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幻実  作者: toru
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【中編】

メタンハイドレード採掘地点の海上では巨大な円筒状の生産井が物凄い機械音と共に掘り進められていた。広大なプラットホーム上では夥しい数の作業員が佐々木の人導指揮のもと作業を行っていた。作業員は皆、歴史的な事業に心躍らせていた。幼い少年達がまだ見たことない世界を探検しているように。それは研究者である佐々木にとっても例外ではなかった。

 佐々木は幼少期、田舎の田園風景の囲まれながら育った。家は貧しく農業で生計を立てていた父親は佐々木には同じ道を歩いてほしくなかった。そんな思いもあり勉強に明け暮れる日々を送っていた。その甲斐あり、お金のかからない国立大学に合格し父の期待に応えた。父は佐々木が大学に入学し間もなく病気で息を引き取った。体がボロボロになるまで働き病床に臥せる父を見て、世の中は感情でも道徳でもない。お金だとその時心に決めた。自分の子には親を同情させるような思いを味あわせたくなかった。


 守は会社のデスクを目の前に虚ろな表情を浮かべていた。メタンハイドレートの採掘が気になって仕事が手につかなかった。それは小林部長も同様で高鳴る鼓動を抑えながらなんとか平静を保っているのがやっとだった。そんな只ならぬ空気に部署内はピリピリしていた。そんななかでも眞代は平然と仕事を続けていた。そんな眞代に、大吾と修一郎が気付いた。

「眞代さんって強いですね。こんな空気もろともせずあんなに平然と仕事してますよ。」

「ああ。」

「なんか見た目は可愛いのに腹は座ってますよね。魔性っていうか。」

「そ、そうだよな。」

修一郎は眞代に恐怖を覚えた。なにか言い知れないものを腹の中に隠し持っている、そんな気がしていた。それはそうと眞代からはあれから連絡がない。付き合ったはいいが一度もデートはおろか会うのは会社だけ。なにを考えているかわからなかった。そんなとき、眞代は顔をむくっとあげ、こちらに歩いてくる。大吾と修一郎は慌てて自分のデスクに向き直る。

「ちょっと、じろじろこっち見るの止めてもらえます?」

ふたりは気付かない振りをして仕事を続けていた。そんな様子を見て眞代は修一郎の横まで行き囁きかけた。

「そんなにわたしのことが気になるの?しゅうちゃん。」

修一郎はガバっと姿勢を正すとトイレに向かって早足で去って行った。その様子に気付いた大吾は恐る恐る眞代の方を見た。眞代は大吾と目が合うとウインクして見せた。大吾は愛想笑いを浮かべると再び顔を下げ資料を食い入るように見た。修一郎はトイレに隠れていたが、携帯が鳴る。眞代からメールだ。。

「なんでにげるの?しゅうちゃん。」修一郎は天井を見上げた。

「このままじゃ会社で身動きがとれない・・・」

修一郎は頭を抱えたまましばらく出ることができなかった。


ついにバトミントン部内での試合が行われた。前もって抽選されたトーナメント表に従い皆、死闘を繰り広げる。この試合結果の是非が顧問藤谷の評価につながることもあっていつも以上に気合が入っている。由佳とみえはやはり力の差が歴然とあり、早々に敗退した。しかし、寧々と小百合は並み居る強豪を払いのけ優勝した。勿論、小百合の力がなければ優勝などできなかったが寧々も急成長しなんとか小百合の足を引っ張ることはなかった。藤谷も寧々の成長ぶりには驚き、寧々をMVPに選んだ。

「みんなよく頑張った!その中でも石川は本当によくやった。小百合によくついてきたな!おめでとう!」

小百合を始め皆は寧々を称え拍手した。寧々は自分が一生懸命努力したことが評価され、それが自分の中で大きな自信となった。人に褒められることがこんなにも嬉しく、自分に大きな力を与えてくれることにしっかりと気付かされた。

そんな寧々に由佳が駆け寄ってきた。

「寧々!おめでとう!むっちゃ上達したね!」

「ありがとう!由佳!」

寧々は由佳に抱き付いた。しかし、いつも由佳の隣にいるみえがいないことに気付いた。

「あれ?みえは?」

「さっきまでいたんだけど家の用事があるって言って帰ったんだ。」

「そうなんだ・・」

由佳の元気のない返事に寧々は胸騒ぎを覚えた。しかし、この前一緒に仲良く母親の見舞いに行ったことが寧々の心をなだめていた。


守は京香の病状を伺いに北村先生の診察室を訪れていた。

「先生、いつも家内がお世話になっています。先週は抗がん剤の副作用で参っていましたが先日、外泊させて頂いてバーベキューもできるぐらい回復しました。ありがとうございます。」

「いえいえ。私も一度京香さんの病状について説明しないといけないなと思っていまして・・・」

一瞬、北村の顔が曇り、すぐに電子カルテを使い京香のPET画像を守に見せた。

「これが入院の時の京香さんのガン細胞です。今から一年前くらいですね。見てわかるようにこの時は、胸の所に大きな塊がありますね。それで手術したのがこちらです。まあ、乳房を切除したので手術前の塊はなくなっています。それで今日検査した画像がこちらです。」

「えっ?」

守は思わず声を上げてしまった。

「そうなんです。この塊。左胸に再発しているんです。まだ小さいですが・・切除の心配はいりません。しかし、今までのように化学療法ともう一つ放射線療法でガン細胞を消してしまいます。」

「ガン細胞を消す?そんなことできるんですか?」

「100%とは言えませんが私の経験上消えなかったケースは今のところありません。」

「せ、切除の方は大丈夫なんですよね!」

「それは心配いりません。私が保証します。しかし、退院の方はまだまだということになります。」

「は、はあ。」

 守は落胆を隠せなかった。今でも心臓の拍動が体に伝わってくる。外泊できれば次は退院という淡い希望が無残にもかき消された。今朝の京香の涙を思い出すと言うべきかどうか悩まされた。思いどおりに行かないもどかしい気持ちが次第に怒りへと変わった。守は北村の診察室を出ると肩を落とし京香のいる病室に向かった。病室に着くと京香とひろ代が談笑していた。そんな様子をみて守は話しかけずにその場を後にした。車で家路についていたが色々なことが脳裏をよぎる。いつしか守の目はうつろになり注意散漫な危険な運転になっていた。そんなところへひとりの少女が横断歩道をつっきってくる。我に返り急ブレーキをかけるが間に合いそうもないと思った守は右に大きくハンドルを切った。なんとか少女に当たるか当たらないかの所でうまく避けることができた。

「はあはあはあ。」

守は慌ててドアを開け、少女の方を見た。少女は驚いた様子でこちらを見ていた。

「大丈夫!?けがはない?」

「うん。大丈夫。」

「あ~よかった。ごめんね。」

守がそういうとその少女は去って行った。足の震えが止まらず暫くその場所で佇んでいた。少し時間が経ってくると気持ちがだんだん落ち着いてきた。守はひとつの命を悩むがあまりにもうひとつの命を犠牲にしようとしていたことに自分を恥じた。それから車に飛び乗ると方向転換し病院に向かった。病院につくと駆け足で京香の病室まで行き夕ご飯中だった京香に病状のことについて話をした。

「京香、今日北村先生と話したんだ。今日検査しただろ?左胸に腫瘍があるそうだ。でも手術せずに完治するらしい。只、退院時期は当分延期になるらしい。」

京香はうつむいたまま落胆を隠せなかった。しかし、顔を上げると満面の笑みで守を見た。

「もう弱気な自分は捨てることにした。朝、車の中で泣いて気付いたんだ。マイナスに考えるとプラスに持っていくまでにすっごい時間がかかるし人にも迷惑かけることになるって。だから笑う(笑)」

そんな前向きな京香を見て守の目から涙が落ちた。

「がんばろうな。一緒に頑張るんだよ!乗り越えて見せるんだよ!神様に見せてやるんだよ。俺たちはこんなもんじゃ負けないって!!」

病室のベッドでふたりで号泣していた。胸のつかえを洗い流す様に涙はとめどなくあふれ出た。


「みえ!夕飯よ!降りてきなさい。ママもうお仕事いかないといけないんだから。」

二階にいるみえを母親である朝子が呼びつける。みえの家は母子家庭で、みえが小さいときに離婚している。朝子は時給の高い工場の夜勤を週に何度か入れており、そのたびに御飯だけ作ってから仕事に行く。しかし、みえは部活が終わって家に帰ってきてから一度も顔を出さない。そんなみえを心配に思い部屋の前まで様子を身に来た。

「みえ、御飯よ。どうしたの?」

返事を待つが一向に帰ってこない。

「入るわよ。」

朝子が部屋に入ると、制服のままベッドに体育座りし顔を膝に埋めているみえがいた。

「どうしたの?みえ。着替えもしないで。」

暫くして、みえが顔をゆっくり上げる。

「私っていいところある?ママ」

突然の質問に朝子は戸惑った。

「何言ってんの?なんかあったの?」

優しくみえに話しかける。みえがこんなに落ち込んでいるのを始めて朝子はみたのだ。気が強いみえはいつも家でもテキパキ家事を手伝ったり宿題したりする全く手のかからない子だったのだ。

「ううん。なんでもない。」

 そういうとひとり階段を下りて行った。朝子は心配に思ったが仕事の時間が迫っていたため、みえに戸締りはしっかりするように伝え家を出た。みえはひとりダイニングの椅子に座るとゆっくり箸を持った。何かを思いつめため息をつくと再び箸を置いた。締め付けられるような苦しみと孤独がみえを襲っていたのだ。どんなに抑え込もうとしてもこみ上げてくる焦燥感にたまらず家を出た。当てもなくフラフラと夜道を歩く。どんなに歩いても動悸はおさまらないし帰って悪くなる一方だった。たまらずみえは歩道の縁石にくずれるように腰を掛けた。

「誰か、だれか助けて。」

みえはそうつぶやくと左手でグッと胸を抑えたのだ。そんなところへ中年の著性が通りがかる。その女性はみえに気付くと優しく話しかけた。

「どうしたの?具合でも悪いの?」

みえは驚いて我に返る。

「いえ、ちょっと疲れたんで座っているだけです。」

不思議そうにその女性はみえの方をみた。

「こんな遅くにひとりは危ないよ。お母さんは?」

「仕事です。」

「じゃあお父さんは?」

「お父さんはいないんです。」

そういうとみえは自分の感情を隠すことができなくなった。自然と涙があふれ、肩が震えるように泣いた。

「さみしい・・いえ・・・ひとり・・・」

片言のようにしか言葉が出てこない。そんな様子を見ていた女性は優しくみえを抱いた。

「そうなの。一人寂しいよね。おばちゃんも一緒だよ。だからわかるの。じゃあ、おばちゃん、寂しくなくなるまで一緒にいてあげるから。」

みえはその女性の胸で声を出して泣いて強く強く抱きしめた。

「寂しさは自分が強くなるための薬よ。おばちゃん子供居なくてね。居たら寂しい思いさせないのに・・」

みえはその女性の声を聴くと不思議と気が楽になった。その後、みえはその女性に感謝し自宅へ戻った。みえは自宅につくと夕食をしっかりとり、後かたずけも済ました。いつものしっかりしたみえに戻ったのだ。その見ず知らずの女性がみえに生きる力を与えた。母親ではなく赤の他人がみえの壊れそうな心を繋ぎ止めた。


「ただいまー」

「おかえり~今日、遅かったねパパ。」

「うん。ちょっとママのとこ寄ってきてな。」

「そうなんだ。なんで?」

守は言葉に詰まったが寧々にもいずれは話さなければならないことと割り切った。

「寧々。ママな。ママは退院できる日はまだまだ伸びそうなんだ。しばらくは、またパパと二人暮らしになる。我慢できるか?」

寧々は困惑した顔をしたが、しっかりした口調で答えた。

「うん。わかった、大丈夫!今日の試合で優勝したんだよ!寧々がMVPになったの!だから寧々もっと頑張れるしママをもっと応援できるよ!」

「そうか!ありがとう!でも、いつでも寂しくなったらパパにちゃんと言うんだぞ。パパはいつでも寧々の味方だからな!」

そう言うと寧々の頭を撫でた。寧々には我慢をさせてばかりで申し訳なったがこれも家族の絆を強めるためには仕方ないことだと言い聞かせた。寧々には俺がいる、俺がしっかり寧々を離さずしっかり育てていこうと心に決めた。


翌朝、守が会社に出社すると大吾が慌てて駆け寄ってきた。

「石川さん!研究所の佐々木さんからお電話です!!」

「ホントか!ありがとう!」

そういうと守は、電話の方へ一目散に駆けていった。

「はいっ!お電話変わりました石川です!」

「あっ!石川さん?ご無沙汰してます佐々木です。出ました!メタン出ました!」

「本当ですか!ありがとうございます!!」

「僕もうれしいです!プラン通り減圧法で順調に進んでますよ。この調子ならメタンタンクもすぐに一杯になるでしょう。」

「夢のようです!佐々木先生にはいくら感謝してもしつくせません!本当にありがとうございます。」

「いえいえこちらこそですよ。こんな歴史的な事業の一員になれて私は光栄です。じゃあまた逐一状況を報告していきますんで、それではまた。」

守は受話器をゆっくりと静かに置いた。心の中では飛び上がりたいくらい嬉しかった。その旨を部長に報告し抱き合った。二人とも目には涙を浮かべ満面の笑みで喜びを分かち合った。部署内でも盛大な拍手が沸き起こり守は頭を下げて回った。守はこのとき世界中が祝福してくれているような気になって体が宙に浮くくらいの高揚感で一杯だった。

「ありがとう、ありがとう。みんなのおかげだよ。」

 その後、国内外のメディアがこぞって長塚商社、三崎大学地質学研究所の功績を称えた。テレビ上でもネット上でもひっきりなしにメタンハイドレードの話題で持ち切りとなり、佐々木や守は一躍、時の人となった。今回の一件で当社の株は跳ね上がり、又メタンハイドレードが生み出す利益を考えると長塚正二郎は笑いが止まらなかった。長塚商社ビル最上階の社長室で窓から見える喧騒を楽しむ長塚がいた。長塚はこの時、一国の将にでもなった気でいた。メタンハイドレードが発掘されてからというものあらゆる有力者は下手に出てくるし今まで相手にされなかった権力者とも今は対等に話し合うことができる。明らかに世間における自分の地位は不動のものとなっていたのだ。そんなところへ経営企画本部部長小林が長塚を訪ねてきた。

「社長お疲れ様です。経営企画本部部長小林でございます。今お時間よろしいでしょうか?」

その声を聴きふと我に返った長塚は、向き直り椅子に腰かけ、溜まっている書類にサインしだした。

「うん。入りたまえ。」

「失礼します!」

小林が恐縮し社長室のドアを静かにあけ、長塚に一礼する。だが、そんな小林の顔には笑みがこぼれていた。

「小林君!君は本当によくやってくれたよ。長塚商社始まって以来の快挙だよ。株主総会でも久しぶりに胸を張って出席したもんだよ。」

「恐れ入ります。私どもも夢見心地です。もう当社の周りにはマスコミが詰めかけて皆お祭り気分で仕事しているようです。」

「うん。社員にも喜びを噛み締めてほしい。それでね、今は内定の段階だが近日中に君を専務に昇格しようと思っている。」

「ほ、本当ですか!ありがとうございます!」

「それであの~君のとこの~なんて言ったかな?」

「石川でございますか?」

「そうそう石川君!石川君を部長に上げようと思っているんだよ。」

「ありがとうございます。私の部下までお目にかけて頂いて。」

 社長室でこんなに和やかに社長と話したのは何年ぶりだろうか?小林はついに専務にまで上り詰めた自負心と、全てがうまくいく状況に高鳴る鼓動を抑えることができなかった。長塚商社に勤めて本当によかったと心から思えるようになっていった。小林は家に帰ると妻である奈美恵に昇進の話をまるで子供が今日学校であったことを話す様に夢中になって話していた。奈美恵はそんな夫を優しく笑顔でいつまでも聞き役に守していた。奈美恵にとって昇進のことはどうでもよかった。こんなに夢中になれるものがある夫が時に羨ましく、そして我が子のように嬉しかった。この人の人柄に惚れて結婚したことを思い出した。真っすぐで熱意があってひたすら何も疑わず突き進む。単純で損得勘定がなくてうまく立ち回れない夫だが力強い信念はからは生きる力が感じられた。そんな夫からパワーを貰い、奈美恵はここまでなんとかやってこれたんだ。そんな夫にいつもより豪華な奈美恵の手料理を振る舞いいつまでも絶えることのない夫の話しに耳を傾けていた。


寧々が朝登校していると前に歩くみえに気付いた。寧々はみえの方へ一目散に駆け出し後ろから声をかけた。

「みえ!おはよう!」

みえは体をビクつかせ驚いたように寧々を見た。

「お、おはよう。」

何か違和感のあるみえに不安を拭い去るかのように寧々は続けた。

「みえちゃん昨日なんで早く帰ったの?具合でも悪かったの?」

「う、うん!ちょっと風邪気味で・・あと昨日お母さん夜勤だったから。」

「あ!そうなんだ。そうだね。みえのお母さん夜勤あるもんね!」

「うん。そうなの。家事とか色々自分でしないといけないし・・」

「みえは偉いね。」

「寧々の方こそお母さん今いないじゃん。寂しくない?」

「最初、寂しかったけど今は平気!色々自分勝手にできるし。あとパパ頼りないから私がしっかりしないとね(笑)」

「寧々はポジティブでいいね。羨ましい。じゃあ私ちょっと急ぐね。また部活でね。」

 寧々ににっこり笑ったみえの笑顔はどこか寂しげで空っぽだった。みえが遠い存在になっていくのを感じた寧々は寂しさを隠しえなかった。原因は自分にあるんじゃないかと自分を責めた。しかし、どこを探しても思い当たる節など見つからず心のモヤモヤが一日中付きまとった。部活でみえに会うのが怖くなった。みえへの接し方が分からず授業中何度も何度も思いを巡らせていた。そうこうしていると最後の授業が終わり部活の時間が来てしまった。寧々を変な緊張感が襲い部活に行く足がドーンと重くなった。足取りが重いまま教室を出て体育館までの廊下を歩いていく。後ろから勢いよく誰かが走ってきて思いっきり寧々の腰を叩いた。寧々はびっくりして後ろを振り返る。そこにはニンマリ笑う由佳の姿があった。

「どうしたのよ!由佳!いたーい。」

寧々が叩かれた腰を摩っていると満面の笑顔で由佳が答えた。

「元気なさそうに歩いてるからよ!!寧々に元気出してもらおうと思ってさ。」

そんな由佳の行動は、まるでいたずらっ子のような顔をしていたが本当は大人びた励ましだったのだ。寧々は仕返しに由佳の腰を思いっきり叩いた。

「いた~~」

「これでおあいこ!」

そういうと寧々は部室まで全速力で走って行った。

「ちょっと~まって~」

 寧々は由佳に心の底から感謝していた。自分が元気ないのに気付いてくれただけで孤独じゃない気がした。深い深い暗闇から由佳が引っ張り出してくれた。この時、寧々の頭にはみえの元気のない行動は自分せいだというネガティブな考えはなかった。もし、みえが元気ないのだとすれば由佳が私にしてくれたように、私がみえを元気にさせてあげよう。寧々はまた自分の目標に向かって突き進むことを決意したのだ。

その日、寧々はみえを体育館で見ることはなかった。由佳も理由は知らないらしい。


「それじゃあ長塚商社一大事業成功を祝してかんぱ~い!」

守は経営企画本部主催の祝賀会でもてなされていた。その会には勿論、小林部長も同席だ。小林部長はいつになくお酒グイグイ飲んでいる。小林部長だけではない、みんな昼に聞いた臨時ボーナスの件で舞い上がっている。大吾も修一郎も日頃のストレスから解放されっるように浴びるようにビールを飲んでいる。そんな中、眞代が守にお酌しに近づいてきた。

「石川さんどうぞ。」

「おっ!悪い悪い!」

「ホントにすごいですね。夢みたいです。臨時ボーナスにみんな喜んでますよ。」

「ホントだな~社長奮発したな~」

「石川さんのおかげです(笑)」

「いやいや佐々木さんはじめ科学者の先生のおかげだよ。俺は高校の時から科学とか物理とか苦手なんだよな~」

「え~意外です!石川さんなんでもできる秀才だと思ってました。」

「おいおい。なんもでねえぞ(笑)」

そんな守と眞代が談笑しているのを修一郎は見ずにはいられなかった。形だけといっても今や眞代は修一郎の彼女である。修一郎は眞代がトイレに行くのを見計らって眞代の後を付けた。どうやら店の外まで行くらしい。

「なんだよ。トイレじゃないのかよ。どこ行くんだ?」

修一郎は小声で独り言を言うと更に眞代の後を付けていった。修一郎が眞代に声をかけようとしたその時、向こうの方から

何やら男性がひとり歩いてくる。修一郎は慌てて物陰に隠れた。どうやらその男性は年配であるのは分かったが暗闇で顔まではよく見えない。

「遅い~正ちゃん。」

何やら親しげに眞代はその年配の男性の両手を握りしめていた。その様子を見ていた修一郎の表情が曇る。なんだよあいつ。キャバ嬢でもしてんのかよ、とつぶやいたその時、眞代がその男性と店内に向かって歩いてくる。そ~っと修一郎はその男性の顔を見た。

「ああああっ!」

声が漏れそうな口を両手で塞いだ。

「しゃしゃしゃ社長!」

なんと眞代が親しげに手をつないでいた相手は長塚商社代表取締役長塚正二郎だったのだ。修一郎は開いた口が塞がらない。いや、両手で塞いでいたがまた開いたのだ。修一郎はその場に座り込んだ。腰が抜けた。今、目の前で起こったことが自分の頭の中で整理ができなかった。今までおいしく飲んだ酔いが一気にさめ、血色の悪い貧相な顔になっていった。修一郎は当分の間その場を動くことができなかったのである。

その頃、眞代は長塚と共にみんなの待つ宴会場に着いていた。

「みなさ~ん。サプライズゲストです!社長が今お見えになりました!」

「ええ~~~」

一同驚きの色を隠せず、今まで騒いでいた者も礼儀正しくキチンと正座に持ち直した。小林部長も例外ではなかった。

「社長!!どうされたんですか??」

「いやいやここで宴会してるって話を聞いたんでね。私も混ぜてもらおうと思って・・・」

「そうだったんですか!!気を利かずすいません!では社長こちらへどうぞどうぞ!なにボサッとしてる!道を空けんか!さあどうぞどうぞ。」

長塚は小林に誘われるがまま上座の方へ案内された。

「はい眞代君!。社長にお酒をお注ぎして!」

「は~い。わかりましたよ、部長。」

そういうと眞代は自然体で長塚の隣に座りお酌をした。その光景を一同が息を飲み見守る。皆、眞代の馴れ馴れしさよりも同室に社長がいることに違和感がありどういう行動をしていいかわからなかった。守は社長に挨拶するために歩み寄っていった。

「社長!お疲れさまです!今回の事業が上手くいったのも全て社長のおかげだと思っております。」

「お~石川君。おめでとう!こんなうまい酒は何年ぶりかな?これからもウチを引っ張っててくれよ!」

社長はいつになく上機嫌だった。そんな様子を見たほかの社員はちょっとづついつもの調子を取り戻していった。そんな中。修一郎が顔面蒼白のまま戻ってきた。その異変に気付いた大吾が修一郎に駆け寄る。

「大丈夫ですか!顔色悪いですよ!吐いちゃったんですか?」

そんな大吾を横目に修一郎は右手を上げると席すわりひとり酒を煽りだした。そんな修一郎に眞代は見下げた視線を送る。修一郎は眞代のいる方向を恐ろしくて、不思議で、奇妙で見ることができなかった。そうやって宴会は少々の問題を抱えながら賑やかにいつまででも続いた。


暗い夜道をうろうろと辺りを見回しながら歩く少女がいた。みえだ。夜勤の母親を見送るとみえは、前にあの女性と会った場所にずっと居座っていた。みえはあの安心感を与えてくれた女性が気になってまたどうしても会いたくなったのだ。しかし、待てど暮らせどその女性は現れない。そんな状況にしびれを切らせ、みえは家に戻ろうとしていた。その時、前から男性の二人組が歩いてくる。中年のサラリーマン風の男性でどうやら酔っぱらっているようだ。みえはその二人組を避けるように歩いて行った。しかし、ひとりがみえの存在に気付いた。

「おっ?こんなところにこんな小さい子がいるじゃないか!?家出じゃねえだろうな!」

そういうとその男性はみえの右手を強く掴んだ。

「いたい!」

みえは嫌がるがその二人組は酔っぱらっていて何も言うことを聞いてくれない。

「オッチャンが警察に突き出してやる!!」

そういうとその男性はみえの二の腕を強く掴むと強引に引っ張っていった。

「ちょっとやめてください!家はそこに・・・」

とみえが大声を出したその時。

「ちょっとあんたたちやめなさい!!」

後ろの方で女性の怒鳴り声が聞こえてきた。みえが振り返るとなんとあの時助けてくれた年配の女性だった。

「あんたこそ警察につきだしてやるわ!!」

その気迫に押された二人組は早々に逃げ去っていった。

「もう!ろくな奴いないわね!大丈夫?けがない?」

その女性はまたみえを助けてくれたのだ。みえはキラキラした瞳でその女性をみると無言で首を振った。

「また、助けてくれたんですね。ありがとうございます。」

「いいのよ。でもひとりで夜遅くに出てきちゃだめよ?お母さんは仕事?」

「そうなんです。でも今日は寂しいとかじゃなくて・・・本当はおばさんにまた会いたくてここでずっとおばさんが来るのを待っていたんです。」

その女性は驚いたような目でみえを見るとまた優しい顔になって話しかけた。

「そうなの?ありがとう。わたしも気になってまた会いたいな~と思ってたの。こんな夜道もあれだからうちに来る?」

みえは言われるがままに頷いた。その女性はみえの手をとるとまるで親子のように夜道を歩いて行った。みえはその暖かい手を強く強く握った。その手に触れるだけで不思議と安心感が生まれてきたのだ。そんなみえをみて、その女性は満面の笑みで手を握り返した。何本も何本も電柱を過ぎ、いつしか二人は薄暗い闇に徐々に消えていった。


 宴会が終了し長塚商社社員は店の前で長塚をお見送りしていた。小林と守は先頭を切って社長に挨拶しタクシーのドアを開けた。一歩下がって眞代はにこやかに長塚を見つめている。そんな眞代を修一郎は後ろから力なく眺めていた。長塚はタクシーに乗り込むと笑顔で一礼し店を後にした。社長が帰り若手の社員は2次会会場であるカラオケに足早に移動していった。守や小林は家庭があるため2次会には参加せず帰路に着いた。皆それぞれ目的の場所に行き店の間には眞代と修一郎だけが残った。修一郎は眞代の顔をくもった表情で見つめ重い口をようやく開いた。

「お前は一体なにがしたいんだ?」

眞代は普段通り落ち着いてしっかり修一郎の話に耳を傾けていた。修一郎はそんな眞代から自信すら伺え、恐怖すら感じた。

「なんのこと??どうしたの修ちゃん?」

「俺見たんだぞ。お前社長とデキてんだろ!」

「社長と?なんで?」

「とぼけんなよ!俺と付き合う必要ないだろ!」

「ホントにどうしたの?私が好きなのは修ちゃんだけよ。」

そういうと眞代は修一郎に歩み寄り抱き付いた。

そんな眞代を修一郎は振り払う。

「いい加減にしろ!俺はもうお前の彼氏でもなんでもない!じゃあな。」

そういうと修一郎はその場を後にしようとした。しかし、眞代が修一郎を睨みつけ言った。

「修一郎さん、もう忘れちゃったんですか?私あなたに襲われたんです。いつでも警察に被害届出せるんですよ?」

修一郎は立ち止まり力なく空を見上げた。

「修ちゃんわかってるよね?ちょっと眞代にヤキモチ焼いちゃっただけだよね?」

修一郎は眞代が話し終わると一息つき、右手を大きく上げ家路についた。そんな修一郎を眞代は煙草を吹かしながら目を細め見送っていた。眞代は店の前を流れる小川に煙草を投げ入れるとガードレールに前かがみにもたれかけ、只々、流れゆく水を眺めていた。そんな眞代の脳裏には暗いか過去が蘇っていた。

眞代の実家は有名な資産家で父は機関投資家として財をなしており、裕福な家庭で育っていった。厳格な両親は門限は勿論のこと事細かく眞代を規則に縛っていった。幼少期からの束縛に眞代は両親に反抗することなく忠実に従っていた。勉学の方も優秀で幼いころから家庭教師により英才教育がほどこされ将来は医師になってほしいという両親の願いもあった。

高校は地元でも1、2位を争う偏差値の高い高校に合格しエリート街道まっしぐらであった。両親が気にかけ高校は女子高を選んだ。医師になるまで男性と現を抜かさぬよう両親は進路選択にまで眞代を縛り付けたのだ。高校でも反抗期をしらない眞代は今までと同じく忠実に両親のいいつけを守り学業に励んでいた。しかし、高2の夏休み図書館で勉強していた眞代はある好青年と出会う。彼は眞代よりも一つ年上で眞代の高校といつも比較される進学校に通っていた。彼は眞代と同じく医学部を受験する予定で猛勉強していた。眞代は彼から色々話を聞くうちに医学を目指す熱意と誠実さにいつしか恋心を抱くようになっていった。眞代はこの夏、毎日のように図書館通い彼を探していた。彼を見つけると隣に座り一緒に勉強を続けた。彼は馬鹿が付くほどの真面目な人間で眞代に一切手を触れなかった。そんな日々が続き眞代は決心して地元の花火大会に彼を誘った。彼は突然の誘いに驚いた表情をしていたが、顔を赤らめ誘いを受けた。眞代は今まで男性とデートすらしたことがなかった。初めてのデートに胸を躍らせ、折角だからと浴衣を自分の溜めていた小遣いからなんとか購入した。親に頼むと絶対に無理な詮索をされると分かっていたからだ。眞代は親に友達の家で勉強してくると嘘をつき、美容院で髪を結ってもらい浴衣の着付けまでしてもらった。美容院を出ると眞代は履きなれない下駄で何度も足を取られながら会場に向かった。眞代は待ち合わせの時間よりも30分早く到着した。緊張し時計を見る余裕もなかった。高鳴る鼓動を抑えながら彼が現れるのを待っていた。眞代は落ち着きがなく辺りをキョロキョロ見回す。皆、家族連れやカップルで夜店は賑わいを見せ、まるで眞代たちを祝福しているようだった。そうこうしていると、向こうから彼がやってきた。彼は浴衣ではなかったが白いシャツにジーパンでラフだったが髪はしっかりワックスで固められていた。眞代がいつも図書館で見る彼とは違いどこか気の張った雰囲気だった。眞代は照れ臭く彼の顔を見ることができなかった。二人はぎこちない雰囲気に会話もままならなかったが夜店を見て回っている内にいつしか心が打ち解け普段よりもちょっと二人の距離が縮まっていた。それはもう周りから見ればカップルにしかみえないほど自然になっていた。そんな中、彼が花火が見えるいいスポットがあるという。そこは高台にあり、ひと気もなく落ち着いてみえるというのだ。眞代は彼に連れられそのスポットに向かう。いつの間にか二人は手をつなぎ、眞代はその彼のかたにもたれかかるように歩いていた。そのスポットに着くと彼が言った通り落ち着いた雰囲気で、古びたベンチ以外に何もなく、人っ子一人いなかった。二人はそのベンチに腰掛けるともうすぐ打ちあがる花火を談笑しながら待っていた。二人が話に夢中になっているといつの間にか花火があがっていた。しかし、ふたりは花火を一切見ることなくお互いの目を見つめ合っていた。辺りをしきりなしに明るさと暗闇が交互にふたりを包む。そんな中、二人の距離はどんどん縮まり、彼が眞代を抱きしめた。眞代は彼に体を委ね、火照った顔や体をどうすることもできなかった。彼は眞代の顔を優しく自分の方に向けると唇を合わせた。眞代にとってはその時間が永遠にも感じ今まで味わったことのない興奮と幸福感が眞代を包んでいた。眞代は今まで自分を縛っていたものから、現実から解き放たれ、まるで異世界に入り込んだ感覚さえ覚えた。そんな中、車のライトがこちらに近づいてくるのがみえた。眞代は一気に現実に引き戻され、身を正した。その車は眞代たちの近くに車を止め、2人組の男が車から降りこちらに近づいてくる。眞代は何か危険を感じ、彼に早くこの場から離れたいというが応じない。だんだんその2人組の男たちは眞代たちに近づいてくる。二人の話し声で若者で、やんちゃな感じが伝わってくる。その二人組は眞代たちのベンチの前で立ち止まるといきなり眞代の腕をつかみベンチから引きずり下ろした。眞代は急な出来事に声を上げることもできず、身動き一つとれなかった。男の一人は眞代の両腕をつかみ、もう一人の男は眞代浴衣をたくし上げ乱暴に股を開いた。眞代はなんとか恐怖に抗い彼に大声で助けを求めた。しかし、一向にこの男たちの行為が止まることはなかった。馬乗りになる男の隙間からなんとか彼を見た眞代は驚きのあまり声が出なかった。その彼は眞代がその男たちに犯されるのを見て自慰行為をしていたのだ。眞代はその男二人組に何度も何度も犯され抵抗する気力もなくなっていた。眞代がただ一つできた抵抗といえばとめどなく流れる涙だけだった。事が終わるとぼろきれの様に眞代は捨てられその場に放置された。彼はその二人組と共に帰っていく。そんな三人の話し声が聞こえてくる。

「お前ってほんと変わってるよな。勉強しすぎなんじゃねぇの?」

「ああ。俺はリスクは負いたくないんだよ。誰かがやってるの見るだけで自分がやったみたいな想像できるからな。今日はめちゃくちゃ興奮したよ。」

三人は笑いながら車に乗り込みその場を後にした。綺麗に結ってもらった髪は無残にも原型を留めず、新調した浴衣には砂埃が至る所に付きとても人に見せれるような状態ではなかった。眞代は無気力に夜空を眺めていた。そんな夜空は今まで見たこともないくらい綺麗で、それが眞代を一層苛立たせた。昔のことを思い出していた眞代は瞳に溜まる涙をひと拭きすると力を絞り出すように、もたれかかっていたカードレールを強く押し体を翻した。眞代は夜空を見上げた。そんな夜空にはあの日見た綺麗な星と引けを取らないほどの綺麗な星たちが眞代を見つめていた。眞代は不敵な笑みを見せるとそのまま家路についた。闇夜に眞代の甲高いヒールの音だけが響きわたっていた。


 京香は病院のベッドで窓から夜空を眺めていた。退院のめども立たないまま、只、ダラダラと入院生活を送っていた。生きている実感は次第に薄れていき怠惰が京香の体を蝕んでいた。外泊の時に持ち直した精神状態は崩れ去り、いつも頭の片隅には死があった。そんな時、京香のベッドのカーテンが勢いよく開いた。京香はびっくりして音のする方向を見る。そこには悪戯に笑う郁美の姿があった。

「もう!私患者だよ!」

京香は枕を取るという身に投げつけた。

「あらよっと!そんな怒んないでよ~京香にスペシャルゲスト連れてきたから!」

「スペシャルゲスト?」

そういうと、郁美の横から短髪の顔立ちのいい男性が現れた。

京香はその男性の顔を見ると一瞬で誰か悟った。京香の高校時代の彼氏翔太だ。京香は驚いで目を見開いた。

「しょ、翔太?なんでここにいるの?」

翔太は真剣な面持ちで京香の目をマジマジと見つめた。

「お前が忘れられなくて会いに来たんだよ!」

京香は突然の出来事で顔が真っ赤になった。

そんな時、郁美と翔太の笑い声が病室中に響いた。

「冗談だよ。嫁さんが足の骨折って入院してるんだよ。それでさっき偶然郁美にあって京香のこと聞いて来たんだよ。」

翔太の横で郁美がピースサインをしている。

「そんなわけでした!」

「そうなんだ・・・」

京香は突然の出来事に動揺し、どういう対応をすればいいか分らなかった。そんな京香を見かねて翔太は優しく話しかけた。

「京香、病気になんて負けるなよ!お前には病院なんて似合わないんだから!じゃあまた来るよ!家で子供待ってるしな!」

そういうとあっと言う間にそこから姿を消した。

「京香~翔太いい男になってるね!子供3人いるらしいよ!まあ高校の時はヤバいくらいの不良だったけどね(笑)じゃあ病人さんは消灯です!」

郁美もまたそそくさとその場を立ち去って行った。一人残された京香は動悸がおさまらなかった。郁美の言う通りいい男になった翔太の余韻が京香の心の中を支配していた。そんな京香の脳裏に翔太と付き合っていた頃の記憶が蘇る。

京香が初めて翔太にあったのは深夜の繁華街だった。郁美と京香は高校の頃、真面目とは無縁な女の子だった。毎晩郁美と繁華街に出てはスリルを味っていた。日常の平凡な生活に生きている実感を見出すことができなかったのである。夜の繁華街には身の危険を感じさせてくれるモノがそこらじゅうにあった。危険な男女関係、喧嘩、ドラッグ、悪い仲間、年頃の京香にはそんな刺激が生きている実感を与えてくれた。しかし、実際にはそんな危険を冒す勇気はなかった。ただ、そんな世界に身を置いていることが誇らしかった。そんなある日、郁美といつも通り繁華街を歩いていると道端に血まみれで倒れている青年を見つけた。それが翔太だ。京香と郁美は急いで駆け寄ると見るに堪えないくらい殴られた顔と血だらけの白いTシャツでしどろもどろになっていた。やっとのことで救急車を呼びその騒ぎで辺りの人たちが集まってきた。その中に翔太の知り合いが偶々いて救急車に同行してもらった。郁美と京香は改めて危険な場所であることを知らされそれ以来繁華街には近づかなかった。それから京香は淡々と日常生活をただ平穏に送る生活に戻っていた。決まった時間に起き、決まった服装を身に着け、決まった友達と談笑し決まって家族みんなでご飯を食べる。そんな生活に嫌気が差していた。しかし、繁華街の道端で血だらけに倒れていた青年のことを考えるとそういう生活に慣れていくしかなかった。そんなある日、京香は夜、コンビニにアイスクリームを買いに行った。ほんとはアイスクリームなんて欲しくなかった。息が詰まる自分の部屋から少しでも解放されたかったんだ。夜道は暗く薄気味悪かったが自分狭い部屋に閉じ込められているよりはマシだった。いつしかコンビニに行く足を止め、家の近くにある河川敷でボーっと佇んでいた。辺りは静まり返り聞こえてくるのはカエルの鳴き声と川のせせらぎだけだった。そんな空間が京香にはとても居心地がよく、背中を押され続けていた行列から一歩抜け出せた気がしていた。しかし、そんな気分も長続きせず、そんな静けさに今度は耐えようのない寂しさと退屈さにその場にはいられなくなった。しょうがなく家路につく。どうあがいても現実から逃げることはできない。肩を落とし歩いているとすぐに家の前に着いた。そこから見える家はまるで刑務所で自分の部屋は犯罪者を収監する牢獄に思ええしょうがなかった。しばらく家の前でたたずんでいるとひとりの青年が家から出てくる。見たこともない青年でどこか遠い親戚が上京してっ来たのかと思った。その青年は2、3歩歩いたあと顔を上げ京香と目があった。その少年は驚いたような顔で京香を見ると照れ臭そうに下を向き京香に近づいてくる。その少年は京香の前で立ち止まるとうつむき加減に京香を見た。その少年の顔はあざだらけで京香はピンときた。この少年が京香を刺激的な繁華街から遠ざけてくれていた青年だ。少年が喋る前に京香から話しかけた。「あ、あのときのひとだよね。けが大丈夫?」

少年は意表を突く京香の反応に戸惑っていた。少年はズボンのポケットに両腕を突っ込み、フラフラしながら京香を見上げた。

「あんたが助けてくれたんだってな。ダチから聞いたよ。世話んなったな。お前のおふくろさんにお菓子渡してきたから。みんなで食べてくれ。じゃあな。」

そういうとその少年はそそくさとその場を後にした。しかし、京香はその少年引き留めるように慌てて話しかけた。

「あっあの・・・家はどこにあるんですか??」

あっけにとられた少年はキョトンとした表情で京香を見る。

京香はさらに続けた。

「ちょっと話しません?・・」

京香はその少年を引き留めようと、京香の前からいなくならないように必死で引き留めていた。京香はその少年が何か時分にはないものを持っているような気がしてならなかった。彼が私の人生を導いてくれるような変な感情に陥っていた。それから京香はその少年とさっきまでいた河原に一緒に行き地べたに二人で座り話していた。京香はあまり自分から話さないタイプだったが何故か、この時ばかりは京香のひとり舞台だった。とめどなく溢れる京香の疑問に対しその少年は淡々と答えを出していく。傍から見ればお兄ちゃんにせがむ妹の様に京香は無邪気にその少年に頼っていた。その少年は大人びていてどこか冷めていた。しかし、時折見せる笑顔が京香を安心させ生きる希望を抱かせた。それから何度か会い、付き合うことになる。京香は学校が終わるとすぐに翔太の家に行き、入りびたりの生活になっていった。翔太は母親がいたがいつも家にいるような家庭的な母親ではなかった。京香毎日のように通い詰めたが母親の姿を見ることはなかった。翔太の部屋は2階にあり、部屋の中には翔太が好きなバイクの雑誌やサーフボード、スケボーやロックバンドのポスターなどやんちゃな男の子の部屋だった。翔太はそんな部屋が居心地良く、京香が掃除しようとするといつも怒られた。翔太は日中、家の中でゴロゴロ過ごし、夜は風俗のキャッチのアルバイトをしていた。いつもふたりはDVDを見て過ごした。翔太が好きな映画を何度も何度も繰り返し見る。翔太は柄にもなく小さい頃よく見たアニメを何度も何度も見ていた。それが彼を落ち着かせるのだという。ふたりは小汚いシングルベッドで何度も何度も体を合わせた。京香の初体験は翔太だった。京香は全てを翔太に預けていた。私はこの人と結婚する、そんな予感が、そんな直感が京香を動かしていた。翔太の周りにはいつも悪い仲間がいて慕われていた。仲間思いで仕事の内容はさておき責任感がありしっかり働いていた。そんな翔太が好きでたまらなかった。女の子はやはりしっかりした職に就き、高収入の男性を望むが京香にはそんな気持ちはさらさらなかった。いつしか翔太も京香との結婚を真剣に考えるようになる。ふたりでチラシの裏に書いた婚姻届を翔太の部屋にいつも貼っていた。まだまだ未成年の二人にはこうすることでしか結婚はできなかった。その婚姻届けに誓うように二人は本当の夫婦さながらの生活を営むようになる。夕方、翔太の家に着くと夜仕事の翔太のために弁当を作り、出勤を見送った。休日もいつもふたりで過ごし、翔太の自慢のバイクでどこでも連れて行ってもらった。そんな生活が三か月続いたある日、京香はいつものように翔太の家に向かっていた。しかし、今日はいつもと違い足取りが重い。なぜか京香にもわからなかった。急に胸騒ぎがして焦燥感に駆られた。あんなに好きでいつも一緒にいた翔太に会いたくなくなっていたのだ。この感情は翔太に会う前に感じていた感情と全く一緒だった。翔太でこれまで紛れていたけど再び顔を出したのだ。只、京香はあの時とは違いこの感情が何を意味していたのか分かることができた。翔太との三カ月の付き合いが京香をまた成長させていた。この感情の原因は、京香の将来への不安だったのだ。京香には夢も希望もなく将来のことなど何も考えていなかった。その不安感が翔太へと導いた。しかし、翔太で癒されていた感情はただの現実逃避でしかなかった。しっかり自分の考えで、自分の足で人生を歩んでいくしかないことに気付いたんだ。それから翔太とは別れ二度と会うことはなかった。そのあと郁美から聞いた話だが、翔太は夜の仕事を辞め、普通の仕事に就いたそうだ。京香は病床で遥か昔にも思える青春時代の熱い気持ちになっていた。しかし、翔太への思いは再燃することはなかった。もう、京香には人生でするべきこと、自分が歩む確固たる道があった。


翌朝、寧々が登校すると学校の駐車場に警察の車が停まっていた。学校に警察のひとが来るのは初めてではない。毎年、春の交通安全教室を開いてくれる。学校の男子からは人気のイベントだ。自転車に乗ったスタントマンが車にはねられるショーが見れるのだ。本番さながらで、人が車と衝突し鈍い音がし車のフロントガラスにはヒビが入る。これが小学生にはたまらなく刺激的でお尻の穴がむず痒くなるのだ。寧々も例外ではなかった。今日の授業はいつもより少なることにウキウキした気分を隠すことができなかった。寧々か下駄箱に靴を入れ踊り場に出た時、前の廊下をゾロゾロと多数の生徒が歩いていた。その先には体育館がある。こんな時間にみんあが廊下を歩いているときは体育館で全体朝礼がある時だけだ。寧々はなにかいけないことがあったと悟った。学校前の警察の車、全体朝礼と来ればそう思わずにはいられない。前に全体朝礼があったのは学校の窓ガラスが割られたときだ。結局ウチの生徒ではなかったが2限目に食い込むくらいかなり絞られた。寧々はそのみんなの流れに加わると不安を抱えながら体育館に向かった。もう半分以上の生徒がクラス別に並んでおりその後列に寧々が座った。前の方には由佳の姿も見える。そうこうして、全校生徒が体育館に集まるが、まだ教員列がざわついている。その中で校長先生が神妙な面持ちで壇上に上がる。校長先生が一礼すると鋭い眼差しでこちらを見る。

「えー、今朝、登校の生徒がとあるアパートで遺体で発見されました。そこには中年女性と3年2組の中岸みえさんの遺体があり、部屋の中は一酸化炭素で充満していたそうです。警察の方では無理心中ではないかと・・・」

寧々はあまりの衝撃に動悸が止まらなかった。体はふらつき、校長先生の声がだんだん遠ざかっていく。顔はだんだん青ざめ冷や汗がYシャツにしみこみ背中にまとわりついていた。不思議と涙はでなかった。死の意味する本当の意味を理解してなかった。この全校生徒の中にみえがいる様な気がしてならなかった。そんな寧々の思いを否定するように強い雨脚が体育館の天井を鳴らしただ事ではないことを知らせてくれたようだった。


そんなことを知らない守は普段通り仕事に打ち込んでいた。メタンハイドレードの採掘も順調に進んでおりもう少しで目標の収集量になる予定だ。最近、佐々木らの連絡はないが一週間前の連絡ではいくつか小さい問題はあるが日々解決しているため、至って順調とのことだった。来週には守は部長に、小林は専務に昇進する予定だ。守はいつにもまして仕事に打ち込み一心不乱に仕事と向き合った。そんなこんなで昼食の時間を過ぎていた。部署には守と修一郎以外誰も残っていなかった。守は修一郎を誘い食堂に昼食をとりに行った。食堂に着くといつもの日替わり定食を注文する。二人はお盆を受け取るとテレビの見える位置にふたり並んで座った。守は最近修一郎が覇気がないことに気付いていた。

「お前最近どうしたんだ?全然元気がないな?」

「そ、そうか?そんなことないぞ。」

「そう?最近合コンとかいってんのか?」

「最近行ってないな~お前こそ嫁さんどうなんだよ?」

「あ~ちょっと退院伸びてな。まあでも本人は元気だよ。」

「あんな綺麗な嫁さんが家にいないなんてな~お前も大変だな。ご飯どうしてんだ?」

「あ~スーパーだな。寧々がたまに作ってくれるけど。最近二人とも遅くて簡単に済ますんだけど。なかなか作れないんだよ。独身の時も料理なんてしたことないからな。」

「お前それダメだぞ。寧々ちゃん可哀そうだろ。」

「あ~今はメタンで一杯一杯だからな。もう少し落ち着くまでだよ。」

「お前昇進するんだってな。お前はいいよな。望まなくても色々手に入って、順調そのものだよな。」

「何言ってんだよ。寝てても昇進できないよ。まあ別に昇進目当てで頑張ってる訳じゃないしな。やりがいのある仕事をひとつでもこなすのが俺のモットーなんだよ。」

「そういうとこがムカつくんだよ!さらっといいこと言ってんじゃねぇよ。そんな聖人みたい生き方が頭にくんだよ。」

「どういうことだよ?」

「みんな昇進したいから働いてるだけなんだよ。おまえもそうだろ?いいかっこしてんじゃねぇって言ってんだよ!」

「お前もういっぺん言ってみろよ!」

ふたりは立ち上がり胸倉を掴み合った。そんな時、テレビから臨時ニュースの高音が鳴り響く。しかし、今にも殴り合いの喧嘩をしそうな二人は気付かない。しかし、食堂にいたほかの社員から轟が響き渡る。それに気づいた二人はテレビを見た。テレビの上に白いテロップが出ていた。それを見た二人は胸倉をつかむ力が抜けていき目と口をぽかんと開けそのテロップ見入っていた。


―メタンハイドレード採掘現場で爆発炎上。作業員68名の生存絶望的。原因は不明。警視庁が捜査に乗り出す。―


 守と修一郎が部署に戻ると、皆、ひっきりなしに鳴る電話対応に追われていた。そんな様子をただ唖然と見入るしかなかった。

「石川!!幹部会が開かれるから同席しろ!!」

小林の焦った顔がより一層パニックに陥れる。小林と守はろくに会話もせずに息を切らし会議室に急ぐ。二人が会議室に着いた時には幹部連中は席に着き小林と守を穴が開くくらい睨みつけていた。守と小林が肩身の狭い思いで椅子にゆっくり静かに腰かける。そんな中、長塚が秘書と何やら話している。今まで見たこともないような険しい顔で耳を傾ける長塚。そんな様子をみた守と小林は息をのんだ。何やらFAXの用紙を見ながら長塚が話し始めた。

「皆さんも周知のことだと思うが、当社が携わるメタンハイドレード採掘事業で爆発が発生した。ついさっき流れてきた警視庁からのFAXでは採掘関連会社、三崎大学地質学研究所職員を含む68名全員死亡が確認された。今後原因究明に警視庁が乗り出すが現段階ではメタンタンクとパイプ管の連結部分が損傷も燃え方もひどいとのことでそれらの安全基準が十分に管理されていたかどうかが装填になるそうだ。勿論、現場を指揮していた三崎大学地質学研究所職員、事業計画を立案した当社への責任が追及されるだろう。もし不備があれば業務上過失致死で立件の可能性さえあるし、こんな多くの犠牲者を出したことで遺族への謝罪、慰謝料などの面でも弁護士を交えながらしていかないといけない。事が複雑なだけに当社としても慎重に動かないといけない。そのためには情報が必要だ。なんとしても正確な情報を手に入れたい。経営企画本部は情報収集に力を入れてくれ。以上、解散。」

そういうと長塚は秘書に連れられ足早に会議室を後にした。小林と守はどんなに落ち着けようとしても湧き上がってくる動悸と荒い息遣いに支配されていた。不意に前にある資料を持った時、紙はグシャグシャに揺れていた。


「ちっちゃい。かわいい~。」

京香はひろ代と共に産婦人科病棟に赤ちゃんを見に来ていた。京香とひろ代は月に5回はここを訪れる。数少ない癒しの空間だ。

「あらあの子ホントにちっちゃいわね。病気かしら?」

ひろ代がちょっと離れていたところにある無菌のゲージに寝ている一際小さい子に気付いた。見るからに未熟児で、多分未熟児の中でも更に一回り小さい子だ。そんな小さいカラダに点滴の管や心電図のラインを付け胸を精一杯広げ呼吸している。今にも消えてしまいそうな命を小さいカラダで必死に守っている。この子が一瞬でも生きる意欲がなくなればすぐに死が訪れる。世界には健康な命を授けられているのに自分で心臓を止める連中も数多くいる。京香はこの不条理に生きることへの不安や生きる意味を改めて考えさせられた。こんな小さい一つの命を救おうと知的な大人が何人も集まる病院もあれば、戦争の様に一つでも多くの命を奪おうとする組織もある。京香は愛を信じたかった。自分がそこにいる意義を信じたかった。自分は何かをするために生まれてきて、誰もが私の生存を祝福してくれる。ガンが私の体を蝕んでいるがそれは何か意味があり私はその病気を克服する運命にある。そう思わずには乗り切れないハードルもある。現実を否定することで京香は気持ちを維持していた。常に現実と向き合うことは最善の策とは限らない。京香は懸命に生きようとする赤ちゃんに自分を重ね合わせていたのかもしれない。自分はまだまだこの世ですることがあるはずで生きなければいけない。そんな時、ガラス越しで見ていたあの赤ちゃんの周りに看護師さんやお医者さんが集まってきた。どうやら容体が急変したようで急いで別室に移される。京香はまるで我が子のように、まるで自分自身の様にその子が愛おしく心配だった。どうかあの子を、私を助けてください。神様に願わずにはいられなかった。そんな後味の悪いまま病室に戻りベッドに横たわった。その京香の顔の前を一匹のハエが飛んでいった。そしてまた京香の顔の前を通る。そして京香の目の前にある床頭台にとまった。京香は近くにある雑誌を丸めると迷わずハエを叩き落とした。京香はただ目障りな一匹のハエを殺しただけだ。ただのハエだ。ただの。ただの一つの命を目障りという自己中心的な理由で殺したんだ。このハエにも嫁がいて子供がいて必死に生きていたのかもしてない。でも今はもうこの世に存在しない。生きたい命に終止符を打った。何の理由もないのに。なんの権限もないのに。何も考えず人がするべきことを何も考えずしただけだ。それから数日がしてあの子のことを看護師さんが話しているのが耳に入ってきた。あの子はあの後、一時は持ち直したが続かず絶命したそうだ。あの子には父親がおらず唯一の母親は薬物中毒で自分に子供がいることも把握できないそうだ。あんなに一生懸命何のためにあの子は頑張っていたのだろう。京香は涙することもなく、どこか冷めていた。だた襲ってくる虚無感がすべてを流し去っていった。


事故現場に警視庁捜査一課主任の龍田がいた。龍田はメタンハイドレード発掘プラットフォームに降り立つと見るも無残な遺体があちこちに転がっているのに気付いた。

「ひでぇーな。こりゃ。」

遺体はすべて黒焦げでバラバラになっており、人間というよりはモノに近い状態だった。龍田は辺りに充満する異様な匂いに鼻を手の甲で隠した。メタンハイドレードの成分は知らなかったが相当な起爆能力のある物質であることは現場から明らかだった。メタンガスが貯蓄されていたメタンタンクは姿をけし、かろうじて下の方の鉄が外に大きく湾曲しているのみだった。プラットフォームにもほとんど落ちていないため恐らく飛び越えて海に落ちたのだろう。

「龍田さん!お疲れ様です!」

龍田に声をかけてきたのは同じく警視庁捜査一課で後輩の諸星だ。

「おつかれさん。どうや?」

「はい。一番に現場にはいって色々調べたんですけど。どうやら機器の何らかのトラブルで火の気が出て、それがメタンタンクに引火し爆発したっていうのが今の有力な候補ですね。鑑識にも連絡を取って確認しているですけど、どうやらその説で間違いみたいです。」

「そうか。事件性はなしか・・・」

龍田は辺りをじっくり見て回りだした。辺りはコンクリートですら黒焦げになるほどの火の手で逃げ場がない。まあ海にでも飛び来ない限り助からないし、海に飛び込んだとしても自力じゃ岸まで泳げないくらい沖に出ている。まあ、誰かが船を回し拾うくらいのことはしないと犯行不可能だろう。もし事件性があったとしても単独ではなく複数による、または組織の犯行に間違いない。しかし、事件の証人が皆、真っ黒焦げでは話にならない。しかもここは海上の孤島の様なものだ。岸から見えるわけもなしい、この距離なら爆発音にも気付かないだろう。その証拠が第一発見者は現場から遠く離れた三崎大学地質学研究所職員で研究所内に設置された採掘状況を収めていたビデオが映らなくなり、現場の研究所職員に連絡をするも取れず、海上保安艇により爆発が確認された。龍田が警視庁の船で港を出た時も、漁師たちは物珍しそうに見ており、爆発のことは誰一人知らなかった。よしんば、誰かの犯行であったとして特定することは至難の業だ。龍田は頭を抱えしゃがみこんだ。しゃがみこんだ先に小さな白い布切れがあり何か書いてある。―研究所 佐々木―。その焼け焦げ飛び散った白い布は佐々木が着ていた白衣だった。龍田は何かに取りつかれたように研究所へ向かった。白い布切れが暗示されたメッセージの様に龍田を突き動かした。龍田が研究所に着いた時には警察の姿はなく引き揚げた後だった。龍田は研究所に入って行く。最初にひとりの研究所職員が龍田に気付き不思議そうに近づいた来る。

「どうされました?忘れ物ですか?」

そのスタッフはさっきまで来ていた警察の者と勘違いしていた。恐らく相当な人数の刑事たちが研究所に押し掛けたのだろう。

「いやいや。俺は初めてここにきたんだ。警視庁の刑事なんだがちょっとビデオの方を看させてもらおうと思ってね。」

「ビデオならさっき何回も刑事さんに見せましたっけど・・・」

「ああ。まあ、色んな視点から見たほうが事件解決の糸口になるかもしれないしな。」

「えっ!事件なんですか?」

「いやいや。例えばだよ。」

その職員は困惑したような表情で龍田を見るが決心したようにビデオがみれる監視室に龍田を案内した。監視室には何台もモニターがあり、テレビ局のモニターが一杯置いてある編集室の様ないで立ちだ。研究のためか色々な場所で作業する人を1台1台映し出している。その中で何も映し出してない真っ黒なモニターを見つけた。

「これがメタンハイドレードの採掘現場のモニター?」

龍田はその職員に尋ねた。その職員は静かにうなずくと何やら機会をいじりだした。どうやらビデオを巻き戻しているようだ。黒いモニターに白い線が3本入りどんどん時間を遡っていく。何十秒か経った頃、ようやく風景が見えるようになった。その風景は、何やら高い視点からプラットフォームを行きかう作業員を映し出している。何やら忙しそうに皆駆け足で作業しており、採掘作業の多忙さ物語っていた。その映像が永遠と続き、急にモニターが真っ黒になる。

「多分、この時に爆発したんだと思います。カメラは採掘場の一番高いところに設置され従業員の動線が一目でわかるようにと佐々木先生から指示がありました。」

「佐々木?」

「そうです。この研究所を統括されていました。今も信じられません。これからどうなるのか・・・。じゃあ、このレバーで巻き戻しできますんで何回でも見直してください。」

そういうとその職員はモニター室を後にした。一人きりになった龍田は何回も何回もビデオを再生するが一向に何の手がかりもなかった。ただ従業員が忙しく行きかい真っ黒になるだけ。龍田は机に肘をつき頭を抱えていた。そんな時、部屋に先ほどの職員が入ってきた。

「どうですか?」

心配そうに尋ねるが、龍田は力なく首を振った。

「そうですか・・・そのビデオには過去1週間分の記録がされるようになっています。またよかったら見てください。事件じゃないことを願ってますけどね。」

「ありがとう。そういえば名前はなんていうんですか?」

「あっすいません。三崎大学地質学研究所の酒井と申します。また、宜しくお願いします。」

そういうと再び部屋を去っていった。龍田は酒井の言う通りビデオテープを1週間前まで遡り映像を食い入るように見ていた。過去7日前、6日前、5日前、順番に映像を見ていく。その時、何か違和感を感じた。早回しで爆発前の映像を見るがやはり過去の映像とは何か違う。しかし、その時の龍田のは何が違うのかわからなかった。何か気持ち悪い違和感のみが龍田の胸を曇らせていた。しかし、何度も何度も映像を見るうちに核心に迫っていく。作業員の人数が違うのか?いや、作業員は常に一定の人数だったと調書に書いてあった。それなら作業内容が違うのか?メタンハイドレード発掘は多少なり作業工程の変化はあるもののほとんど機械システムが行うため人為的な作業のほとんどは制御室で電子媒体を通して行われる。作業員がプラットホーム上に出て作業するのはトラブルが発生した時が主だ。つまりこの違和感はプラットホームに出ている作業員の数や作業員の慌てている行動だ。明らかに爆発前、作業員の数は過去の日と比べ物にならないくらい多い。また、作業員の移動速度も過去の日とは比べ物にならない。ということは、作業員は何らかのトラブルを認知しそれを解決するために四苦八苦プラットホーム上で足搔いていたと考えるのが自然だ。しかしこれだけの証拠では事件性があるのかどうかわからない。龍田は酒井を呼んだ。

「プラットホーム上で彼らは何をしているかわかるかな?」

「あ~それは先程来た刑事さんにも質問されました。作業員は基本プラットホーム上にはでません。何人かは出る可能性がありますが大量に出ることはまずないです。しかし、内部で何かあったときには作業員は出てきます。」

「じゃあプラットホーム上で作業員は特に作業はしていなかったっこと?つまり、内部の何かから逃げていたってことか。」

「そういうことになります。」

「内部で何が起こったんだろう?」

「警察の方々は機械システムになんらかの火気トラブルが発生しメタンタンクに引火したのが有力だと言っています。でもどうしても納得がいかないんです。メタンガスは引火すれば非常に危険なのは十二分に理解しているし、設計自体引火などできないように考慮して作られています。多くの科学者が練って練って作り上げました。しかし、爆発が凄まじく立証するほどの痕跡がほとんど残っていないくらい木端微塵になってしまいました。検証できないんです。」

「事件性も否定できないということか?つまり爆薬や人為的に火気を近づけた可能性もあるということか?」

「まあ、理論上は可能性を否定できません。しかし、そんなことをしても犯行に及んだ人も死んでしまいますし、もし遠隔操作ができる爆発物であれば相当の資金力や権力を持っている組織でなければ手に入れることは不可能でしょう。」

「大きな組織か・・・メタンハイドレード採掘権を巡ってどこか競合他社が存在しなかったか?」

「いえいません。ほぼ寡占でした。というのも、三崎大学地質学研究所はメタンハイドレード採掘に全力を尽くしてきました。その結果、採掘機械システムを構築し独占的に各種特許申請、取得を行いました。つまり、国内でメタンハイドレードを採掘できるのはウチだけなんです。そこで地元で一番に資金提供に名乗りを挙げてくれたのが長塚商社さんになります。」

「長塚商社?」

「地元で一番の資金力を持っている企業です。色々な分野で活躍するコングロマリッド企業で、社長さんは地元でも権力者で県議会にも影響力があると言われてます。」

龍田は長塚商社に行くことにした。手がかりは何もないが情報は多くあるのに越したことはない。

「それで長塚商社の担当者は?」

「経営企画本部の石川さんです。石川さんはメタンハイドレードプロジェクトを最初から担当されていた方です。」

「分かりました。ありがとう。」

そういうと龍田は研究所を後にし長塚商社へ向かった。


その時、守は鳴りやまない電話対応と今後の方策に関する企画書に追われていた。今後、警察が発表する正式な原因に対してあらゆる対策を考えなければならない。システム設計上の問題点であれば研究所と話し合いの場を設けなければならないし、作業員による過失であれば作業手順・マニュアルの見直しをしなければならない。守に死者を悼む時間など残されていなかった。資本主義の歯車になり、ただひたすら回り続けるしかなかった。そんなあわただしい中、一本の内線が鳴る。

「はい、経営企画本部石川です。」

「お疲れ様です。受付ですが、今警視庁の龍田様が石川さんにお話を伺いたいとお見えになっていますが・・」

「龍田?わかったよ!じゃあロビーにお持ちいただいて。今すぐ向かうから!」

守は警察側の情報が入ることに今後の展望を定めようと忙しい中でも快く龍田を受け入れた。

「あっすいません。お待たせしました、長塚商社経営企画本部石川と申します。」

「あ~すいません、お忙しいところ。警視庁捜査一課主任龍田です、よろしく。」

二人は名刺交換を終えるとテーブルを間に置き向かい合いソファーに腰掛けた。

「お話と申しますとメタンハイドレードの件で進展があったんでしょうか?」

「いや。その逆で・・色々情報収集をしているんです。さっきまで研究所の方にもお邪魔させていただいてて、今度は今回のプロジェクトの担当者である石川さんにお話を伺おうと思いまして。」

「あ~そうですか。」

「僕は事故と事件と両面から探ってまして・・・」

「事件?事件とはどういうことですか?」

「いや~証拠は何もなんですけどね。何か腑に落ちなくて。研究所の酒井さんもシステム設計上の不備で引火するなんて考えられないって言うんですよ。私もこれだけの事業規模でメタンハイドレードを熟知した科学者達がこんな凡ミスを犯すはずはないと思っているんですよ。利益は莫大なもんですから妬みを買ってもおかしくないし、大きな組織が動いていても不思議じゃないんですよ。それで長塚商社さんの競合他社さんとか心当たりはないかと思いまして。」

「ん~そうですね。競合他社はいますがそんなことをいったら大小企業問わずきりがないですからね~おっしゃる通りその企業にとったら莫大な利益になりますから。」

「それもそうですね。」

二人の間に沈黙が広がる。

「向井教授が作り上げたシステムですから僕も信頼してるんですよ。向井教授はメタンハイドレード採掘に人生を駆けたお人ですからね。」

「向井教授?佐々木ではなくて?」

「あっそうなんです。向井教授と長塚商社は共にメタンハイドレード採掘に向けて長く歩んできました。しかし、いざ採掘の準備が整った時にアメリカの研究所に引き抜かれたんです。」

「引き抜かれた?そんなに苦労して、人生まで駆けた夢を途中であきらめて?」

「そうなんです。」

このとき守は突然向井にバーに呼び出された夜のことを思い出した。向井は苦悩の結果、アメリカの研究所へと移ったのだ。

「おかしいですね。そこから何かつながってるように思えるな。」

「どういった経緯かはわかりませんが向井教授はあまり行きたい感じではなかったです。なにかに追われていたような・・」

「尚更ですね。向井教授の連絡先を教えてもらってもいいですか?」

そういうと龍田は携帯を取り出し、守から連絡先を聞き出すと一礼し長塚商社を後にした。守は龍田を見送ると重い足で自分のデスクへ戻っていった。


寧々はなんとか授業を終え部活を休み家に帰ろうとしていた。みえのお通夜は明日で、明後日が葬式だ。それまでに自分の中で整理を付けたかった。みえがもうこの世にはいなく、一生会えないのだと。そんな時、由佳が寧々に声をかける。

「やっぱり今日部活いかないんだ・・・」

寧々は黙って教科書を詰めていたランドセルを見つめる。

「私も今日は休もうって思ってた。寧々一緒に帰ろう。」

「うん。」

寧々と由佳は寄り添うように教室を後にした。階段を降り、下駄箱に靴を入れ校門を出る。二人とも無言で喋ることはいけないことの様に沈黙を守った。みえのことを思い出す。ちょっと気が強いが頼れるお姉さんのような存在だった。ちょっと大人びた考え方が寧々と由佳を引っ張っていた。しかしもうここにみえはいない。少しづつ少しづつだが死に対する実感が湧いてきた。こんなにも寂しくこんなにも胸が締め付けられるものか。寧々は胸を抑え立ち止まった。呼吸しているのに息ができない。

「寧々大丈夫?」

由佳は寧々を支えると近くの公園のベンチまで付き添った。

「ありがとう由佳。」

「ホントに大丈夫?」

「うん。ちょっと楽になった。」

「それならよかった。」

二人はベンチに座りまた沈黙を守った。夕暮れに公園をゆっくり散歩する老夫婦や犬の散歩する人がたまに行き交う。そんなのどかな風景が二人の心を少しづつ沈めてくれる。まるで何事もなかったような平和な風景、私たちの身に起こった事は世間では何の影響もない。公園にいる人は皆幸せそうに微笑みゆっくり流れる時間を楽しんでいた。そんな時、由佳が沈黙を破る。

「あのさ・・みえの様子最近おかしくなかった?前に寧々のお母さんのお見舞いに行った時もみえが無理やり引っ張って言った感じじゃなかった?」

「うん。練習にもあんまり来なかったしね。」

「これ言おうかどうか迷ってたんだけど・・・お見舞い行く前の日にみえから電話がかかってきて寧々をバトミントンから離そうって・・・」

「ど、どういうこと?」

「寧々が小百合さんとかと練習するようになってみえがちょっとづつおかしくなっていったの。寧々に嫉妬してたみたいなんだ。それでその手始めが寧々のお母さんのお見舞いだったの。このままじゃ3人でいられなくなるって言って私もみえの話に乗ることにしたの。でもそれからみえは部活に来なくなったんだ。でも、寧々が悪いわけじゃないよ。寧々は一生懸命頑張ってただけなんだから!」

寧々は返す言葉がなかった。自分が必死にバトミントンに打ち込むことが親友を傷つけることになっているなんて思いもしなかった。どんどんうまくなって行けばいくほど、みえにとっては面白くなく、ただのストレスになっていた。正しいことを先生の言うことを聞けば聞くほど友達は周りからいなくなってしまう。寧々にはどうすればいいかわからなくなっていた。自分が信じたバトミントンが人を傷つけていたことに自分の中の芯が崩れ落ちた。そんな寧々の頭には、もし自分が上達しなければみえは殺されずに今も一緒に居れたんじゃないかとか自分を責めることしかできなくなっていた。でも由佳が必死で励ましてくれた。それでなんとか気持ちを保たせていた。何とか自宅に帰ると電話が鳴っている事に気付く。いつもは走って電話に出るのだが今回ばかりは走る元気もない。重いランドセルを下ろすとゆっくり電話の鳴るほうへ壁を伝いながら歩いて行った。

「はい。石川です。」

「お~寧々か!」

電話の相手は守だった。

「ちょっとお父さん仕事で遅いから先ご飯食べて寝ててくれ!ごめんなー」

「うん。わかった。」

そういうと寧々は受話器を置いた。守もいつもより元気がない寧々に気付いたが今はそれどころではなかった。処理しなければならない書類が山積みになっていた。寧々は電話から離れると崩れるようにソファーに座った。ぼーっとついてもいない真っ黒のテレビを見つめていた。そのテレビには力なくソファーにもたれる自分が情けなく映っていた。そんな自分を客観的に冷静に寧々は見ていた。自分は人からどう思われているんだろう?みえみたいに知らず知らずのうちに傷つけているんだろうか?そんなことを思っていると自分が憎らしくダメな人間に見えてくる。寧々はいてもたってもいられなかった。自分の存在がだんだん消えてくる。自分がどんな人間だったかもわからなくなっていた。何か蔑んだ感情が寧々を支配し見える世界が荒んで見えてしまった。視界はだんだん狭まっていき現実なのか頭の中で起こっているものなのか判断がつかなくなっていった。寧々はふっと立ち上がると玄関のドアを開けフラフラ夜道を彷徨いだした。当てもなく只々、足が進むほうへ体がついていく。そのうち動悸が寧々を遅い路肩に座り込む。辺りには誰もいなく静まり返った夜の静寂に包まれていた。

「ハァハァハァ」

ほんの少ししか歩いていないのに急激な動機が寧々を襲う。

「誰か助けて・・・」

寧々は誰かに助けを求めた。皮肉にもみえと同じ状況に寧々は立たされていた。そんな時、強烈なライトが寧々を照らす。車のライトだ。その車は寧々に近づくにつれ徐々にスピードを落していく。そして寧々の近くに車を付けるとドアを開け寧々に近づいてくる。

「どうしたの?お嬢ちゃんこんなところで。」

見知らぬスーツ姿の男が寧々の前に立っていた。寧々は我に返り脇目も振らず家に向かって走った。急いで玄関のドアを締め鍵をかける。寧々は急いで二階に駆け上がると窓際まで行き、家の外を見た。するとその車は家の前で止まっているではないか。慌てて階段を駆け下り守に電話を掛けた。

「おう、どうした寧々。」

「パパ!外に怪しい男の人がいる!」

「えっ?怪しい男の人?」

「うん!でも家の鍵締めたし入ってこれないと思う!」

「そ、そうか!もうすぐ着くから家の中から動いちゃだめだぞ!!」

「うん!早く帰ってきて!」

寧々はそういうと受話器を置いた。高鳴る鼓動と激しい息遣いで寧々の頭はクラクラだった。パパ早く帰ってきて!、そんな思いでソファーの陰に隠れるように身をすくめていた。そんな時、家のドアが開いた。寧々は一目散に玄関に駆けつける。しかしそこには、スーツ姿の男が立っていたのだ。

「キャー」

寧々が悲鳴を上げると男の後ろから守の笑い声が聞こえる。寧々は悲鳴もつかの間あっけにとられた。よく見るとスーツ姿の男と守は顔を合わせて笑っている。

「寧々大丈夫だよ。この人警察の人だから。」

そう、このスーツ姿の男は警視庁捜査一課主任の龍田だった。龍田は向井と連絡をとり、そのことで守を訪ねたのだった。

「えっ?警察?」

「ごめんね、寧々ちゃん。驚かせたね。」

龍田は腰をかがめると寧々を見てにっこり笑った。

「ちょっとお仕事でね。パパこの刑事さんとお話があるから寧々はもう寝なさい。警察の人がいるから安心だよ(笑)」

寧々は赤面し二階に駆け上がった。そんな寧々を見送ると守が龍田をリビングに案内した。

「すいません。こんな夜にお邪魔して。」

「いえいえ。それはそうとこんな夜にどこで寧々と会ったんですか?」

「石川さんの家に向かってる途中で一人の女の子が道端に座ってたんで僕もびっくりしたんですよ。それで声を掛けたら変質者と間違われてね。こんな感じです(笑)」

「寧々が一人で道端に??」

守は寧々がなんでそんな奇行に走ったのか知りたかったが龍田の前であったため平静を保った。

「それで向井先生はなんとおっしゃられていたんですか?」

龍田はさっきまでの優しい顔つきを変え鋭い眼差しで守の方を見つめた。

「いやそれが、向井教授は自分の意思でアメリカの研究所で働く友人の手助けに行きどこからの圧力も受けていないというんです。」

「あ~そうですか。」

「何度も何度も聞くんですがその一点張りで。でも石川さんはそうは思わないでしょう?」

「そうですね。でも向井先生がそういうならそれ以上は推測の域を超えません。たとえ何か黒幕が動いていたとしてもなんの証拠もないわけですから。」

「逆に考えれば向井教授も逆らえない権力ということです。つまり、日本の大学教授の逆らうことができない存在。限られてくるでしょう?」 

「私もそう思ってました。教授レベルが動かされるのはやはり国がらみなのではないでしょうか?しかも、もしかしたら日本だけではないのかもしれません。それを向井教授は知っている。佐々木先生が亡くなられたと知っているはずなのに僕のところに連絡一つありません。もしかしたら、首を突っ込むべき問題ではないのかもしれません。向井教授ですら恐れを抱いているんですから・・・」

「でも石川さん。このままいけばメタンハイドレードの採掘は無期限の停止になり、その非が認められれば長塚商社さんの責任問題にまで発展します。遺族からの集団訴訟にまで発展すれば御社の存続の危険性まで生じてしまうんですよ。」

「わかってますけど、どうしたら・・・」

「明日、若山大学地質学安藤教授に会ってきます。」

「安藤教授?」

「ええ、安藤教授は地質学の権威です。向井教授は安藤教授の教え子だと聞きました。そんな方なら何か知っているかと思いまして。」

「そうですか。わかりました。」

「じゃあ、もう遅いんで私は帰ります。すいません、遅くまでお邪魔して。」

「いえいえ、じゃあまた何かわかったら連絡ください。」

龍田は玄関前まで見送った守に一礼して去っていった。守はひとり玄関前で突っ立っていた。龍田の言う通りこの事件の成り行き次第では長塚商社は窮地に立たされる。もし、長塚商社が潰れることになれば石川一家は路頭に迷うことになる。京香の医療費に寧々の教育資金、住宅ローン、生活費など多大な出費は長塚商社なしには成立しない。守の胸にズーンと重しがのしかかり体の力が抜けなかった。その夜、次から次へと襲ってくる最悪の事態から頭が離れず守は一睡もできなかった。翌朝、リビングのソファーで呆然と頭を抱える守がいた。ふと時間が気になり時計をみるともう寧々が起きる時間をとおに過ぎていた。守は急いで二階にあけ上がり寧々の部屋のドアを勢いよく開けた。寧々はまだ布団の中にうずくまっている。

「寧々!寧々!学校だぞ~!」

守は蒲団の上から寧々の体を揺らすが一向に起きない。今までにこんなことが一回もないため具合が悪いのか心配した。

「寧々、具合悪いのか?」

すると、か細い声で布団の中からかすかに声が聞こえる。

「学校いきたくない・・」

守は驚きを隠せなかった。あんなに学校が好きだったのに。

「みえちゃんのことか?」

何も返事が返ってこない。守は蒲団を優しくめくると寧々を抱き起した。寧々はベッドに座ったままずっとうつむいて顔を隠していた。守は優しく語り掛ける。

「寧々、みえちゃんのことはびくりしたな。パパもびっくりしたよ。みえちゃんはでも苦しまずに死んだんだよ。寧々がショックなのはわかるけどみえちゃんは元気のない寧々は見たくないと思うよ。みえちゃんは寧々が勉強やバトミントンに頑張るのを望んで・・・」

守がまだ話している途中に寧々が勢いよく顔を上げ守を睨みつけた。

「みえは寧々が頑張るのなんて望んでない!寧々が頑張ったから死んだんだから!!」

そういうと寧々は勢いよくドアを開け階段を走り下りて行った。守はびっくりして腰を抜かした。あんな恐い寧々を、あんなに怒った寧々を見るのは初めてだった。守はしばらくの間、寧々の部屋の床に腰をおろし身動きができなくなっていた。それと寧々が言った言葉の意味が全く理解できずにいた。そんな時、玄関のドアが閉まる音がする。守はゆっくりと下に降りると寧々のランドセルと、制服がなくなっているのに気が付く。

「学校行ったんだ・・・」

守はひとまず寧々が学校に行ったことに安堵した。しかし、寧々の言った言葉が頭から離れない。どういう意味だろう。何度考えてもわからなかった。寧々はみえが亡くなったことで一時的に感情的になっているんだ。辛いことだがゆっくり時間が解決してくれる。守はそう自分を思い込ませた。


 警視庁捜査一課の龍田は安藤に会いに若山大学に来ていた。龍田は若山大学の門をくぐると安藤が待つ教授室へ急いだ。安藤は龍田のアポイントに快く承諾し迅速にコンタクトの場を設けてくれた。もしかすると安藤はこの件に一切関与していないのではないかという疑心が生まれる。龍田は安藤の部屋の前に着くと一息ついてノックする。

「警視庁捜査一課の龍田です。」

「はい、どうぞ~」

中から安藤の声が聞こえてくる。龍田はゆっくりとドアを開ける。そこには高級そうな黒革のソファーに腰掛け笑みを見せる安藤がいた。安藤の部屋はきれいに片づけられており、本棚には難しそうな厚い本が所狭しと並べられていた。

「すいません。お忙しいところお越しいただいて。どうぞ座ってください。」

「ありがとうございます。」

龍田は目の前にあるソファーに座ると安藤はコーヒーを両手に安藤が対面に座った。

「どうぞ飲んでください。」

「あ、すいません。」

ふたりは一口コーヒーを口に含むとテーブルに静かにカップを置いた。安藤が先陣を切る。

「それで今回はどういった用件でしょうか?電話でおっしゃれていたメタンハイドレード採掘現場爆発に関してとお伺いしましたが・・・若山大学としては勿論、警視庁さんの捜査には全面的に協力いたします。」

「ありがとうございます。今回の爆発の件ですが、三崎大学の地質学研究所の佐々木教授は若山大学出身で安藤先生の指示で行かれたとお聞きしました。」

「そうです。佐々木は残念なことをしました。彼は私の教え子の中でも優秀な科学者のひとりです。悔やんでも悔やみきれません。確かに佐々木を三崎大学にやったのは私です。国の一大事業に携わりたいという彼の志に私も手助けしてやりたくて・・」

「しかし、佐々木教授が就任する前には向井教授というメタンハイドレードの権威がおられたとか。しかし、その向井教授はメタンハイドレード採掘直前にアメリカの研究所に異動しています。これはなぜですか?」

「ご存知かと思われますが佐々木も向井もアメリカの研究所にいる島田も皆、私の優秀な教え子です。向井君がアメリカへ旅立ったのは私は関与していません。彼の意思です。向井君に聞いた話では島田君方からラブコールがあったそうです。彼も仲間思いの優しい男です。勿論、メタンハイドレード採掘に関しては苦渋の決断だったのでしょう。その相談を彼からされたときは私のできる限りのサポートを約束しました。それが後任教授の佐々木の確保だったのです。佐々木君には残念ですがこれもこの世の定め、運命は誰にも変えることはできません。もし、向井君がそのまま採掘に関わっていれば今度は彼が亡くなっていたのですから。彼の選択は生物学上に正解だったことになったんです。こればかりは何とも言えません。夢を追ったふたりの運命がこれまでの格差を生じさせたんですから。」

安藤はまるで台本でもあるようにペラペラ言葉を連ねていく。龍田は経験上、用意された言葉とその場で考えて出された言葉を見分けることができる。今回の安藤は前者である。安藤は何か隠している、そんな思いが龍田の脳裏に浮かぶ。龍田は揺さぶりをかけることにした。

「僕は納得いかないですね。納得のいく道理が微塵も感じられない。まるで何かに操られたように教授たちが動いてる。そう思えて仕方ないです。まず、向井教授の退任。長塚商社さんの担当の方から聞いた話ですとあまり乗り気ではなかったそうです。アメリカにいる島田教授と向井教授との仲も自分の夢を捨ててまで助けるというほど関係性は深くない。ここに来るまでに色々調べさせてもらいました。向井、島田の

同級生に聞くと二人は確かに優秀でクラスの中でも飛びぬけた存在だった。しかし、友情に近いものはそこには存在しない。わかりますよね?ライバル同士は順位づけで夢中になるものです。どうやって相手順位を落とし、自分の順位を上げるかです。私にも経験があります。自分の追い続けた夢とライバルの窮地を天秤にかけた時にどちらに軍配があがるか?誰に聞いてみても明らかでしょう。ましてやメタンハイドレードの採掘は世界中が注目する一大事業。日本いや世界に利害関係が交錯しあう。勿論、アメリカのシェールガスも世界中に注目されている。しかし、向井からすれば畑違いでしょう。一生懸命に自分の畑で野菜を育ていざ収穫になったとき隣の畑を助け自分の収穫を不意にする人間がどこにいますか?もし自分が向井なら島田からのラブコールは自分の手柄を横取りする邪魔者にしかみえない。教授の先生なら尚更思考を巡らせるでしょう。断言します。今安藤線がおっしゃられたのは嘘でしょう。向井を海外に追いやったのはそんな事実を知りながらもなくなく海外に行かなくてはならない大きな権力、陰謀が動いていた。違いますか?つまり、安藤教授!あなたが向井を何らかの理由で追いやった。そうではないのですか?」

安藤は目をまんまると見開き龍田を見つめた。コーヒーカップを加えあっけにとられている。しかし、その瞬間、顔をグシャグシャにし大笑いを始めた。作り笑いではない、心底、腹の底から出てくる笑い声だ。龍田はイラッとした目で安藤を睨みつける。そんな龍田に安藤が気付く。

「すいません。すごい想像力ですね。感心しました。馬鹿にしたわけではありません。さすが警視庁捜査一課の主任さんだ。お見事です。しかし、その話は推測の域を超えることはできないでしょう。先程、私がお話した内容に嘘があるとおっしゃられていましたが嘘はありません。事実そのものをお話しました。もしそれでも嘘とおっしゃるなら逮捕されてもかまいません。取り調べでも法廷でも証言するつもりですから。それでは午後の講義がございますので失礼いたします。」

そういうと安藤は部屋を後にした。龍田は安藤のあの落ち着いた言動に唖然とした。間違いなく事実に反した事を言っているのになぜあんなに堂々としていられるのだろう。間違いなく大きな権力が動いている。しかし、安藤が向井を追いやったことを証明したとしても爆発とは関連性がない。向井が採掘を続行したとしても爆発させれば佐々木も向井も関係ない。死ねば一緒な事なのだから。向井には研究所にいてはならない大きな理由があるはずだ。しかし、このままいけば長塚商社、三崎大学の採掘は永久に停止され今までの功績も白紙に戻される。利権争いであれば必ず、メタンハイドレード採掘の後釜を狙う動きが出てくるはずだ。しかし、それを待っていたのではことが遅すぎる。何としても証拠を見つけ出さなければならない。死人に口なしでは済まされない数多くの尊い命が犠牲になっているんだ。彼らは皆働き盛りの男たち。家では愛する妻、子たちが待っていて将来を有望視される人材だ。社会に身を委ね懸命に生きてきた。国がとる方策に従いそれが幸福であると自己を信じ込ませ。そんな純粋な人間へせめてもの報いが真実を世間に教えることではないか。人間の死には絶対的な理由が必要だ。それは犠牲者本人だけではない、残された遺族の人生の再出発にも必要不可欠だ。俺はそういう仕事を生涯を通し見極めるつもりだ。妥協は許されない。龍田は証拠さがしに没頭する。人、モノに限らずすべての媒体を守底的に洗い出した。


 京香は病院の中庭をぶらぶら歩いていた。ベンチを見つけるとゆっくりと腰を下ろす。目の前には病院に入院している子だろうか、病衣を着たまま元気にサッカーボールを追いかけている。大きな声を出しながら夢中になってボールを追いかける。そんな無邪気な笑い声が今の京香には耳障りだった。

「よっ!京香元気か?」

後ろから男の声が聞こえる。翔太だ。

「う、うん!今日も奥さんのお見舞い?」

「おう。もう明日退院だけどな。」

翔太はそういいながら京香の隣に腰を下ろす。左手にはコンビニの袋をぶら下げていた。

「奥さんの差し入れ?」

「そうなんだよ。スイーツが食べたいらしい。」

翔太はコンビニ袋の中身を京香に見せた。

「わあ~おいしそう!!」

「一個やるよ。ほれ!」

「いいよいいよ。奥さんのでしょ。奥さんにあげて。」

京香は翔太からもらったプリンをコンビニ袋に戻そうとする。

「なにやってんだよ。いいって言ってるだろ。」

翔太は京香の手を掴んだ。プリンが京香の手から落ち地面を転がっていく。二人は一瞬見つめ合うとすぐに目をそらした。京香が翔太の手から自分の手を引こうとするが翔太がさらに強く手首をつかむ。また、二人は見つめ合った。

「なんで急に来なくなったんだよ。おれずっと待ってたんだからな。」

京香は心臓を鷲摑みにされた気分だった。高鳴る鼓動がおさまらない。まるで高校時代に戻ったようんい純粋に翔太に心を奪われていた。恥ずかしそうにうつむきながら京香は答えた。

「ごめんね。でももう昔の話よ。」

翔太は京香の方をしっかりと見つめるとこういった。

「俺の中じゃ昔じゃないんだよ。いまでもお前のこと好きなんだよ。この前お前に会ってまた思い出したんだよ。ずっとずっと忘れようと必死になってたもんがまた・・・」

翔太は京香の手を強く引っ張ると京香を引き寄せ抱いた。京香はいけないことだと分かっていた。しかし、その居心地のいい安心感のある胸板がすべてを忘れさせる。結婚していることも、子供がいることも、病気で死にかけていることも・・。

そんな自分を止めることなどできなかった。京香は翔太の背中に手を回すと強く強く締め付けた。京香がずっと満たされていなかったものが満たされていく。昔、自分の足で歩いていくと決めた決意も姿を消してた。ただ、目の前にある欲望に従うしかなかった。二人はいつまででも抱き合っていた。まるで過去の過ちがなかったかのように・・・。


そんなとき守は会社の昼休みにランチを取りに繁華街に出かけていた。昨日、一睡もできなかったことが祟って照り付ける日差しに勝つことができない。フラフラと繁華街を歩いていると後ろからいきなり肩を叩かれた。びっくりして振り返るとそこには笑顔の眞代がいた。

「石川さん!ダメですよ。そんなフラフラ歩いてたら!」

「お~ごめんごめん。どっから見てた?」

「会社出た時からですよ!なんか元気なさそうだからそ~と付いてきたんです!ランチですか?」

「う、うん。一緒に食べる?」

眞代は笑顔で頷いた。守は眞代の案内で人気のアジア料理店に入る。二人のもとにランチ料理が運ばれてくる。

「じゃあ食べましょうか!いただきま~す。」

元気にモリモリ食べる眞代を横に中々、守は箸が進まなかった。そんな様子に眞代が気付く。

「やっぱり変!守さんどっか具合悪いんですか?」

「いやそんなんじゃないんだけど・・・全然昨日眠れなくてね・・・」

「メタンの件のせいですか?」

守は力なく頷いた。

「そうですよね。すごい事故でしたものね。中々、整理がつかなくて当然です。でも守さんは頑張りすぎです。」

そういうと眞代は立ち上がり椅子に座っている守の後ろに回り込んだ。そして、優しく守の肩を揉みだした。

「守さん、こうやって肩の力を抜いてください。体壊したら元も子もないんだよ。頑張りすぎ!」

「ありがとう。」

守は目をつむると不思議に気持ちが楽になった。後ろにいる眞代からは香水のいい匂いが漂ってくる。それに加え、眞代の優しい手が守を癒していた。眞代は守の耳元で優しく囁いた。

「守さん、私でよければいつでも相談に乗りますから。連絡してくださいね。」

守は度重なる苦痛と心労で心がいけない方向に動きそうだったが食い止めた。

「あ、ありがとう!!もういいよ!ホントにありがとう!」

そういうと眞代の手を優しくのけた。眞代は不満足そうな表情で席に戻り、また守に満面の笑みを見せた。守は姿勢を取り直した。

「よぉ~し!!食べるぞ~!」


 寧々は授業が終わるとひとりでみえの通夜に行った。死んだみえに聞きたかった。自分のせいで死んでしまったのか。自分を死ぬほど憎んでいたのか。そんなことを思いながら寧々は列に並んでいた。すると、参列している人たちの話し声が聞こえてくる。

「みえちゃん、寂しかったみたいね。お母さんが居ない夜に一人で道路に座ってたんだって。」

「そうなの?物騒ね~」

「それでね。そこでその女と出会ったらしいのよ。何回かそこで会って親しくなったんだって~」

「寂しいと誰にでも傍にいてほしいものだものね。」

「そうなのよ~その女の人も子供居なかったみたいでみえちゃんのことホントに可愛がってたらしいのよ。それでね、心中した後、警察が部屋に入ると遺書があったらしいの。遺書には、ごめんなさい、ひとりじゃ生きていけないって書いてあったらしいわよ。」

「あら~なんでまたみえちゃんまで道連れにするかね~可哀そう~。」

「ホントひどい女よね~」

寧々はその話を聞いてるうちに気分が悪くなり列を離れた。そのまま寧々は宛てもなくフラフラと夜道を彷徨い歩き出す。気が付くと夜の学校の校門前まで来ていた。寧々は学校の裏玄関から入るとただひたすら階段を上り続けた。寧々は屋上のドアを開けると一直線にフェンスに近づいた。フェンスを乗り越えると今にも落ちそうなくらいの縁に立った。寧々は下を見下ろす。下にはロータリーが見えるがいつもとは違い手に握れそうなくらい小さく見える。寧々の髪やスカートを風が揺らす。まるで飛び降りるのを急かす様に背中から吹き降ろす。寧々の目は虚ろだった。恐怖感は微塵も感じず、全ての感覚は麻痺していた。早くこの背中に乗っかっている重圧や心を支配する自己嫌悪から解放され楽になりたかった。視界はだんだん狭まっていき、ついには視覚すら機能しなくなった。寧々はゆっくりと目を閉じた。あんなに好きだったパパやママ、友達の存在感が感じられない。この世はまるで自分一人だけ取り残されたように凄まじいほどの孤独感で押しつぶされそうだった。そんな時、寧々の携帯が鳴る。寧々は着信先も確認しないままそっと足元に置いた。その後もその携帯は持ち主不在のまま悲しく鳴り響いていた。


守は自宅で受話器を置いた。何度かけても寧々と連絡がつかない。今朝のこともあり、胸騒ぎを覚えた守は慌てて玄関を飛び出した。いやな予感がする。守は会社に家庭に大きな問題を抱えたまま走り出した。人生はこんなにも辛いものなのか?そんな考えがいつしか涙に変わっていた。守は走りながら何度も何度も寧々の携帯を鳴らす。一向に出る気配のない携帯に苛立ちを覚えながらも走り続け、掛け続ける。そんな時、呼びたし音が消えた。

「はい?もしもし?」

男の声だ。

「ど、どちら様ですか?」

「私、学校の警備員で屋上でこの携帯電話を拾ったんです。」

「屋上?寧々は?娘はそこにいませんか?」

「た、大変です!下に女の子が・・・」

そういうと通話が切れた。最悪の状態に、声を切らしながら守は学校へ向かう。守の足では10分もあれば着く距離だ。全身から血の気が引き、フラフラになりながらも尚、走り続ける。学校が試合に入ると同時に赤い点滅した光が目に入る。救急車だ。しかし、救急車は校門を出ていく。守はありったけの声で救急車に向かって叫ぶが声が届かない。無情にも救急車はどんどん遠ざかっていく。守が学校の校門に着くころにはもう見えなくなってしまい、サイレンの音だけがかすかに聞こえる。守は周りにいる野次馬をかき分け警備員に近づく。警備員は呆然と突っ立ていた。警備員に話しかけようとしたその時、夥しいほどの血液が足元に広がっていた。守の足はガクガク震え立っているのもやっとだった。とにかく早く寧々のそばに居たかった。寧々がこの世界に身を置いている貴重な時間を共に過ごしたかった。

「ど、どこの病院ですか?」

「三崎大学病院に搬・・・・」

守は聞くか聞かないかで学校の校門を飛び出し走り出した。両手で握りこぶしを強く作り、爪が掌に食い込む痛みで限界を超えようとしていた。夏の夜の肌寒い空気が半袖で露出した守の腕に鳥肌を立たせ、静寂の中、足音と激しい息遣い、コオロギの鳴き声だけが存在していた。


三崎大学病院救急救命科に一人の患者が搬送されていた。救急車が着くと医師、看護師を含め5人くらいのスタッフが走って出迎える。その中に救命医師主任、的場の姿もあった。そんな時、救急救命士がストレッチヤーを慎重に救急車から降ろす。新人救命士に怒号する声がただ事ではない緊迫した状況を示唆していた。

「今の患者の状態は?」

「現在の意識レベル3桁、血圧79/43、脈拍123、SPO2はルームエアーで84%、今はO2、5Lで落ち着いています!電話でも申しましたが患者は8歳、女の子。8mの高さから落下しました。頭部に激しい損傷、出血も多量。幼いですが自殺とみられています。」

「自殺!?」

医師は驚き救命士の顔を見た。

「輸血の準備して!あと状態が落ち着いたらCT!恐らく開頭するから手術室抑えて準備しといて!」

ストレッチャーは救急玄関を抜け救急室に入る。心電図や血圧、SPO2などライフライン管理に必要な機器を素早く装着する。呼吸はかなり弱っており今にも止まりそうだ。的場はほかのスタッフに事細かに指示を出す。

「気管挿管の準備して!呼吸止まるよ!」

的場の号令に皆一丸となって反応する。そんな中でも呼吸数は低下しSPO2の値は急激に下がっていく。焦りを感じた的場はどんどん口調がきつくなる。

「はやくしろ!!死ぬぞ!!」

その声に鞭打たれ皆、更に機敏な行動をとる。二人の医師で寧々の口をこじ開け気管挿管の準備をする。寧々の歯は一本もなく口の中は血液で真っ赤だった。的場は看護師から器具を受け取ると慣れた手つきで気管挿管をこなした。その甲斐あって呼吸状態は安定しなんとか命をつないだ。しかし、安心できる状態ではない。8mの高さからコンクリートに頭から突っ込んだんだ。脳の状態次第では命の保証など出来るはずがない。すぐさまCTを撮る。的場はCTのオペレーター室で画像を検査と同時に確認する。頭蓋骨は粉々で脳内には無数の血腫、血液で満たされていた。また全身に無数の骨折がある。しかし臓器はなんとか大きな損傷は確認できず、一番の致命傷は脳だった。この子は助からない、そんな言葉が的場の脳裏に浮かんだ。両手を頭にあて天井を仰いだ。そんな的場を見たそのほかの医師が尋ねる。

「的場先生どうします?生きてるだけでも不思議なくらいの状態ですよ。」

的場は聞いてか聞かずか目を閉じ固まっていた。しかし、すぐさま鬼の形相を取り戻し、机に片肘をつき手を口にやり何やら思考を巡らせている。15秒くらいそんな状態が続き、ついに的場が口を開く。

「オペしよう。こんな小さい子死なすわけにはいかない。」

この時、的場は手術で助かるとは思えなかった。物理的に脳の状態を見てこの状態で手術する医師は恐らくいないだろう。しかし、的場は物理を超えた人間の感情で動いていた。的場にも似たような年の娘がいる。もし自分の子ならどうだろう、という問いと格闘しながら次の行動を模索していた。あきらめることができる命などこの世に存在しない。的場は看護師に手術室まで連れてくるよう指示し一足先に手術室に急いだ。手術室に着くと急いでオペ衣に着替え、帽子、マスクを装着した。そして入念に手を洗いながらオペを構想していた。あらゆるリスクを作り上げ一個づつ潰していく。的場は異常に頭の切れる人物でリスク管理の面においては院内で右に出る者はいない。その甲斐あってか救命救急科の主任を20年務めている。救命救急は自他ともに認める天職だった。口調はきつく何も知らない人が見れば鬼にしか見えないだろう。しかし、スタッフの中で的場の悪口を言うものは誰一人いなかった。皆、的場の救命救急に駆ける熱意を理解していて誰よりも命を尊く重んじる理念を敬愛していた。厳しさ無くして救命救急の現場で仕事をすることなどできない。命と直接的にかかわる仕事場だからだ。そうこうしているうちに皆急いで手術室に入ってくる。それからちょっと遅れるようにして看護師2人と寧々が到着する。的場は寧々の顔をみた。こんな幼い子に自殺する理由なんてあるんだろうか。親御さんはどれだけ心配してるだろう?今からが人生の花だというのに・・・。的場は口を開いた。

「患者は見ての通り小さな女の子だ。学校の屋上から飛び降りた。この子にもう一度命について考える時間をあげたい。みんな協力してくれ。メス!」

それから13時間にも及ぶ手術が行われた。奇跡的に命を取り留めた。本当の奇跡だ。的場の目には光るものがあった。的場だけじゃない。手術室にいたスタッフが皆、神を信じ奇跡を信じさせられた。幼い子が不用意にも落とした命を皆で拾い上げた。的場はもう一度、寧々の顔を見る。心なしか笑っているように見えた。的場は一足早く手術室を出る。手術室の前には親御さんだろう。二人の若い男女が目を赤くし的場の方を見つめていた。今にも倒れそうな父親にもたれかかるように母親が立っている。そう守と京香だ。

「先生!寧々は助かったんでしょうか?命は?」

「うっつっつううう・・・」

京香は泣き崩れた。的場が京香の両肩に手を添え笑顔で答えた。

「成功ですよ。大丈夫です!」

守も今までの緊張感が解き放たれその場に座り込んだ。安堵の涙があふれ出してくる。

「せぇん・せ・い。ありが・・・ぅぅぅう。」

京香と守は二人で的場を抱きしめた。的場が神様の様にすがった。そのあと、ストレッチャーの音がし二人はその方向を見る。力を振り絞りそのストレッチャーに近づく。ストレッチャーを覗き込むとそこには包帯で頭をぐるぐる巻きにされた寧々が眠っていた。守と京香で寧々の名前を何度も何度も叫んだ。しかし、寧々は一向に目を開かない。そのまま、ストレッチャーに繋がるようにして集中治療室の前まで連れ添った。そしてまた守と京香は二人きりになる。守は優しく京香の肩を抱いた。

「よかった、よかった。寧々はそんな弱い子じゃない!死ぬわけない。俺たちの子なんだから!」

ふたりは抱き合いいつまででも涙を流していた。最悪の事態を脱し現実の世界に帰ってきた。欠けた心がちょっとづつ満たされていく。今まで味わったことがない高揚感が守を包む。


「はぁはぁはぁ、イキそう!」

「もっと!もっと!修!中に出して!!ねぇ!」

「はぁはぁはあ!あっ!あああああ!」

修一郎はアパートのベッドで眞代と絡み合っていた。眞代は上に乗っかった修一郎を払いのける。二人ベッドの天井を肩で息をしながら見つめていた。修一郎はティッシュを5枚くらい勢いよく取り出すと眞代の体に付いた体液をふき取った。

そんな修一郎を睨みつけ、背中を叩く。

「なんで外に出すの?」

「え?なんでって?子供出来たら困るだろ?」

修一郎も負けずに睨み返す。

「なんで困るの?じゃあなんでHするの?」

「えっ・・・そりゃ好きだからだよ。お前は子供作るためにHしてんのか?嘘つけ。そんな女じゃないだろ!社長とも寝てんだからな。」

「何言ってるの?社長と?そんなわけないじゃない?どうしたの?」

「いや間違いないね。この前の飲み会の時俺見たんだからな。社長のお前を見る目は社員を見る目じゃなかった。そもそも、なんで社長が来るの分かったんだよ。部長ですら知らなかったんだからな。」

「頭大丈夫?社長と寝るわけないでしょ?ヤキモチやいただけなんだよね?かわいいね修ちゃん。」

「じゃあ携帯みせろよ。俺は男女の微妙な空気がわかんだよ。」

「はいはい」

そういうと眞代はバックの中から携帯を取り出し修一郎に放り投げた。

「好きなだけ見てもいいよ。」

修一郎は最初眞代の方をチラチラ気にしながら見ていたが次第に取りつかれたように携帯と向かい合う。メールを2,3通見たあと修一郎は不敵に笑った。眞代の携帯をテーブルの上に置くと眞代の方を見て笑みを見せた。

「お前なめてんのか?」

眞代もまた不敵に笑っていた。修一郎が見たメールには社長との不倫を確定させる内容の文面が連なっていた。その下にもその下にも男とのメールが沢山あったが見るのを辞めた。いや見なくても内容は察しがついた。この女は平気で何人もの男と寝る売婦だ。感情ではなく物理的に世界を見る女。修一郎は眞代と出会ったことを後悔した。こんな頭のいかれた女と出会ったことを後悔した。

「もういいから帰れよ。」

眞代はそそくさと身支度をし鞄を持って立った。修一郎に笑顔で手を振るとそのままアパートから出ていった。修一郎は一人残された部屋で額に両手をあて床に置いてある灰皿を凝視する。今後の自分の進むべき道を模索していた。会社にいる限り眞代から逃れることはできない。今まで務めてきた会社を辞めるわけにもいかないし、キャリアも捨てたくない。眞代を会社から居なくさせることができるんだろうか?そんな残虐なことを俺ができるんだろうか?いや待てよ。今のところなんの被害も受けてないじゃないか。眞代の彼氏は俺だが、眞代は俺をなにも縛り付けているわけではないしこのままの状態を維持して、眞代とは別に女を作ればいいだけじゃないか。眞代は自分があんなにたくさんの男と関係を持っているんだから寛容な性格だろう。俺が二股掛けようが気になどするはずがない。俺も大人になるんだ。眞代になど負けていられない。修一郎は煙草に火を点けると天井に向かって煙を吹きかけた。俺は負けないという自負心が今後の生き方を決めた。プライドのみに突き動かされそのほかは何も目に入っていなかった。修一郎は携帯を取り出すと過去に関係にあった女性を片っ端から電話しまくった。誰でもいい。あいつにも屈辱を味あわせてやる。俺はあいつよりも上ってことを分からせてやるんだ。暗闇の中、携帯を見つめる修一郎をディスプレイの光が不気味に照らしていた。


 向井はシカゴ大学の研究所で奮闘していた。50歳を超える男とは思えないほどの意気込みで没頭していた。なにも向井は無理やり自分を振る立たせていた訳ではない、異国の若い研究者が向井の情熱に火を点けていた。そんな向井の姿に島田は安心感と信頼感を膨らませていた。もし、日本に居たら向井は今頃、この世に存在していない。向井をこっちに呼んだことは正解だった。島田は親が子を見守るように向井を見つめていた。そんな島田のもとにアシスタントの神田が近づいてきた。神田は島田の耳元で囁く。島田は驚いた顔で神田を見る。

「日本から?龍田?」

島田は神田に承諾した旨を伝えると向井を呼んだ。向井は今している作業を若い研究者に指示しこちらに歩いてくる。

「どうした?作業中に呼ぶなんて珍しいな。」

「うん。日本から警察が来ているんだ。」

「警察!?ここに?」

「ああ。例の爆発の件らしい。」

「警視庁の龍田か?」

「おおそうだ。知り合いなのか?」

「いや電話で話しただけなんだが。」

「もうロビーで待ってるらしい。断るか?」

「いや。会ってくるよ。」

そういうと向井はロビーへ向かった。向井がロビーに着くと龍田は向井に背中を向けてソファーに座っていた。向井の予想通り、黒スーツに肩幅の広い男だった。向井は龍田の前に回り込むと一礼した。龍田は向井に気付くと立ち上がり頭を下げた。

「すいません。なんの約束もなくお邪魔して。お仕事の方は大丈夫ですか?」

「電話されてたら断ってましたよ。はるばる日本からお疲れ様です。」

龍田は照れ笑いをした。しかし、すぐに緩んだ顔つきを引き締めると話を進めた。

「単刀直入に申しますと例の爆発事件の件です。どうも証拠や証言が取れずに困っています。それで向井先生に再びお話をと思いまして。」

「そうですか。でも私は電話でお話したように自分の意思でこっちの研究所に赴任しました。誰かの差し金ではありません。」

「この間、安藤教授にお会いし話を伺いました。安藤教授も先生と同じことをおっしゃられていました。向井先生の異動と若山大学の関係性はないと。若山大学は教授が不在となる他大学の研究所に後任の教授を工面しただけだとおっしゃっていました。」

「それならなぜわざわざこちらに来られたのですか?」

「しかしそれは嘘です。冷静に考えれば誰でもわかることです。向井先生!どうか真実を教えていただけませんか?」

「真実といわれても・・・」

「68人の尊い命が奪われたんですよ!彼らには家族も将来もあったんです!それが一瞬にして壊されたんです!僕らは彼らに対して、遺族に対して真実を伝える義務があるんです!向井先生はそれを聞いても平気なんですか?嘘をつき続けるつもりなんですか!」

「・・・・」

向井はうつむき龍田の顔を見ることができない。

「向井先生!」

向井は顔を上げしっかりと龍田の目を見つめた。

「これからいうことは慎重に扱ってください。口外するなら責任を持って段階を踏んでからにしてください。」

龍田は息をのみ頷いた。

「私はここには来たくなかった。自分が追い続けたメタンハイドレードにいつまでも携わっていたかった。今でもその気持ちに変わりはない。しかし、私はメタンハイドレードの研究に印籠を渡されたんです。何故かは分かりません。これは本当です。私は佐々木君の死以後ずっと考えていました。真実を話すべきか。もしあなたがここに来なかったら一生話さなかったかもしれません。私は安藤教授、環境省の役人の方から圧力をかけられここに来ました。先生方が言うには日本にアメリカの圧力がかかっていると。私が駄々をこねればメタンハイドレードの採掘自体に迷惑をかけることになると。そう言われました。メタンハイドレードの採掘には多くの支援者の皆さんの希望や夢が詰まっています。それを私一人のために無駄にするわけにはいかない。それが私をここに来させた理由です。恐らく爆発もなにか大きな組織によるものでしょう。私の設計上あのシステムで火気が出ることなど万に一つも考えられない。私をかばっているわけではない。私だけがあのシステムに携わったわけではなく、世界中の科学者が思慮に思慮を重ね、あらゆるリスクを削いで完成させたんです。火気が出て爆発など起こるわけがない。しかし、私ではなくなぜ佐々木君を死なすことにしたのか。爆死させるなら私でも構わないわけですから・・・」

「それは先生がただ単純に優秀だからではないですか?先生はご謙遜なされていると思いますけど、安藤教授は向井先生よりも佐々木先生に死を選ばせた。つまり、今後世の中の役に立つ人間をただ単純に天秤にかけたのではないですか?」

向井はうつむき涙を流した。

「先生勇気ある証言ありがとうございます。しかし、先生の話からすると国規模の陰謀である可能性が高い。つまり、警視庁に訴えかけても消されるでしょう。その証拠に先生に会う前に上司から電話を受けこの事件を降りるように言われました。どうしたらいいものか?」

向井は顔を上げ龍田の目を見据え答えた。

「命は大事にしなさい。一個人が負える問題ではない。私たちは日本人なんだよ。どうあがいたって国の意向に反することなどできない。これが最初ではない。今までにも不可解な事件が解決されずに葬り去られている。それ以上近づくのは危険だ。私が察するに日本だけの問題ではない。日本も世界各国からの圧力受けているんだろう。利権争いは手段を択ばない。戦争すら平気に起こる。そうやって世界は回っているんだよ。この世は不完全なものだ。」

向井の言葉はスケールが大きく、説得力もあり龍田は何も言い返すことなどできなかった。龍田は帰りの飛行機で自分の存在価値に疑問を感じていた。自分が信じて身を削ってきた仕事が汚く荒んでみえた。結局は名ばかりの正義で茶番でしかない。資本主義というサーカス団に所属するサルに過ぎない現実に虚しさと無力感しか感じえなかった。龍田は日本に着くとすぐに警視庁に出向き上司に事件を降りる旨を伝えた。

その直後龍田は本庁を追われ地方に飛ばされることになる。

 そんなこととは知らず守は連日のように京香と集中治療室に通い続けた。会社にも無理を言って休ませてもらっている。寧々に優先順位などつけることができなかった。守と京香の命は寧々とともにある。寧々は集中治療室で何本もの点滴と人工呼吸器、包帯にグルグル巻きにされ絶対安静だった。しかし、寧々の顔つきはどこか穏やかで今までの疲れを癒しているように見えた。そんな寧々を守と京香はじっと見つめる。守が足を摩り、京香が髪を撫でる。ここにパパとママはいるんだよ。寧々はひとりじゃないよ。いつも見守っているし安心して寝てていいんだよ。意識の戻らない寧々にそう伝えたかった。守は寧々の足を摩りながら、傷だらけの足を摩りながら自分を責め続けた。あの時、学校に行かせず寧々の話をちゃんと聞いてやれたらこんなことにはならなかったんじゃないか。仕事に追われ寧々が二の次になっていた自分を憎んだ。寧々の足を優しく優しく摩る。まるで謝っているように。いつの間にこんなに成長したんだろう。生まれた時は何も喋れず動けず只々母親の胸に抱かれるだけだった。そんな赤ちゃんが自分の頭で考え、自分の足で歩き、気付けば自分の意志で自分の人生を歩んでいる。子供の成長はこんなにも早いものか。よそ見をしているといつの間にか傍に居なくなっている。横には居なく、後ろにもいない。遥か前の方で手を振って俺を待っている。子供は自分で成長し、自分で自分の人生を決める。俺たちはただ、見守ることしかできない。京香は寧々の髪の毛を丁寧に撫でていた。髪は縮れ痛み落下の衝撃を物語っていた。いつも京香はお風呂で寧々の髪にトリートメントをつけていた。髪は女の子の命だよ。そういつも寧々に言って聞かせていた。保育園、小学生の寧々はそんなことなどお構いなしだったがこれからちょっとづつわかってくれると思っていた。そんな寧々はずっと目をつむり何事無かったかのように寝ている。何がこの子をここまでにも追い詰めたんだろう。その理由が知りたくて知りたくて、京香ずっとご飯が喉を通らなかった。苛立ちと恐怖と思うようにならない世界を恨み、恨み続け、そのうちその存在さえも自分で認識できなくなっていた。自分の身を置く世界を否定しなあらもその恩恵を受けてそこから出られずにいる。そんな自分が情けなく、やりようのない思いが京香を締め付ける。

「どうしちゃったんだ?」

守と京香は驚いて振り向いた。そこには京香の主治医北村が立っていた。

「北村先生・・・お恥ずかしいです。」

守は頭を下げた。

「可哀そうに・・・ちらっとカルテは見たんだが生きているのが不思議だよ。奇跡といってもいい。あんなに元気だった寧々ちゃんが・・・」

守と京香は目のやり場に困る。そんなところへ救命医師的場が顔を出した。

「北村先生珍しいですね。ICUに来られるなんて。」

京香と守は深々と的場に頭を下げる

「寧々ちゃんのお母さんは僕の患者なんだよ。それで何回か寧々ちゃんに会ったことがってね。」

「そうなんですか、知らなかった。」

「それより的場くんありがとう。僕からも礼を言うよ。寧々ちゃんを助けてくれてありがとう。」

「いえいえ。オペが成功したのは僕の手柄ではないですよ。寧々ちゃんの生命力が死を上回ったんです。僕にも寧々ちゃんくらいの娘がいます。どこか他人には思えなくて・・・。あっそうそう。今日のレントゲンの結果が出たんですよ。脳の状態は順調です。このままいけば数日で意識は戻るでしょう。」

「ほ、本当ですか!?ありがとうございます。」

京香が何度も的場に頭を下げる。そんな京香を横目に守は的場の目を真剣に見つめ自信なさそうに尋ねた。

「あ、あの~寧々はこれからどんな経過を辿るんですか?」

的場の表情が曇り守の目を見ることができない。

「後遺症についてですが・・・おそらく残るでしょう。今回は命が助かっただけでも奇跡といわれるぐらい稀なケースでそれだけでも幸運なことです。しかし、今後、今までの生活と同様なレベルを求めることははっきり言って不可能です。勿論、リハビリを長期間に渡り行っていくことになると思いますが・・二度と走ることはできないでしょう。もしかすれば、一生介護が必要な状態が続く可能性も低くないです。脳の画像で見ると至る所に損傷があります。運動、動作に関係する部位にも著しい損傷の後がある。しかし、実際のところ画像だけでは分からないところもある。ただ・・お父さん、お母さん・・期待だけはし過ぎないでください。強い心をもって寧々ちゃんを見守ってあげてほしいです。一番の山は乗り切ったんですから。まずは寧々ちゃんを褒めてあげましょう。」

守と京香は落胆を隠せなかった。勿論、命が助かった事に喜びを感じていた。しかし、この子は一生誰かの手を借りて生きていかなくてはならない。障害者としてこの厳しい社会と付き合って行くのは想像もできないくらい大変なことだ。同情の中で生きていき、自殺未遂という偏見と戦って行かなければならない。一体、僕たちはどんな罪を犯したのだろう?俺たちの生き方は間違っていたのだろうか?誠意をもって社会と付き合い、規則はちゃんと守ってきた。それなのにこんな仕打ちを受けなければならないのか?朝はちゃんと決まった時間にごみを出し、決まった時間に学校に行き、会社に行き、町会には毎回欠かさず出席し、毎年お盆にはお墓参りに行く。24時間テレビのチャリティーには少なからずの募金をし、毎年クリスマスを祝い、正月には1年を祈願し欠かさず初詣に参拝する。社会が善とするような行動を守り、従い生きてきた。そんな従順な人間に対しそれに見合った見返りがこんな酷い仕打ちなのか。もっともっと不真面目な奴はたくさんいる。そんな人間を守り、善人は保護しないのか。こんな考えはエゴでもっと社会は冷淡な存在なのか。強く叩こうが弱く叩こうが響くものは変わらないのかもしれない。悔しさで守は頬を流れるものを止めることができなかった。この子は人並みな幸福を一生手に入れることができない。守はふと寧々の顔を見た。寧々はそんなことは関係なしにスヤスヤ眠っている。まるで砂漠の中のオアシスのような時間を今過ごしている。しかし、これからまた砂漠を旅していかなくてはならない。辛く、足場もままならない砂漠をもがき進んでいく。そんな思いとは裏腹に、集中治療室の窓からは見える空は澄み渡っていた。神が寧々と言う生贄に満足したように爽快な世界をもたらしている。そんな空の下、サラリーマンはいつもと同じようにスーツ、ビジネス鞄を身に着けせわしなく歩き、道路を車が埋め尽くし、電機屋のテレビにはいつも通りの時間にニュースが流れていた。なにひとつ変わることのない世界。なにひとつ響かない世界。まるで僕たちの存在感を否定するように、神があざ笑うようにいつもと変わらない世界がそこにはあった。


長塚商社社長長塚はひとり夜の海を見つめていた。闇夜に月の光が海面に浮かび上がる。辺りには誰もおらず、長塚のセカンドカーのSUVのエンジン音とさざ波の音だけが響いていた。長塚は今回の爆発事故で会社にのしかかる責任、リスクについて思いを巡らせていた。70人近くの犠牲者を出した事業を行っていた企業ともなるとただ事では済まされない。ましてや競合各社がしのぎを削っている現代の社会では命取りになりかねない問題だ。長塚はいつも悩み事があるとひとりでこの海岸に来る。コンクリートの中に閉じ込められている現実から解き放たれこの瞬間だけは自分の思い通りにふるまうことができる。長塚は波打ち際まで行くと高級革靴が濡れるのも気にせずズカズカ浅瀬に入っていく。脛のあたりまで入ると目を閉じ天を見上げる。このまま、潮に流されただ海の中を漂うのも悪くない、その時長塚はそう考えていた。そんな時、森から河岸に抜ける小道を一台のSUV者がまぶしい程のライトを揺らせながら長塚に近づいてくる。その車のライトは長塚を照らすと運転手席から一人の男が降りてきた。

「傷心自殺かね、長塚君(笑)」

長塚はまぶしいライトを左手で遮るとその男に笑顔を見せた。

「お久しぶりです、内藤さん。」

内藤は長塚を見ながら不敵に笑っていた。長塚は内藤の方へ歩み寄っていく。内藤は車のエンジンを切りドアを閉めた。

「静かな海だな。何年振りだろう、こうやって海を間地かに感じるのは。」

「お忙しいでしょう。内藤さんくらいの出世されれば。」

「長塚君。今回は大変な事故になったね。我ら検察も調べを進めている。」

内藤は長塚の大学の先輩にあたり、現在では検察庁長官を務めるほどの男だ。長塚とは大学時代柔道で汗を流し、卒業した後も定期的に飲みに行くほどの仲だ。

「検察さんが調べるほどのものでもないでしょう。もう犯人は察しがついているでしょう。」

内藤は不敵に笑う。右手を挙げ痒くもない頭を掻き出した。

「もうわかっていたのかね。やはり一部上場企業を束ねるだけの男だ。」

「で、これから検察はどう動くおつもりですか?」

「事故で捜査を打ち切る。安全管理不足の事故でね。メタンハイドレードの採掘を三崎大学、長塚商社などその他の関連企業も合わせ禁止させる。当然だろう。当分の間はメタンハイドレードの採掘事業への参加を停止させ世論が治まるのを待つ。といった具合だ。」

「僕にどうしろと。おっしゃる通りの事態になれば株は暴落し株主総会で私は取り締まり役を降ろされる。何か打開策があるから私をお呼びになったんでしょう?」

内藤は自分の車に付いた蚊を潰すと涼しい顔で長塚に話しかけた。

「だれかに責任を取らせてほしい。」

「といいますと?」

「誰かが社の命令を無視し危険な体制の下で作業を行わせ事故が起こったように見せかけてほしいんだ。数日後、長塚商社にガサが入る。それまでにそれを決定づける資料をねつ造してほしい。そうすれば君は今のポジションを降りることはない。」

長塚は真顔で何度も何度も頷くと内藤を見た。

「なぜ私を助けてくれるんです?」

「君とは長年の仲だ。妻も君の奥さんを妹の様に慕っている。そんな友を失いたくないんだ。私も年を食って中々腹の底から話せる友がいないんだよ。だから君にはこけてほしくないんだ。」

長塚はくすっとっ笑ったと思うと大声を出し笑い始めた。顔をグシャグシャにし笑い声をあげ、SUVのボンネットを何度も何度も叩いた。そんな長塚を異様な目で内藤は見ていた。長塚は世の中の不条理が目の前に平然と起こっていることが滑稽でたまらなかった。空には綺麗な三日月が海を照らし、絶えることのないさざ波の音と長塚の笑い声が静かな浜辺を占領していた。

 真っ暗で何も見えない世界から徐々に視界が広がっていく。ぼんやりと見える世界には何もなく、少し先を見れば真っ暗闇だ。そこに何があるかもわからない。寧々はそんな状況の中、手探りでゆっくりと進んでいく。少し進むとひとりの女の子が座り込み泣いている。みえだ。みえに気付いた寧々は一目散に駆け寄る。しかし、そこに女性が現れ、みえと一緒にどこかに消えてしまう。

「みえダメ!ついて行ったら死んじゃう!!」

しかし、寧々が着いたころには二人の影はどこにもない。その時、寧々の前にバトミントンのユニフォームを着た小百合が現れる。

「寧々ちゃん!一緒に練習しよ!」

「えっ・・・」

寧々が戸惑っていると小百合は強引に寧々の腕をつかみ引っ張っていく。

「小百合さん!ちょっと・・・痛いっ!」

寧々が嫌がるも小百合はお構いなしにグイグイ引っ張っていく。寧々がふと後ろを見ると、みえとその女性が寧々の方をじっと見ている。

「みえ!?助けて!」

しかし、みえたちはそんな声も空しく向こうの方へ歩いて消えてしまう。

「みえ!どこ行くの!みえ!!」

そうしている間に小百合はいつのまにか消えていた。寧々は小百合に掴まれた腕を摩るとその場にしゃがみこんだ。みえは私のこと恨んでる、そういう思わずにはいられなかった。もう一度でいいからみえとちゃんと話がしたい。そんな時、誰かが寧々の肩を二回叩く。寧々は勢いよく振り返った。そこには血だらけの寧々自身が立っていた。

「キャー・・」

血だらけの寧々は無表情に見つめていた。

「私、死ななかったの?死ねなかったの?一緒に行こ。そのために来たんでしょ?」

そういうと寧々の腕を尋常じゃない力で掴み引きずっていく。

「離して!私は行かない!」

寧々は抵抗するがびくともしない。もう一人の自分は無表情に行動する。しかし、尚も寧々は抵抗する。

「離してったら!!私は死にたくない!死にたくないよ!!」

寧々は大声で泣き出した。自分は本当は死にたくない。友達を自分のせいで亡くし、一時は自分の生きる意味が、生きる資格がないとまで思い命を絶とうと思った。しかし、私はまだ生きたいんだ。誰が何と言おうと、誰が何と私を否定しようと、私は生きたいんだ。そうこうしているともう一人の自分が居なくなっていた。

「ちょっと!目が開いたわ!!ねぇ守!!」

寧々の耳に京香の声が響いてくる。薄ら遠くだが微かに聞こえてくる。

「ん?ママ?」

寧々の目に、瞳に涙を溜めた京香の姿が映った。大騒ぎで守を呼んでいる。守は寝ていたのか目をこすりながら寧々の顔を覗き込む。寧々の目が開いたのだ。寧々は不思議そうにあたりを見回している。京香は寧々の頬を両手で挟み、額を突き合わせた。

「寧々~寧々~・・」

京香は何度も何度も寧々の名を呼び涙を流す。

「マ・マ・。ママ。ママ~っ。ぅぅぅ。」

寧々も又京香の名を呼び小さな瞳で一杯の涙を流した。体を震わせ、まるで今までの恐怖を母親に伝えるように、母親の胸にしがみついた。優しく暖かい母親の胸でしっかりと守られていた。そんな二人を守は涙なしで見ることはできなかった。寧々が戻ってきてくれた。また、家族3人一緒に居れるんだ。この世界が俺達のすべてなんだ。もう、一生離さない!何が何でも守り抜いて見せる!守はそう誓った。

「寧々?これからはちゃんとお父さんとお母さんがついてるからな!安心して寝ているんだよ!」

寧々は小さく小刻みに涙を切らしながら頷いていた。不思議と守も京香も寧々が自殺した理由を聞かなかった。もうそんなものどうでもよかった。今、目の前にある奇跡に感謝するだけで他にはなにもいらなかった。どうかもうこの命を奪わないでほしい、そう祈るだけだった。


メタンハイドレード採掘場を望む高台にITNETWORKS坂本がいた。誇らしげに採掘場を見下ろす。煙草に火を点けると退屈そうにひと吸いし投げ捨てた。

「眺めは最高でしょう。坂本社長。」

坂本は急いで振り返った。そこには安藤がいた。

「お久しぶりです。先生が会社に来られてから一度もお会いしていませんでしたね。先生に静かにしていろといわれていましたがかなり不安でしたよ。」

「すまない。しかし、今動くのは危険だ。そ知らぬふりをして時期が来るのを待つのが賢明だ。焦らなくてもあの海に眠る財宝は逃げやしない。」

「いつごろ動き出しますか?準備はとうにできていますが。」

「検察は安全管理不足での事故で捜査を打ち切る。普通なら数年は採掘には誰も手をつけれないところだが長塚商社ではなく社員の不備として処理するようだ。勿論、長塚商社はこの一件から手を引かざるを得ないが採掘自体のシステムには不備がないとみなされ大がかりな修正、見直しは避けられる。3カ月だ。3か月後、ITNETWORKSはメタンハイドレード採掘に名乗りを上げる。」

「さすがですね、わかりました。」

坂本は安藤に手を差し出すと力強く握手した。二人は見つめ合い、互いの瞳の奥に自分の欲望を映し出していた。


 寧々は全身状態も落ち着き、流動食ではあるが口から食べれるまでに回復していた。ICUから一般の病室に転室することもできた。守も回復を見計らって徐々に会社に通いだした。京香はほとんど寧々に付っきりだが体の調子はいい。しかし、依然として寧々の手足は動かず、感覚も麻痺しているようだ。的場の言ったように寧々の体には大きな後遺症が残っている。京香はそんな現実を見てみないふりをしていた。会話もできるし、物も食べることができる。そんな幸福に目を向けていた。寧々はあの事件以来京香に甘えっぱなしだ。今まで、京香のいない家を切り盛りしてきた。孤独に絶え、母親に甘えたい自分をずっと抑制してきた。皮肉にも母親と同じな病院に入院することで手に入れた愛情の代償はあまりにも大きかった。小学3年生にはまだまだ荷が重い生活を強いていたのかもしれない。京香はまるで赤ちゃんの様に甘える寧々に接しながら自分の病気を責めていた。もし、私が病床に伏せていなければこんな事態は起きなかったかもしれない。守は男だから女の細かな感情を理解することはできない。正論は言えてもそこに感情を載せて相談に乗ることはできない。女の悩みは女しか理解できないし、女しか答えを出すことはできない。守が頼りないとか、手を抜いているという問題ではない。男と女は違う生き物なのだ。しかし、甘やかしてばかりはいられない。寧々はこれから大きな人生の局面をいくつも迎えなければならない。それには人は皆、武器が必要だ。もし手足が動かなければ頭で勝負していくしかない。京香は守に連絡し、寧々の学校の教科者を全部病院まで持ってくるようにメールを打った。悠長なことは言ってられない。社会は力のない自分を受け入れてはくれない。寧々は私よりも長くこの世の中に居なければならない。自分の力で自分の人生を作っていくしかない。寧々には社会とつながる術は勉強しかない。京香は歯を食いしばり明日からは寧々に厳しく接っしていこうと心に決めた。


その頃、守は会社で今まで休んだ分の仕事を只ひたすらこなしていた。ただでさえ終わらない仕事がいっぱいあったのに数日休めば想像を絶する量にまで膨れ上がっている。数日は家に帰れそうもない。そんな守に部長の小林が歩み寄ってくる。

「大変だったな。あんまり無理するんじゃないぞ。」

「お休みありがとうございます。会社がこんな時に本当にも仕訳有りません。みんなにも迷惑をかけて。」

「いいんだよ。みんなお前が家族思いなのも知ってるし誰一人として小言なんて言ってなかった。皆、お前を只心配していたんだ。会社は勿論、個人同士が競い利潤を追求していく。しかし、それだけでは人間は続かない。仲間を思いやり仲間のために自分の限界を超えた力を発揮する。その気持ちが結果的に会社を突き動かすんだ。苦難が大きければ大きいほどそれを乗り越えた時に訪れる絆は確かなものになるんだよ。気にすんな!!なんとかなるんだよ!」

「あ、ありがとうございます。」

守は涙を悟られないよう書類に顔を隠した。そんな守に気付き、肩を優しく叩くとその場を去った。そんな時、小林のデスクの電話が鳴る。

「はい、経営企画本部小林です。」

「あ~小林君。ちょっと社長室まで来てくれないか。」

電話の相手は長塚だ。小林は二つ返事で承諾し、デスクの椅子にかかったジャケットを片手で掴みとると足早に部署を後にした。今回の事件で何か進展があったに違いない。小林は急いだ。小林は社長室をノックすると、クリスマスプレゼントを手荒く開ける子供の様にドアを開けた。そこには窓を眺める長塚の背中があった。

「社長!お話と申しますと??」

「小林君。もし長塚商社が倒産したら君はどうする?」

「えっ?そんなに事態は深刻なんですか?」

「仮にだよ。君にも家庭があるだろ?」

「は、はい。今大学受験を控える娘と高校1年生の息子がいます。そうですね・・・僕も年が年ですので再就職は厳しいかもしれません。」

「そうだよね。いや、その問題は小林君だけの問題ではない。うちの社員皆、路頭に迷うことになる。しかも、就職難の現代の荒波に放り出されることになる。それだけは絶対に避けたい。」

「はい。私も同感です。」

「うん。しかし、当社の事業で事故が起こり犠牲者が出た事実に変わりはないし、その責任を負わなければならない。今の状態でいけば倒産は免れない。小林君。トカゲは身の危険を感じると自分のしっぽを切り落とす。しっぽに執着していたら自分が天敵に食べられてしまうからね。そうやって厳しい自然界を生き延びている。資本主義社会でも同じだ。競争相手が存在する世界では自分が生き延びるための知恵をもつのは当たり前だ。そこに善悪は存在しない。命あっての世の中だ。今、長塚商社のしっぽを検察が掴んでいる。しっぽを離せと言っても事実上不可能だ。だから我々が自ら切り落とすしかない。君の部下に石川君がいただろう。彼は今回のプロジェクトの担当だったね。」

小林は息を呑んだ。

「そ、そうですが・・・まさか・・」

「これはしょうがないんだよ。誰でもどこでも行われていることだ。我々だけが罪悪感を感じることはない。」

「しかし彼は今、家庭に問題があって心身ともにボロボロの状態です。そんな彼を・・・」

小林が話している途中に長塚が割り込んだ。

「小林君!!そんなこと言ってられないんだよ!3000人の社員が路頭に迷うことになるんだよ!君はその責任が取れるというのかね?今なら彼だけの責任問題で検察は手を引くことができると言っているのだよ!甘い考えは捨てろ!なに青臭いこと言ってるんだ!君はうちの社の部長にまでのし上がった男だ。君は誰の犠牲にせずここまで昇進できたというのかね?そんなはずはない!君は同僚を蹴落としてここまでやってきた。今回の件とどこが違うのかね?聖人にでもなったつもりか!!」

長塚は興奮し息も絶え絶えになっていた。そんな長塚に小林は圧倒されていた。長塚は自分のデスクからおもむろに書類を取り小林の目の前に置いた。

「こ、これはなんです?」

「石川君が我々の指示を無視し危険な労働環境のもと作業員を働かせていたという証拠だよ。」

「どういう意味ですか?彼は我々の指示に忠実に従って今回・・・」

「話しが分からんな、小林君。そんなの知ってるよ。だから、この書類を作ったんだよ。」

「ね、ねつ造ですか!?石川を陥れるつもりですか!!」

「小林君分かってくれ!!お願いだ!!うちの社が残るにはそれしか方法はないんだ!頼む!!」

長塚は小林の前で土下座した。小林はあり得ない事態に戸惑いを隠せなかった。それでも長塚は続ける。

「二日後にガサが入る。君に何かしてほしいということではない。只、彼らに何か聞かれたときに口裏を合わせていてほしいんだ。この資料に目を通しておいてほしい。頼むよ!頼む!!」

長塚は資料を手荒に掴むと小林の胸に押し当てた。小林はその資料を受け取るしかなかった。社長室から出た小林は部署には戻らず、そのまま長塚商社を後にした。家には帰らず、当てもなく昼間の繁華街を彷徨い歩く。日差しが強く、蝉の強く大きな鳴き声が小林の弱った体をいたぶっていた。小林は近くの公園のベンチに腰掛けると頭を抱えた。小林と守は戦友の仲だ。今まで苦楽を共にしてきた。礼儀正しく、仕事や家庭に真摯に向かい合う守を心の中から信頼し敬愛していた。もしかすれば、小林の実の子供たちよりも可愛がっていたのかもしれない。そんな守を社会の底に突き落とすことなどできるんだろうか。彼には何の落ち度もなく、従順に会社に従えてきた男だ。そんな彼に不幸を突きつける理由などどこにもない。小林は思い止まった。明日、会社に辞表を出そう。それが今俺のすることができる最大限の抵抗であり、部下を守るための唯一の手段だ。小林は思い立ったようにベンチから腰を上げると家路についた。小林が家に着くともう妻の奈美恵が夕食の準備をしていた。

「あら?今日は早いのね。」

「お、おう。最近遅かったからな。」

「そうなの。体壊さないでね。あなたが倒れたらどうすればいいか・・・」

「大袈裟だな!お前も(笑)」

奈美恵はうつむいている。冗談ではないようだ。小林はテーブルに置いてある書類に気付いた。

「これなんだ?」

「あっ、それ啓太の大学の募集要項よ。今日届いたの。」

小林はペラペラめくっていた。来年、大学を受験する長男の啓太は最近の子には珍しく夢に向かって一直線な子だ。将来は俳優になりたいらしく演劇の道を進みたいらしい。不安定な職であるが息子の夢を壊してまで適職を親が見つけることなどできない。小林みたいに夢のない生活を息子には送らせたくなかった。小林はサラリーマンになりたかった訳ではない。本当はパイロットになりたかった。しかし、難関を突破できる自信がなく一般の大学の経済学部に進む道を選んだ。ありきたりの幸せを守ることを選んだんだ。勿論、妻や子供たちに囲まれた生活に不満はない。しかし、ふとした時に襲ってくる後悔の念はごまかすことはできない。俺にも違った人生があったのではと思うことも一度や二度ではない。息子にはそんな人生を送ってほしくなかった。小林は募集要項の最後にあいてある授業料のページで手を止めた。一気に現実に引き戻された。そんな小林に奈美恵は囁くように話しかけた。

「すごい金額でしょ。生活はぎりぎりだし。でも私も働こうと思っているの。今のあなたの給料に私のパート代を合わせればなんとかなるわ。あの子が一生懸命なんだから私たちも頑張らないとね!」

小林は何も言い返すことができなかった。さっき立てたばかりの信念ももう影が薄くなっていたのである。その夜、小林は一睡もできなかった。スヤスヤ眠る奈美恵の隣で只ひたすら真っ白な天井を見上げていた。まるで眠ることが罪であるかのように全身に緊張が走り力を抜くことができなかった。目をつむれば守が浮かび上がり寝るなんて呑気なことはできなかった。まるで四方八方から剣を突きつ得られているような恐怖感に襲われ身を縮み上がらせた。誰かに許しを請いたい。誰かに相談して指示されたい。守られたい。まるで女のようなか弱い気持ちに変貌していた。明日が恐くて怖くてたまらない。まるで逃亡者の様な気持ちになり、寝室の扉から誰か襲ってくるような幻覚までついてきた。小林は体を震わせ奈美恵に体を寄せる。奈美恵は暑いのかそんな小林の体を避けるように反対側に寝返りをした。小林を言いようのない孤独が襲う。今まで身を削るように会社に尽くしてきた。しかし、こんな年になっても一向に楽にならない。昇進が幸福の近道だと信じてきた自分の信念も今や姿を消していた。そんな小林の耳には異常なまでに目覚ましの秒針の音が鳴り響いていた。

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