけの笑顔を振りまこう。強がりではなく、本当に心の底から湧き上がってくる笑顔を。損得勘定の順位づけじゃない。苦境に立たされたとき本当の自分が表面化する。それから京香は一切弱音を吐くことなく、寧々を支え母親としてやるべきことを只目の前のことをひたすら懸命に取り組んだ。アパートのキッチンからは野菜を切る包丁の音が力強く響いていた。


就寝前の刑務所内の一室で背中に”13”の数字を付けた男が身の回りの整理をしていた。触ると冷たいコンクリートの壁に荒々しく置かれた汚れた便器、シンプルなシングルベッドには硬いマットレスが敷かれ錆びついた鉄格子が現実を突きつける。そんな環境に身を置きながら守は10年間も無実の罪で閉じ込められた。塀の外で待つ妻と子供の存在がいたからこそなんとか耐えしのげた。一人なら自ら命を絶っていただろう。そんな中、廊下をコツン、コツンと硬い革靴が鳴らす音がする。その音は守の牢屋の前で止まった。その刑務官は守の方に目をやると優しい表情で話しかけた。

「いよいよ明日だな。」

守は笑顔で頭を下げる。

「ありがとうございます。長い間、お世話になりました。」

この刑務官は室田といい、守が収監されてからの長い付き合いになる。室田は優しい男で世間ではごみ同然の犯罪者にちゃんと人間として接してくれる唯一の刑務官だ。

「どうだ?嬉しいか?」

守は表情を曇らせながらちょっとうれしそうに答えた。

「半々です。不安半分、嬉しさ半分です。ただ妻と子供に会えるのが一番の心の支えです。」

室田は低い声で笑った。

「そうかそうか。私も家族が生きる支えだよ。君は刑務所では模範囚として頑張ってくれた。感謝している。今まで君ほど真面目な囚人はいなかったよ。だから、もったいない思いで一杯だ。」

室田は守からいったん目を床に移し何やら考え込んだ。そして思い口を開いた。

「何があろうとどんな理由があろうと世間は前科者としてしかお前をみない。どんなに誠実で紳士であろうと冤罪であろうと一旦、刑務所に入った人間は色眼鏡で見られる。しかし、彼らが悪いわけではない。彼らも自分の身を守るので必死なんだ。」

守は真剣な面持ちで深く頷いた。

「はい。わかってます。自分の中でも世の中はそんなに甘くないと戒め、何があろうと動じない決心はこの10年間でつけてきたつもりです。」

「そうか。じゃあ頑張ってな。君なら大丈夫だ。」

そういうと室田はその場を去っていった。守は深々と頭を下げその場を動かなかった。守が立っている床には濡れるモノがあった。


「いただきま~す!!」

元気な声がアパートの外まで聞こえていた。女三人の賑やかな宴が始まる。寂れたボロアパートに明るい火がともるように笑いが絶えなかった。

「悟さんってホントに素敵!今日だって寧々の仕事さり気なく『ああ、おれがやっとくよ~』だって~」

「そうなの?一回うちにも連れてきなさいよ。夕ご飯くらいご馳走しなきゃ。ねぇ寧々?」

「ええ~いいよ~。明日、コーヒーでも奢るから。」

「なによ~ママにも紹介しなさいよ!もしかしたら結婚するかもしれなでしょ~(笑)」

「おばさんはやっ!(笑)」

「ないない。私結婚なんてしないもん。」

「は?冗談でしょ?」

「そうよ、寧々。何言ってんの?」

「本気だよ。それにこんなカラダの私に結婚相手なんて見つかるわけないじゃん。」

由佳と京香は箸を咥えたまま寧々の方を唖然とした顔で見る。京香は真剣な顔で答えた。

「馬鹿ね。結婚相手なんて腐るほどいるんだから。」

「そ、そうだよ。寧々考えすぎだよ。寧々はきれいで評判なんだから。この前、寧々のとこでツアー組んでもらった大学の友達も言ってたよ。自信持ちなよ!らしくないよ!」

寧々は二人に気を使わせたことに気付き自分を持ち直す。

「ごめんごめん!弱気発言しちゃったね。」

寧々は愛想笑いを浮かべると再び夕食に箸を伸ばした。楽しいひと時はあっという間に過ぎ由佳は夕ご飯を食べ終わると次お泊りすることを約束し家路についた。京香と寧々はそんな由佳を表の道路まで出て見送った。静かな夜道に京香と寧々二人きりになった。あっという間に自転車に乗った由佳は小さくなっていく。そんな由佳を見ながら寧々が口を開いた。

「明日だよね?」

京香は寧々の顔を見つめた。寧々は遠くを見つめたまま京香の方は見ない。京香も寧々の見つめる方向を見ると暫くして口を開いた。

「ママ行ってくるから・・・寧々はいつも通りしてればいいのよ。」

「・・・うん・・」

京香はそっと寧々の背中に手を回した。そんな京香の手に気付いた寧々は彼に寄り添う様にしゃがんだ京香の胸に頭を預けた。そんな二人を10月の肌寒い夜風が吹き付け、二人を一層近づける。不安と期待が入り交ざる中、ふたりの思いは交錯していく。ただ単純な家族への愛をただ単純に信じることがいかに難しいのか。勇気がいることなのか、こんな状況になってはじめて気づく。でも二人は信じていた。これが正しい行いで答えなのだと。この先には幸せが待っているはずだと。そう信じるしかなかった。そして会いたかった。ありったけの愛を与えてくれた夫、父親に単純に会って抱きしめて貰いたかった。眠れない夜はさらに深みを増していった。

「はぁはぁはぁ・・」

右手には血塗られた包丁を手にし床には血だらけの男が息絶えていた。腹部をめった刺しにされ夥しいほどの血液が辺り一面を覆う。息も絶え絶えに血がしたたり落ちる包丁を見つめると我に返ったように包丁を手放した。震えた両手越しに息絶えた男の顔を見る。どこかで見たことのある男だ。俺は誰を殺したんだ。まじまじと男の顔を見つめる。思い出せない。確かに知り合いだ。しかし、いくら考えても思い出せない。そのうち誰を殺したかなんてどうでもよくなっていた。誰でもよかった。自分の衝動をぶつける相手が居ればよかったんだ。理由なんてどうにでもなる。明日にはすぐにニュース、新聞の一面を飾るだろう。でも皆、真実なんて誰も気にしない。自分の都合のいいように解釈し納得し人殺しの自分を蔑み、あざ笑う。馬鹿な男だと。人を殺すほど考えなしの野蛮な衝動的な男だと。ある時はメディアを信じ、ある時はメディアを痛烈に非難する。自分の中の都合のいい真実が欲しいだけだ。誰も真の理由なんて必要としない。そうだ!こいつは俺の妻の浮気相手だ。いや違う。こいつは自分を牢獄に入れた長年勤めてきた会社の社長だ。いや違う。こいつはうちの娘をカラダ目当てのために誑かす汚い軽がるしい男だ。いや違う。この男は誰なんだ。この男を殺すほどの理由なんて俺には存在しなかったんだ。なんてことしたんだ。もう俺の人生は終わりだ。いやまだ終わりじゃない。どこかに埋めよう。誰にも見つからない山奥に投げ捨てよう。いや、コンクリート詰めにして海に沈めればいいんじゃないか。いや、ガソリンを付けて灰になるまで燃やし続けよう。バレやしない。こんな男ひとりいなくなっても何も変わらない。とにかく、こいつをどこかに運ばないとすぐに誰かが来てばれてしまう。なにか運ぶものはないか・・・。見回すとすぐ近くにエンジンのかかった車が置いてある。よし!ツキは俺についている。あそこなら俺一人でもこいつを動かせる。両脇に腕を入れ引きずろうとする。どうした事だろう。全く動かない。見た目は70キロくらいの男だろうか。そんな男いくらでも動くはずだ。どうしたことだろう。びくともしない。もう一度ありったけの力で引っ張る。全く動かない。何度も何度も同じことを繰り返す。そのうち力尽きてその男の隣で寝そべった。息も絶え絶えに。空には澄み渡る夜空に美しく輝く星が見下ろしている。お前は何をやってんだ。こんなきれいな夜空が傍にあるのに。こんな近くに素晴らしい世界が広がっているのに・・・。そしてもう一度その男の顔を見たんだ。そしてようやく思い出したんだ。そう、思い出して声を出して笑った。夜空に輝く星に聞こえるように。馬鹿な男がここにいてみんなに笑ってほしかった。俺が殺した男は俺自身であることを。馬鹿正直に生き、家族を苦しめ、他人をかばい、善人面した愚かな自分だ。死に値し、神が創った掟に背いた男を俺は殺したんだ。俺はもう善人なんかじゃない。善人なんかじゃ幸せになれない。神に従い生きる。全ては欲望のままに残酷に自分の心に正直に生きるんだ。そうやってみな自分の幸せを死守している。戯言に惑わされるのはたくさんだ。寂しい顔をした赤の他人を守るのはたくさんだ。もう俺をそんな悲しい目で見ないでくれ。俺には俺の人生がある。俺には俺の欲しいものが、守るべきものがあるんだ。もう俺に付きまとわないでくれ。俺は生まれ変わったんだ。


守は助手席の窓越しから次から次へと変わりゆく景色を只呆然と見ていた。見慣れているはずの街並みがまるで別世界だった。景色、風景だけじゃない。目に入るものから感じ取れるモノが全て変わっていた。しかし、不思議と不安はなかった。守はこの世の中のシステムを全て理解した。1日1日を大事に生きる人からは考えられない10年という途方もない年月を費やしようやく正攻法を見つけた。それをこれからは試していくんだ。守の顔からは自信がみなぎり、笑みさえ見せていた。京香はハンドルを握り守の方へ目をやる。京香の目からすれば現実世界に打ちひしがれているように見えた。

「今日、寧々と三人でお寿司でもとりましょ。寧々も喜ぶわ。」

京香は穏やかな表情で守を包み込む。

「ありがとう。ごめんな。迷惑ばかりかけたな。」

「その話は辞めにしましょ。前みたいに家族三人で暮らせるのよ。もう私も病気は克服したんだし。幸せの続きを家族3人でもう一回頑張るの。」

「ああ。今度は幸せになろうな。」

守は京香の左手を強く握った。京香も握り返す。静かな時間が車内を包み、質素でありふれた穏やかな空間に心を癒していた。そうこうしているうちに守はいつの間にか眠ってしまった。次から次へと来る対向車とすれ違う音だけが悪戯に鳴り響き、その鋭い音でさえも今の守には心地よく感じさせた。


三崎高校の特別講演会に長塚商社代表として長塚が招かれていた。全校生徒が

体育館に集合し壇上には長塚が得意げに自らの成功談を語っていた。長塚は地元では名士でありPTAは勿論のこと地元の有力者も出席するなど物々しい雰囲気に包まれていた。長塚は全てを感じ取り自分の地位が未だ、いや更にも増して高みにあることに浸り満たされた思いに包まれていた。長塚の口調は時間を増すにつれ甲高く自身に満ち溢れユーモアを交えるなど体育館を、いや町全体を支配している感じさせ伺えた。その中には長塚商社部長小林も居り、終始笑顔で長塚を見守っていた。

「経済界に長く自分を存在させることは容易ではありません。ましてや社員数百人の生活を支えることは至難の業でもあるし、日々会社の世界から抜け出すことはできません。しかし、その責任感がやりがいへと転身するのです。お金目的ではお金儲けはできません。人の役に立てることを、人の生活を少しでも楽にさせることができることを頭を悩ませ考え出すのです。私一人の頭だけではありません。長塚商社数百の頭を駆使し世の中のお役に、人々のお役になれるよう願うのです。皆さんもご存知のように10年前悲惨な事故が起きました。当社が関わった事業で数十人の犠牲者が出たのです。今もその事故のことを考えると胸が締め付けられる思いです。結局は当社の社員が会社の利益を考えたのかずさんな労働環境で現場の従業員を働かせたのが原因でした。警察からその真相を聞いたときまずは社員ではなく自分自身を責め立てました。私はそんな利益重視の教育を社員にしてきたのか?社員はそうやって私を見ているのかと。自問自答し続けました。しかし、そんな時、私を励ましてくれたのはやはり長塚商社社員でした。あそこに立っている男性はウチの部長の小林という男です。彼が打ちひしがれている私に言ってくれました。社長が悪いのではない、数百人も社員を抱えれば色々な人間がいるのだと。しかし、そんなことでくじけていてはいけない。前に進みましょう。私たちを待ってくれている消費者の皆さんがいることを希望に代えここまで頑張ってきました。皆さんもこれから社会に旅立つ希望となる人達です。色々な困難が待ち受けることでしょう。しかし、決して法を犯し、自己の欲におぼれ危険な道を選んではいけません。神様はしっかりとあなたの行動を見ています。社会に忠実に自分の良心に忠実に自分の道を見定めて行動していきましょう。今日はこのような場を設けて頂きまして誠にありがとうございました。」

体育館が揺れるほどの盛大な拍手の中、長塚は何度も何度も頭を下げる。皆が長塚に共感し感動し社会へ希望を見出した、ひとりの男を除いては。部長の小林である。小林は長塚に共感も、感動も、ましてや希望など見出すことなんてできなかった。あるのは憎悪、権力支配、背中にのしかかる重圧、罪悪感しかなかった。小林も高校生の時、今体育館に座っている子たちの様に社会に希望を抱いていた。資本主義社会に身を置き人の役に立ち、仕事ができる人間になり結婚し子供を持ち幸せな老後を送る。そんな夢物語を本気で信じていた。信じることが自分の持てる、それ以上の力を出す一番の方法だ。何十年も騙されていた。社会に待ち受けるのは学生時代と同じ弱肉強食の世界だ。部活動で味わったどうにもできない劣等感、訳のわからないところでもうすでにつけられている順位に一生付きまとわれる。社会に出れば、孔子の様な聡明な上司がいて公正で平等な指示を出してくれるもんだと信じていた。その中で国のために、家族のために身を削るように労働していく。しかし、ふたを開けてみれば堕落した欲にまみれた上司にごまをすり、好き嫌い人事に絶望し、いまにも逃げ出したくなるような屈辱に耐えしのぐだけだ。俺も途中まではそんな状況俺が上になれば変えれる、そう思ってた。しかし、上になっても結果は一緒だった。人間はそういう生き物なんだ。そう思い見て見ぬ振りをしてきた。いや、そうしなければやっていけないんだ。理想は所詮、理想に過ぎず。現実は常に目の前になる。現実にならないからこそ理想なんだ。理想に騙され馬鹿正直に頑張る人間は一番の被害者だ。この子たちも途中で気づくだろう。そこで割り切る人間が成功者だと讃えられ、慈悲を重んじる人間は負け犬と叩かれる。こんなインチキ社会に身をささげる理由は今この瞬間も鳴っているお腹を静ませる以外にない。憧れる大人はそんな無力な自分の必死でひた隠し人を傷つけ生きている。そんな聖者な小林も長塚に笑顔を送り、帰りの車を準備するために体育館を後にした。


修一郎は会社の喫煙室で一人タバコをふかしていた。窓際から見える高層ビル群を眺めると煙を吐いたのかため息をついたのかわからなくらいの表情で一点を見つめる。そんな修一郎の目の前に一本の缶コーヒーが現れる。振り向くと眞代がそこに立っていた。修一郎は無言でその缶コーヒーを受け取る。そんな修一朗を見下ろすように眞代が口を開いた。

「今日ね。石川さんが出てくるの。」

修一郎は缶コーヒーをグッと飲んだ。

「会いにいくの?」

修一郎はずっと窓ガラスを覗き込んでいる。

「石川さんも災難ね。こんなことに巻き込まれて・・」

修一郎がキッとした表情で眞代を睨みつける。

「おいっ!その話はするな!ここでも、ほかでもだ!」

修一郎は息も絶え絶えに缶コーヒーを飲み干した。

「そんな甘い世界じゃないんだよ。運が悪かっただけ。それだけ。」

そう言うと修一郎は喫煙所から出て行った。修一郎は守と中学からの親友だ。しかし、今会いに行って励ましあいをするような安っぽい関係じゃない。男は在り来たりの言葉、同情なんて言われる方が傷つく。本心を見抜いている。あいつだってさらっとした顔してるがプライドは人一倍高いはずだ。ここからがアイツの本当の力が試される時だろう。ここで消えればそれまでの男だ。修一郎は自分に言い聞かせた。自分は男の友情を守と会わないための言い訳に使っていたのかもしれない。守不在の会社で部長にまでのし上がった卑怯者の目で見られるのが怖かった。もし、守が会社にいれば間違いなく就けないポストだ。そんな目で見られるのが耐えられなかった。屈辱だった。もし、会社に戻ってきたらどうする?もし、社長が会社に戻し俺よりも上のポストに就けアイツの下でヘコヘコ働くのか?いやいや犯罪者を会社には入れないだろう。入れるわけがない。あいつが戻ってきたせいでこんな不安にも駆り立てられるのか。いっそ居なくなればいいのに。俺たちは親友だ。俺は情にうすいのか?でも今からあいつの家に行って慰めることなんていくらでもできる。自分を偽ってアイツが会社にはめられた事を一晩中愚痴りあうことだって容易だ。そんなことしたって何の意味もないしそんなことしたくない。確かに、アイツは面倒見がよく上司受けも部下受けもいい。それどころか妻、娘を養い愛しなんの悪戯もせずに生きてきた。俺もアイツにはかなり世話になった。聖人みたいな、スーパースターのようなずば抜けた能力を持つアイツに助けてもらい、その慈悲を受けてきた。しかし、現実に今アイツの存在は感じない。アイツの居場所はここにはない。もしかしたらどこにもないかもしれない。俺はなるべくして部長になったんだ。もうアイツは必要のない人間だ。神が居れば俺に罰が下るだろう。でも神は存在しない。それどころか神はアイツを豚箱に入れ世間から忌み嫌われる存在に蹴落とした。この世に神なんていない。神なんて。修一郎は勢いよく部署のドアを開け自分の椅子に乱暴に座った。憑りつかれた様にパソコンに向かう。神に嫌われないように。

 守と京香を乗せた車が静かにアパートに着いた。二人はゆっくりと車から降りると後ろの席に置いてある荷物を手早くとると一階にあるアパートへ向かった。京香が先頭を切り守は辺りを見回しながら進む。そんな時、京香の足取りが重くなったかと思うとすぐに駆けだした始めた。京香はアパートのドアで立ちどまり、険しい表情でドアを食い入るように見つめる。何やら紙の様なものが貼られている。京香は荒々しくその紙をむしり取るとグシャグシャに丸め右手に握りしめた。京香は肩で息をする様に動揺していた。守は急いで駆け寄り京香の肩を抱いた。そして何も言わない京香を見つめると震えるくらいに握りしめた手をゆっくりと優しく開く。そして、グシャグシャにした紙を手に取るとゆくりと広げた。そこには赤いマジックで殴り書きされた文字が並んでいた。

「恥さらしの人殺し一家」

守は心臓を握りつぶされたかのように胸を押さえ、隣にいる京香は涙で肩を揺らしていた。守はその紙を直視できなくなり顔を上げた。ドアや外壁は何度もペンキで塗りなおした跡があり、ちぐはぐな色の違いが京香と寧々の苦悩を物語っていた。割られた窓ガラスにはガムテープと段ボールで補強され、一度や二度の悪戯ではないことは明らかだった。俺は想像を絶する生活を京香や寧々に強いてきた。なんの罪もない妻と娘の人生を棒に振った。俺を10年間閉じ込めた高い塀は実は世間から俺を守っていたんだ。塀の外の方が残虐で酷い仕打ちを受ける。社会的弱者はされるがまま黙って絶えるしか道は残されていない。守は京香を部屋の中までエスコートするように連れ添った。そしてドアに鍵を閉めると二人はやりようのない気持ちをなだめるかのように強く抱き締めあった。涙で顔を洗う様に、声が出ないほど腹の底から湧き上がってくるうめき声だけが部屋の中に悲しく落ちていった。


「おつかれさーん。」

小さく寂れた自動車整備工場から一人の男が出てくる。汚れた作業着からは逞しい二の腕が顔を出す。右手に弁当箱をぶら下げタオルで汗を拭きながらトラックに乗り込む。トラックに置きっぱなしの携帯の画面を開く。着信はなくメールが一件入っていた。妻からだ。

_帰りに牛乳買ってきて_

絵文字も何もないそっけないメールに肩を落とす。仕事場と家の往復にほとほと愛想が尽きていたのだ。自分が思い描いた幸せの実態はこんなもんなのか。このまま定年まで働いて年老いていくのか。急に恐ろしくなってきた。自分の将来に疑問を抱いたのは今回が初めてではない。何度も何度も眠れない夜をアルコールでごまかしてきた。何度も何度も自分の弱さを正してきた。しかし、もう限界かもしれない。借り物の人生をただ走らせられるのはもうたくさんだ。思い立ったように携帯の電話帳を開く。何やら思いつめた様子で文章を打ち始めた。何度も打ち、何度も消す。そうやって納得のいく文章を探し出し送信した。神様に願う様に車の天井を見上げるとそっとポケットにしまい込んだ。我に返ったようにトラックを反転させ家路についた。人は誰しも心の中に自分だけの希望を忍ばせている。今この状況を打開する一つの、たった一つの爆弾を持っている。このままで死にたくない。止まってはいられない。どうにか何とかして動いていいたい。動くのが嫌になるくらい動いて疲れて寝床に入るんだ。皆、死と面と向かうのが死ぬよりも怖いんだ。その弱さをひとに擦り付ける。互いに擦り付けあう。時にはもう二度と会いたくないくらい、殺してしまいたいくらい自分の弱さを相手に押し付けるんだ。帰りのトラックで何度も何度もポケットから携帯を取り出す。胸を高鳴らせながら、イライラしながら、寂しさを増しながら5cm四方のディスプレイに自分の思いを募らせる。「繋がっていたい」その一心だけだった。


寧々はパソコンを見るふりをして時計ばかり気にしていた。寧々は定期的に面会に行っていたため今すぐ守に会いたい訳ではなかったが生活がどう変化するか、それが一番の気がかりだった。そんな不安定な寧々に悟が気付く。悟は携帯を取り出し寧々にメールを送った。敏感な寧々はすぐさま携帯のバイブレーションに気付きこっそり画面を開いた。悟るの方を見る。悟は寧々に気付い誰にも気づかれないように笑顔で答えた。寧々もメールを送り返す。

―うん。一緒にかえろ♡―

寧々と悟は定時になると時間をずらし退社した。会社の前で落ち合うと二人は家路についた。悟が車いすを押し寧々は笑顔でそんな悟を見上げる。寧々は下から見上げる悟の男らしい喉仏が好きだった。二人は他愛のない話で盛り上がる。悟は爽やかな顔に似合わず毒舌だ。

「沙紀さんって結構寧々に仕事回すよな~」

「あ~そうだね。でもいい人だよ。」

「そうか~?いいように使われんなよ~」

「そんなことないってば。沙紀さんは優しい人だよ。」

理「なにそれ?私そんなにお人よしじゃないんだから。」

「じゃあ小悪魔的な?(笑)」

「そう。小悪魔的な。」

「そうは見えんけどな~そうそう。今度ウチ来ない?」

「えっ?どうして?」

「いや、オカンが彼女連れて来いってうるさくて。来週の土曜日とかどう?」

「ううん。ちょっと予定確認してみるね。」

「おう!期待して待ってるからな。」

「うん。押してくれてありがとう。ここから自分で漕いで行くから。」

そういうと寧々は急に他人行儀になった。悟に手を振るとあっという間に見えなくなった。悟はあっけにとられていた。何か怒らすこと言ったかどうか不安だった。悟はその場に立ち止まったまま寧々に振るために上げた右手を情けなくゆっくりと降ろした。悟が見えなくなってから寧々はさっきまで力一杯に漕いでいた車いすのハンドルを止めた。表情を曇らせ、うつむいていた。しかし、すぐさま力強くハンドルを握ると家路を急いだ。何かを吹っ切るようにいつにも増してスピードを出していた。寧々は何度も肩に目を擦り付ける。風が目に入って真っ直ぐ前を見れない。しかし、決して目が乾いているわけではなかった。むしろ目は潤っていた。我慢するがにじみ出てくる寂しい涙を肩に移していただけだった。


京香の携帯の小さなランプが点滅していた。京香はキッチンで夕食の準備をしている。3人には多いくらいの品数が出揃っているが未だ作る手を休めない。守の好きな寿司は以前行きつけであった寿司屋さんから出前でついさっき届いた。石川家未だかつてない豪勢な食卓が仕上がろうとしていた。守はその間、部屋の中をうろうろ見回していた。居間のディスプレイには家族3人の笑顔の写真が飾ってある。こんな苦悩を知らない顔だ。まるで未来には幸せが間違いなく待っているような恐れを知らない笑顔がそこにあった。そんな無邪気な笑顔につられて守の表情も一瞬和らぐ。その隣には寧々が高校を卒業した時の写真だろうか、着なれないスーツ姿の京香と車いすに乗って満面の笑みを見せる寧々の姿があった。愛らしい笑顔はまるで太陽のようだ。障害を一切匂わさない曇りない笑顔が寧々の強い性格を滲み出している。守は隣の一室に入った。そこにはクリーニングから一度も封を切っていないしわひとつない仕立てられたスーツがかかっていた。守が会社に務めていたときに1日も欠かさずに身を通し大事にしてきたスーツだ。京香も感じていたのだろうか。まるでまた仕事に復帰してほしいと言わんばかりに綺麗に保管されている。しかし、守にとっては思い出したくない過去だ。何も疑わずに毎日袖を通していた窮屈な布に過ぎない価値しか見いだせなかった。誇りをもって背筋を伸ばし張り切って歩いていたのが、まるで調教されたサルが人前で芸を見せるように感じてならなかった。そんな守のもとへ京香がゆっくりと寄り添う。京香は守の背中に手を回すと恋人の様に寄りかかった。

「どう?新しい我が家は?」

「申し分ないよ、とは言えないな(笑)俺も明日から就職活動するからもっと大きな部屋に引っ越さないか?」

「そう?私結構気に入ってるのよ。小学校の夏休みに田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったみたいで。」

守は驚いて京香の顔を見る。

「そんなおばあちゃん居たっけ?」

「ウソ(笑)」

悪戯に京香が笑った。そんな京香を見て犯罪者である自分なんかいつのまにか忘れていた。守は京香のデコを人差し指で小突くと強く強く抱きしめた。京香のか細いカラダを二の腕で締め付ける。

「いたい~」

「嘘の仕返し・・・ありがとう。」

なんどこの笑顔に救われたんだろう。京香の笑顔にすべてが詰まっていた。この世の中のすべてがそこにあった。俺たちが出会ったとき寧々はこの世にはいなかった。ふたりで作り上げ、必死で信じ共に生きることを決意した証が寧々だ。子供が生まれたら子供中心の生活をする夫婦が大勢いる。しかし、俺たちはそんなこと考えたことはなかった。勿論、寧々は二人の宝物だ。命に代えても守りたいかけがえのない存在だ。でもそれは京香でも一緒なことだ。夫婦は赤の他人だ。血のつながりがない。逆に言えば血のつながりがないのに一生一緒に添い遂げる世の中で唯一の存在。そんな相手にどう接するか。セックスの対象でしか見れない人間には勤まらない。そこには男女関係を超えた幻想的で神秘的なつながりがなければ成り立たない。世の中がどうなろうと相手を信じ続ける強さが必要だ。それからすぐに寧々が玄関のドアを勢いよく開け元気な笑顔と共に帰ってきた。守は寧々を車いすから持ち上げるとお姫様抱っこした。守には小学三年生の寧々のまま止まっていたんだ。寧々の笑い声、守の悪戯な笑顔、京香の心配そうな顔、3人の表情が、3人の笑い声が無色の人生に彩を加えていく。世間じゃ色眼鏡で見られるが家の中では関係ない。ずっとかわらない誰もが羨むような家族でしかない。誰になんと言われようが関係ない。大事な人は大事で、それは他の誰でもない自分自身が決めて行くことなのだから。嬉しいことは嬉しいし、悲しいことは悲しい、頭にくること頭にくる。素直でいいんじゃないか。ありのままで。ありのままの自分を表現することでいつか周りの人たちは分かってくれる。自分を騙すことは人を騙すよりも罪深きことで、自分を否定することは生を感じさせない。誰からも見えない存在になり、雲を掴むようなその手もまた存在しないのだから。その夜、アパートの電気が消えたのは夜遅くなってからだ。とても犯罪者の出所祝いとは思えないほどごく自然で癒しに満ちた時間がゆっくりと流れる。今までのつらい過去や寂しい感情を洗い流す様に。もう一度、幸せを掴みとるんだ。家族3人で今まで追い求め続けてきたモノをしっかりとこの手で・・・。


悟は自宅でテーブルに肘をつき夕食をとっていた。目は虚ろで食べているというより並べられた料理をつついている感じだ。悟は寧々の他人行儀なそっけない態度が気になって仕方なかった。その様子に母親の冴子が気付く。

「どうしたの?会社でなんかあったの?」

「いや。なんでもない。」

「彼女?喧嘩でもしたの?」

「何でもないって言ってるだろ!ほっとけよ。」

その様子を父親の健吾が目を丸くし見ていた。悟がこんなに乱暴な口を利くのは中学時代の反抗期以来だ。

「母さん悟も子供じゃないんだから。でも、そうだな。お前ももう世帯を持ってもおかしくない年頃だからな。今どきの女の子は難しいからな。父さんの時代とはわけが違う。お前たちが良ければお父さんたちは何も言わないよ。」

そんな父親に水を差す様に母親が割って入る。

「ダメよ!ちゃんと前もって母さんに紹介して。仕事場の友達で嫁さんに痛い目にあってる人結構いるんだから。ねぇ、約束して。だから言ってるじゃない。ウチに御飯連れてきなさいって。」

「ごちそうさま!!」

悟は乱暴に箸を置くと2階に駆け上がった。そんな息子の行動に二人は目を見合わせ驚いていた。気を取り直したように健吾はコロッケに手を伸ばす。コロッケをほおばりながら健吾はつぶやいた。

「あいつもそろそろ身を固めないとな。」

冴子はそんな健吾と悟が駆け上がっていた階段をまるでメトロノームの様に交互に見る。健吾は地元の建設会社の社長を務めている。冴子とは高校時代の同級生で健吾の下積み時代を支え続けた。健吾は特に考えて結婚したわけではない。生活に則した女性が冴子だった。健吾にも人生の荒波にもまれ一人ではどうにもならない事、冴子が居なければどの方向に進めばいいかされ分からない状況がいくつもあった。だからこそ悟にも早く結婚して落ち着いて欲しかった。男は皆、女性に必ず幸せにすると誓いプロポーズする。しかし、彼女を幸せにする方法は彼女しかわからなく。そして、男一人では生きていくこともできないくらい幼稚な考えしか持ち合合わせていない。でも女性は男性を選ぶ。自分を幸せにできなことを知りながら人生を共に歩む道を選ぶ。この人なら自分の人生に彩を加えてくれるかもしれないという希望を持ちながら。女性は自分の歩む道を知っている。何が起きようとその道から外れることはない。しかし、男性は女性についていく。まるで小さな子供が母親の足にまとわりつくように。いつの時代も男を操るのは女性だ。偉人の陰に妻あり、というように妻の役割は非常に重要な位置を占める。健吾も悟も一緒だった。健吾は冴子の作った料理を少年の様にほおばり、悟は寧々に携帯でメールを送り返事を心待ちにしている。女性の美しさに、女性の強さに、男はまるで人魚に心奪われた船乗りの様にその魔法を解くことはできない。悟は一晩中携帯を見つめていたが着信音が鳴ることはなかった。


守は再就職先を見つけるために職安に来ていた。就職氷河期ということもあって男女問わず若者が多く詰め寄せていた。自分だけが就職先を探しているわけでないことを知ると何か安堵感が生まれた。ましてや人生これからの若者たちもこんなに多く就職先を探している人がいる。守の就職案内は20代くらいの若い女性だった。慣れない手つきで守の履歴書を取り出すとじっくりマジマジと目を通す。髪を耳に駆け唇をかみしめる。名札には”中根理沙”と書いてある。まだまだ真新しい名札でシワや汚れは一切なかった。そうこうしていると中根は急に大きな目を見開き守の方を見た。守は恥ずかしそうに目をそらし、その女性の目をまともに見れない。その女性は一旦、目をそらすと考え事をし話し出した。

「石川さん。再就職はかなりの厳しいと思っていてくださいね。」

守は表情を曇らせ辺りを気にしながらその女性にしか聞こえない声で答える。

「やはり前科があるからですか?」

その女性は静かに頷いた。

「やはり一般の企業は厳しいですかね?」

「石川さんの第一希望は以前勤めていらっしゃった企業経営に携わるようなお仕事ですか?」

「いえ。そんな贅沢は言ってられません。私にも扶養家族がいますので働けるところがあるならどこでも構いません。ただ、法人で働けるならそれに越したことは無いと思いまして。」

「さっき私が言った厳しいというのは一般企業のことで働く場は一杯とは言えませんがあります。石川さんは42歳ですので企業側は福利厚生や将来性、報酬面で首をなかなか縦に振ってくれません。しかし、石川さんの価値は企業によって大きく異なります。石川さんは以前勤められていた職場で若年ながら管理職にまで昇進されています。そこを評価していただけるかどうかにかかっていますね。あと、その・・・前科と。」

「そ、そうですね。」

「でも一緒に頑張っていきましょう!私も全力を尽くしますので。」

「はい!すいません!宜しくお願いします。」

そこから中根と守は再就職に向けて企業面接を手当たり次第に受け続ける。勿論、電話口で断られたり、書類審査で落ちることも珍しくなかったがそんなことは守の想定内だった。刑務所出るときに決意した何が起ころうが挫けない精神は一層心を強くし、今までのプライドは全てきれいさっぱり洗い流されていた。自分より年下の面接官に愛想笑いを浮かべ、白髪交じりの髪を近くの量販店で買った安物の黒染め液で塗りたぐる。風呂場で鏡を目の前に必死になる中年男性のみじめな姿が世の希望を失わせる。しかし、そんな自分を哀れむ余裕なんてなかった。ただ、がむしゃらに前に突き進むしかない。脳裏をよぎる不安に鍵をかけ、今にも切りかかってくる剣に心を露出させる。若者が考えなしに勢いに身を任せ突っ込むのとはまた違った。これから起きることが分かっているのに、傷つけてくることは分かっているのに笑顔で心臓を突き出すしかなかった。そんな惨めな自分を客観的に見る脳を麻痺させるしかなかった。まるで戦争の最前線でゴーサインを待つ兵士の様に五感が痺れ、幸せも何も感じなくなるカラダになるしかない。守は3週間の就活戦争の中、なんとかベンチャー企業の内定を取ることに成功した。その会社の代表はまだまだ社会経験の少ない大学を出て間もない若者だった。若者であるため能力主義的な思考が強いのと客観的に自分の会社に不足しているものを見る目があった。守は社会経験、前社での功績を評価され内定を勝ち取ることができた。能力主義に重点を置いているため前科の件はあまり目に留まらなかった。勿論、資本金も少なく母体もない小さな会社だった。大海原に浮かぶ小さなボートに過ぎない船だが将来性のある会社だ。守は内定の通知を一目散に京香と寧々に伝えた。3人で飛び上がるように喜び、将来へ一筋の希望が見えたような気になっていた。小さな階段を1歩ずつ上っているような、昨日の自分よりも一歩前に出た感覚が生きているそのものだった。3人で頑張れば何とかなる、そんな気に石川家は皆、そうなっていた。


寧々の顔をパソコン越しに見る悟の姿があった。寧々を自宅のご飯に誘ってから何か自分を避けるような態度が伝わってくる。あれ以来、1か月ほど一緒に変えることもなくなったし、メールも返事がそっけない。悟はもう仕事どころではなかった。心の中の寂しさが今にも爆破しそうなほど溜まりこんでいた。そんな悟とは裏腹に寧々はいつも通りテキパキと仕事をこなしていた。そんな対照的な寧々の態度が悟を尚更謎に引き込む。そんな悟に沙紀が近づく。

「悟君、元気ないね。どうしたの?」

優しい声で悟に囁く。びっくりした悟は振り返った。

「あっ!すいません!ちょっとボーッとしてました。でもちゃんと仕事はしてますよ!ちょっと休憩してただけです。ハハハ・・」

そんな慌てふためく悟の表情を見て沙紀は微笑む。

「今日どっか飲みに行こうか?悩み事あるんでしょ?」

「えっ?そんな悩み事なんてないですよ。」

「顔に書いてあるのよ。じゃあ場所と時間はメールするね。」

沙紀は悟にウインクするとその場を去った。悟は動揺し辺りをキョロキョロする。そんな時、寧々と目が合った。しかしすぐに寧々は目をそらし仕事に打ち込む。悟は固まったようにその姿勢から動くことができなかった。寧々の目が怒っていたように感じたのだ。ヤキモチ?悟は割り切った。こうしてそっけない寧々が自分に興味を持ってくれた。それは沙紀さんと話していただけだけど確かに感じた。ヤキモチを焼いている。じゃあもっとヤキモチを焼かせよう。悟は急にツンッとした表情を取るようになった。寧々と恋愛戦争を起こそうとしていたのだ。寧々はそんなこと知ってか知らずかパソコンから目を離さない。こうして悟の大きな勘違いが幕を開けた。悟は沙紀のことは好きでも何でもない。職場の怖い先輩でしかなかったが、寧々の気を引くために親密になろうとした。恋愛感情ではなく、女性同士の格づけの要になろうとした。悟は沙紀の指定したBARに行くとその夜、沙紀を抱いた。沙紀は男っぽい性格で細かいことはまったく気にしなし、深くまで詮索しない。悟と一夜関係を持ったという物理的な面でしか捉えていなかった。そこから二人は会社でも親密になって行く。社内では、寧々が沙紀に悟を取られたという噂が広まっていた。その話は寧々の耳にも入っていた。車いすの寧々を哀れむ人もいたし、沙紀と悟の愚行に偏見の眼差しを持つ人も少なくなかった。一方、面白がる人もいた。

寧々はそんな偏見の目にさらされる一番の被害者になっていた。障害者で犯罪者で男を会社の先輩にとられた哀れな女でしかなかった。辛くて辛くて仕事に向かう足取りも重く、本気で辞めることも考えた。でも寧々はリハビリしている時にもう二度と自分の弱さには負けないと心に決めていた。寧々は悟と付き合うために旅行会社に入ったわけではない。しかし、悟と付き合ったことで生まれる居心地の良さ、安堵感に身を置いていた。ご飯の味も分からないほどの、ゆっくりとソファーにも座っていられない程の焦燥感に一生悩まされる日々に戻るしかなかった。まるで幼稚園で迎えにも来ない親をずっと待っている子供のように辛く、寂しい思いに心を落す。付き合う人は皆同世代の人間だ。人生の正解なんて持っているはずもない。でもそんな彼氏の身を任せ、信頼し人生の価値を見出そうとする。自分より考え方が劣る相手に一瞬の幻想を見出し現実から1cmでも遠ざかろうとする。自分の定めを知らない人間はいない。人は一歩一歩死に近づき自分の老いた体を直視することになる。1日1に美しさとはかけ離れ、1日1日衰退していく質が落ちていく人生の中に身を置くしかできない。ただ目の前で起こる事態を指を咥えてみているしかないのだ。そんな中でも一筋の希望を見出しその希望に向かって朝歯磨きし、ゴミ出しをし、子供を学校に送り出し夕食を作り、明日の弁当の下準備をする。この無限ループに圧倒されている間に人生は幕を閉じ、まるで夢を見ているかのように、まるで現実が非現実のように、法の存在も認識できないくらいに自由で無限に満ちた世界の存在に気付く。もしかすれば、男性より女性の方がこの人生の質に早く気づき行動しているのかもしれない。寧々も同様だ。悟は沙紀に近づけば近づくほど寧々の気が引けると思っていた。しかし、沙紀に近づけは近づくほど寧々の気持ちは離れもう赤の他人でしかなかった。悟はそんな寧々の変化に気付く。焦燥感にかられた悟はこれから何度も何度も寧々に許しを請うが寧々にはもうどうでもよかった。この辛い期間に寧々は彼氏よりもかけがえない物を手に入れていた。二転三転するような彼氏とは比べ物にならないほどこれからの人生で必要になってくる強い心と自分の足で歩む道の地図をまだ未熟ではあるが存在に気付き手を伸ばそうとしていた。やっと人魚に化かされた船乗りが正気に戻ったようにこっころ穏やかだった。そんな様子をほくそえみ静観する女性がいる。沙紀だ。沙紀は笑いが止まらなかった。この征服欲、支配欲に心を満たし言い知れない高揚感に胸躍らせる。それに味をしめ悟との仲をどんどんエスカレートさせる。内心苛立ちを隠せない寧々を見るのが生き甲斐になり、良心の歯止めがきかない。悟は暴走する沙紀をどうすることもできず只、されるがままに動く人形のように無気力に、そして自分の犯した過ちを悔いる事しかできなかった。会社は言い知れない張りつめた雰囲気の中、どうしたことか沙紀が寧々に近づいていく。寧々は仕事に打ち込み気付かないふりをしていたがそんな嘘もつききれないほど寧々の傍で止まった。寧々は不揃いな鼓動と息切れしそうなほどの乱れた呼吸を必死で抑えながら恐る恐る顔を上げる。沙紀は予想以上に穏やかな表情で寧々を見つめていた。そんな寧々に1枚の紙切れを手渡す。寧々は一瞬戸惑うがゆっくりと紙切れを受け取った。沙紀はその紙切れを手渡すと静かにその場を去った。寧々はゆっくりと綺麗に折りたたまれた紙切れを開いた。そこにはBARの名前と時間がかかれていた。寧々はその紙を握りしめ両手で胸に押し当てると色々思考を巡らせる。しかし、寧々に選択肢はなかった。無気力に家に帰り普段通り振舞うことに力を費やすことに意義を見出せなくなっていた。


守は新しい会社での仕事も徐々にではあるが軌道に乗り始めた。対人関係も良好で年齢は違うが同じ夢を追う人間同士意気投合することも少なくなかった。いい意味で守は先輩とはとらえられず、同志としての位置づけを崩すことはなかった。勿論、守は今まで長塚商社で培ったビジネスマンとしてのノウハウは持っており、大学を出たばかりの新米社会人に教えることも沢山あった。しかし、まるで同級生の集まりの様な関係を崩すことを恐れ見て見ぬふりをしていた。長塚商社では後輩指導も多く行っており新人研修で講師も務めたことっもある。しかし、それは過去の地位がもたらす業務の一環で現在のポジションで同じことをすることはできない。内容こそ正しいだろうが出しゃばった行動をすることは得策とは言えない。社会では正しいことなど、教科書通りの答えなど求められていない。適材適所で空気を読み行動して行くことが不可欠だ。守は従順に40代の新人を演じ切っていた。守はミーティング資料を人数分コピーすると会議室へ急いだ。お茶を用意し綺麗に方向をそろえて机に並べていく。まるでOLの新人がするような仕事も苦とも思わずそつなくこなす。

そんな守が居る会議室のドアが勢いよく開けられ笑い声と共に10歳年下の木崎社長が入ってくる。何やら携帯で誰かと話しているようだ。耳につけた無線イヤホンがベンチャー企業の若い社長を物語っていた。時代は徐々に変わりつつある。木崎は終始笑顔で電話を終えると守に気付いた。

「石川さんありがとう。」

守は会議資料を並べる手を止め、木崎に笑顔で一礼する。

「いえいえ。でもお忙しそうですね。」

木崎は少年の様な笑顔になった。

「いやいや。大学の同級生の会社が今期かなりの黒字を出してね。今度、高級クラブを奢ってくれるらしいんだよ。やっぱりIT企業は時流に乗ってるからね。ちょっと羨ましいんだけど仲間が喜んでるから悔しくないよ。」

「仲間か・・」

守は寂しそうに会議室の机に目を落す。そんな暗い表情に気付いた木崎が話しかける。

「石川さんどうしたの?」

「いや。仲のいい仲間が居て羨ましいなと思って。」

「えっ?石川さんにも仲間はいるでしょ??」

「あ~いたんだけど年がたつにつれてだんだんいなくなって行ってね。もう家族しか残ってないよ。」

「石川さんの時代の人はそうかもしれないね。いい大学入って、いい会社に就職して綺麗な嫁さんを貰ってかわいい子を作りいい家を買う。これが幸福論ですもんね。でも今の時代はは違う。全く違う考え方を持った人達がこの街を行き交う。統一された考え方なんて存在しない。勿論、結婚願望も例外ではない。今は皆、個人レベルでの幸福を願ってる。だからこそ仲間を一番に大切にするんです。」

「本当だね。時代は変わったよ。自分が想像していなかった世界になった。国のための個人ではなく、個人のための国になった。僕は何かに取りつかれた様に一心腐乱に自分を奮い立たせていた。家族のため、会社のため、国のためってね。でも今はみんな考え方がまるで違うんだね。ちょと寂しいな。」

「だから女性も固定観念にとらわれない。自分のライフスタイルからそれれば出産すらしないくらい自分を大切にしている。年代が違う人から見ればじゃじゃ馬で男勝りな女性でいけ好かないかもしれない。でもそれがうにが押し進めてきた女性の社会進出なんだから支離滅裂ですよ。男性はいつも女性に都合のいい女を演じさせる。理想の女性を国ぐるみで演じさせている。今も昔も女性は同じ事を考えていたのかもしれませんね。結婚では幸せになれないって。今はそれを身をもって証明しているのかもしれません。子供を育てることが女性の幸せかのように国ぐるみで洗脳していたんです。イデオロギーというのか、プロパガンダというのか・・」

「ん~やっぱり俺にはわかんないな。女性は子供を育てることが幸せだと思てるし、男はそんな女性をサポートすることが役目だと思ってるけどな~。実際、子供はかわいいよ~この子のためならためらわず死ねるよ。(笑)でも人それぞれだよね。」

「そんなこと言ってると奥さんに浮気されますよ~」

「ウチに限ってはないですよ。保証します。」

木崎と守は笑いあった。考え方も、生き方も、死に対する考え方もまるでちう者同士が同じ場所で共に生きていく。個人主義とはそういうことだ。昔の様な隣近所の目を気にするような時代ではない。集団で足並みをそろえるよりも個人の足で行けるところまで全力で走る。倒れたところが自分の死場なんだ。強くなくては生き残れない。人を傷つけなくては生きていけない。傷つけあいながら休むことを忘れさせる。妙な仲間意識に勘違いをし道をそれる者もいる。急かされるのを嫌がり道をそれ一生暴力を否定し生きていく。自分は弱虫で、恩寵を選び愛に生きると自分を信じ込ませ妻にその尻拭いをさせる。そこに大きな価値があると皆に歌い平和を誇張する。そして何年に一回の同窓会に出向き幸せな自分を演じ落ちぶれた昔の栄光者を見てほくそ笑む。暴力に走れば後に待ち受ける荒んだ人生しか残らないと幸せの価値観を細め自分の人生が一番だと、暴力での主従関係などが続きしないと愛想笑いを浮かべながら目の前に置かれた生ビールに手を伸ばす。自分が持っている家庭なんて崩壊寸前のぎりぎりで持ちこたえている価値も見いだせない本心ひた隠し携帯の待ち受けの娘を見せびらかす。まるで愛を誇張しているように、利用しているように。自分の順位付けの道具に家族を利用し女性の尊敬を集める。幼いころに思い描いた幸せは幻想でしかない。幻想でしか存在しえない。社会が組んだ人間の凶暴性を削ぐプロパガンダにまんまと一生騙され続ける。

― 信じる者は救われる ―


京香は自宅のソファーでケータイの画面を見つめていた。どこか寂しげに高鳴る鼓動を抑えながら携帯と同調する。京香は翔太からのメールを何度も読み返していた。もうメールが送られてから何日も経つ。翔太とは守が刑務所に入っているときに定期的にあっていた。悪いとは思いながら弱い自分の感情を抑えることができず、不純な関係を長く続けていた。二人での暗黙の了解で家庭を壊さないず本気にならないことが前提だった。寧々や翔太の家族にも二人の関係はバレていない。しかし、京香は守が出所する数か月前から二人の関係に疑問を持ち始めた。疑問というかわかりきった罪悪感を何度も何度も頭の中で握りしめる。理想の結婚生活とはかけ離れた現実と向かい合うことができず、男女関係の幻想に入り込みそこに安堵感を見出す自分の生活を客観的に見ることができるようになっていた。それは守がまた自分のもとへ戻ってくるという安心感だった。安心感が視野を広めてくれた。しかし、高校と同じく京香の方から一方的に連絡を取らなくなった。翔太からのメールは溜まる一方で返信ボタンを押そうとする指はまるで何かに引っ張られているように重く、胸を突く思いは自分の中に留めておくしかなかった。禁断の甘い蜜は舐めれば舐めるほどその味は増し、禁断症状を止めることは容易ではない。もし、禁断症状を止めようがそれに伴うストレスはマイナスに働き、一生その人の人生に付きまとう。良心と悪心、天使と悪魔の様に自分の中にいつまででも存在する二極関係が1日1日その勢いを競い合う。禁断症状と闘うものは何もジャンキ―だけではない。ヒトは欲に一生さいなまされて死に絶えるしかない。欲に従い生きる者も欲に抗い生きる者も最後は火葬場で身を焼かれる。跡形もなく白い棒になった自分を石の中に入れる。どうあがいてもその現実から逃げ出すことはできないし悪夢のような結末を見ないように生きていく。猫は死にざまをひとに見せない。死期を悟ると自ら一人になることを望む。死と一人で向かい合う。そんな強さは人間にはない。寒空の下、死に値するくらいの空腹でゴミ箱をあさり、誰も近づかない汚い路地の一角に身を寄せ世間を睨みつける。世間に何も期待せず、何の未練もない絶望感の中、死という人生のイベントに向かい合う。何も変わらない。小学校の入学式、高校の卒業式、結婚や出産、会社でのプレゼンテーション、今まで乗り越えてきた難題と同様全力で取り組む。その強さが自分に備わっているかどうかだ。錯乱し他人に迷惑をかける者もいれば、自分でしっかり対処し抑える者もいる。誰も一人寂しく死にたくはない。皆に囲まれ看取られたいんだ。京香はまだ携帯電話を見つめていた。京香は携帯の画面を見ていたのではない。画面に映る自分の顔をじっと睨みつけていた。自由を選べばリスクが付きまとい、安定を選べば死が目の前にある。究極の選択に皆、他人が気になってしょうがない。自分の判断が正しく、他人の判断が間違っていてほしい。その感情が明日を生きる糧となるのだ。


翔太は夕食後、一番下の子とソファーでくつろいでいた。妻は台所で食器を洗い、上の子たちは夕食後、自分の部屋に戻りそれぞれ好きな時間を過ごす。普段どおり見たくもないテレビを目の前に怠惰な時間を過ごす。全身から力は抜けきり、たまに出てくるあくびも力ない。毎日が同じ日の繰り返しで今日が何曜日かもわからない

独身時代、そんな日から抜け出したくて結婚へ急いだ。自分一人だけを食わせる生活に嫌気が差した。そんな生活になんの意味もないと感じていたからだ。しかしどうだろう、結婚して20年そんな同じ問いだけが残った。なんの意味があるんだろうって。そんな時、携帯のバイブレーションが鳴る。いつもの迷惑メールだろうって面倒くさそうに手を伸ばす。案の定、メールの受信を知らせる表示が出ている。一つため息をつくと受信箱に入っていく。一瞬、鼓動が止まった。京香からだ。翔太はキッチンにいる妻の方を見た。何も変わらず皿を洗っている。高鳴る鼓動を抑えながら無表情でメールを開く。文章を食い入るように見ると返信のメールを静かに打ち出した。そして、自分の納得のいく文章を打ち終えると静かに返信ボタンを押し、バイブレーションから無音へと設定を変更した。この安堵感はなんなんだろう。生きている実感がする。自分が必要とされている実感がするんだ。家族に必要とされいているのは分かっている。家族に囲まれているのも愛してくれている妻がいるのもわかっている。今も一番下の娘が目の前でこっちを見て微笑んでいる。わかっている。わかっているんだ。でも、何も感じないんだ。正しいことは分かっている。同じように悪いこともわかっている。でもこの充実感はなんなんだろう。罪悪感を抱えながら返信を心待ちにする。普通のお父さんは子供の成長を見ながら年老い、妻と休日行きたくもない買い物に行き、道の駅でお見上げを買い時間を潰していく。そんなありふれた時間を過ごすのが平和を作り出すんだ。でもそんな平和を求めていないんだ。欲しいのは今生きているって実感だけ。次に送られてくる不倫相手の卑猥なメールがそんな日常を吹き飛ばす。愛は不確かなものだ。形無いない物を信じる宗教じみたしがらみに一生しばられ生きていくことに美徳、名声を見出す。聞いてくれる人がいないと成り立たない生活を何年繰り返すんだろう。自分ひとりでは評価に値しない生活を渇望する非現実的な世界に身を置き今どこにいるかも分からなくなるほど相手を信頼し、信じ裏切られ現実逃避する。倦怠期の妻、反抗期の子供に何を見出せばいいんだろう。一体、なにを・・・。翔太は一晩中携帯を離さなかった。次から次へと送られてくるメールに自分の居場所を見出し、乾ききった心を潤していく。


寧々は沙紀のメモ通りの時間にBARを訪れた。このこじんまりしたBARは以前に沙紀に連れて行ってもらったことがある店で車いすがそのまま入れる数少ないBARだ。寧々が扉を開けると店内には人が少なく沙紀だけがカウンターで飲んでいた。マスターと何やら談笑している。そんな沙紀に苛立ちを覚えると力強く車いすをこぎ沙紀のいるカウンターに近づいていく。そんな寧々にマスターが気付き、すぐに沙紀が振り返った。沙紀は満面の笑みで手を振る。寧々はあえてそんな沙紀を無視した。マスターは会釈すると奥に消えていった。

「寧々ここまで大丈夫だった??」

「はい。こんな体でも大人ですから。」

「そう。じゃあ早速、飲みましょ。寧々ちゃんはカルーアミルクが好きだったね。」

「いえ。今日はスコッチロックでお願いします。」

寧々は強気に出た。

「スコッチ??マスターお願い。」

沙紀は何か言いたそうだったがそれを喉元に押し込み、寧々に言われた通りマスターに注文した。寧々は車いすからカウンター席に乗り移ると沙紀の方は見ず所せましと並べられている酒瓶をじっと見つめていた。沙紀はそんな寧々を愛らしく眺めるがそのうち寧々から目を離し、沙紀もまた目の前にある酒瓶を見つめる。そうこうしているうちにマスターが二人の前にグラスをそっと置く。沙紀がグラスを持ち乾杯しようとすると寧々はスコッチを一気に飲み干した。沙紀は開いた口が塞がらない。寧々は喉元を通る刺激酒に顔をゆがませると荒々しく袖で口元をぬぐった。

「マスター同じの。」

マスターもまた驚きながらも置かれたグラスを取るとゆっくりとお酒を作り出した。寧々は飲みなれない強い酒に頭をクラクラさせながら沙紀の方に勢いよく顔を向けた。

「沙紀さん!どういうつもりなんですか?」

沙紀は目をまんまるに見開いた。

「どうって?なに?」

寧々は苛立ちを隠せなかった。

「悟さんと私付き合ってるの沙紀さんも知ってるでしょ。なのに・・・なんで悟さんに近づくんですか!」

沙紀は黙って下を向いている。

「沙紀さんが何考えてるかわからないです。」

寧々はそういうと二杯目のスコッチの入ったグラスを空にした。寧々は沙紀が言い返しようなくうつむいていると思った。しかし違った。沙紀はうつむき、そして奇妙にも笑っていたのだ。沙紀はにやけ顔を隠しながら寧々に向き直った。

「寧々ちゃんってかわいいのね。」

寧々は沙紀の言葉ににあっけにとられた。上から見下されているような、馬鹿にされているような屈辱感に耐えられなくなった。寧々は障害を持ってから自分を蔑むような言葉や表情に敏感になっていた。寧々は後ろに置いてある車いすによろけた足取りで乱暴に乗り移ると全力で出口に向かった。沙紀は、そんな寧々をグラスに残ったアルコールを口に含みながらまじまじと見つめていた。店内には乱暴に閉められたドアの鈴の音だけが木霊していた。寧々は店を出ると週末で賑わう繁華街を逆走し帰路についた。飲み屋街を車いすの女の子が一人でいることに皆、好奇の眼差しで見る。そんなことは来る前からわかっていた。笑い声や酔っぱらいの心無い声に寧々は言いようのない孤独感に、劣等感に襲われた。今までは沙紀や悟が守ってくれた。容姿端麗な二人はそんな生半可な人間を決して許さなかった。何かあれば言い返す、壊れ物様な寧々を皆、必死で守った。そんな悟や沙紀もいまやいない。裏切られた。いつしか気丈に振舞う寧々の頬を伝わるものがあり、車いすを必死に漕ぐ肩は小刻みに揺れていた。その寂しげな小さな背中を刃物で切り付けるように笑い声が絶えることはなかった。寧々が一瞬でも車いすをこぐ手を緩めれば、その刃物はすぐに内臓まで引き裂き二度と治ることのない致命傷になる。寧々は車いすを前に漕ぎ続けるしかなかった。

「おめーら何見てんだコラ!!」

寧々の後ろで大きな罵声が響いた。寧々は驚き、涙も拭かないまま後ろを勢いよく振り返った。そこには見たことのない色黒でガタイのいい中年の男性が立っていた。強面でその男の一声で寧々を軽笑していた群衆はライオンを見た草食動物のように一気に散っていった。寧々はその男が誰かも、いい人なのか悪い人なのかも分からなかった。しかし、その男が声を発するよりも早くその男の胸に飛び込んだ。男らしい白いタンクトップを寧々の涙で濡らす様にその居心地のいい胸から動くことができなくなっていた。その男は優しい目で寧々を見るとそっと寧々を抱きしめた。壊れ物を扱う様に優しく背中を撫で厳しい現実を睨みつ得るように夜空を見上げた。こんなか細いカラダで好奇の目にさらされ皆の遊び道具の様に手荒く扱われた。ボロボロの心を癒す様に足の立たない寧々を持ち上げると人目の少ない近くの公園まで車いすと一緒に運んでいった。その間、一切話はしなかった。寧々が正気を保つまで静かに静かにその男は辛抱強く待った。公園に着くと寧々をゆっくりとベンチにおろした。その時には、寧々は落ち着きを取り戻していた。寧々はベンチに腰掛けるとその男を恥ずかしそうに見上げた。

「すいません。ありがとうございます。」

その男はにっこり笑った。

「寧々ちゃんだよね?」

寧々は驚いた。

「は、はい。どこかで・・・」

その男は笑った。

「ははは。寧々ちゃんは知らないよね。おじさんね、寧々ちゃんのママとお友達なんだ。」

「えっ!?そうなんですか?でもウチに一回も来たことないですよね?」

「うん。古い知り合いでね。じゃあ、おじさん帰るからね。寧々ちゃん一人で大丈夫?」

「はい!もう大丈夫です。本当にありがとうございました。ぜひうちに来てください!」

「う、うん。ありがとう。じゃ。」

そういうとその男はその場を去った。寧々はその後ろ姿をいつまでも見つめていた。まるで恋人の後姿を追う様に寧々の目は愛おしく眩しかった。

「あっ!名前聞くの忘れた!」

寧々は車いすに勢いよく乗り移ると家路を急いだ。あの男らしい男性の心躍らせながら車いすを漕ぐ腕も早まった。そう寧々は恋していたのだ。今まであったつらい出来事も何も覚えていない。今覚えているのはあの逞しい二の腕と抱擁感のある胸の感触だけだった。そんな寧々の顔にはいつしか笑顔が戻っていた。


守は仕事を終え帰ろうとしていた。隣では、同僚たちがワイワイガヤガヤ仕事終わりに飲みに行く場所を決めている。そんな楽しそうな会話を聞きながら時代の違いを噛み締めていた。そんな中、その輪の一人が守に話しかけてきた。

「石川さんもう帰るんですか?」

守は書類をかばんに詰めながら答える。

「ああ。もう帰らなきゃ妻がご飯作って待ってるんだよ。」

話しかけてきたのは本間啓太。24才のプログラマーだ。某有名大学情報通信学科を卒業したところを社長の木崎が引っ張ってきた。木崎の目は確かで本間はいくつものプロジェクトで成果を上げている。苛立ちを覚えるくらいのクールな素振りで難なくこなす。コンピューターの様な頭脳は仕事をするために生まれてきたような男だ。

「そうなんだ。結婚っておもろいの?」

渋い顔で守に聞いた。守は困惑しどう答えていいかわからない。

「おもろいって・・・まあまあだよ・・?」

「石川さんを見てても幸せに感じないんです。だからどうなのかなーと思って。」

「結婚っておもろおしろいからするもんじゃないんだよ。世間体とか・・本間君はまだ若いから分からないだろうけど、身を固めないとダメなときって必ず来るから。あと子供を育てないといけないからね。」

「なんか石川さんって縛られて考えてますよね。俺そういうの苦手です。自分やりたいことは山ほどあるし、死ぬまでに全部したいんですよ。だから子供とか興味ないし、結婚なんか意味がわからないな。あと結婚してるヒト見ても幸せそうにみえない。旦那は嫁の悪口、嫁は旦那の悪口を外で言い合ってるでしょ。ああいうのみるとほんと萎えるんだよね。」

「ああ。まあ、結婚しない人最近は増えてきてるからね。でも自分の子供が成長していくのは嬉しいもんだよ。夫婦喧嘩なんて忘れてしまうくらい。自分が命を張れる相手なんて子供以外にいないよ。」

「そっすか。俺別に興味ないんで。じゃ。」

守はあっけにとられた。話が通じない。何か時代が変わったというか何か人間としてなくしてはならないものを見失っている。利己、利他という問題ではない。そこを信じることができない人間に今の社会システムを理解することができるんだろうか?勿論、現在の企業は能力主義を掲げ、ニュースで騒がれる年寄りの怠慢を成敗することで一定の支持を集めている。しかし、それと引き換えに安定して自分の仕事にとりくみ休日は家族と過ごす時間が減った。いつも何か隣の人の動向を気にしながら焦燥感に駆られながら生きているような気がする。従来の結婚して子供を設け家を建てる生き方を批判するように自分独自のライフスタイルを模索している。確かに一度しかない人生をひとに流されて決定するのは愚かなのかもしれない。しかし、皆の共通認識を守ることで人生を余裕のある精神状態で過ごすことは人生の質を高めることに必要なものにはならないだろうか?皆が利己主義を掲げせわしく生きる一生と競争社会から逸脱した世界で自分が感じることに五感を研ぎ澄ませスピリチュアルな精神に身をゆだねることも生を受けた者としての義務ではないだろうか。5年10年スパンでの出来事に一喜一憂する人生が豊かであるとは思えない。社会全体で捉えた考え方が明日の治安を構築し本当の意味でのゆとりが生まれるのではないだろうか、生の重さ、資本主義では到底説明できないような世界に身を置き時間を共にしているこの奇跡に気付かず朽ちていくのは動物に過ぎず神に与えられた脳の意義に反する行為だ。守はそんな神の創造した脳に忠実に生きる。善悪は基、自己の存在をも定義づけなければならない。皆で賑わう会社を後にし家路につく。守は本間に言われたことを否定することでしか受け入れることができなかった。本間は非道な資本主義に魅せられた動物であるという位置づけで自分よりも下位に置くことでしか自分の行いを説明できない。愛とは若造には分からない、心底苛立ち足取りもいつもよりも早かった。街で行き交う若者の笑顔が自分を惨めにさせ悪に見えた。本間の様な考え方を持つ無法者にしか見えなかった。しかし、その笑顔は守が忘れていた未来への希望がなしえるもので苛立つほどに輝いていた。スーツを着たサラリーマンは肩を落とし満員電車に揺られへとへとになり家に帰り崩壊寸前の家庭で縮こまりひとり夕飯を食べる。冷え切った関係の妻と肩が触れないよう寝返りも十分に取れないほどの隅で住宅ローンと登校拒否の子供に頭を悩ませながら寝息を立てる。親の脛をかじってフリーターを満喫し合コンを繰り返しながら毎晩違う女と関係を持つ。何一つ責任を取ることなく利己的な振る舞いを仲間と続ける。そこに愛国者にはない輝ける笑顔が存在する。このインチキな世界に一生身を置かなければならない。自己の存在、行いを愛なしには説明できない。国が創った愛という幻想を信じ続けるしか生きる道はない。いつしかその体は朽ち果て焼かれるまで訳の分からない世間に振り回されながら1杯100円のかけそばをすすり続ける。泣きたくなるくらいの現実に、すがりたくなるくらいの死への恐怖に耐えほめたたえる。自分は強いんだと意味不明な自尊心を膨張させ娘に嫌われ妻に愛想をつかされる。家族のために強くなろうとした理性的な自分を、身を削って守った家族はいつしか他人よりも自分を忌み嫌う存在になる。見返りを求めないのが愛。何と理不尽な、なんと乱暴な押し付け販売よりも粗悪な幻想は掴むことのできない雲をひとりベッドで眺めるくらい途方もなく無責任だ。この世に愛なんて存在しない。プロパガンダ、イデオロギーが産んだタブーに過ぎない。


「ただいま。」

守が家に帰ると何やら京香と寧々が居間で盛り上がっている。守は靴を脱ぐと居間に顔を出した。二人は守が帰ってきたことにも気づかず話に夢中になっている。守はわざと足音を立てソファーに鞄を置いた。その音にようやく二人が気付く。

「あっパパ、おかえり。」

「おかえりなさい。早かったわね。」

会社を早く切り上げ帰ってきた守は何か寂しかった。

「お、おう。どうしたんだ二人で大声出して。」

寧々が満面の笑みで守に話しかける。

「あのね、今日、繁華街でママの友達と会ったの。車いす押しておんぶまでしてもらっちゃった。」

「おんぶ??なんで??」

守は寧々の顔と京香の顔をまじまじと見つめる。

「それは・・・・内緒・・」

寧々が恥ずかしそうに小さく答えた。守はさっきまでの元気な寧々がどこかに行ってしまったことに驚き聞き返す。

「えっ?内緒?」

そんな守にうつむき加減で京香が口を開いた。

「あの高校の時の知り合いで・・・」

寧々が笑顔で間に入る。

「佐々木翔太さんだって!!」

「へぇ~知らない名前だな。結婚式の時、来てたっけ?」

「ううん。高校の時以来ほとんど会ってないから・・・」

「でも寧々のこと知ってたんだよ!超イケメン!!」

「イケメンって・・・俺と同い年くらいだろ?」

「うん。でもパパと大違い!色黒で筋肉もモリモリ!!」

「大違いって・・・」

京香は思い立ったように大声を出した。

「あっ!いけない、夕ご飯まだ途中だった!寧々手伝って!!」

「えっううん。」

そういうと京香は強引に寧々を引っ張っていった。

「佐々木翔太?」

守は何か違和感があった。京香の友達で会ったことのない人なんていなかった。しかし、守は深く詮索しない。これまでもしなかった。昔の恋人かなと高を括っていた。もう焼きもちを妬く年ではないし妬いたところで何も変わらない。夫婦に必要なのは信頼関係だ。守はご飯ができる前にお風呂に入ることにした。鏡の前で痩せ細った白い自分の体を摩る。

「色黒でムキムキか・・・」

 寧々は電気をけし寝室のベッドで眠りにつこうとしていた。しかし、翔太に抱かれた感触が忘れられなく、ベッドから見える夜空を只、ぼーっと眺めていた。今までに感じたことのない安心感が忘れられなかった。同い年の男では感じられない何かがハッキリと伝わってきた。高鳴る鼓動を手で押さえながら眠れる夜を無理やりやり過ごした。

 京香もまたベッドで守の寝顔をジッと見つめていた。寝息を立て子供の様に眠る守に安心しながらベッドわきに置いてある携帯電話をそっと手に取った。何度も何度も守の寝顔を確認する。守は疲れているのかイビキを立て寝込んでいる。京香は翔太にメールを打った。

―起きてる?寧々に会ったんだって?色々ありがとう。―

すぐにメールの返信が返ってきた。

―全然。寧々ちゃん京香に似て綺麗になったね。―

京香もすぐに打ち返す。

―今度会えない?ちょっとでもいいから。―

またすぐに翔太から返信が来る。京香の表情が笑顔になり、そっと携帯を閉じた。京香は自分の衝動を抑えられなかった。数日後、京香は翔太とまたカラダの関係を持つ。それから何度も何度も京香と翔太は隠れて会い続けた。二人は互いに求めあっていた。もうそこには罪悪感も何もなかった。次第に自分を見失っていく。理性も世間体も関係なかった。そこにはオスとメスが本能に従って素直に動いただけだ。そんな中でも守は家族のために必死に働き続けた。慣例に従ってより良い暮らしをさせてあげるために若い世代と混じり合いながら自分を抑え衝突しないように安定した給料を持ち帰る。単調な日々を続けるには理由が必要だ。時間をただ費やし得るものがあるのだろうか。常につきまとうリアルな死期を意識しない時間だけが過ぎていく。貴重な時間は絶えれないほど退屈だ。生を感じる時間が逆に生を奪い取る。生きた実感もない日々をつまらないことに費やす。誰が正しいんだろう?人に支配され他人のために死んだように生きる人生、他人を傷つけ自分の欲望を満たしイキイキと生活する人生。臆病者は前者、勇敢な者は後者を選択するという。果たしてそんなんだろうか?家族愛を信じ耐えしのぶ守は臆病者で、生きる実感を求め不倫をする京香は勇者なのだろうか?ルールを守ることは辛いこと。しかし、ルールなしには人は生きていけない。殺し合いを防ぐためのルールだ。しかし、だれも気にとめない。誰かが我慢して残した資源を何食わぬ顔で食い荒らす。自分が何か抜け道を見つけたように、自分が努力したように錯覚させる。しかし、それは只、皆のことを考えない自覚の弱い卑怯者の愚行にすぎない。決してパイオニアでも英雄でもなく、屍をあさるハイエナのように見るに耐えない存在だ。暗い夜道に一台の大きなトラックが止まっている。中には男女が寄り添い、一つの携帯の光でふたりの顔を照らす。

「今度、ウチに食事にこない?」

「えっ?いいの?」

「うん。寧々が翔太に会いたいってうるさくて。」

「ははは。寧々ちゃんには会いたいな。旦那さんは大丈夫?」

「大丈夫だよ。高校の時の友達になってるから。寧々が会いたいんだからなんも言わないよ。」

「そうか?じゃあ。」

京香は笑顔で翔太を抱きしめる。このときの京香には守の存在は自分の父親でしかなかった。なれ合い落ち着きのある関係はいつしか本当の家族になっていった。刺激のない安定した生活を望んでいたが手に入れたとたんすぐにいらなくなる。世間体から逸脱した行為は強さの代わりに人道を外させ、自分の位置を認知することができなくなる。周りからは非道に見えるかも知れないが何も感じないんだ。決められた綺麗に舗装された道を綺麗なシューズで歩いても歩けば歩くほど感覚は麻痺し歩いている実感すらなくなる。骨と骨とがぶつかり合い、振動が脳を揺らし肺が大きくふくらみ、そして萎む。唯物論的な観点でなく、感情の視点で世界を見たほうがはるかにアドレナリン、セロトニンを放出させ、幸せを感じる錯覚を起こしてくれる。たとえ道を外したとしてもそれが幸せの近道なんだ。誰にも止められない。京香はだんだん家に帰る時間が遅くなっていった。寧々や守には仕事だということにしている。段々、日を追うごとに大胆になって行く自分を抑えられない。さすがの守も徐々に不信感を抱きだしていた。家の中では常に笑顔を絶やさなかった京香だがいつにもまして生きる力がみなぎっている。どんどん綺麗になって行く京香に嫉妬さえ覚えた。いつしか、京香は守に触れられることもいやになるほど夫婦の営みは姿を消した。さり気なく守には近づかない。全ての男が苛立ちを覚えるほどの屈辱感とやり場のない憤りが胸をつく。守も同じだった。守は気付かないふりをして日常をやり過ごす。平穏に、平和に過ごす時間が只。音のない寂しい空間にしか見えなかった。落ち着くはずの家庭が自分を侮辱する敵に感じる。そんな中でも守は悪心を戒め、良心に従う。この状況を打開するには、もう一度幸せな家族になるにはどうすればいいか毎晩眠れない夜に悩まされながら考え続けた。守は引っ越しをすることに決めた。あの家だ。守が幸せを描いた、幸せだったあのころに戻るためにあの家が必要だ。


翌日、仕事終わりに家族には内緒で不動産屋を訪れた。店に入るなり店主を捕まえあの家の状況を聞く。幸運にも空家の状態が続いていた。いつでもライフラインの準備が整えば住めるということだ。しかし、購入するには価格が高すぎるため借家の形をとった。見積もりを出してもらい、格安の引越し業者まで案内された。久しぶりに写真越しでみる我が家に高鳴る鼓動を抑えられなかった。久しぶりに故郷の旧友に会うように愛おしくそして懐かしかった。店主に見積と自宅の資料をもらうと家に急いだ。もう一度家族に戻るんだ。正しい形に戻って人生の続きをやり直す。不動産にもらった資料はいつしかヨレヨレになるまで握り締められ、家路に向かう足取りには力強さがあった。あれほど嫌いだった若者の笑顔も今は自分を祝福してくれているように思える。すべてが幸せに見えた。繁華街、人で行き交う路地、渋滞で待つ車の中のサラリーマンでさえ皆、活力があり生きる力が溢れているような錯覚に陥った。想像や幻想に頭をいっぱいにさせながら現実とも取れないような道をただひたすらボロアパートに向け足を前に出す。きっと喜んでくれる。純粋だったあの頃に家が戻してくれる。守はアパートに着くなりドアを勢いよくあけた。玄関に見に覚えのない男物のスニーカーが目に入り、居間から京香と寧々の笑い声が聞こえてくる。変な胸騒ぎがする。守は息を飲み居間を覗いた。そこには想像通りガタイのいい屈強な男がダイニングテーブルの椅子に座り笑っていた。京香の浮気相手が自分の家で悠々と椅子に座り笑顔で妻と娘と談笑している。男としてこんな屈辱はなかった。そんな守に京香が気付く。

「あら、お帰り。」

そんな京香に気付きその男が勢いよくこちらを降り向き、立って会釈する。

「すいません。ご不在のところ、勝手に上がり込みまして。私、京香さんの高校の時の友人で佐々木翔太と申します。」

そんな挨拶など関係なかった。守の苛立ちは頂点に達していた。力強くその男に近づくと何故かにっこり笑い握手した。不動産屋に貰った資料はグシャグシャに後ろのポケットにしまい込み、不自然に膨らむポケットに気付かれないように服の上から潰した。

「いえいえ。話はかねがね妻と寧々から伺っております。いつかは、寧々がお世話になったそうで・・。どうどうぞゆっくりしていってください。私はちょっと着替えてきますんで。」

そういうと守は寝室の方へ入っていった。守は高鳴る鼓動をほったらかしにし、肩で息をすることに気付かないほど頭がぼーっとしていた。右手を後ろポケットに伸ばすと無残な形になった希望の光に目を落す。自分はなにかずれている。さすがに気付いた。鈍感な自分を恨んだ。皆、家族はそれぞれの道を歩んでいる。悲しいかな自分が存在しない未来を描いている。しかし、そんなことを言ってられない。不審に思われないようにすぐに部屋着に着替えると妻の浮気相手が待つ居間に笑顔で戻った。平静を取り持ち上客の様にもてなすことが自分の精一杯の反撃だった。寧々は本気でその男を慕っていた。自分の宝物を全て取られた気がした。自分の人生を乗っ取られた気がした。自分が必死で築き上げたものを一瞬にして。まるで京香が姉で寧々が妹、そして俺は父親。その男は姉の彼氏で妹も慕っている憧れの男性。こんな恋愛ゲームが家庭内で起こっている。中年の男の悲しい惨めな嫉妬心で心が埋め尽くされる。やりようのない怒りで胸が砕かれる。いつしか自分の声が震えていることに気付く。誰にばれないように、平静を保つんだ。威厳のある父親を、なんにも動じない夫を演じるんだ。自分の居場所はもうそこしかない。もうここしかないんだ。誰も自分を想ってくれない孤独がずっとつづくんだ。もうこんな前科のある中年男を誰も相手にしない。独身の時、信じ込んでいた幸せな結婚生活はもうどこにも存在しなかった。何をしても死が目の前をよぎる。安住の地など存在しない。存在するのは美しい嘘と醜い現実だけだ。守はこの世界で一番憎いその男をもてなし、妻子供の待つ家に送り出した。守は勝負に勝った。一度も本心を見せなかった。憎むべきあの男にも最愛の妻、子供の前でも。作った自分を演じ続けた。見送ったドアを奇妙にも誇らしげに見つめながら京香と寧々の待つ居間へヒタヒタと歩いていく。テーブルにあの紙を叩きつけた。京香と寧々は驚き守の方を振り向く。守は笑顔で出迎える。

「ここに引っ越さないか?また昔みたいに大きな家に引っ越そう。家族三人で。」

京香と寧々は顔を見合わせた。その夜、手ごたえなく反論なく引っ越しが決定する。二人は只ならぬ守の空気を感じ取った。今までにない何かを。もう別人なのかもしれない。もはや家族ではない個人の集団がそこあった。その夜、京香と寧々は久しぶりに一緒にお風呂に入った。足の不自由な寧々を抱きかかえなんとか浴槽につからせた。守の手を借りるわけにはいかない。もう寧々の体は成熟し、父親と言えど男性の前に裸を見せるわけにはいかない。京香と寧々の話題は翔太だった。

「ねぇ翔太さん素敵だよね。」

「うん。昔はモテてたよ。かなりワルだけどね。」

「やっぱり。でもそこがいいんだよね。今の世代にはない男らしさがあるもん。ひとりで人生なんでも切り開くって感じ。」

「寧々どうしたの?翔太が好きなの?」

「うん。パパには内緒。パパはなんかヤキモチ焼いてるみたいだから。」

「ヤキモチ?そう?」

「絶対そうだよ。さっきだってあんなにムキになって引っ越しの話なんて出してさ。きっとかまってほしくて寂しいんだよ。」

「アハハ。寧々はなんでもわかるのね。」

「なんでか知らないけど人の思ってることってわかるんだよね。わかりやすいのがパパのかわいいとこなんだけどね。パパのことなんてどうでもいいの。ママ翔太さんの連絡先教えてよ。知ってるんでしょ?」

「えっ?そんな翔太は家族がいるんだよ。ダメ!」

「別に不倫しようとか思ってないよ。ただ人生の先輩として相談に乗ってほしいだけなんだから。この前も助けてもらったし、ねぇいいでしょ?それともママも好きなの?」

「バ、バカなこと言ってんじゃないわよ。わかったよ。お風呂あがったら教えてあげる。」

「ホントに!!ヤッター!」

京香は最近落ち込んでいた寧々がこんなにも喜んでくれる姿を台無しにしたくなかった。寧々が元気に前向きに人生を歩めるんなら連絡先を教えることなど容易いことだ。翔太には根回ししておくし自分との関係は絶対にばれない。翔太も女慣れしているしこんな若い子に本気にはならないだろう。うまくあしらってくれると思っていた。第一、翔太が愛しているのは私だけ。妻が居る身でウチまで足をのばしたんだ。きっと本気に違いない。何か京香は高揚感に包まれる。久しぶりの穏やかな気持ちだ。どこか懐かしさを感じる。若いころはよく感じていた感覚だ。京香は翔太の妻、寧々を虜にしている男性を自分の意中におさめているという支配欲に浸っていた。生きる幸せ、安堵感が聞くにもたえない世界に存在する。汚い卑猥な世界にこの世にどこにも存在しない人生の甘い蜜が滴っている。危険だが手に入れれば何にも代えがたいものを持っている。そこに依存性も常習性もある。もうこの気分を誰にも渡したくなかった。そんな気分を味あわせてくれる翔太と守では京香の中での価値観は天と地ほど差が開いていた。守が占める法的な慣習的な価値観は建前であり、本音はすでに翔太で埋まっていた。寧々はお風呂上がりに翔太にメールを打つ。返信は家庭を持っているから遅いのかもしれないがしっかりとした活字で打たれ大人の男を感じさせる。そんな新鮮な翔太が寧々を興奮させた。ほかの男とは違う何かが寧々を引き寄せた。


寧々は仕事の合間を見て由佳とランチを取っていた。オフィス街にあるアンティーク調のエクステリア、インテリアに包まれた空間が若者に人気なイタリアンの店だ。寧々と由佳は時間があえばこの店でランチを共にする。

寧々はイタリアンを口にほおばりながら話しかけた。

「由佳は健吾君と最近どうなの?」

「あ~なんか全然ダメ。なんとか繋がってるけど、パッとしないんだよね。寧々はどうなの?悟さんは?」

寧々は口ごもった。

「あのさ・・・悟さんとは別れたの。」

「えっ!!なんで??」

「うん・・・いろいろあって。今は沙紀さんと付き合ってるの。」

「えっ?うそでしょ!!」

「ホントだよ。そんな大きな声出さないで。恥ずかしいよ。」

「えっ?でもあの人レズだよね?」

「は?ちがうよ。悟に近づいてるの分かったもん。」

「間違いないって!私、高校の時女子高だったじゃん?それでレズの子いっぱいいたの。だからその微妙な空気わかるの。あのひと寧々のこと好きだよ。」

「は?・・・」

「寧々が気味悪がるかなと思って言わなかったけど絶対そうだよ。」

「じゃあなんで悟と付き合うの?」

「鈍いね、寧々は。レズかどうかってすぐわかるもんなんだよ。私にもわかるくらいだから本人はすぐに判別できる。沙紀さんは寧々がレズじゃないってことわかってるから・・・」

「えっ!腹いせに悟と付き合ってるってこと??」

「悟さんも鈍そうだしな~いいカモよ。寧々気を付けたほういいね。計画は進んでるかも。」

「計画?・・・アハハハ!」

「ホントだって!」

「いいよ。でもほんとに悟さんはどうでもいいから。今気になる人がいるんだ!」

「はやっ!!だれだれ??」

「えっとね・・・ママの友達でね・・」

寧々は翔太のことを楽しそうに、そして自慢げに由佳に話し始めた。まるで自分の彼氏の様に親しげに語る寧々の目に迷いや恥ずかしさはなかった。ただ自分の中にくすぶっている情熱を外に吐き出したかった。そんな寧々をストローを咥えたまま目を見開き由佳は聞き役に守していた。話にひと段落を置き、寧々は手元にあったジンジャエールに手を伸ばす。由佳は喉を一度ならせると寧々に話しかけた。

「で、でもその人結婚してるんだよね。それに寧々のママくらい年が離れてる年の男の人って大丈夫?下手したら親だよね。」

「私一回も年のこと気にした事なかった。でも家庭があるのはまずいよね。別に付き合いたいとかじゃないんだ。ただ、憧れの人って感じ。」

「ならいいけど。絶対やめときなよ。人の家庭壊してもいいことなんて一つもないだから。」

「わかってるって!なんか由佳ママみたいで嫌い!」

「は?いやいや。私の子なら電話番号から全部消して、向こうの男に忠告するんだから。」

「こわっ!」

「そんなもんだよ!男と女の関係なんて夢みたいな事ばかりじゃないし。破滅するヒトだっていっぱいいるんだよ。寧々がそんなになるの見てられない。」

「うん。わかったって。」

「ホントだよ!約束して!」

そういうと由佳は小指を出した。

「由佳、これ古くない?」

「いいの。約束に古いも新しいもないの!はいっ、早く!」

寧々は渋々出した右の小指を由佳は自分の小指で強引に引っ張った。

「指切りげんまん指切ったらハリセンボン飲~ま~す、指切った!」

「い~た~い、由佳。」

由佳は誇らしげに寧々を見つめる。

「針飲ますからね~」

「はいはい。」

寧々は迷惑そうな顔の陰に、にやけ顔を忍ばせていた。いつも変わらない由佳のおせっかいが一人ではないことを知らせてくれる。まるで由佳が彼氏の様に寧々の生活になくてはならない存在になっている。二人は人目をはばからず大きな笑い声を上げながら絆を強くしていく。こうやって女同士で腹を割って話すのが一番の娯楽だ。男では満たせない心の内に隠された思いを受け取ってくれる。この感情はいつになってもかわりえない。仲間を持つということは依存するということ。依存するということはパワーを持つことで、生きる上で欠かすことのできない感情を養ってくれる。二人は時間も忘れて話にのめり込んだ。うっとおしい現実も忘れ、自分たちだけの世界に浸っていた。


守は仕事終わりの終礼に参加していた。終礼は週に1回ある。若い社員達が活発に自己主張を繰り返す。順番を重んじる日本人は消え去り、欧米のような自分がいち早く意見を表出することを一番に評価し静まり帰った会議室はもはや昔の産物だ。しかし、守はこの変化に疑問を感じていた。賑やかな場は勢いが評決を急ぐ。平等であるが故、集団心理が盲目にさせ、会社にリスクを招くのではないかと懸念していたのだ。またその中には意見そのものではなく仲間意識や、好き嫌いが理由で十分に評価せず決定する場面もある。まるで小学校の授業参観に見えて仕方なかった。そのような状況だからこそ意見の相違、理不尽な道理で差異を明らかにされることが多く衝突も絶えなかった。守は二回りも離れているせいか冷静にその状況を観察することができた。そんな中、事件が起きる。一つのグループと他のグループが意見の相違を理由に口論に発展した。両者折り合いがつかず罵り合いが続く。意見がまとまらず、このままでは社内分裂にもなりかねない。守は何度も妥協点を見つけるように皆を促すがどちらも自分の意見を肯定することしか言わず、さらに社内は険悪になる。しびれを切らし守が怒鳴る。

「これじゃ子供の喧嘩だ。お前たちは小学生か?確かに二つの意見はどちらもすぐれているし優劣つけるのは大学教授でも難しいかもしれん。でも俺たちは一つの会社でしかない。もし分裂すれは会社にとってマイナスになるのは間違いない。会社の一員である以上、社の利益を考えるのが義務だ。それができなければ社会人とは言えない。」

守はこんだけ言えば響くと思っていた。しかし、なんにも響かなかった。数日後、社内分裂を起こし大量離職者を出すことになった。唯でさえそんなに多くはない社員しか存在しない会社は幕を閉じるしかなかった。考えられない結末だ。利己主義が、プライドが勝り何のために働いているのかも冷静に考えることができないくらい自己を守ろうとする考え方が大きな混乱をもたらした。自社だけではない。自社が存在するということは支えてくれる何十社が存在しているということだ。自社が潰れれば関連会社のダメージは避けられず、最悪倒産する。社会が混乱しようが知ったことではない。自分が大切なのだ。自分のプライドがほかの命よりもかわいい。嘘のような本当の話。もうそこにはモラル、道徳など存在しない。深く考え思考を選別する作業が欠如し、細胞分裂の様に活発にくっつきただ離れるだけの一つの社会法則の道をたどるだけだ。幼いころ、守は学校で先生に叱られた話を母親にすると四の五の言わずに殴られた。そしていつもこう言うんだ。

「あんたが悪い。明日、先生に謝りな!」

どんなに自分の理由が正しくても母親は先生の肩をもった。そんな母親に、俺は不信感を抱いていた。母親は頭が悪く物事の判断がつかない人間だ。それから俺は母親にそんな話をすることを辞めた。一切しなかった。母親と仲が悪かったわけではない。でも俺はそのたぐいの話はしなかった。勿論、自分の意見はあった。確かに自分の中に正しい自分の考えは存在していた。しかし、母親の前では一切そんな話しはしなかった。俺が悪いと言われるのが分かっていたからだ。先生に反抗することはなくなっていった。しかしそれは建前での話だ。本当は内心違うと叫びたかった。叫びたかったが抑え込んだ。話もろくにきかず先生を讃える母親が傲慢で醜く見えた。それから高校、大学と進み一端の社会人になった。新人の頃はむちゃくちゃに怒られた。学校の先生とは比較にならないくらい理不尽なことをやらされたし、辱めも受けた。そんな自分のすべてをぶち壊し否定する先輩が憎くて仕方かなかった。でも、そんな時母親のあの言葉を思い出たんだ。

「あんたが悪い。謝りな!」

何が何だかも分からない世界で俺は必死に頑張った。言われるがままに、されるがままに俺はその場にとどまった。そしてある時、その先輩が飲みに誘ってくれたんだ。二人きりで。さすがの俺も緊張した。何を話していいかわからなかったが必死でお酌した。その日の先輩はグイグイ日本酒を飲んでいく。べろべろになった先輩は俺へのダメ出しを始めた。おれはやっぱり何か俺が仕事でダメな事したんだと思った。しかし、次第に先輩が黙り込み口を開いた。

「おれにも入ったころ厳しい先輩が居てな。ホント厳しかった。殺してやりたいと思ったことも一度や二度じゃない。でもな。その先輩もこうやって今みたいに飲みに誘てくれたんだよ。男二人きりでな。そんで今の俺と全くことを言ってくれたんだ。会社は一つしかない。社員は何百、何千いようが会社は一つしかないんだ。その会社を動かすためには自分の意見なんて言ってられない。何が何だかわからない世界で上司の言うことだけを信じ歯車を動かす必要がある。だから新人は全部を否定されるんだ。それは間違ってるとか正しいとかじゃないんだ。お前はもう俺たちの会社の一員なんだぞ!ってことを分かってもらうためだ。みんながみんな違う行動したらなんにもできなくなるんだ。そんで先輩はこうも言ってた。一流の会社は一流の新人がいる。何もわからないのは三流、分かっているが自分の意見だけを言うのが二流、すべてを悟り自分の意見を内に秘め上司の意見を受け入れるのが一流だ。」

そして気づいたんだ。母親の言っていた意味を。理屈じゃないこの世界を身を持って経験した母親が俺に教えてくれていたんだ。何千何万の社員が一つの会社を動かし、何千、何万の会社が一国を動かす。何百の国が世界を動かす。ひとりひとりがみんなで世界を動かしている。

守はまた無職になった。やりきれない感情と無力な自分に憤りを隠せない。20代前半の社員の再就職と前科を持った再就職には重みが天と地ほども違う。再就職を探す気力も自分の生きる道をも見失っていた。決して動かないと思っていた世界がゆらぎ、もたれかかることさえ許されない。自分が歩んできた、自分が評価されてきた世界が姿を消し、プライドを守る能力主義が牛耳る。そこに優しさはなかった。縁側のほとりでゆっくりと日本茶をすするおじいちゃん、おばあちゃんが庭で遊ぶ孫を見守る穏やかでゆっくりと流れる時間に優しさがある。順位を忘れさせてくれる時間に豊かさがある。評価されることに慣れていたのかもしれない。叱られるのことに慣れていたのかもしれない。俺を形づくる者は今まで出会ってきた人たちだ。怒られれば修正し、褒められればそこを伸ばす。成功法なんてそこには存在しない。1日1日が目まぐるしく動き回る。そこを生き抜いてきたんだ。明日は明日の風が吹き、苦労するもんだと職場の門をくぐる。愛した人は一生そばに添い遂げ、同じ時間を共に過ごす。守はいつの間にかダンボールを道路に落としたのに気づき無気力に後ろを振り返るがダンボールはそこにない。

「インチキだな・・・」

そう言い残すとなんにも持たず家路についた。そんな守をあざ笑うあのように雨がポツポツと降りだし、乾いたアスファルトを彩る。湿った匂いがあたりを包み出す。カエルの鳴き声が響きだし守に警告する。これからゆく道は間違っていると訴えかけるように次第にその声は増していった。守は一心 今までの経験や教えは役に立たず、あとからやってきた物理、現実主義にまんまとハメられたことにようやく気づいた。そこには思想のフィルターは存在しない、目に見えるものすべてに価値が有り、できることは全てする道徳にかけた世界に自分を順応させる。取りすぎで遠慮することなく、力あるものはその限りに搾取し尽くす。それが実力主義の自然界の掟だ。それから守は腕時計を側溝に放り投げると引きずるように歩いていく。近くの牛丼屋で特盛を頼み、ものの数分で平らげる。それにも飽き足らず次のラーメン屋でも大盛りを平らげるがそれでも満たされることはなかった。コンビニに着くとロング缶のチューハイを5本買い店の前で飲み始めた。1本、2本と飲んでいくうちにだんだん気持ちよくなっていく。まるですべて上手くいっているような錯覚に陥っていった。飲みに誘う友達もいない。ひとりで酒を飲み、尽くしてきた家族は今や自分を必要としていない。

「どれだけ尽くしてきたと思ってるんだ。」

自分では気づかないうちに声が漏れていた。そんな守の目は虚ろで正気を保っていなかった。そのうちコンビニの前に人目もはばからず座り込む。周りの人は良い年した中年男の恥行にひそひそ話を始める。一目見ては笑いを抑え、哀れな人間、自分はあんな人から見ればまっとうな人生を歩んでいると再確信させ、どこか生きている感じを呼び起こさせる。飲みに誘う友達もいないんだ。心を打ち明けられる友もいない。真面目に、馬鹿正直に生きてきた人間には資本主義社会しか

受けザラはないんだ。

「そうだろ?そうやって教えられてきたじゃないか。そうやって褒めてたじゃないか。まじな事をすれば褒められ、不真面目な奴は罵ってたじゃないか。いつから変わったんだよ。いつから・・・学校で教えられてきたのはインチキじゃねえか。」

真面目に生活していれば何もかも与えられる、そんな幻想を本当に信じ生きてきた自分が情けなく惨めで馬鹿っぽく感じた。しかし、世界中どこを探しても幸せなんて見つけられない。家族に代わる愛なんて存在しない。仕事だって家族がいるから頑張れる。家族を通しての未来しか見えない。ほかに幸せなんて見つけられない。ひとり食らうために仕事をし、自分のためだけに欲しいものを買い満足なんてできない。娘も母親もほかの男に奪われた。映画の世界じゃない、現実に起こるんだ。そんな時、車から若い男女のグループが降りてきた。どうやらかなり酔っぱらっているらしい。女性は人目もはばからず馬鹿笑いをし、周りの男たちはそれを助長するように話を合わせる。バカっぽい集団だが今の守とは比較にならないほどイキイキとし輝いていた。この先の未来は心配事など起こらず順風満帆に行き、誰もが認める生活を約束されたかの様に迷うことなく生きている。人に迷惑を掛けようが知ったことではない。周りの人は気を使ってもすぐに忘れ去るし、それどころかもっともっととせがんでくる。そんな他人に気を使う必要があるんだろうか?好きな話を好きな相手と気の向くままに語り合う。みるみる内に膨れ上がる自尊心を抑えることも知らずにそれが全うな生き方だと誤解し皆に浸透していく。日本人の繊細な心をあざ笑い、欧米の文化を崇拝する。人口密度も歴史も信仰も異なる異国のライフスタイルを真似、その意味も分からずに赴くままに行動する。今まで先人が引いてきた境界線をもろともしない生き方は、守ってきた秩序はそこに存在しない。その若者たちはコンビニから出てくると地べたに座り込み大声で話し出した。ひとりでアルミ缶を握る守を蔑むように楽しそうに語らいあう。それが守を一層イライラさせ居てもたってもいられなかった。守は空き缶を握りつぶすと酔って気が大きくなったのかその若者たちのところにズカズカ近寄っていく。

「うるさいんだよ!!何時だと思ってんだ!周りの人に迷惑だろ!!大体仕事してるのか!そんななりをして!」

今まで盛り上がっていた輪が一気に静まり返る。しかし、そんな守を睨みつけるかと思いきや一気に笑いものにした。

「じゃあおじさんはなにしてるの?ひとりで(笑)」

守は何も答えられなかった。

「おじさん、俺たち何してるか気になるんだ~」

そういうとグループの男に一人が財布から何やら学生証を出してきた。

「おじさん見える?酔っぱらってるみたいだけど(笑)俺たち医学生の集まりなんだ。で、おじさんは何してるの?」

「俺はいいんだよ!うるさいって言ってるんだ!頭はいいかもしれないがちゃんとモラルは守れよ!」

「え?どういうこと?喋っちゃいけないってこと?」

「喋るなってことっじゃなくてうるさいっていって・・」

「うるさいってどういうこと?音響レベルで言ったら何デシベル??」

「音響とかじゃないんだよ!」

「じゃああそこのおばさんも声が大きいけどなんでいわないの?なんで僕たちだけに言うの?脅迫する気?こわ~」

別の女の子が入ってきた。

「警察呼んじゃいなよ。おじさんただ羨ましいだけなんじゃないの?でもタカシさすがだね!かっこいい!こんな酔っぱらいもやっつけちゃうんだね!」

「俺たち何も悪いことしてないんだし当然でしょ!じゃあ次行きますか!」

そういうとあっと言う間にどこかに消えていった。守は何も言い返せなかった。惨めだった。この世で一番ダメな人間な気がした。甲斐性のない親父が未来輝く医学生に偉そうにモノを言う。あの子の言う通り俺はただ嫉妬しているだけなのか?いやアイツらにはモラルが足りないのだ。人間を形成する面で不可欠となる絶対的な規律が存在しない。知識は彼らの方が上かもしれない。俺たちの時代はアナログで情報も足を使い、耳を使い、手を使わなければ得ることができなかった。しかし、今はベッドの上で寝ころびながらインターネットで地球の裏側、イヤ宇宙の果てまでも情報を得ることができる環境にいる。効率的で無駄がない人生を歩んでいく。リスクも少なく人間臭さがない。がむしゃらになることもなく、何かにつけて環境のせいにする。最近、よく世に出てくる暴露本を読み漁り、現政府の欠点を盾に交戦してくる。世の不条理があるので自分の欠点は直す必要がない。人間が作り出す世界は欠点だらけで間違っているとファミリーレストランでジュースを飲みあさり語り合う。自分は間違っていない、この世界が間違っていると。自分はなんの恩恵も受けていないすぐれた人間であると自負する。そんな新人を企業は手招きし手とり足とり仕事を教えていく。無神経でプライドの塊である人格形成できていない未熟者をさぞ優れている任げであると幻想を抱かせ周囲に迷惑をしわ寄せする。それでなんとか人手不足を紛らわす。

「まちがってる・・この世の中腐ってる・・」

守は間違ってると思った。何かが違う。誠実さが全くない。自分たちが培ってきた思想、誠意が全くない。

「正さないと・・・」

でもどうやって・・どうすれば古き良き時代を取り戻せるんだ。共に敬い合い、争い事が起きない長閑な空気を取り戻すことができる方法はあるのか?自分の中での葛藤は何か意味するのか?教育だ!教育現場からやり直すんだ!今の教育者はだらしがない!だからあんな若者が世にはばかるんだ!アイツらの子は不法者になるに違いない!俺が何とかしてやる!この俺が!守は不敵な笑みを見せ歩き出す。ようやく自分のすべき事が見えてきた。結婚をし、子を持ち、一生懸命働いた会社に裏切られ爪弾きにあい世の中の全てが見えた。この世の不和を解消できるとっておきの良薬を見つけた。

 翌朝、守はまだ冷めやらぬ心を抑えながら合同庁舎に出向いていた。一子を持つ市民として今後の教育指針を教育委員会に確認したかった。しかし、はやる気持ちを抑えられず高く聳え立つビルの門は未だ閉じられたままだった。朝寝ぼけたように出てくる女性職員は驚き守をまじまじと見る。合同庁舎に並ぶ人間など他にはいなかった。そんな守に職員は話しかける。

「おはようございます。お早いですね。」

「あ・・あの教育委員会の方は軟化になるんですか?ちょっと僕は一市民として意見がありまして。なんとか委員の方にお目通り願えないかと。大事な要件なんです!どうか、お願いします!私はひとりの子供を持っているんですが・・・」

「ちょちょっと待ってください!戻って確認します。お約束の方は・・・ないですよね・・?」

「事前に連絡しないとダメでしょうか?本当に大事な要件なんです!お願いします!」

「だから確認しないと何とも言えませんので・・・」

「す、すいません!」

女性はよそよそしくその場を後にする。守のただならぬ雰囲気に恐怖すら感じながら建物の中に消えていった。守もその後を追う様についていく。乱れる息遣いが遠くからもわかるように肩は大きく揺れ、突進するように前かがみになっていた。まるで太古の昔、狩りに出た男が決して逃がしえない獲物を睨みつけるように殺気すら感じ得た。さっき話した女性は窓口に入ると内線で連絡を取っている。どうやら確認しているようだ。しかし、その女性の表情は険しく芳しくない結果に思えた。その女性は眉間にしわを寄せ受話器を切るとこちらを作り笑いで出迎える。その笑顔に誘われるがままに守は連れ足で近寄る。

「すいません。やはり教育委員会の者はお約束がなければお会いすることができません。もしよければ市民相談窓口がございますのでそちらでクレームの方は受け付けております。大変申し訳ございません。」

守の顔つきが変わる。

「ダ、ダメなんです!今、ここで教育委員会の方とお話しなければいけないんです!」

甲高い大きな声が館内に響き渡り職員が皆、こちらを驚いたように見つめる。そんなことなどお構いなしに守は思いを受付の女性にぶつける。

「お願いします!会わせてください!」

守は何度も何度も頭を下げ食い下がる。しかし、女性は困ったままあちこちを見回すのが精いっぱいだった。それを見かねた一人の中年男性が後ろのデスクから小走りで近づいてくる。女性はそれに気づくと交代するように身をよけた。

「どうされましたか?私は総務部の責任者の服部と申します。良ければ別室でお話をお伺いしますが・・」

守は真っ赤な顔と血走った目でその男性を睨みつけると我に返ったように深く頷いた。

「そうですか。ではこちらへ。」

そういうと服部は近くの部屋に守を案内した。服部は意見など聞くつもりはなかった。見た目に害するクレーマーを合同庁舎のフロアーに置くことなどできなかった。適当に応対し少しでも早く帰っていただくことが狙いだ。守の様な興奮した来客も目づらしくなかった。高齢化社会の煽りか孤独に耐えきれずクレームという手見上げを持ってあいにくる寂しい老人を何人も知っている。そんな人間を優しく悟しもう一度孤独の待つ家に送り返すのも仕事の一つになっていた。服部は丁重に守の席を案内すると内線でお茶を持ってくるように指示した。

「どうされましたか?こんな早くに。なにかお気に召さないことでもございましたか?なにやら教育委員会のことですか?私、教育委員会の者では無いんですけども長く働いているおかげか顔が利くんですよ。もしよければ私がお伝えしましょう。」

「ほ、ほんとですか!」

「ええ。県民の皆さまのために働いておりますのでなんなりとお申し付けください。」

守の目は子供の様に純粋に輝き、尊敬の眼差しで服部の方をみる。服部は終始笑顔を絶やさず守を包み込むように柔らかい姿勢を心掛けた。

「実はですね、私、最近の若者の行動に疑問を感じておりまして・・・会社を通じて若い世代の社員と時間を共にすることがあるのですがどうも誠意がないといいますか、ヒトに大切な部分が欠けているように思えるんです。自分を守るためなら嘘も平気でついて事実を捻じ曲げる。前勤めていた会社はそれで潰れました。子供たちを取り巻く環境は年々変化してきているように思えるんですが・・・・」

「おっしゃる通りです。勿論教育委員会のクレームもここ二、三年増える一方です。しかし、どちらかといえば今おっしゃられた意見とは正反対の意見が多く寄せられている。つまり、現行の教育システムを批判する親御さんのクレームがほとんどです。インターネットを介し知識を得た保護者の方が現行の教育システムの不備を突きつけてくる。勿論、現行のシステムを支持するヒトもいるが微々たるもの。圧倒的に改正を求める声のほうが多いです。今の保護者の方は効率性、平等性を重視しています。先進国、欧米諸国の後追いをしているのも事実であるし、ライフスタイルの多様性も関連していると思うんです。事なかれ主義から問題をひとつづつ潰しそれを子供への愛情の一部と考える方も少なくないでしょう。一昔前は慣例的に行われていた体罰も今では完全に御法度ですし、学芸会では何人もの白雪姫がいるなんて話もあるんです。そんな環境で育ってきた子供と従来の指導者主導で教育されてきた子供では違和感を感じて当たり前だと思うんです。なかなか時流には逆らえませんから。」

守はじっと机に置かれたお茶を見ながら静かに服部の話に耳を傾けていた。少しの時間沈黙が包み、服部はどうにか納得してくれたと胸を撫で下ろした。しかし、守は表情変えず動揺もせず、どこか自信を感じさせる顔つきで服部の方を悠々と見ると口を開き始めた。

「確かに変化には衝突がつきものです。だから私もそこには寛容にいるんです。しかし、今後の教育対策として保護者言いなりの機関に恐怖すら感じます。私企業であってもクレーマーのすべての意見に耳を傾けますか?そこで選別する作業がどこの企業であっても行われるでしょう。それは当たり前です。全て一方が正しい意見なんてありえない。問題を避けたい公務員が二つ返事で向こうの要件を呑めば勢いを付けてくるのは当たり前です。猫だって餌をやればまたそこの家にやってくるでしょう。そんなもんです。ある程度は絶対的な権力を教育機関に持たせないと大変なことになります。昔の親たちは集団の中に身を置いていた。集団が従うシステムに文句を付けることはそれに従う集団にケチをつけることになるので吟味し再考し分別のある意見しか言うことができなかった。しかし、今はどうでしょう、集団式はなく個人レベルの意見が多数を占めるんです。選別された理性的な意見というよりは感情でモノを言う責任感のない意見が気迫で曲がり通っている。おかしいでしょう?子供たちが未来の日本を支えていく。無責任な教育機関、保護者で国を台無しにする気ですか?」

「ちょ、ちょっと待ってください!ははは、大袈裟な(笑)国なんて急ぎすぎですよ!そんな早く破滅なんてしません。確かに教育問題は重要ですが時間をかけ吟味すべきですよ。」

服部は愛想笑いを浮かべるがそんな服部を見つめる守の目は本気そのものだった。守はまだまだ何か言いたそうだったが硬い表情を崩すとにっこりと笑った。

「すいません!私としたことがいい歳して熱くなってしまって・・・お恥ずかしい。すいません、お時間取らせました。」

そういうと席を立ち深々とお辞儀をし部屋を出ていった。服部は不思議そうに愛想笑いを浮かべ不安そうに頭を下げる。合同庁舎を出た守の顔に安堵の表情はなく、陰りが落ちる。理解されない気持ちがここまで膨れ上がる苦悩がこんなにもつらいものだと、孤独だと初めて気付いた。一人ぼっちになることが、行く当てのない思いが守を現実世界から引き離す。背中に乗った大きな大きな暗闇で押しつぶされそうになる。何度訴えても伝わない、理解してくれないものを伝えるのはどうしたらいいか。守は立ち止まりそんなことばかり考えてた。しかし、答えは見つかるはずもない。それから、守はひとり家に引きこもるようになる。窓は閉め切り、部屋のカギを締め外界から抜け出した。暗い部屋で自分のすべきことを研ぎ澄ましていく。今まで生きてきた膨大な情報量から今から自分ができることを熟考する。何度も昼も夜も超え、ベッドに寝転がり白い天井に思いを巡らせながら時間だけが無残にも過ぎ去っていく。自分がこれまで尽くしてきた世界が無意味で親に教わったことも、先生に教わったこともでたらめの世の中で自分のすべきことを探し出すのは容易ではなかった。世の中ってなんなんだ?人ってなんなんだ?そんな小学生が考えるような問いを何度も何度も頭の中で繰り返す。法律に飼われた動物に過ぎない人間に完璧を求めるなんて皆無だ。人口は増殖の一途をたどり、環境も破壊し、他種生物の生活を脅かし奪い取る。そんな道理に人道を見出そうとしても皆無だ。何の意味もない。人間に尽くすことが善であるならばこの世を説明できない。300万種の一種にしか過ぎない人類が資源を搾取することが正しい形であるとは考えにくい。だとすれば地球を救うには、善行をするんであれば・・・


――ヒトガオオインダ。ヒトガアクナンダ。カンタンジャナイカ。ジブンガスルコトハヒトツシカナイ。――


 ―― 「ヘラスンダ。 ヒトヲ」 ――


「7時のニュースです。まずはこちらの事件からです。またも無差別殺傷事件が発生しました。三崎駅で刃物を持ったスーツ姿の中年男性が次々と乗客を刺していきました。現在入っている情報では7人が死亡し、4人が腹部などを刺され重体となっています。その男は駆け付けた警官によってすぐに取り押さえられましたが警察の事情聴取では動機はなく、ダレデモヨカッタと話しているということです。」

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