【前編】
閑静な住宅街の一角にレンガ調の二階建てで西洋を思わせる建物にきちんと刈られた芝が歩道を包み、車を二台止めることができる車庫がある。誰が見ても裕福な家で高級感よりも落ち着いた柔らかい雰囲気のある家だった。
カチャ、玄関のドアが開きスーツを着た30代前半の男が出てきた。右手にはビジネスカバンを持ち、しきりにワックスで固められた髪型を手で確認しながら。
そう、彼が石川守である。
「パパ行ってらっしゃい。ママに宜しくね!!」
可愛らしい声を上げるのは小学三年生になった愛娘寧々。いつも守の出勤を見送ってくれる。お父さん好きの健康で優しい友達思いのいい娘だ。
「ありがとう。行ってくるよ。寧々も気をつけて学校行くんだぞー。」
コツコツコツ、守のブーツがコンクリートの歩道を打ち鳴らす。ピッピッ守は愛車のBMWの鍵を遠隔操作で開けさっそうと車に乗りこんだ。閑静な住宅街をBMWが駆け抜けていく。向かった先は三崎大学病院。そう守の妻である京香が入院している。京香は1年前に乳がんを患い一度摘出手術はしたのだが結果は芳しくなく、現在も抗がん剤治療、化学療法を行っている。守はいつも出勤前に病院にい立ち寄る事を日課としていた。
「おう、どうやー体は?」
ベッドで正座をし睨みつける京香がそこにいた。
「どっ、どうしたんや?」
「ちょっと!あんたどいて!後ろ!」
しきりに京香は守の後ろに目をやる。守が振り向くとそこには外科医の北村先生と若手医師数名が笑っていた。そう今日は週に一度の回診の日。守はすっかり忘れていたのだった。「あっ!すいません!!」
「もうしっかりしてよ!!」
京香の罵声が病室を包み笑いが起きた。
「いいんですよ。京香さん。それより元気そうですね(苦笑)」
「はい。おかげさまで。」
北村先生は京香の主治医の先生だ。入院してからずっと担当をしてもらっていていろいろな相談にも乗ってもらっている。外科医としての腕も優秀でその業界では権威として崇められている。
「いつも妻がお世話になっています。妻の容態はどうなんですか?」
「いえいえ、いいですよ。順調です。それよりこっちの方は?(ゴルフのすぶりの真似をする)」
「そっちはだめですわー。先週も部長と行ってビール飲みすぎました。」
「はっはっは。また今度行きましょう。」
「ぜひお願いします!!」
そう、北村先生とは妻の病気で知り合いゴルフ仲間でもある。しかし、妻の視線が痛い。
「ちょっと人が病気で寝込んでるのにゴルフってどういうこと??あんたが入院すればいいわ!!」
「そんなんいうなや。てかでかい声だすな。恥ずかしいわ!」
病室中が笑いに包まれる。妻の前のベットのひろ代さんが止めに入った。
「まあまあいいじゃなの。男は付き合いがあるからねーそうでしょ守さん?」
「は、はあ。」
「まあいいわ。すいませんね。ひろ代さん。それより、寧々最近どう?」
「ああ寧々は大丈夫や。今日もバトミントンの部活で遅いってはりっきってたぞ。」
すかさずひろよさんが
「あら寧々ちゃんバトミントンしてるのー?スタイルいいものね。」
「いやいや。勉強そっちのけでなにしてんだか・・・」
すかさず妻が
「お父さんそっくりね(笑)」
一同笑いの渦。
「あっそろそろ会社にいかないと(笑)。じゃあいい子にな。」
守が京香の頭を撫でる。
「なにすんのよ!!」
京香の反撃を振り払いさっそうと病室を後にした。石川夫婦はいつもこんな感じのやり取りをし愛を確かめ合っていた。守は京香の人一倍元気で気が強いところに惚れていた。そう、京香との出会いは会社に入って3年がたったくらいに中学の友人から合コンの誘いを受け、行ったのが出会いだ。遅れていった守はひときわ目立つ美貌と元気のいい声で一目ぼれしたのだ。何か自分にないものが彼女にはある、そう確信し恋愛ベタな守だったが友人の助けも受けなんとか付き合うことに成功した。勿論、付き合ってから今の今まで尻にひかれっぱなしである。でもそんな京香を見て生きる力を貰っていた。人を飽きさせないそんな力を京香は持っていた。
「いっけね。こりゃ遅刻するぞ!!!」
エンジンをふかし急いで会社に向かう。病院から会社は遠くない。車で10分のところにある。が、まさかの渋滞!!
「おい、マジで勘弁してくれよーーー」
そう時間が5分違うだけでこの道は鬼ように渋滞するのだ。守の顔から笑みが消え、目がうつろになってきた。そう、会社の部長は超怖い。完全に鬼なのだ。いや悪魔だ!
そうこうしている間に、車は会社についた。街でもひときわ目を引く高層ビル、一部上場企業長塚商社だ。この近辺では知らない者はいない有名企業だ。ここの会長は市長、知事とも交流があり絶大な権力を持っていた。守は勤続10年、係長を任されていた。いわゆる中間管理職。守は仕事は遅いもののしっかりと質にこだわって物事を行う男で上司からも部下からも信頼されており勤続10年で係長は異例の出世だった。年収もほかの同世代から見れば高く生活には余裕があった。しかし、守は遅刻の常習犯。朝にはめっぽう弱いのだ。守は会社に着くやいなや猛ダッシュ。受付嬢のゆりちゃんに手を振りながら
「おはようゆりちゃん。今日もばっちりメイクだね。」
「いやん。係長こそイケメン!!」
そうゆりちゃんはちょっと頭が弱いのだ。
それはそうと守の部署についた。経営企画本部。ここが守の職場。社内から憧れる会社の心臓部分だ。ゆっくりと扉を開く。誰に気づかれないように足音を殺し自分デスクについたその時
「おはようございます。石川係長!!」
大声で挨拶をしたのが入社1年目のイケメン社員大吾。元気はあるが究極に空気が読めない。こんなことをしても全く悪気がないのだ。明らかに部長が気づいた。明らかだ。顔が見れない、どうしよう。見ないでおこう。ここは自然に、自然体で、仕事をそつなくやりこなすのだ。自然に、自然に・・・・・
「コラァいしかわぁーーー。またかぁーーー」
そうこれが鬼武将いや鬼部長小林 健次郎。通称鬼。人情に厚いが曲がったことが大嫌いなのだ。
「す、すいません。妻の見舞いに行ってまして・・」
「またその言い訳かーーー。まあ嫁さんが綺麗だからこれで許してやろう。」
部長がバカみたいな書類の山を持ってきた。ドーーん、お、俺のデスクが潰れる。
「神のご意志だ。わっはははっは。さっさとやれいっ!!」
いつもこんな感じの部長。しかし、守はこの人情味ある部長が大好きだし尊敬している。結婚式のスピーチも小林部長に頼んだ。スピーチ自体は部長が酔っ払ってしまい何を言っているかわからなかったが本当に喜んでくれて最後には号泣、会社の後輩に引きずられながら席に戻った。理想の上司であり人としても尊敬している。京香もこの人情味ある部長が好きで夫婦で尊敬している。あと部長の奥さんはかなりの美人だ。なんせ大学時代の同級生らしいのだが性格が京香に似ていて強く、部長はよく飲みつぶれて介抱するのだが奥さんにこっぴどくやられている。俺もあまり飲ませないで欲しいとよく奥さんから釘を刺されている。まあ、ひとりで酔いつぶれているのだが・・・。
それはそうとこの仕事どうしようかな。定時には終わりそうにもないなー。そんな時、
「またやられたのかーお前もいい歳して遅刻なんてすんなよなー」
この声は、そう同期入社の修一郎だ。経営企画本部に選ばれたエリート。俺とは大の仲良しでよく飲みに行っている。こいつの女好きと言ったら右に出るものはいないだろう。いわゆる肉食系男子だ。こいつとは中学校からの付き合いで大学は別なのだが同じ会社に同期入社になった。まだ独身で女遊びを生きがいとしている。何度こいつの彼女にアリバイを話されたことか。
「ははは。じゃあ手伝ってくれよ。頼むよ。」
「無理。今日は受付の子の知り合いと合コンあんだよ。悪いな。」
「俺抜きで??」
「おめえは子供いんだろ。あと可愛い嫁さんもな。」
「行け行けお前にはもう頼まん。」
薄らわらいを浮かべながら周一郎は去っていく。そういえば、嫁さんと知り合った合コンにもこいつが居たな。かなりの盛り上げ役で話がべら棒にうまい。嫁さんもここだけの話かなり惹かれてた。なんせ俺は口下手なんで見ているしかなかった。かなりライバル心はある。でもいい奴だ。
「守さんまたやっちゃったのー?」
入社5年目の眞代。こいつとは気があって修一郎と3人でよく飲みに行っている。歳も5コ下なのだが大人びていて色々相談にも乗ってもらっている。面倒見がいいタイプの人間で容姿は決して良くないのだが男受けはいい。ただ直ぐに体の関係になてしまうのがたまに傷だ。
「そうなんだよ。手伝ってくれよ。」
「もう!可哀想だから手伝いますよ。でも9時までですよ。」
「なんだよ。男かよ。」
「違います。大学の同級生が泊まりに来るだけ。」
「ホントかー」
「なんなんですか?守さん私の彼氏でしたっけ?じゃあ付き合ってください。」
「冗談だよ。ありがとう恩に着るよ。」
山積みの資料を半分持って行ってくれた。ありがとう。眞代は入社5年目ながらしっかり仕事ができる奴だ。しかもプライベートとのメリハリがついていてバリバリに仕事をこなす。それも男うけがいい理由だ。そうそう、そんなこと言ってる場合じゃない。寧々に連絡しなきゃ。えーとメールで
「パパ仕事遅くなります。先にご飯食べててください。戸締りしっかりとね」
よしこれでオーケーだ。寧々には小学校三年生だが携帯を持たせている。通っている小学校では通常、携帯は禁止なのだが妻が入院しだしてから特別に許可してもらった。ブルっ。おっと寧々から返信だ。
「えーさみしい。でもお仕事頑張ってね(^-^)」
「ごめんなー終わったらすぐに帰るからなー一緒にお風呂入ろう(>_<)」
「ヤダ。先入ってるねー」
まあこんなもんか。小学三年生といえども近代っ子はませているのだ。さあ仕事にとりかかるぞー!!
「まあ。綺麗なお花。だいぶ育ってきましたね。」
病院の庭でガーデニングをする京香に師長の橋本さんが話しかけた。
「ありがとうございます。この花が好きで毎年育てているんです。でも直ぐに散ってしまうんですけどね。」
「なんか見たことある花なんだけどなんていうの?」
「キキョウっていうです。なんか好きで・・」
「あっ!思い出した。確か花言葉は【変わらぬ愛】じゃない?」
「そうなんです。」
京香は顔を赤らめ下を向き渋々と話しだした。
「あのひとがプロポーズの時にくれたんです。今時花言葉にかけてプロポーズするなんて信じられます?」
「今時いないわね(爆笑)」
「そうですよね。バカ真面目というか、時代に乗り遅れてるというか・・。ただこの花を見てると不思議に落ち着くんです。」
「いい旦那さんね。羨ましいわ。あなたの病気もすぐに良くなるわ。」
笑みを交わし京香は再びキキョウに目をやった。そこには地味ながら自分の生命を全うしようとしている小さな命があった。
放課後、ランドセルに教科書積み込み部活に行こうとしていた寧々がいた。
「寧々ちゃんもバト行く?」
「みえちゃん行くー一緒にいこ!」
みえちゃんは寧々の親友、バトミントン部で一緒に汗を流している。みえちゃんの家族とは家族ぐるみの付き合いをしていたが京香が入院してからはめっきりだ。
寧々の学校は文武両道、部活動にも力を入れている。寧々はまだ入部して間もないため基礎的な練習しかさせてもらえない。でも同い年の部員とは仲良しで楽しくやっている。
「そういえば寧々ちゃんのお母さん大丈夫?入院してからかなり時間経つでしょ?」
「うん。だいぶ体はいいみたい。なかなか部活で会いにいけないけどお父さんからいろいろ聞いているし。ほらお父さんは毎朝病院行ってるし。」
「そうなんだ。部活なんて休んで行っちゃえばいいよ。私もついてく。ただ、部活休みたいだけなんだけどね(笑)」
「もーでもありがと。」
声をかけてくれたのは由佳ちゃん。由佳ちゃんもみえちゃんと同じ同級生のバトミントン部仲間。いつも3人で下校している仲良し三人組だ。確か両親には一度授業参観で一度会ったことがある。お父さんは医者でお母さんは美容師さんだった。教育熱心な両親で授業参観にはいつも2人で参加している。
寧々と由佳が話しているとみえが割り込んできた。
「何話してるの~私もまぜてよ~。」
「ちょうど良かった。今度寧々ちゃんのお母さんのお見舞い一緒に行かない?今寧々ちゃんと話してたの。それに部活休めるしね~。」
「いくいく~」
「コラぁ~お前ら何話してる~」
怒っているのはバトミントン部顧問藤谷だ。熱血教官として有名で数々の栄光を手に入れてきた。そう、寧々が所属しているバトミントン部は有数の強豪校でありそのため部活が終わるのは7時くらいになり一度PTAと揉めたことがある。あまり詳細は知らないが鬼教官がPTAを押し切ったとか。今時珍しい気合の入った先生で親御さんを熱意で押し切ってしまう。
「新人は基礎練が終わったら上級生の羽拾いをしろ!」
「は、はいっ」
寧々たちはダッシュでネット付近に集まり落ちた羽を拾い集めカゴに入れる。これが結構つらい。辛いっていうか上級生と鬼先生の怖い。でも寧々は華麗にスマッシュを決める上級生の可憐な技に憧れいつか上級生みたいにコートを縦横無尽に駆け回ることを夢見ていた。由佳とみえはそれほどまでにバトミントン部に憧れはなくただ流されて入っただけなので気楽にできればいいくらいの気持ちで部活に臨んでいた。
「やっぱり真子さん、小百合さんのダブルスかっこいいよね。由佳はどう思う?」
「うん。だって全国大会2位だよ。かっこいいっていうかヤバイね。寧々は?」
「・・・・・いいなあ」
寧々の憧れだ。バトミントンの腕は勿論、勉学も優秀で学校のマドンナ的存在である。寧々だけでなく学校中の憧れの的となっている。「いつか真子さん、小百合さんみたいな選手になってパパママ試合に呼べたらいいな。」そう思う寧々であった。体育館の床とシューズがすり合う甲高い音、威勢のいい声が体育館を包み込んでいた。
「ふう、これで今日の仕事は終わり。9時ジャスト!ありがとう眞代。」
「もうこれきりにしてくださいよー」
「悪い悪い。今度なんか奢るから。」
その時、守の携帯が鳴る。寧々からだ。
「おう。寧々か?」
「遅いーまだ仕事?もうお風呂入っちゃったよー」
「ごめんごめん。今から帰るからなーご飯昨日の残りもんあっただろ?食べたか?」
「食べたよーでもお寿司たべたい!」
「お寿司?わかったよーじゃあスーパー寄ってくるからからなー」
「ハーイ、気をつけてね。じゃね。」
そう寧々はお寿司が大好きでいつも残業のときはおねだりしてくる。毎日は買えないがこうやって遅くなってさみしい思いをさせたときは何か埋め合わせをする。母親同様ちゃっかりしているのだ。小学三年生で鍵持ちの子はあまりいなく寂しいと思うのだがあまり表面に出さない。芯のしっかりした子だ。親バカか俺は(笑)
「守さんってお子さんの電話の時優しい声になるんですね。」
「あーあ。残業の時だけだよ。帰ると怖いからねー嫁さんに似て(笑)」
「なんか楽しそうですね。羨ましいー」
「お前も早く結婚しろよーすぐ売れ残るんだからなー」
「ちょっとヒドイ。私も守さんみたいなマイホームパパみたいな人がいいんです。遊ぶ人ははちょっと・・・」
守はハッと気づいた。そういえば眞代と修一郎は一時期変な空気の時があった。ここだけの話、体の関係もあるらしい。修一郎と2人で飲んでいる時、泥酔した修一郎が口走った。本人は俺に喋ったことは覚えていないが俺は覚えている。しかし、自分の胸の内にしまっている。
「俺なんか遊びもしないし休日家でソファーから動かないし魅力ないよー。ホント俺と結婚してくれた嫁さんには感謝してるよ。後悔してるかもね。」
「いいんです、それで。遊び歩く人なんて大ッ嫌い。じゃあ帰りますね。お疲れ様でーす。」
「おつかれーまたなー」
ありゃ完全に修一郎のこと言っとるな。あいつも罪に置けないやつだなー。ちょっと羨ましい守であった。おっといけね、早く帰らないと寧々が怒るぞー。守は足早に職場を出てスーパーに向かった。
カシャーっと看護師が京香のベッドのカーテンを開けた。
「石川京香さーん。消灯ですよ~」
京香はガサっと何か布団の下に隠した。
「ちょっとなに隠したのよ、京香」
「なんでもないわよ。郁実今日は夜勤なの?」
そうこの看護師さんは京香の高校の同級生で看護師の郁実。なんやら高校の時ダンスでコンビを組んでいたらしくかなり上手かったらしい。クラブでもダンスをしていたそうな。そうガテン系なのだ、我が嫁さんは。
「ちょっと見せなさいよ。」
「なんでもないって!!」
ベッド上でやり合う二人。どっちが勝つのやら。
「ちょっとなにやってんの!!」
「はっ!師長!」
「あんたたちなにやってんの!もう消灯よ!」
「だって京香が・・・」
「四の五の言わない!消灯!!」
「はーい。すいませーん。(一同)」
さり際に京香を睨みつける郁実、郁実に下を出す京香。友達というよりほぼ姉妹に近いふたり。ケンカもかなりガテン系の喧嘩をする。数年前も電話越しで喧嘩をしていたが聴いてる俺は思わず寧々の耳を塞いだ。我が防衛本能だ。あんな言葉は聞かせられません!親として!
京香はおもむろに隠したモノを引き出しにしまい鍵を掛けた。高鳴る鼓動を抑えながら息を飲み込み呼吸を整え眠りについた。
「おーごめんごめん。寧々ー寧々ー。お父さん着いたよー。寧々ー寧々ー」
寧々の返事がない。リビングのソファーまで行くと寧々が頭も乾かさないまま寝ていた。
「寧々ー寧々ーお父さん着いたよーお寿司買ってきたよー」
「スースー」
どうやら部活で疲れて寝てしまっているようだ。
「しょうがないな。」
守は抱っこして二階の部屋まで寧々を連れて行った。寧々は全然起きなく守の肩にしがみついている。
「あれ?寝っちゃった?お父さん帰ってきたの?」
「おう。ゴメンな。遅くなったなー寝てていいよ。お寿司は明日朝食べような。」
「うん。」
寧々は守の肩を強くギュッと抱きしめ顔を胸にうずくめた。寧々が今頼れるのは守しかいない。寧々はその居心地のいい守の腕からいつまでも離れたくなかった。
「はいよっドーン」
「ぐはっ。もうちょっとやさしく置いてー守ちゃん」
「パパだろー守ちゃんじゃないぞ。そういえばママ元気そうだったよ。先生も順調だって言ってたよ。」
「ホントにー明日ママのとこ行こうよ。土曜日で休みだし。」
「そうだな。なんか買っててやろう。ママ甘いの好きだから。」
「じゃあケーキ屋さん寄っていこうよ。ママの好きないつものとこ。」
「そうだな。寧々も好きなケーキ買うといいよ。病院で一緒に食べよう。」
「うん。楽しみー。今日もバトの部活きついんだよ。先生に怒られて・・・」
「そんなにきついんかーお父さんも部活は厳しかったなー先生なんか鬼みたいだよ。お父さんもやめたい気持ちはずっとあったよ。でも頑張って何クソ根性でやったもんだよ。まあ男だからな。寧々は女の子だから辛かったやめてもいいんだよ。」
「あーなんか馬鹿にしてる。寧々やめないよ。憧れてる先輩いるんだもん。先輩みたいになりたい。」
「真子ちゃんと小百合ちゃんだっけ?」
「そうそう。すっごいんだよ。全国大会2位!私もなりたい!」
「おーすごいな。2位かー寧々ならできるよ。頑張れパパ応援してる。もう遅いしおやすみ。」
守は、寧々のおでこにキスをし毛布を掛けた。
「パパ、大好き。おやすみ。」
「パパも寧々のこと大好きだよ。ドア開けとくか?」
「ううん。大丈夫。」
守は一人リビングに戻った。ソファーに腰掛けると背もたれによしかかりネクタイを緩めた。そこから思い出したようにスコッチウイスキーをグラスに半分ほど注ぎ再びソファーに戻った。そして、ウイスキーをグッと飲むと再び背もたれによしかかった。一息つくと本棚の上に置いておる家族3人の写真が目に飛んできた。守は急に胸を締めつけらるような感情に襲われ心臓の鼓動が止まらなかった。
「大丈夫、大丈夫。上手くいく。」
そんなことを言いながら京香が元気だった頃、賑やかだった風景を思い描いていた。
「寧々待ちなさい!!体ちゃんと拭かないと!!」
「やだよーパパー」
「寧々ーちゃんと体拭かないとダメだぞーほら捕まえた。」
「キャー」
「ちょっとーあなた代わりに拭いて。ホント寧々はパパが好きなのね。私の頃のパパと今のパパって大違いね。私のパパなんて怖くて近づけなかったもん。」
「そうだな。俺も亭主関白であんまり家のことなんもしてなかったな。」
「寧々ーパパ好きー?」
「だいすきー」
「ほら、ちゃんと拭かないと風邪ひくぞー。」
「キャー」
そんなことを思いながら守は眠りについていた。
プルルルルルルルル、翌朝、守は電話の音で目が覚めた。
「ははい石川ですが・・・」
「おう、オレオレ」
「だれ?」
「おれだよ。貴之だよ。同級生の声も忘れちまったんか?」
「おうおうごめんごめん。どした?」
「いやいやこれからお前の嫁さんのとこ見舞いにいこうかって」
「おうそうなんかー俺も寧々連れて行こうかなって思っとってん。」
「じゃあとりあえず嫁さん連れてお前んち行くし一緒に行こう!」
「おう。またなー」
電話の相手は中学の時の同級生貴之。実家が近くて小中学校いつも一緒に遊んでいた。Jリーグの全盛期が小学校だったので、もっぱらサッカーに打ち込んでいた。中学時代ちょっとあぶない遊びをする時も彼と一緒にしていた。そんな彼も去年結婚し今や3ヶ月になる1児のパパ。嫁さんの奈央はしっかりものでやんちゃな彼を上手く舵取りしている。やんちゃだが内面は優しい、家族思いだが決して口に出さない恥ずかしがり屋だ。あいつが優しいのを俺は知っている。物事にとどめをささないタイプだ。
「おはよーパパ。あれ?昨日のままの格好ーそのまま寝ちゃったの?」
「やっちゃいました。」
「きたないーお風呂入ってきて!!」
「はーい。あっ、今日貴之おじちゃん家族もママのお見舞い行きたいから一緒に行くことにしたよ?」
「そうなんだ。あっ赤ちゃんくる?」
「あー来ると思うよ。あー寧々は赤ちゃん好きだもんな。」
「ヤッター」
なぜか寧々は赤ちゃんが好きなのだ。面倒見がいいというか、去年も動物園に行った問、迷子の男の子を見つけ出しその子の親からかなり感謝されていた。その時俺はかなりの腹痛に見舞われ動物園のトイレから出ることができない状態でトイレから出た瞬間その子の親に連れられた寧々が出てきたので寧々が迷子になったのかと思った。いやいやわが子ながらしっかりしている。特に教育は何もしてないんだが、反面教師だろうか。
「うん。あたまいたたた。昨日は飲みすぎたなー。は?はは?なんで??ここどこ?」
修一郎はこのラブホらしきベッドの上で隣に寝ている女性の背中が目に飛び込んできた。全く記憶がない!!確か合コンに行ってカラオケ行って・・・・んー全然覚えてない!!それはそうとこの女性は誰なんだ?そーと顔を覗こうとした、その時その女性はこちらに寝返りをうった。
「はっ!!受付のゆりちゃん!!」
「おはよう!修ちゃん!」
「しゅうちゃん?」
「覚えてないの~私たち昨日結婚したんだよ?」
「は?はーーーーー!!!いやいやご冗談を(笑)ゆりちゃんそんなユーモアセンスあったっけ?はははっはは」
ピラっと、ゆりが婚姻届けとなにやら1枚のポラロイド写真をバッグから取り出してきた。
婚姻届は何やら汚い字ではあるが確かに俺の字だ、しかも拇印。恐る恐る10本の指を見る。右手の親指が真っ赤か。間違いない俺のボインっだ。いやいや婚姻届がここにあるってことはまだ出していない。よしこっちはオーケーだ。次っ!この写真!この写真は何なんだ。近づいみると何やらかなり泥酔した俺とゆりが教会で牧師さんと・・・・
「なんだこれ!!」
「もうっ!!夜間もしてる教会で神様の前で誓ったでしょ!!」
「・・・・・ゴクっ神様?」
いや、いやいやいや落ちつけ神様前で誓ったとしても日本国の法律ではまだ彼女は私の妻ではないし私は彼女の夫ではない。しかし、そんな覚めたことをこんなところで言うわけには行かない。よし、よーーーーし!演技だ!ちょっとづつちょっとづつ離れていくんだ~~!!とりあえずその紙が一番重要だ!!なんとしても取り戻さねば!!
「ゆりちゃん、思い出した!!そうだね。俺たちは神様の前で誓ったよね!!覚えてるよ!何言ってる忘れるわけがない!!それで思いついたんだけどその聖なる紙を僕に渡して貰えませんか?僕が責任を持って一番いい時期を見計らって出すからね。ねぇっ?」
「うんわかった。やっぱり私の思った通りの人。好きだよ修ちゃんチュっ。」
「あ、ありがとう!じゃついでにその写真も。」
修一郎はゆりから婚姻届とポラロイド写真を奪還した。
「じゃっ俺今日残した仕事あるから先帰るねーまた連絡するよ!」
「はーい。行ってらっしゃい未来の旦那さん!」
「ははははっはは。」
さっそうと修一郎はラブホテルを後にした。車にもどった修一郎はビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
「ふう、あぶなかった。」
修一郎は胸をなでおろし、携帯を見ると不在着信が18件。相手は眞代だった。
「はぁー」
修一郎はため息をつくと自宅へ車を走らせた。
ガッチャ
「おーい。きたぞー」
「お前、ピンポンくらいしろよーもう大人なんだからさー」
そう、地元では気のしれた友人の家にはそのまま入ってくるのが習慣なのだ。貴之の後ろから奈央さんが赤ちゃんを抱っこして顔を出した。
「こんにちはー」
「おっ、久しぶりだねーあらかわいいねー、何ヶ月だっけ?」
「もう三ヶ月です。」
赤ちゃんは真新しいパジャマに身を包みママの胸にしがみつき離れなかった。
「あっそうなんだー寧々ーおじちゃんきたよー。赤ちゃんも一緒だよー」
「ちょっとまってー」
寧々が二階から走って降りてくる。
「おっ寧々ちゃんこんにちは。」
「こんにちわーわぁ赤ちゃんかわいいー。」
「由愛ちゃんっていうの。宜しくね寧々ちゃん。」
寧々は物珍しそうに由愛の顔をまじまじと見た。いつもまん丸の目が輪にかけて丸くなっている。
「わぁ抱っこしたい、抱っこしたい!」
「お、おい。ダメだよ。まだ3ヶ月なんだよ。落としたらどうすんの?ダメー首もまだすわってないんだよ。」
寧々は守を睨みつけ、腕を引っ張りつけた。その様子を見かねた孝之が、
「いいよ。大丈夫だよ。抱っこしたいんか?ほら奈央、寧々ちゃんに抱っこさせてあげて。」
「いいよいいよ。怖いし。また今度な。」
唖然とした顔で寧々は守をみて、腕を叩いた。
「なんでダメなん。イヤ。抱っこする。」
「ダメ!ほらママのお見舞い行くんだろ。ちゃんと用意して。」
「もう用意したもん。」
もう泣きそうな寧々。でもしょうがない落としたら大変だ。
「じゃあさあ行きますか!」
守が口火を切ったが寧々の態度は変わらない。気まづい空気が立ち込める中、貴之が心配そうに訪ねた。
「ホントにいいんか?」
「いいんだよ。ねぇ奈央さん?」
「私は全然いいんよ。抱っこしても。」
「いやいや、落としたら大変だからさ。」
「お前の心配性は悪くなる一方だな。」
俺はよく心配性心配性と言われるが自覚はない。なんせ俺の親父は俺とは比較にならないくらい心配性で几帳面だった。俺の父は銀行を努めたあと自分で社会保険労務士の事務所を開き生涯仕事を続けた。地元じゃ勤勉で名の知れた男で曲がったことは大嫌いだった。俺は家では不真面目な方だが一般社会から見れば常識人である。そのためかいろんなリスク管理には自信があり、会社でもその点を評価されているのではないかと個人的には思っている。まあ人生石橋をたたいて渡らないとねっていうのがモットーだ。寧々にも人生は慎重に歩んで欲しいと思っている。
「ナイスショット~~~!!さすが長塚社長!!ラインばっちりです!!」
「小林君褒めすぎだろう。」
「いやいや社長の腕前には頭が下がります。」
とあるカントリー倶楽部、ゴルフを楽しむ長塚商社代表取締役長塚象二郎、同社経営企画部部長小林の姿があった。
「最近当社の売り上げが落ちているが対策の方はとってあるのかね?なんせ常務の方からメタンハイトレードの発掘の件が難航している旨を聞いてね。」
「はっ!めっそうもございません。メタンの発掘の件ですが少々難航はしてはおりますものの必ずや当社の多大なる利益になることは間違いございません。正確な場所のほうでございますが今三崎大学地質学研究所と連携を取りながら慎重に事の方を進めております。今しばらくのお待ちを!!」
「そうかそうか。メタンハイドレートといえば世界的に注目を集める次世代の大切な資源だ。勿論、当社としては先行投資になるが巨額市場になるのは間違いない。頑張ってくれよ小林君。」
「はいっ!!」
「しかし、当社としても現段階で巨額投資をしている。企業全体の資産で見ても決して小さい額ではない。もし、この事業が失敗に終わればわかっているな小林君?なんちゃって(笑)」
「は、はいっ!!(ゴクっ)」
小林は長塚の恐ろしさを知っていた。今は仏様のように穏やかにしているが非道で冷守な部分があり、小林の同期で入社した友を何人も切られている。長塚商社での中間管理職は世間で評判になるほどの過酷な職業だ。休日は接待ゴルフでつぶれ平日は残業に加え接待に明け暮れる日々が続く。管理職になった者は高年収と引き換えに人生ごと長塚商社に預けることになる。管理職の妻は長塚商事の高年収のの肩書きを与えられる代わりに孤独感と共に子供を育てていかないといけない。ちょっとずつではあるが、長塚商社経営企画本部に暗雲が立ち込めてきた。その時まだ守は知らなかった欲にまみれた暗黒の策略に巻き壊れようとは・・・。
「お見舞いきたよー京香ちゃーん。」
「えっ!ありがとー!貴之さんきたの?あらっ奈央ちゃんも!!あっかわいい~赤ちゃん。」
「よっ!貴之と一緒に来たんだよ。ほら寧々も。なっ寧々。」
「・・・・・・」
寧々は家での赤ちゃんの一件以来落ち込んでいる。京香は守を睨みつけた。
「ちょっと来るなら先に連絡してよ!!もう大人なんだからね!寧々~あれっなんか元気ないね。どうしたの?」
「・・・・・・」
寧々は恨めしそうな目で守を見上げた。
「まっ、家出るときにちょっとあってな!なっ寧々!」
「パパが赤ちゃん抱っこしたらダメっていったー。」
「そうなの~なんで?」
京香は不思議そうに守をみる。
「そりゃ何かあったら大変だろ!まだ寧々小3だし。」
妙な空気に奈央が気づいた。
「私は全然いいって言ったんですよ。でも守さんが・・・」
「まあお前は前から心配性だったからな。そういえば小学校の時も忘れ物一切しなかったな。動きはトロいくせに(笑)」
貴之がフォローする。
「うるさいよーでもバスケでスタメンだったんだから。」
「じゃあ寧々、ママ近くでちゃんと見てるから奈央さんに頼んで赤ちゃん抱っこさせてもらい。」
「ヤッター奈央さん赤ちゃん抱っこさせてもらっていい?」
「どうぞー。ハイ由愛~寧々ちゃんだよ~。」
「うわ~かわい~。」
「お前も十分赤ちゃんだよ。」
「うるさいな~でもホントかわいい。」
そんな時、病室の入口から北村先生が顔を覗かせる。
「おやおや。可愛い子が二人もいるなー。」
「あら北村先生!」
「いつもお世話になってます!」
「あら石川さん今日はホール回ってないですね(笑)家族サービスですか?」
「ははは、今日は部長が社長と行ってます。僕はちょっと今日は遠慮させてもらって・・・」
「おや長塚商社の社長さんと言ったら僕ら病院も色々寄付してもらってかなりお世話になってます。こないだも病院の記念式典に出席してもらって。宜くお伝えください。」
「はいっ。」
そういえば三崎大学と長塚商社は色々繋がる部分がある。今俺がしているプロジェクトのメタンハイドレード発掘も研究所と連携しながらしているし、学長と社長はかなり密な関係らしい。
「先生、三崎大学の地質研究所向井教授をご存知ですか?今当社と連携してプロジェクトを行っているんですけど。」
「はいはいはい。向ね。彼は僕と同期で入学したんだよ。最近は会ってないが学生時代の頃はよく飲んだものだよ。彼は優秀でね。今でも地質学に関しては権威で通っている。」
「そうですか。また宜しくお伝えください。」
このプロジェクトはかなり社内でも期待されている。小林部長もかなりの熱の入れようで頻繁に俺の所へ進行状況を確認してくる。聞いた話では、もし掘り当てれれば国からもかなり優遇された地位に登ることができ国益にも間接的には繋がっていく。巨大プロジェクトも任されるようになったことに誇りを感じている。しかし、休日に仕事のこと考えると気持ちが沈んでくる。
「あなた社長さんと会う機会あるの?係長だもんね(笑)」
「あるわっ!この前も一緒にゴルフ行ったんだから。」
「ははは、寧々ちゃんだったかな~いいね。かわいい赤ちゃん。」
「うん。寧々も赤ちゃん欲しい~!」
「はははははは~、じゃあお父さんとお母さんに頑張ってもらわないとね!(笑)」
「先生!!もう冗談よしてください!!」
「うちは産婦人科もあるんでね。いつでもごひいきに、じゃまた。」
「ははははは(笑)」
この先生のユーモアセンスはピカイチだな。やっぱり、医者の頭は仕事だけに役に立っているわけではなさそうだ。ほんとにこの先生は腕もいいし、人付き合いもいいしこんな人間になりたいな。
「いい感じの先生じゃん!よかったな!」
「おう。北村先生はがん医療の権威なんだ。ホント運が良かったよ。」
そう、小林部長に妻の病気を話した時にたまたま紹介してもらったのが北村先生だった。家からも近いし会社からも近い。それでもってがん治療に関してはかなりのエキスパートと来たもんだ。ホントについている。神様はいるんだなと思った。
「京香さん体大丈夫ですか?」
「ありがとう!大丈夫だよ。今のとこ抗がん剤も打ってないし髪も抜けてないしね。」
「抗がん剤治療来週からだっけ?」
「そう。来週から。せっかく伸びたのにまた髪抜けちゃう。でも平気!これが終わったら一回外泊してもいいって北村先生言ってたから。」
「はっそんなん聞いてないぞ。ちゃんと言えよ、毎日朝来てんだからさ。」
「ソーリーソーリー」
そう京香は結構相談せずに自分で色々決めてしまう。俺は相談して欲しいのだがあまり人に頼ることはしない。気が強いといううかしっかりしているというか弱音を吐いたところをあまりみたことがない。今回の病気の告知の時も本人同席のもとで行ったが顔色ひとつ変えずに淡々と先生に質問していた。女は度胸なのか?俺は愛嬌?
「えっママ戻ってくるの~いついついつ?明日?」
「明日は無理だな~寧々が1週間ちゃーんとお勉強してバトミントンしたらママすぐ帰るからね。」
「ヤッターじゃあ寧々、ちゃーんとお勉強とバトするね!!」
「よかったなー寧々。」
「じゃあ今度みかちゃん退院したらバーベキューしようよ!どう?修一郎も呼んでさぁ。」
「おおーいいねーやろうぜ!!」
「ちょっと~京香さん退院したばかりなのにバーベキューは無理じゃない??」
奈央ちゃんが気を使ってくれた。奈央ちゃんは京香とは正反対な女性だ。控えめで大人しく口数も少ない。でもしっかり要所、要所でしっかりと発言する。頭の中でしっかり答えを出して発言するタイプだ。多分この子がいなければ貴之は生きていけないだろう。
「いいのいいの。バーベキュー大好きだしやろう!」
「ホントに大丈夫??気を使ってない?」
「大丈夫大丈夫!私そうやってみんな集まるところが好きなの。」
京香は独身の問からイベントごとが大好きだった。友達に囲まれている時が一番幸せで男女関係なく誰からも人気があった。そんな京香に恋した。俺は女性の扱いが全然ダメで付き合ってる時からよく怒られていた。俺とは違う何か光るものが京香には存在する。
「修一郎には俺から連絡しとくわ。あいつも忙しいらしいからな。」
「あいつまだ女遊びしてんのかよ!好きだねぇ~」
修一郎、貴之、俺はよく合コンに行っていた。色々女で揉めたりもしたが仲良くやっている。その中で一番先にそのカルテルから抜けたのは俺でその次が貴之、未だ修一郎は会社の後輩とやっている。ちょっと羨ましい気持ちもあるが俺には家庭がある。子をもって家庭を持てばそう言った感情は減退し責任感を持つようになる。
「ううんっ!」
京香と奈央が寧々の方を見る。
「こりゃ失敬失敬。」
「ホントだよ。会社の女の子は一通りね(笑)」
こういう話は男は好きだ。女性も好きだろうが男は所構わずこういった話をする。
「カイシャノオンナ?ってなーにー?」
案の定、寧々に気づかれた。寧々にはまだまだ、いや一生関係ない話であってほしい。
「寧々には関係ないの~大人の話~」
「ズルい~寧々もオトナの話する~」
「寧々ちゃんが大人になってからしような。」
大人になりましたな、貴之さん。ナイスフォロー!
「京香さーん、検温の時間ですよ~」
「はーい。」
「じゃあそろそろ行くか?」
「そうだな」
「あっありがとう!!またね~」
「じゃあ京香ちゃん頑張ってね!応援してるよ!」
「じゃあね~ママ~」
「じゃあ、また明日の朝来るよ。」
「うん。」
その頃、三崎大学地質学研究所では長塚商社との共同事業であるメタンハイドレートの発掘場所の精査を進めていた。
「向井教授!やっぱりこの海域に地震波探査の反応があります!」
「おっやっぱりかーこの感じで行けばもうすぐに正確な位置が特定できるな!」
「はいっ!」
「明日の朝でも長塚商社の石川さんに知らせてあげなさい。」
向井の表情は自信に満ちていた。長年、メタンハイドレートを調査しなかなか結果は芳しくなかった。周囲からも向井の煮え切らない結果に批判が飛んでいた。向井はそういった批判や圧力から若干ではあるが解放された気分になっていた。ここで掘り当てれば間違いなく国内での地質学の地位は不動のものになることは間違いなかった。
プルルルルル、ガチャ
「はい、三崎大学地質学研究所、酒井です。ハイッハイッそれじゃ向井教授におかわりしますね。向井教授!若山大学の安藤教授からお電話です!」
「若山大学の安藤先生か!はいわかったぞ!」
「はい、変わりました。三崎大学向井です。」
「おっ、向井くんか久しぶりだな。安藤だが。」
「安藤先生お久しぶりです。なんといっていいか、こちらからご連絡できず大変申し訳ごさいません。で、ご用件の方はどういったお話でしょうか?」
「いやいや大したことないんだよ。久しぶりだから今度お食事でもどうかなと思って。どうだい?」
「お食事?ははいっ!行きましょう。僕も安藤先生とお話したいと思っておりました。」
「そうかいそうかい。じゃあまた日時と場所は下の者に追って連絡させるから。それじゃまた。」
「はいっまた会える機会を楽しみにしております。失礼します。」
向井は疑問表情で受話器を置いた。向井が疑問に思うのは当然であった。確かに若山大学の安藤先生は向井の恩師であり、地質学では国内で実質権力はトップに当たるだろう。しかし、大学卒業後35年間プライベートな付き合いはなくそれどころか、二人きりで食事にも言ったこともない。向井は何か言い知れない胸騒ぎを覚え手元にあった水を大きく口に含み一気に飲み込んだ。いつもは静まり返っている研究室がその時は慌ただしい騒音に聞こえてならなかった向井であった。
「寧々ーお風呂入るぞー!」
「イヤーお母さんならいいけど・・」
「何言ってんだ!寧々をお風呂に入れるのは寧々が小さい時からパパの役目だったんだぞ!」
「そうなの?」
「そうだよ!寧々が生まれて間もないときパパが入れてたんだ!さあはいるぞー!」
寧々はおしるしが夕方に来てそこから陣痛が次の朝まで続いて生まれた。夕方、京香から携帯に連絡が入り慌てて会社を後にした。産婦科に一晩守夜で付き添い朝方寧々が生まれた。勿論立ち会ったがあの緊張感、希望と不安が入り混じり生まれた瞬間極度の感動が襲って来た。生まれてきた寧々は人間というよりも天使に見えた。小さな手でママにしっかりとしがみつき必死に生きようとしていた。小さな小さな呼吸がひとつずつひとつずつ世の中に生まれてる。今にも消えそうな命の灯火を見守っている、そんな感じだった。それから何の問題もなくスクスク成長し今じゃこんなにしっかり育ってくれた。
「あー気持ちいいなー寧々もちゃんと肩まで浸からないと風邪ひくぞ!」
「寧々あんまりお風呂好きじゃないーアツいってパパ!」
「なんだ寧々あんまり好きじゃないのか~ママお風呂好きだったな~何時間でも入ってたぞ!」
「そうなの?」
「そうだよ。ママ一回お風呂で寝て大変だったんだから!」
あー思い出した。付き合っている当時半身浴がブームでよくお風呂場に何時間もいたな。ゲームやら音楽やらもうお風呂場で生活しているようなもんだった。
「ママが?」
「そうだよ。しかも起きないんだよ!パパひとりで浴槽から出して体吹いて服着せてベットまで運んだんだよ!信じられないだろ?」
「しんじられないー寧々がソファーで寝てたらすっごい怒るのに!」
「ははは、寧々、ママいなくて寂しくないか?寂しかったらさみしいってパパに言ってもいいんだよ。」
「最初寂しかったけど大丈夫。だってママも病気と闘ってるんだから寧々も頑張る。それにパパ頼りなくてさみしいなんていってられない!」
「そうかそうか。そうだよな。パパ頼りないよな。そうだ!ママが来週退院してくるまでにおウチいっぱい飾り付けしてママ迎えてあげような。」
「うん!!ママがもうお医者さんに行きたくないくらいおうちでゆっくりしてもらおうよ!」
「よし決まった!さあお体洗うぞーー」
閑静な住宅街に寧々と守の笑い声だけが静かに響いていた。
その頃京香は病室のベッドで何やらノートに書き記していた。ノートの周りには多くの色鉛筆があり色を使い分け何やら楽しそうだ。鼻歌交じりにほんのり笑みを浮かべひとつひとつ丁寧に書いている。ノートの表紙にはいろいろ装飾し如何にも女の子のノートっていう感じだ。そんな時、京香のカーテンを開ける音が鳴り響いた。カシャーッ
「京香ちゃんこれ食べる?」
「うわーひろよさん?」
慌ててノートだけ布団に隠すがベッド用の机の上にはのりやはさみ、色鉛筆画取り残されていた。
「あらっ!何やら楽しそうなことしてるわね?何してるの?」
「あ~たっただの日記ですよ!!はははは。」
「ホントに~なんか怪しいな?」
「またまた~ひろよさん!あっそれ美味しそうなみかん!頂きまーす!!」
「あっ話そらしたな~」
「まあまあ、はははは」
「それよりひろよさんお体どうですか?」
「うん平気、平気!京香ちゃんと一緒で来週から化学療法始まるから一緒に頑張ろうね!」
「はいっ!頑張りましょ!2人で丸坊主ですね(笑)」
二人とも同じ病気で同時期に入院した。ひろよさんは京香の母親くらいの年代であり、幼くして亡くなった京香の母親を投影していたのかもしれない。京香は母親を奇しくも同じ乳がんで失っている。当時はまだ幼かった京香は病気のことなど何も理解していなかった。母親亡き後、京香は父のて一つで育てられた。父親を愛して病まなかったがその父も結婚して1年目に脳梗塞で亡くし一時期立ち直るのにかなり時間がかかった。しかし、持ち前の強さで平静を保っているが今度は自分が乳ガンに犯されてしまった。しかも、去年の手術で右の胸を切除している。女性として母親として大切な胸を失ったことで心境は計り知れないが一度病院の乾燥機の隅の方でひとりで泣いているのを見たことがある。もっと頼って欲しいと伝えたのだが大丈夫の一点張り。本当のところ彼女の心奥底にある感情を俺はまだ理解していないのかもしれない。
プルルルルル、ガチャっ
「おはようごさいます。長塚商社経営企画本部田中です。はいっいつもお世話になっております。石川ですか。はいちょっとまだ出勤してきていないんですけど・・・・あっ!今出勤してきました。今変わりますね。石川さーん三崎大学地質学研究所からお電話です!」
「お、俺?ちょっとまって~」
石川が廊下を猛ダッシュ出かけぬける。部署の扉を勢いよくあけ息も絶え絶え。石川はここ数年運動らしきものは何一つしていなかった。
「はぁはぁはぁ、ごめんごめん!」
「石川さーん運動しなきゃダメですよ~」
大吾が薄らわらいを浮かべを守を見る。
「ダメだよこいつは。もうおじさんなんだから。」
後ろから修一郎が出勤してきた。
「おはようございます!修一郎さん!こないだの合コン・・」
バシッ、修一郎が大吾の頭を叩く。
「お前会社でそんな話すんじゃないよ!」
「すいません!でもよかったです。」
修一郎は自慢げに大吾の方へ親指を立て向こうに歩いて行った。守は笑いながら変わらない光景に安堵した。
「すいません。お待たせしました。石川です。」
「朝早くに申し訳ございません。研究所の酒井です。昨日向井教授のほうから発掘場所がだいたい特定できたので石川さんに電話するように言われましたのでお電話差し上げました。」
「あっそうですか!!じゃあ今すぐお伺い致します!!失礼します。」
守が受話器を置くと横から大吾が興奮して駆け寄ってきた。
「メタンハイドレートの発掘場所特定できたんですか?すごいじゃないですか!石川さん!!」
大吾と守が話しているのが修一郎にも聞こえてきた。修一郎のカップにコーヒーを入れる手が震え、カップからコーヒーがこぼれる。
「おおう、まだ詳細には聞けてないんだが今から研究所にいって詳しく聞いてくるよ!!」
「本当ですか!!お祝いですね!!」
「宜しく頼むよ!!じゃあ今から言ってくるから!」
「いってらっしゃいっ!」
石川はカバンを一度もデスクに下ろさずにそのまま部署を出る。部署を出るときに出社してきた眞代に出会う。
「あっおはよう。眞代。」
「おはようございます!!」
石川はドアを勢いよく開け飛び出していく。
「あれっ石川さんあんなに急いでどこに行ったの?」
「石川さんすごいんですよ!!メタンハイドレートの発掘場所がほぼ特定されたらしいんです!それで今から研究所に話にいって・・・」
「えー!すごいじゃない!!もし発掘が上手くいけば長塚商社始まって以来の巨額市場を独占することになるわ。そうなったら部長や係長の石川さん間違いなく昇進するわ!」
修一郎がコーヒーカップを手にし二人の元へ駆け寄り鬼の形相で二人をまくし立てた。
「おいっ!お前ら!もう仕事始まってんだぞ!!なにぺちゃくちゃ喋ってんだ!!無駄話してないで、いい加減仕事しろ!」
部署全体が静まり返った。周囲の人が修一郎の未だかつて見せない表情に唖然とし息を飲んだ。
「しゅ、修一郎さん?」
「はっ、いやいや悪い悪い。ゴメンなつい感情的になってしまってな。いやいやあんまりお前らが盛り上がってるから他の人の仕事の迷惑ならないかなーっと思ってさ。ははは。さあ仕事仕事!」
「は、はあ」
「・・・・・」
眞代は下を向いたまま顔を上げることができない。沈黙した気まずい空気が周囲に立ち込める。修一郎は部署の空気に耐え切れず部署をあとにする。
「ど、どうしたんだろ、修一郎さん。あんな修一郎さん見るの初めてなんだけど。」
「さ、さあ仕事しよ!!大吾。」
眞代は力を振り絞り大吾の肩を叩くと自分のデスクに戻り仕事を続けた。
会社のトイレに修一郎の姿があった。持っていたコーヒーカップを壁に投げつけるとトイレのドアを勢いよく締め何度も何度もドアを殴った。
修一郎の脳裏に中学の時の部活の風景が浮かんでくる。夏の蒸し返った体育館で先生の罵声とボールのつく音、シューズが鳴らす甲高い音、観客の歓声が蘇ってくる。そうここは俺らの最期の県大会。だがベンチにも入れず観客席で応援する惨めな俺がいる。
「いけー守!」
「守さん頑張ってー!カッコイイー!」
耳障りな歓声が彼の心に大きな闇を作り、一緒なチームとは思えない感情が彼を襲う。傷だらけの自尊心と嫉妬心の塊になっていた。
「なんで、なんでいつもあいつなんだよ・・・くそくそくそぉっ!!」
会社のトイレに悲痛な修一郎の罵声が鳴り響く。
「お疲れ様です!!長塚商社の石川です!」
「おっ!石川君。よく来たね。さあ入って。」
「失礼します。向井先生ハイドレードの発掘場所正確に分かったって本当なんですか?」
「うん。正確にとは言っても65~70%くらいの確率だな。でもこの業界でその確率はほぼ間違いないといってもいい。」
「ホントですか!!ありがとうございます!!」
「石川君が必死に走り回った結果だよ。こちらからも礼を言うよ。」
「いえいえそんな。先生がいなければこの事業は成り立たないんですから。」
「それで本題なんだが、前回探査して発掘した場所から20kmほど離れたこの場所が今回無人探査機に反応があった場所だ。ここの海底の地形はメタンハイドレードが埋蔵されているとされる特殊な地形をしていて地震波探査でも優良な反応を得たんだ。メタン採掘方法は基本的には・・・・」
「減圧法!ですか?」
「そう!そのとおり。一番効率的で採算が取れるとされている。」
「わぁーなんかワクワクしますね!!」
「いやー僕も一緒だよ石川くん。僕は以前からメタンハイドレードに興味があってこの研究を生涯かけて追いかけてたんだ。そこにちょうど長塚商社さんからのお誘いがあって必要な資金援助を惜しみなくしてくれて感謝してるのはこっちのほうだよ。国も官民一体でこの資源を大切にしていこうと言うんだから。」
「先生、いつごろ着工してもらえますか?」
「こっちは準備万端だよ!!関連機器があればいつでも行ける!!ここに必要機器のリスト出しておいたから宜しく!」
「ホントですか!!じゃあここからは僕の仕事です。大急ぎで調整しますんで!」
守の長年かけたプロジェクトがもう少しで実を結びそうだ。守は長塚商社での昇進よりも、環境問題に取り組めるなど地球規模の問題解決に取り組めることに誇りを持って仕事に取り組んできた。長く辛い時期もあったがようやく向かい風が吹いてきたようだ。研究所から出てきた守は降り注ぐ太陽の日差しを見上げ笑みをみせた。
「よぉーし!!!やるぞー!!」
「集合!!えーと今日から1週間後にこのチーム内でダブルスの試合を行う!!勿論、今度の地区大会出場時の参考にさせてもらう。引き締めて取り組むように!!いいな!!」
藤谷の低音の大きな声が体育館に響き渡る。
「はいっ!!」
バトミントン部35名が次々にペアを作っていく。寧々と由佳、みえは3人グループなので誰かが他の人を探さないといけない。こういう時はいつも寧々が先陣を切って抜けていくのだ。
「じゃあ由佳ちゃんとみえちゃんペアになって!私だれか探してくる!」
「ゴメンネ。寧々いつもありがとう!」
誰かいないかな・・・・
「寧々ちゃん私とペア組んでくれる?」
「うん。一緒に・・・えっ!小百合さん!!」
そこには寧々の憧れ、いや学校中の憧れの人小百合が立っていた。
「うん。真子インフルエンザで当分休みなんだ。一緒に組んでくれる?」
「もっもちろん!でも私みたいな下手くそで大丈夫ですか?」
「なに言ってんの?最初はみんな下手くそなの。今からじゃない!来週の試合まで特別レッスンね!!」
「あっありがとうございます。」
「そうと決まったら練習するよっ!!」
「はいっ!」
寧々は願ってもないチャンスに心踊らされていた。そんな時、由佳が寧々が小百合とペアを組んだことを知る。
「ねえ、みえ見て寧々が小百合さんとペア組んでる!!」
「えっ!!」
「絶対上達するよ!!だって小百合さんが教えてくれるんだよ!!」
「・・・。まあ私たちは私たちで頑張りましょ!」
みえは寧々が小百合さんにあこがれを抱いているのは知っていた。しかも、私たちみたいな中途半端気持ちではなく真剣にバトミントンに打ち込んでいる寧々も知っていたし祝福の気持ちで見守っていた。
「寧々ちゃん!ラケットはもっとシャープに振る!!違う違う。こう振るの!!」
「はいっ!こうですか?」
「そうそう!寧々ちゃん飲み込み早いじゃない!!さあ次は・・・・」
しかし、みえは寧々が気になって練習に身が入らない。集中しようと頑張ってもいつの間にか聞き耳を立てる自分、視線を移す自分がいる。なんでだろう、なんでなんだろう?この気持ちは一体何?
「みえっ!!どこ見てんの!!危ないよ!」
「えっ!あっごめんごめん。」
みえはこの焦燥感、高鳴る鼓動が嫉妬心であることにこの時まだ気づいていなかった。
「ただいまっー!!」
「おっ!!遅かったなー!部活か?」
「うん!お腹すいたー」
「おっ!待ってろよ~今できるからな。パパ特製カレーーライス!!」
「ヤッター!」
「じゃあ2階にランドセルおいて手洗ってからおいで。」
「ハーイ」
タッタッタッタッタ
「いただきまーす」
「どうだ?おいしいだろ!」
「おいひ❥寧々パパのカレー好き!!」
「そうだろそうだろ!パパのカレーは世界一だからな!寧々こんなに遅くまでよく頑張ったな。」
「そうなのそうなの聞いて!あのね、小百合さんとダブルス組むことになったの!それでね、試合1週間後だからずっと小百合さんと練習できるんだよ!!すごいでしょ!」
「えっ!あのさゆりちゃんと?すごいじゃないか寧々!!」
「えへへへ。」
「先輩からいっぱいいいとこ盗むんだぞ!!」
「えっ!盗んじゃダメ!!小百合さんいい人なんだから。大好きなの!」
「違う違う。盗むっていうのは小百合さんから一杯いいところ見習ってこいよって意味だよ。」
「あそういうことね(笑)」
「よーしこうなったら一杯食え寧々!何事も体作りからだ!」
「もう食えないー」
「何言ってんだ食え食え!ほらほらお父さんの分も!」
「ちょっとやめてー(笑)」
「うりゃうりゃうりゃー」
「キャー」
寧々と守の笑い声とともに楽しい時間は過ぎていった。石川一家それぞれこの1週間が正念場で互いに寄り添いながら励ましあいながら乗り切るとそこに幸せがある、そう思い一日一日しっかりと生きていた。石川家のモットーは多くのものを欲しがらず欲しがる人には与えるといった守の生き方が根付いていた。
自宅ベッドで物思いにふける修一郎がいた。今日感情的になって怒鳴ったことを後悔していた。そんなとき修一郎の携帯がなる。ベッドから起き上がってみると着信先が眞代になっている。
「おう、どした?」
「あっ修ちゃん?今なにしてる?」
「え、何もしてないけど・・」
「今ちょうど近くにいるから行ってもいい?」
「いいけど・・どした?」
「いいからいいから、じゃね。」
修一郎は携帯を切りソファーにゆっくりと座った。そしてじっくりと携帯を見つめ眞代との過去を思い出していた。そう眞代と初めて親密な関係になったのは守と俺と眞代で3、4回飲みに行った時くらいかな・・・そういえば3人で飲んだあと守はいつも通り家庭があるから早めに帰って、俺はなんか眞代が相談に乗って欲しいからって言われてどこかのバーに入ったんだ。そのあと仕事の話、会社での人間関係の話、恋愛の話とか一杯喋って(酔っ払って何を喋ったかあまり覚えてない)バーを出たのがかなり遅かった。そのあと、自宅の方向が一緒ってことで2人でタクシーに乗ったんだけど眞代が眠ってしまってやむなく俺の部屋まで連れて帰ったんだ。それで、俺のベッドに眞代を寝かして俺はソファーで寝た。正直、眞代は俺のタイプじゃないし妹みたいなもんだと思ってたから下心はこれっぽっちもなかったんだ。で、翌朝眞代が起きたらさっさと帰ってしまった。この話を何度も守にするが信じてもらえない。守は、俺が眞代を抱いたと勘違いしている。まあ、2人きりになると気まずい雰囲気になるのは間違いないしそれを守は感づいているのだろう。
そうしていると修一郎のマンションのチャイムが鳴った。
ガチャッ、玄関のドアをあけると何やらコンビニで買ってきた袋が目に入る。
「おう。」
「お疲れ様です。一緒に飲みませんか?」
眞代が買い物袋を見せるように持ち上げた。
「おっおう。まあ上がれよ。」
眞代は靴を脱ぐとちゃんと自分の靴と修一郎の靴をしっかり並べソファーに座った。
「何飲みますか?」
「ビールある?」
「はい。じゃあこれ。」
「サンキュッ!」
眞代は如何にも女の子が飲みそうなチューハイを選んだ。
「じゃあ乾杯しますか!」
「かんぱぁーい!」
「はぁーやっぱ旨いなービールは!」
「修ちゃんおっさんみたいですよ(笑)」
「うるさいほっとけ!もう三十路なんだよ!」
「そっかぁ、守さんと同級生でしたよね?」
「そうだよ。あいつとは中学時代からの腐れ縁でよく続いてるなー」
「兄弟みたいですもんね二人・・・」
眞代は思い切ったようにチューハイを一気に飲み干した。
「でも修ちゃんの気持ちわかります!」
「ど、どうしたんだよ。急に・・・」
「今日修ちゃんの怒った姿初めて見ました。私もずっと親友の子がいて、その子は勉強もできるしスタイルもいいし男の子からもモテるんです。高校の時、その子に私の好きな人が恋をして相談に乗ってあげてた時期があるんですけど、もうこの世から居なくなっちゃえばいいって思ったことがあって・・・」
眞代はチューハイをグイっと全部飲み干した。
「お、おいおい。お前酒強くないんだからほどほどに・・・」
「だから修ちゃんの気持ちわかるんです!!」
「いや別に俺はそんな守に嫉妬してるとかそういうんじゃなくて・・」
「だってこの前言ってたじゃないですか!!」
「えっ!この前って?」
「忘れたんですか!眞代が修ちゃんのアパートに泊まった日、バーで言ってたじゃないですか!俺の欲しいもんは全部あいつが持ってるって!」
「えっ!そんなこと言ってた?」
「忘れたんですか!」
「あーっわかったよ!そうだよ。俺はあいつに嫉妬芯があるのは確かだよ。だって、あいつにはかわいい嫁さんも子供もいて仕事は順調にいって管理職にまでなってその挙句今度の会社を挙げてのプロジェクトでも成果を出して。どんどんどんどん置いていかれてる気がすんだよ!中学の時だって部活で・・・・」
バチンッ眞代が修一郎の頬を思いっきり平手打ちした。
「なっなにすんだよ!お前俺の気持ちがわかるって・・・」
修一郎がまくし立てた瞬間、眞代が修一郎の唇に口づけをした。修一郎は目を大きく開き唖然とするが身動きが取れない。眞代は口づけを終えると修一郎に抱きついた。
「私、そんな修ちゃんが好きなの」
「そんなって・・いやいやまずい。会社はまずい!いや同じ部署はまずい!!」
修一郎は眞代を突き放した。恨めしそうな顔で修一郎の顔を見る眞代。もう一度抱きつく。
「一晩でいいから一晩でいいから修ちゃんのものにして・・・」
眞代は修一朗を強く抱きしめはなさない。修一郎は一瞬、眞代の鼻にツンとくる香水にクラッときたが抵抗しようとする。
「おまえ俺も男なんだからな!!」
修一郎はバッと眞代の両肩を掴みソファーに押し倒した。押し倒したあと眞代に口づけするとゆっくりと眞代の胸に手が伸びる。しかし、眞代がその手を払いのける。
「ちょっと、やめて!」
眞代は上に乗っている修一朗をどかし乱れた服を直した。修一郎はこの理不尽な反応に唖然として空いた口が塞がらない。
「なっ!なんだよ!!お前が・・・」
「私帰る。」
そう言うと眞代はバッグを持って修一郎のマンションを後にした。修一郎は突然の出来事に、いや事件になすすべもなく銅像のように固まっていた。この意味不明の状況に理由づけすることに必死になっていた。そのころ、修一郎のマンションを後にした眞代は修一郎の部屋を見上げ不敵な笑みを浮かべたあと真夜中の暗闇に消えていった、周囲を眞代のヒールの音だけが谺していた。
翌朝、ひろ代が目を覚ますと何やら京香のベッドのカーテン越しに声が聞こえてくる。どうやら守と京香の声のようだ。ひろ代はこんな朝早くに守が病院に来るなんて今まで一回もなかったため胸騒ぎを覚えて仕方なかった。ひろ代はカーテン越しにそーっと聞き耳を立てた。何やら神妙な声色で守と京香が話をしている。
「ほんとうにいいんだな!!もう二度と撤回できないからな!!わかってんのか!!」
ひろ代はびっくりして唖然となった。一度聞いてはいけない話だとベッドに戻ろうとするがもう気になっていてもたってもいられなかった。もう一度、カーテン越しに聞き耳をたてる。
「わかってるわよ!何度も何度も考えてやっと出た答えなの!何も言わずに言うとおりにして!」
ひろ代の脳裏にある二文字がよぎった。”離婚!!”はっ!と思ったがいやいや私が出る幕ではない!離婚は夫婦の問題だ!私がそんな夫婦の中に入って事がよじれたらそっちのほうが大変だ!!ここはひとつ静観しよう!そう思い今にも飛び出しそうな鼓動を抑え、もう一度そーっとカーテン越しに聞き耳を立てた。
「お前がそういうんだったらもう何も言わない!もうイクからな!じゃあな!」
「だから早くしてって言ってるでしょ!!そういうところも嫌いなのよ!!」
「あーあったま来た!じゃあ言う通りにしてやるよ!!」
その時、意を決したひろ代が二人を止めるために勢いよくカーテンを開け大声でまくし立てた。しかし、気の弱いひろ代は二人の方を見ることができない。
「ちょっとまって!!そんな感情的になって決めてはダメ!!二人とも心労が重なってるのよ。もう一度考え直して!それに、そう!寧々ちゃんはどうするの?離婚したら悲しむと思うな!!ねえ!だからもう一度考え直して!!」
「ど、どうしたんですか、ひろ代さん?」
「離婚??」
「隠したってダメ!!私カーテン越しに聞いてたんだから!!」
恐る恐るひろ代は二人の方に目を向けた。そこには、バリカンを持った守とゴミ袋を切って床屋のケープ状にしたものを身につけている京香が唖然としてひろ代の方を見ていた。
[えっ!バリカン?・・・散髪!?あっそういうことね。私はてっきりそのその離婚?かなーと思って・・・そう、それは良かった!]
そう言うとひろ代はカーテンを勢いよく締め自分のベッドに戻った。ひろ代は自分の早とちりを恨みなんとか自分を落ち着けていた。そのあとも京香のベッドからはバリカンの音と鈍い髪の毛を刈る音、守と京香の夫婦喧嘩が絶え間なく続いていた。そんな音を聞きながらひろ代は何かふたりの絆を感じ微笑ましい感情に浸らざるをえなかった。夫を早くに亡くしたひろ代にとっては羨ましく、そして昔の夫を思い出していた。ひろ代の時代では守ほど妻に尽くす夫はいなく勿論それは当時普通だった。でも、その中でも夫は工場の仕事が終わると真っ直ぐに家に帰ってきてくれて、いつも美味しい美味しいとひろ代の作ったご飯を食べてくれた。その時間がひろ代にとって一番大切で、一番幸せな時間だった。その愛おしい記憶をたどるといつもひろ代の瞳には涙が溜まるのだった。そんな感傷に浸っていると勢いよくひろ代のベッドのカーテンが開く。
ひろ代は慌てて涙を拭き取ると声の方へ目をやった。そこには綺麗なまん坊主の京香が溢れるくらいの笑顔で立っていた。
「ひろ代さん!!みてみて!一休さんです(笑)」
京香は坊主の自分の頭をひろ代に撫でて見せた。
「お前カーテン開けるときはちゃんと声かけてから開けろよ!すいません、ひろ代さん。世間知らずで・・」
「なによ世間知らずって!」
京香は守の左耳を引っ張った。
「いたたたた。」
「いいのいいの。私と京香ちゃんの仲だものね。そんなことよりキレーな頭の形してるわね。ちょっとおばさんに触らせて。」
「いいですよー」
「あっらー気持ちいい。私もしようかしら・・」
「しましょしましょ!今します?」
「今?今はちょっと・・心の準備してから!!」
「そうですよね。」
「ははははははは」
そんなひろ代と京香が会話している光景を守は一歩下がって見ていた。京香やひろ代のいる病室はがん患者ばかり集められた病室で、この病院内でも一番深刻な病気と闘っている病室だ。それなのに京香やひろ代さんはいつも笑顔を絶やさず、それどころか病気を笑顔で吹き飛ばすくらいの勢いだ。守は病室に来るたびにそんな強い生命力に逆に勇気付けられていた。そんな人たちを見ていると自分の悩み事なんて恥ずかしくて言えないそんな気持ちが仕事に家に頑張る守の背中を後押ししていた。
「おはようございます!」
「おっ元気がいいな!」
小学校に元気に登校する寧々の姿があった。
「はいっ!!」
寧々は校門前で立っている生活指導でもある藤谷先生に挨拶をし会釈をした。
「お前らも石川くらい元気に挨拶しろよー!」
寧々は小百合とのレッスンが楽しみでいつも以上にやる気に満ちていた。寧々が教室に着き教科書を出していると由佳が寧々のところに駆け込んできた。
「寧々!すごいじゃない!小百合さんとペア組めるなんてすごいよ!」
「違うよ!たまたま真子さんが風邪だからペア組んでもらってるだけだよ。小百合さんの足引っ張らないように頑張るだけだよ。」
「でも小百合さんのレッスン受けれるなんて羨ましー!」
「小百合さんやさしいから私みたいな下手くそでもちゃんと教えてくれるんだ。申し訳なくて・・・でも頑張る!!」
そんな寧々と由佳の会話を教室の外から眺めているみえがいた。
「みえ何してるの?授業はじまるよっ!」
「はっう、うん!今行く!」
みえはいつもなら二人の会話に混じって行くのだが今回はなぜか入っていけない自分がいることに気づいた。素直に、寧々に起きた出来事を共感し祝福することがどうしてもできなかった。そんな自分を戒めいけないことと言い聞かせ教室に戻った。
「はいっ!先生の方からゴーサインが出まして・・・・はいっそれじゃあ宜しくお願いします。失礼します。」
長塚商社経営企画本部では守がメタンハイドレート発掘に向け関連機器会社の調整仕事に追われていた。受話器片手にパソコンと向かい合う日々が続いていた。仕事量は増え肉体的にも格段にハードになっていたが不思議と守はそんなことは全然気にしていなかった。それよりもしっかりと目先に見えてきた光を見失まいと着実に一歩一歩前進することがやりがいや安心感に繋がっていたからだ。そんな頼りがいのある姿に部長を始め部署全体が勇気づけられいつにもまして経営企画本部は活気に満ち溢れていた。守には人を魅了する真っ直ぐな汚れない心を持つ男だった。
「石川さんすごい気合の入りようですね!」
大吾は修一郎に話しかけた。修一郎はそっけない態度でパソコンに向かっているが面倒くさそうに大吾の方に目線を向けた。
「まああいつは昔からバカがつくほど真面目だったからな。」
そう言うと目線をパソコンに向け淡々と仕事をこなす。修一郎はそんなことより昨日の夜に起きた出来事が頭から離れず、しきりに眞代の方を見てしまう。眞代は普段と変わりない様子で平然と仕事をこなし修一郎の方を一切見ない。そんな眞代を修一郎は腹立たしく思っていた。なんだよ、俺を試したってことなのか、上等だよ。修一郎は書類を持つと勢い良く立ち上がり眞代のデスクに向かった。眞代は修一郎が自分のデスクに近づいていることに気づいていない。修一郎が眞代のデスクに着き話しかけようとした時、急に眞代は立ち上がり修一郎同様何やら書類を持って守の方へ向かった。
「石川さん、この書類なんですけど・・・ここがわかんなくて・・・。」
眞代は色っぽい声で守に近づく。そんな様子を見ていた修一郎はいつしか持っていた書類を握りつぶしていた。
「あーあ、ここか。これはな・・・」
「あっそうか。そうなんですね。分かりました。やっぱり石川さんは頼りになりますね。尊敬します!」
そう言って眞代は修一郎の方をチラッと見た。眞代は修一郎を見下すような目で見て、そして薄ら笑っていた。そんな眞代の様子を見ていた修一郎は自分のデスクに戻り書類をグシャグシャにしてゴミ箱に捨てた。そんな様子に気づいた大吾が修一郎に話しかける。
「ど、どうしたんですか?」
「うるせぇ!ほっとけ!」
修一郎は大吾に悪態をつくと、とりつかれたように一心不乱にパソコンに向かった。そんな様子を眞代が確認するとバックから携帯を取り出しなにやらメールを打っている。その時、修一郎の携帯が鳴った。修一郎はメールの相手が眞代であることを確認する。修一郎は勢いよく振り返り眞代の方をみるが変わらず淡々と仕事をこなしている。修一郎は体を向きなおすと眞代からのメールを開いた。「今夜いっていい?」それだけ打たれたメールが目に飛び込んでくる。眞代の意味不明の行動に理解できず頭を抱えメールを見ていた。しかし、この姿を眞代に見られていると思うと腹立たしくさっと携帯をしまうと嫌悪感を募らせながら仕事に戻った。
とある高級懐石料理店の門をくぐる男がいた。三崎大学地質学研究所教授向井である。向井は恩師でもある若山大学地質学教授安藤と食事の約束をしていた。向井は日本庭園を見せる廊下を通り安藤の待つ一室に案内される。仲居の後ろを歩く向井の表情には笑みはなかった。仲居が一室の障子を開けるとそこには安藤ともうひとり見知らぬ男があぐらをかいて座っていた。
「おっ!向井くん久しぶり!さあ入って入って。」
「いえいえこちらこそお久しぶりです。長い間ご連絡もせずに失礼いたしました。で、こちらにおられる方は?」
「おー紹介がまだだったね。これは失敬失敬。こちらの方は、環境省の資源開発、保護などを統括されている三村さんだ。」
「初めてお目にかかります。三村です。向井先生のご活躍は陰ながらよく聞いています。いや実にご立派な人だ。」
「いえいえそんな・・」
「まあまあ立ち話もなんだから二人とも座って!一杯しよう!」
それから仲居が三射のコップにビールを注いでまわる。コップに注がれるビールを見ながら向井は三村に視線を移した。環境省のお役人が出てくるってことは間違いなくメタンハイドレートの件だろうが国にはもう許可を取っているはずだし今更四の五の言われる筋合いはない、向井はこの異様な状況に疑心が隠せず硬い表情を崩すことができなかった。そんな向井とは裏腹に終始にこやかに安藤が向井のほうに目線を送る。向井は乾杯の一杯を一口ほど口含むと無理やり喉に押しやった。そんな中、安藤が口火を切る。
「向井君、今、メタンハイドレートの発掘作業を手伝ってるんだって?色々、噂は来てるよ。私の教え子が最先端事業に加担しているのをいつも誇らしく思っているんだよ。」
「いえいえそんなめっそうもない。私には地道にコツコツする事しか術をしらないので。たまたま地元のある会社さんに融資を受けることができ何とか研究所を回させて頂いています。」
「ははは。変わってないな向井君。その自分を謙遜するところも学生の頃と全く同じだ。そうだな、君は学生の時から地球資源に興味があったね。そんな君を僕は評価してたんだよ。学生時代で思い出した。君の学生の同期で島田君は覚えているかね?」
「あっ!島田ですか?覚えていますよ。彼は優秀で僕なんか足元にも及ばない男でしたよ。風の噂でアメリカに留学したとか?」
「そうなんだよ。彼はシカゴ大学に編入学し大学院を卒業した後、自分で研究所を開いてね。あのシェールガスの発掘に力を今力を注いでいるんだ。」
「シカゴ大学大学院といえば地質学を志した者では一番の名誉ですね。しかも、世界中の注目を集めるシェールガスの発掘に携わっているなんて。やっぱり島田は俺の敵わない相手だった訳ですね。」
「それでね。君に電話した2,3日前に彼から私の所に電話が掛かってきてね。専らシェールガスに関する事の専門的な話だったんだが・・まあ私にも概論的な事は彼にアドバイスできたんだが実際のこととなると世界的に見ても彼に勝る人間はいない。それで私の助言にも限度があってね。彼は心労が重なってかなり参ってるそうなんだよ。やはり、日本人の気質が未だ抜けないらしく粗暴で強引な外国人と心底相談事ができないそうなんだよ。彼と同等のレベルの人間となると国内でもそうはいない。それで君に申し訳ないが白羽の矢を立てたんだ。」
「白っ?白羽の矢ですか?どっどういうことですか?」
「向井君!どうか彼を助けてやってほしい!アメリカに飛んでほしい!頼む!」
「ア、アメリカ!?」
環境省三村がここぞとばかりに沈黙を破った。
「私からもお願いします!シェールガスは現在地球上で最も注目されている資源です。しかも、アメリカとなると・・日米関係はよくご存じでしょう。食糧にしてもエネルギー関連にしても自給率が我が国は各段に低く、他国からの輸入に頼らざるを得ない状況です。しかし、ここで日本人学者が世界的な需要を満たす資源を発掘できたとしたら、いろんな外交の場面で優位に立つことができるんです!!ですから何卒、長期的な目で見たご判断をお願いします。勿論、政府としてもそれなりの報酬はお支払するつもりです。具体的な金額はこちらです。」
そう言うと三村は小さな紙切れをテーブルに添わせて私の目の前に置いた。見ると目を剥くような額で、とても学者レベルの私が貰う様な額ではなかった。大学の教授といっても公務員であり一般企業の幹部クラスになれば私以上の給料を貰っているものはザラにいる。息を飲むような額に色んな思考が私を襲ってくる。そんな様子を見かねた安藤が優しくにこやかに諭すように向井に話しかけた。
「君が責任感の強い人間で今している事業を途中でほっぽりだす事に罪悪感を持っているのは十分承知している。今の君のポストへは私の力や国の力で後任教授をいくらでも就けることができる。いいかい向井君。君が渡米することは国の意向なんだよ。もし君が断れば勿論、長塚商社にだって国の圧力がいかないとも限らない。そうなっては事が遅いんだよ向井君。僕たち学者はいくら聡明であろうが、いくら類い稀な能力を持っていたとして国家権力を目の前にしては無力なんだよ。」
そんな気迫溢れる安藤の説得に何も言い返すことができなかった。向井は承諾書にサインしその場を後にした。何か自分の大切なものすべてを人質に取られている、そんな思いが向井の身を縮みあがらせていたのだ。
病院では京香に抗がん剤投与が開始されていた。抗がん剤の黄色い液体が透明な管を通って京香の体内に入っていく。そんな様子を京香はずっと不安そうな顔で見ていた。点滴の針は太く、白い薄い京香の腕を貫くようだった。京香は歯を食いしばり弱気な自分を噛み殺そうとした。京香引き出しからまたあのノートを取り出すと何やらまた書き出した。負けないように負けないように、ガンなんかに負けないように力強く力強くノートに書き綴っていく。その内、自然と京香の方表情が和らぎ心の安堵が訪れいつしか抗がん剤のことを忘れていた。次第に幸せな幸せな世界へと京香を誘う。孤独感からも死への恐怖からも逸脱した世界へ・・。
熱気で蒸す体育館で一生懸命汗を流す寧々と小百合がいた。寧々の着ている白いシャツは汗で色が変わっており、絞ればどれだけでも汗が出るほどのものだった。少し離れた体育館の隅で由佳とみえも一生懸命練習していた。由佳とみえは寧々とは違いバトミントンに対し情熱はなかったが寧々が急成長していくのを見ていると焦らずにはいられなかった。寧々はここ三日で小百合の指導の下メキメキとバトミントンの腕を上達させていた。そんな急成長する寧々に顧問の藤谷も感心していた。藤谷は技術を評価していたのは勿論だが、寧々の真っ直ぐに練習に打ち込む精神と何も疑わず目上の人の話を聞き入れ直ぐに実行に移す素直さに類い稀な才能があることを見抜いていた。今、国内でも有数の選手でもある小百合や真子の素質に似ており、もしかしたらもしかすると期待していた。そう思うのも無理はない、小百合や真子に次ぐ次世代の選手がその時バトミントン部には育っていなかったのだ。
「集合!」
藤谷の号令に皆、練習を中断し駆け足で藤谷を囲うように集まる。
「よーし!試合まであと2日!俺もこの試合でこれからのこと色々参考にさせてもらう!気を引き締めて練習に当たるように!」
「はいっ!」
修一郎のマンションのチャイムが鳴り響く。修一郎は無言でカギを開けドアは開けずにソファーに戻った。
「なんだ、そっけないなぁ。修一郎さぁん。」
眞代はもはや昨夜、修一郎の家に来た眞代ではなくなっていた。蔑むような目で修一郎を見るとバックから煙草を取り出しゆっくりと火を点けた。一服吸うと煙を天井めがけて吹き付けた。修一郎はそんな眞代を横目で見て沈黙を守っていた。眞代はゆっくり修一郎の方を見ると笑みを見せた。
「修一郎さん。私のこと好きですかぁ?」
修一郎は自分を守るように身を持ち直すと眞代を睨みつけた。
「ば、馬鹿なこと言うな。俺は一回もお前のこと女として見たことないわ!。」
眞代は不敵な笑みを見せ間髪入れずに切り返した。
「じゃあ、昨日ここで眞代の胸触ったのは誰?まさか好きでもない人の胸を触るような人だったの、修一郎さんは?」
修一郎は何か言いたいが言い返す言葉がなかった。ひたすら、こみ上げる怒りを押し込めるのに精一杯だった。
「もし会社でこのこと言ったらどうする?」
さすがの修一郎も、もう黙っていられなかった。
「お前はどうしたいんだよ、眞代。」
力なく眞代に問いかける。眞代は待ってましたと言わんばかりに修一郎に切り返した。
「じゃあ今日から修一郎さんの彼女は眞代で、眞代の彼氏は修一郎さんね。楽しそう、絶対楽しくなるよ!!」
「わかったよ。」
修一郎は選ぶ言葉がなく渋々了解した。その言葉を聞くや否や眞代は修一郎に抱き付いた。
「ヤッター!!じゃあ帰るね!」
「は?わかったよ。気をつけてな。」
「全然心配してない~もう修ちゃんの眞代だよ!もっと彼氏らしくして!」
「わぁったよ!じゃあな眞代。また連絡するな。」
「はーい。わたしの修ちゃん(笑)」
そういうと修一郎との別れを惜しみながらマンションを後にした。修一郎はたった一人残された部屋で頭を抱えていた。半ば脅迫めいた眞代の魂胆がわからなかった。昨日にしても今日にしても眞代は修一郎のマンションには止まらず帰って行った。その行動が修一郎を困惑させ暗中へ引きずり込むのだった。そんな修一郎とは裏腹に家路につく眞代の足取りは軽かった。手慣れた様子でタクシーを止めると自宅へ向け走らせた。車中、眞代の携帯が鳴る。眞代は手慣れた手つきで携帯を取った。
「はい、どうしたの~?暇してる?じゃあ今から行くね!部屋開けといてね。」
眞代は携帯を切ると運転手に行先の変更を告げタクシーを走らせた。窓から見える街の雑踏、ネオンを力なく見つめる大人びた眞代がいた。
「あー気持ちいいなー」
疲れた体を湯水で癒す守の姿がそこにはあった。守は肩までまでどっぷりと浴槽につかると両手で湯水をすくい顔に擦り付け、天井を見上げた。
「ぱぱ疲れてるの?」
頭を洗い終えた寧々は鏡越しにそんな守の様子を心配そうに見ていた。寧々は守が最近、仕事に追われ口数が減り物思いに耽ることが多くなっているのに気付いていた。寧々はそんな父親を見て幼いながらも哀愁の目で見ていたのだ。
「仕事?」
寧々の声に気付いた守は目を開けた。
「何なに?なんか言った?」
「ちょっとお!寝てたの?」
「いつの間にかな~危ない危ない。ニュースに出るとこだったな(笑)」
「笑いごとじゃないだから!」
「失敬失敬。」
「働き過ぎじゃないの?体大事にしてよ。パパまで病気になったらどうするの・・」
「パパは病気にならないよ~パパ強いから。」
「ホントに?」
「心配しなくていいんだよ。いざとなったらパパは手足がなくても何とかして寧々を一人前になるまで育てる自信はあるんだから。」
「手足ないのにどうやってお金稼ぐの?」
「んーわからん。」
「頼りない~もしパパの手足なくなったら寧々がパパを守るからね!大事なパパなんだから。」
「ん~寧々お前は成長したな~」
「ちょっと泣かないでよ!」
「ばあ!嘘泣き!」
「ちょっとふざけないで!あっおうちの飾り付けいつするの?」
「そうだな。じゃあ明日パパ早めに帰ってくるからそれからしようか!」
「オッケー。じゃあ寧々も早めに帰ってくるね。寧々考えたんだけど折り紙で・・・・」
風呂場でいつまでも続く会話・・・お互いに必要とし合い、励まし合い、明日をまた1日頑張ろうと思わせてくれるパワーが、暗闇を照らし活路を見出すパワーがそこにはあった。
京香が入院してから守と寧々は親子の域を超えたパートナーのような存在になっていった。
その頃、向井の自宅では妻愛子と静かに夕食を取っていた。「三崎大学地質学研究所専任教授」肩書は錚錚たるものだが生活はいたって質素なものだった。子供二人は県外の大学に進学し今は専業主婦の妻と二人きりの生活を送っていた。勿論、子供二人大学を行かせるには苦しい家計状況であったが何とかやりくりしていたのだ。向井はまだ自分に下した決断が正しかったのかどうか頭を悩ませていた。勿論今までしてきた研究所の年収から見れば誰もが飛びつきたくなるような額であり職である。しかし、今まで自分が信念をもって追い続けた夢をこんな形で辞めてしまっていいものかどうか、自分の納得する答えを見つけられないでいた。愛子は何かに悩んでいる向井に気付いていたがあえて触れずにいた。結婚生活で向井が悩んでいる問題に一度も答えやいいアドバイスをできた試しがなかった。夫は自分とは遠く離れた存在、そんな感情をいつから持ったのか?そんな記憶も曖昧な自分を責めずに、ただ目の前にある食事を淡々と口に運んでいた。
「あなた、わたし明日大学の同級生とディナーに出かけるの。夕食はどこかで食べてきてください。」
「あ、ああ。」
向井は研究のこと以外はほぼ無関心で依然、大学の同期にアスペルガー症候群と冗談で診断されるくらいだった。早々に愛子は食事を終えると席を立ち食器を洗いだした。もう妻愛子にとって夫向井はただの同居人に過ぎない価値しか見出していなかった。勿論わかっていた。私は専業主婦で一切働いたことがなく、今生活できているのは夫向井の収入であることを。しかし、どこか感情に欠けた向井に寄り添うことができなかった。向井は生きてきて初めて誰かの助言を必要としていた。背中にかかる重圧と体の内側から沸き起こる焦燥感に居場所がなくなっていた。誰でもいい、誰か胸の内を打ち明けこの悩みを聞いてくれる人が欲しかった。向井は食事も途中で置き、受話器を手に取ってどこかに電話をかけている。その悩みを打ち明けるひとは妻ではなかった。
「はい、石川ですが。」
そう、なぜか向井には心の内を打ち明けるほどの長年付き合いの深い人間は誰一人いなかったのだ。そんな向井の頭に石川の顔が浮かんだ。彼なら変な先入観、変なフィルターを介さずに話を聞いてくれると何故かその時とっさに思ったのだった。
「ああ、石川君ごめんね夜分遅くに。向井です。」
「あっ先生ですか。いつもお世話になってます。どうしたんですか?」
「ちょっと今から出てこれないかな。あの事業の件で話があるんだが・・」
「い、今からですか?わ、わかりました。」
「じゃあ、依然一緒に飲んだバーで待ってるから。」
「はい、支度したらすぐに伺います。」
守は只ならぬ向井からの電話に疑心を隠し切れず、なかなか受話器を置けずにいた。そんな様子に気付いた寧々はタオルで紙を拭きながら守に心配そうに話しかけた。
「パパ大丈夫?誰から?」
「あっああ。仕事の人からだよ。ちょっとパパ今から出かけてくるから。」
「えっ!こんな遅くに?」
「ああ大丈夫だよ。急な用事らしいんだ。寧々は早く寝るんだよ。」
「はーい。でも気を付けてね。」
守は急いで身支度すると自宅を後にした。そんな守を寧々は不安そうに見守る。
バーに着き扉を開けるとカウンターで向井がウイスキーカップを眺めていた。そんな向井の後ろから守はそっと近づいていく。
「すいません、遅れました。」
「いやいや、こっちのほうだよ謝るのは。小さいお子さんいらっしゃるのに申し訳ない。」
「いえいえ、小さいって言っても、もう小学3年生ですから。それに嫁に似たのかしっかり者で気が強くて(笑)」
「賑やかでいいね。君が羨ましいよ。」
「えっ?」
「いやいやなんでもない。どうだね、関連会社の調整は?いつごろできそうだ?」
「えっ?あっ今週末には大体整うので来週頭からは着工できそうです。」
「そうか・・・」
「どうしたんですか?向井先生。浮かない表情して・・・」
「実はね。アメリカの研究所で働かないかって話があるんだがそれも急でね。今の事業に私はもう関わることができないんだ。」
「えっ?アメリカ?どっどうすればいいんですか?」
「ああでも後任の先生が研究所に来るらしいんだが・・・。勿論、私の今までしてきた研究は全部その先生に引き継ぐ予定なんだが。教授の世界はちょっと複雑でね。一度身を引くとなかなか横から口は出せない。まあ持ち場を離れた時点で権限は後任の先生に移るんだが・・・」
「先生はそのアメリカの研究所に行かれたいんですか?」
「どういう意味だね?」
「いや、先生の話ぶりを見ているとあまり行かれたくないように感じましたので。そうですね。私は研究のことや専門的な事はわからないのですが・・・勿論、後任の先生が今後どのように事業に影響してくるかも全くわかりません。でも、今まで先生と一緒に苦楽を共にしてきたわけですし、このまま先生とこの事業を最後までして行きたいのは本音です。何が言いたいのかわかりませんね・・・・でもこの問題は先生が判断されるべき問題だと私は思います。先生のご意思でご決断された結果であれば私も誰も文句を言う権利はないし先生を拘束する権利はないと思います。」
「そうだね・・・ありがとう。こんな答えづらい質問して悪かったね。実は私もわからないんだ。どうしてこんな話になったのか。どうして今なのか。もしかしたら何か動いているのかもしれない。でも渡米するしか道はないんだよ。わかってくれ。」
守は黙って頷き、向井に笑みをみせた。正直、向井に色々質問したいことはあったのだが逆に向井を困らせるだけだと思い胸の内に閉まった。向井の目には涙がうっすら溜まり、守は向井の心中を察した。逆にこれまで向井を追い詰めた理由を模索していた。向井の言葉通り何かが動いている気がしてならなかったのだ。守は胸の内にある不安をウイスキーで流し込んだ。沈黙が二人を包み店内のBGMだけが悲しく流れていた。
翌朝、浮かない表情で出社する守の姿があった。昨夜の出来事がまるで現実ではないように実感がわかなかった。いつも通り部署の扉を開け、自分のデスクに座る。そこには1枚のFAXがあり現実に引き戻された。三崎大学から向井の移動を知らせるFAXだ。
「なになに後任教授は佐々木先生か・・・あの話はホントだったんだな。」
守は身を奮い起こすと早速、挨拶と今後の進行状況の確認のため研究所急いだ。
研究所に着くと何やら集まってミーティングをしているようだ。どうやら新任教授の紹介をしている。そこには向井の姿もあった。守はミーティングが終わるまで研究所には入らず外で待つことにした。何度も何度も打ち合わせの資料に目を通す。どうやらミーティングは終わったようだ。
「おはようございます!長塚商社石川です!」
「おはよう。石川君よく来たね。こちらが若山大学から来られた後任の佐々木先生だ。」
「初めまして佐々木と申します。これから宜しくお願いします。」
「こちらこそ宜しくお願いします。長塚商社経営企画本部石川です。」
「一応一通り佐々木君には引き継ぎしたから今後の詳細な打ち合わせは二人でして下さい。」
「はい。そう思いまして今後の日程調整について資料をお持ちしました。」
「さすが石川君!仕事が早いね。じゃあ私はこれで失礼するよ。」
「先生!今までお世話になりました!またどこかで会える日を楽しみにしています。」
「私もだよ石川君。じゃあまた。」
守は向井に深々と頭を下げた。守は向井が不本意のまま研究所を去ることを、まだまだ追い続けたいものがあっただろうと向井の心境を察した。しかし、資本主義社会はそんな甘いものじゃなく、どうあがいてもどうにもならない現実があることを互いに理解していた。今後何が起こるのか、何が待ち受けているのか、茨の道である事を守は悟っていた。佐々木も何かの力で動かされこの研究所に動いてきたのだろう。守は歯を食いしばり佐々木に満面の笑みを見せた。
その頃、京香も病院で孤独に戦っていた。抗がん剤の副作用が出始めてきたのである。京香は五感に触れるものはすべて苦痛な状況に陥っていた。何度も何度もベッド横に置いてあるガーグルベースに嘔吐し口を拭く余裕さえ残っていなかった。胃の中のものを全て吐き終わると向き直り両手で顔を覆う。京香は何度もこんな苦しいならいっそ死んでしまいたいとい思いとそれに抗う気持ちとの間で戦っていた。誰かに包まれたい、神様がいるなら助けてほしいそんな思いを抱かずにはいられなかった。ガン患者には生きる確固たる理由が必要なのだ。ゆるぎない生きる理由が。
「ただいま!おっやってるな!」
「パパ遅い~」
「ごめんごめん。」
「じゃあ寧々折り紙切って輪っかにして繋げていくし、パパ天井に貼り付けって行ってね。寧々届かないから。」
「オッケー!じゃあ椅子がいるな。」
守はダイニングから椅子を取ってくると椅子に上った。
「寧々それちょうだい。」
寧々から折り紙を繋げてできた鎖を受け取ると天井に張り付けていった。
「こんな感じか~寧々」
「違うもっとたるませて。もっと目立つように!」
「こうか~このくらいか~」
守は椅子の上でちょっとづつ手を伸ばしていく。
「もっと!」
徐々に守の姿勢に無理が出てきた。
「これでどうだ!」
「もっともっと!」
守は思い切り手を伸ばし天井に張り付けようとした。
「こ・ん・な・もんか?あ、あああああ」
無理な姿勢が祟り守は椅子から落ち床に頭を強打した。
「う、うううう」
「パパ大丈夫!パパ!パパ!パ・パ・・・・」
だんだん寧々の声が遠くなっていく、目の前がだんだん真っ白になっていく。
「あれ?ここはどこだ?」
守は草原の中にただ一人ぽつんと立っていた。見渡す限り何もなく、風がザワザワとひざ丈まで伸びた草をなびかせ守の髪の毛を乱した。守は紙を書き上げ風の方を見るとかなりの遠くの方に家らしき建物が見えた。しかし、見えるのはその家らしき建物だけで辺りにはなにもない。何故か守は引き寄せられるようにその家に向かって歩き出した。どれくらい歩いただろう、徐々に家は風体を確認できるくらいに見えるようになってきた。なにやら結構荒廃しており誰も住んでいないように見えた。守はどこかで見覚えのある家だったがなかなか思い出せない。しかし、その家への興味が次第に高まり、いつしか駆け足になっていた。近づくにつれ、だんだん家がはっきり見えるようになってきた。なにやら落書きが書いある。
「出ていけ?疫病神?」
守は立ち止まって目を見開いた。
「間違いない。かなりボロボロだが今住んでいる家だ。」
守はまた辺りを見回す。さっき見た通り、辺りには草以外何もない。
「どうなってんだ?」
守は家に向かって走り出した。家の門には空家のプラカードが貼ってあり、庭は草が伸び放題でどこに歩道があるかもわからないくらいだった。しかし、守は突き進み玄関のドアまで辿り着いた。
「やはりそうだ。」
守は石川という標識についた埃ををなでるように取った。守は錆びついた玄関のドアに手をかけると恐る恐るゆっくりと開けた。守は驚いた。家の中身は真新しい住んでいたままだった。驚き辺りを見回していた守だったが、なにやら声が聞こえて来る。よく耳を澄ますとリビングの方から京香と寧々の話し声が聞こえてくる。
「あらパパ帰ってきたみたいね。寧々お出迎えしてあげて。」
「ハーイ」
リビングの方から寧々が走ってくる。寧々はいつもの小学三年生の頃のままだ。「パパ、お帰りー!さあ用意できてるよ!早く来て!」
「用意?」
「パパ、冗談言ってないで早く来て!」
寧々が守の手をリビングの方までグイグイ引っ張っていく。リビングにつくとまた守は驚いた。京香が座っているのだ。
「お前何してんだ?病院はどうした?」
「病院?あなた何言ってんの?」
「お前はガンで病院に入院してるはずだろ?」
「がんで入院してる?私が?」
寧々と京香は顔を見合わせて大笑いしている。
「そうなの。パパちょっとおかしいの。さっきも今日が何の日か忘れてるみたい。」
「あなたふざけてないで、用意できてるから早く座って。」
そういう京香と寧々はリビングの椅子に座った。
「用意できてる?なんのことだ?」
リビングテーブルを見ると何やらホールケーキがおいてある。そこには、板チョコの上に「パパお誕生日おめでとう!31」と白いチョコレートで書いてあった。
「俺の31歳の誕生日?」
守は慌ててテレビを点けた。ニュース番組を探し今日の日付を見ると確かに自分の誕生日だった。
「えっ、どういうことだ?」
守のそんな様子を見て京香と寧々は笑っていた。
「パパ早く~ろうそくに火つけちゃうよー」
「そうよ。あなた早く電気けしてこっちに来て。」
守は困惑していたがもうどうでもよくなっていた。京香と寧々が元気で家の中にいる。それだけで十分だった。
「よーし!!」
守は電気を消すと勢い良く椅子に座った。
「じゃあつけるよ~」
「寧々危ないからママがする!」
「イヤ!寧々する!」
「じゃあ最初の一本だけね。後ママするから。」
「ハーイ・・じゃあつけるよ。」
守はそんな京香と寧々の光景を涙を溜めながら見ていた。これが俺の宝物でずっとずっと望んでいた形なんだ。理由はわからない。家が周りが原っぱで何もなくて外壁がボロボロでもそれでいいんだ。ここには大切なものが全部そろってる。守は涙を何度も拭い、涙でケーキが見えなくなっていた。
「パパ泣いてるの?」
「どうしたのあなた大袈裟な。変な人ね。」
「じゃあ寧々歌うね~ハッピバースデイトゥユー・・・・・パパおめでと~」
「よ~し消すぞ~!!」
守はひと吹きしたが火はは揺れるだけでなかなか消えない。もう一度力を入れて吹くがなかなか消えない。
「もう。パパ早く消して~」
「よーし次で消すぞ~」
守は思いっきり息を吸い込みろうそくの火に向かって吹き付けた。すると火は消えるどころか炎になりケーキを焼き尽くした。
「キャー」
守は咄嗟に台所で桶に水を汲みその炎に被せた。その瞬間、炎は勢いを増しあろうことか寧々と京香に火がついてしまったのだ。
「パパ熱いたすけて~」
「あなたはやくたすけて!」
守は再び桶に水を汲むと二人に水をかけた。しかし、炎は勢いを増すばかり。
「どうなってんだ!!おい寧々!京香!どうなってんだ~!!!」
守は飛び起きた。
「家事!家事!水!水!」
そんな守を見てあっけにとられる寧々が守のそばにいた。
「パパ大丈夫?」
「えっ?寧々火傷は!?ママは?」
「何言ってんのパパ?寧々火傷なんてしてないよ。ママは病院!」
「えっえっ!?ママ病院?あっそうか!夢だったのか!そうだよな!ママは病院!ははは。はぁー」
「パパホントに大丈夫?パパ椅子から落ちて伸びてたんだよ。」
「あっそうだ。飾りつけは?どうなった。」
守は辺りを見渡すともうきれいに飾りつけは終わっていた。
「もう!パパが伸びてるときに寧々が一人でしたんだからね!ホントに疲れたんだから!」
「おーごめんごめん!!そうかそうか。きれいじゃないか!さすが寧々だな!」
そういうと寧々を強く抱きしめた。腕から伝わる寧々の感触が守の心を優しく落ち着けてくれた。
「どうしたのパパ?」
「いいんだ、いいんだ。これでいいんだ。」
「変なパパ。」
守はこれが現実である事に心底嬉しかった。でもあの不吉な夢が何かを意味していて、何かを訴えているように思えて仕方なかった。
翌朝、守は京香の様子を見に病院を訪れていた。
「おう、どうや~?」
そこにはベッドに横たわり疲れ果てた顔をした京香がいた。いつもの元気が京香には感じられず、全然食事をしていないせいか顔は痩せこけ別人のようだった。京香は守に気付くと力を振り絞って起きようとした。
「副作用が強くて・・・全然ご飯食べれないの・・・」
「いいよいいよ。寝てなよ。ほんとか。ごめんな、仕事が忙しくてあんまりこれなくて。」
「ううん。でももう昨日で点滴の方終わったから今日からは楽になると思う。」
「そうかそうか。頑張ったな!明日京香の外泊が決まってたから寧々も楽しみにしてるよ。あっあと、貴之家族と一緒にバーベキューの話も進んでるよ。どうだ?明日外泊できそうか?」
「うん大丈夫だよ。それを目標に今週頑張ってたから。それに寧々の元気な顔も見たいしね。」
心なしか元気のない京香は普段とは違い弱気になっていた。それほど、抗がん剤の副作用は京香を蝕んでいた。
「じゃあ仕事いってくるから。ゆっくり休んでな。また連絡する!」
「はい、いってらっしゃい。」
今まで現実を超えた辛さが京香を襲い、この世界でたった一人だけ取り残された気がしていた。京香は守と会話することで何か現実に戻ってこれたような気がして我に返ることができた。京香は久しぶりに自分で何かをしようという気力湧いてきたのだ。
「向井教授は退任されましたけど後任の若山大学の佐々木教授と連携し現在のプロジェクトを推進しています。今のところ大きな遅れは出ておらず思ったより順調に事は進んでいる状況です。」
幹部会でメタンハイドレート発掘状況についてのプレゼンテーションを行う守の姿があった。そこには長塚商社代表取締役長塚象二郎を始め長塚商社を支える幹部陣が出席していた。守のプレゼンテーションは暗部愛でも評判で非常にわかりやすく簡潔にまとまっていた。小林部長も誇らしげに安心して聞いていた。
幹部の一人が資料を見ながらつぶやいた。
「なんでこんな時期に教授が入れ替わるんだろう?」
守はしっかりと目を見つめ動じず返答した。
「はい。私がお聞きしたところ、アメリカの研究所で必要とされ行かれたとか。研究所と当社の方の事業連携契約書では契約期間中の退任については特に規定はなく。当社が意見を述べることは不可能だとの当社の顧問弁護士からも釘を刺されております。しかしながら、当プロジェクトは予定通り進んでおりますしご心配は無用かと。」
その様子を見ていた長塚は諭す様に語り掛けた。
「うん。私も石川君の報告を受けて驚いていた。まあ教授界にも色々都合があるんでしょう。しかし、今日の石川君のプレゼンテーションを聞いてほっとしたよ。佐々木先生も中々その分野では長けていると聞いているし問題はないでしょう。後は、予定通り進めていけば問題ないね。安心したよ石川君!だだし、当社はこの事業に多大な投資を長期間にわたって続けている。もし今回がダメなら打ち切るしかない。財政状況も決して良くはないのだよ。」
「は、はい!。」
小林部長と守は深々と長塚に頭を下げた。守は一つの山を越えほっと胸を撫で下ろした。会議室を後にした小林と守は共に廊下を歩いていた。
「いやいやまずはほっとしたよ。石川。このプロジェクトは会社を挙げた一大事業だからな。みんな神経質になるのも仕方ない。まあ教授の退任は未だ理解できないが、長い期間プロジェクトに携わっていれば問題の一つや二つはつきもんだ。」
「ありがとうございます。僕もほっとしています。いよいよ来週には着工になるので興奮してますよ!!向井教授も今回はほぼ間違いない確率で採掘できるとおっしゃられていたので何も出ないことはないと考えてます。」
「発掘すればできればうちの会社の名前は国内に響き渡るぞ!臨時ボーナスもでるかもな!!昇進も見えてくるぞ!」
「はいっ!」
その頃、寧々は今日最後の授業を教室で受けていた。そんなとき後ろから肩を叩かれ、振り向くと一枚の紙切れを二つ折りにされ差し出された。寧々は先生に見つからないようにこっそりとその紙を開いた。「みえが今日部活サボって寧々ママのお見舞い行かない?って言ってたよ? 由佳」寧々は勢いよく振り返って由佳の方を見ると由佳はニンマリ笑って舌をだした。みえは別のクラスであるため休み時間かなんかで話したのだろう。しかし、寧々は放課後部活で小百合とのレッスンがある。もし、病院にいくなら小百合に嘘をつかなければならない。しかし、一生懸命教えてくれる小百合に嘘はつけないと思い、来週に日をずらせないか、みえと由佳に聞いてみることにした。授業が終わると由佳の所に駆け寄った。少しするとみえも近寄ってきた。
「寧々行こうよ!この前三人でいってたじゃん。ねえ由佳。」
「うん。」
由佳はうつむき頷いた。
「そうだね。でも小百合さんに嘘はつけないし・・・来週じゃダメ?それに試合も近づいてるし。」
寧々は申し訳なさそうに二人にささやきかけた。
「そうだよね。寧々は試合のほうが大事だよね。それに小百合さんが丁寧に教えてくれるしね。ねえ由佳!。」
みえは強気で言い返し由佳の方を睨んだ。
「う、うん。」
寧々は困惑した表情を浮かべる。しかし、心に決めたように堂々と言い返した。
「そんな寧々はママが大事だよ!試合よりママが大事!わかった。小百合さんに今日休むこと言ってくる!」
そう言うと寧々は教室を飛び出していった。
「これでいいの?みえ。寧々ちゃん必死に頑張ってるんだよ?」
「じゃあ、由佳はこのまま寧々が私たちから離れて行っていいって言うの?」
「そ、それはイヤ!」
「じゃあ言う通りにして!」
みえは寧々がどんどんバトミントンが上達し遠い存在になっていく事に不安を覚え寧々を部活から離そうとしていた。それは悪意からではなく、三人の友情を守りたい一心で浮かんだ作戦だった。寧々が部活から離れればこの胸の中にある汚い感情はなくなり、またいつも通りの仲良し3人組に戻れると思ったのだ。
都心の天にも昇るような高層ビルに入っていく若山大学地質学教授安藤の姿があった。安藤は受付まで歩み寄ると受付の女性を見下ろした。
「安藤だが坂本社長と約束しているだが・・・」
「は、はい!社長からお聞きしています。こちらへどうぞ。」
かしこまった女性は安藤を最上階にある社長室に案内し、ドアをノックした。
「坂本社長。安藤様をお連れしました。」
安藤は社長室に入り一礼した。
「これはこれは安藤教授!お待ちしていました。どうぞどうぞこちらへお掛けください。」
「社長こそ忙しいのに申し訳ない。」
この高層ビルは世界を股にかける巨大複合企業ITNETWORKSが所有する建物だ。ITNETWORKSの規模は国内でもトップクラスの資産力があり政界からも一目置かれる存在だ。IT産業で剤を成したITNETWORKSは長塚商社とは同じ一部上場企業であるが格が違う。そこで代表取締役を務めるのは坂本 大である。坂本の実家は資産家であり父、兄ともに国会議員を務める。つまり、ITNETWORKSは政治家たちの資金の温床となっているのだ。
「いえいえ。それより安藤先生。電話で話されたことは本当ですか?」
「はい。三崎大学地質学研究所へは私の大学の佐々木をやりました。」
「本当ですか!こちらも着々と準備はできています。もうすぐ教授に言われた必要な機械はすべて手に入ります。あとは若山大学地質学研究所のサポートさえ頂ければメタンハイドレードの発掘は近日中にできますよ。」
「そうですか。国の許可の方はどうでしたか?」
「国の許可は心配いりません。日頃、政治家の先生や父兄には献金しておりますのでスムーズに事は進んでおります。長塚商社さんには悪いですがこちらのほうが部がよろしいかと。でも先生!長塚商社は来週にも発掘に取り掛かると聞きましたが、こちらはこんなにゆっくりしていても大丈夫なんですか?」
「それは心配いりません。ちゃんと策をとってありますから。それよりも、この事業が成功すればうちの大学に巨額融資していただける話は本当ですか。」
「もちろんです。メタンの市場からすれば先生の提示していただいた金額は容易いことです。」
「そうですか。安心しました。少子高齢化で教育機関への予算は削減され、福祉の方へ予算を回す一方です。当大学も例外ではありません。今年も定員割れからいくつかの学部を閉鎖せざるをえない状況です。国もお金がないようですわ。日本を支えた自動車産業も後進国とのし烈な争いで体力はなく、ITで成功された坂本さんの力が必要なのです。」
「でも皮肉なものですな。日本は発展途上国へ資金援助し技術を無償で提供し今度はその国から身を脅かされる立場になったのですから。」
「今、国の成長率は停滞したままだ。もう残された資源は現実の世界には存在しないだろう。」
「本当に聡明な方ですね。安藤教授は。」
向井や守が案じた通り、裏では大きな力が動いていた。しかし、安藤が私利私欲を追及しているわけではなく、ただ単に彼の大学、日本の未来を見据えた行動を行っていただけなのだ。安藤は地質学教授を務めるが人類学や物理学など幅広い自然科学全般に精通していた。彼は、長期的な視野で見た最善の方法を常に模索するような男だった。
京香の副作用は姿を消しつつあり何とか起きれるまで良くなっていた。そんなところに同級生で看護師の郁美が心配そうに様子を見に来た。
「どう調子は?今回の副作用ひどかったみたいだね?」
「うん。かなり参ったよ。もう吐きまくり(笑)」
「でもちょとやせたよ!高校の時、あんなにダイエット頑張って挫折してたのにね。」
「ほんとだよ。病気って一番のダイエットだね。でも全然嬉しくないよ。たまに触るんだよ、自分の腕とか足とか・・なんか自分の体じゃないみたい・・・」
「私もこんな仕事してるから色んな患者さんに出会うんだ。病気に負ける人、病気に打ち勝つ人。でも京香は病気に打ち勝つ人だよ。間違いない!だから、つらいと思うけど頑張るんだよ。」
「うん。ありがとう。」
そんな時、病室の入り口の方から寧々の声がした。
「ママ!」
「あら?寧々?どうしたの?」
「お見舞い来たの。友達も一緒だよ!」
寧々の後ろの方には由佳とみえが笑顔で立っていた。
「えっ?あら~由佳ちゃんとみえちゃんもありがとー。」
京香は由佳とみえは何度か家に遊びに来ていたので知っていた。二人ともいい子で京香のお気に入りだった。みえは心配そうに尋ねた。
「いえいえ。お体大丈夫ですか?」
「うん大丈夫だよ!元気元気!」
そんな様子を見ていた郁美が寧々の方をまじまじと見つめる。
「寧々ちゃん私覚えてる?忘れちゃったかな?」
「うん。覚えてるよ。ママの友達の郁美さん!」
「正解!よく覚えてたね~みんな寧々ちゃんの友達?」
「うん、そう。みんな同級生でバトミントン部に入ってるの。」
突然気づいたように京香は寧々を見た。
「あっ!そうだ部活どうしたの?今部活の時間じゃない?」
寧々は悪さをした子が隠し事するような声でつぶやいた。
「うん。今日はママのお見舞いだから休んできた。」
「でも今朝パパなんも言ってなかったけど・・。」
寧々は返す言葉に困っていた。そんな寧々に気づき、みえがはっきりと答えた。
「私が寧々ちゃんに頼んだんです。前から3人で寧々ちゃんのママのお見舞い行こうねって約束してたんですけどなかなか行けなくて。」
「そうなの?ごめんね。ありがとう。」
郁美は興味津々に聞いた。
「そうなんだ!みんなバトミントン部なんだ~まあ私たちは帰宅部だったからね。」
「そうだったんですか?帰宅部って何してたんですか?」
意表を付く由佳の質問に郁美は戸惑う。
「それはねぇ?京香。」
「えっ?まあね。勉強とか・・・・」
由佳が間髪入れずに攻めてきた。
「絶対嘘だ!私ママから聞いたことあるんです。そこのお二人は相当悪かったって。」
郁美はとぼける。
「えっそうなの?ママ?」
京香は冷や汗を感じながら何か言い返す理由を見つけていた。京香と郁美の青春は暴走族なのだ。そんなこと寧々の前では言えない。
「そ、そんな訳ないでしょ。由佳ちゃんの聞き間違いよ!ははは。ねえ郁美。」
「うん、そうだよ!聞き間違い聞き間違い。一緒に図書館で勉強してたね?京香。」
「そうそう。だからみんなも勉強するんだよ!」
「なんかあやしいな~」
「そんなことないわよ!みえちゃん!」
「はははははは」
女5人で賑やかに会話しているうちにいつしか京香の病気に対する恐怖心もみえが寧々に抱いていた嫉妬心もどこかに行ってしまった。なぜなんだろう?恐怖心も嫉妬心も一人になる襲ってくる。みんなと居ればこんなに楽しいのに。この病院の雰囲気や順位をつけない他愛もない会話が居心地のいい空気を作っていた。まるでそこは砂漠の中のオアシスでのどを潤す旅人のように癒しを与えてくれた。いつまでも、いつまでも絶え間ない笑い声が病室を包んでいた。
その頃、守は研究所で佐々木と来週着工する予定の詳細な打ち合わせの真っただ中であった。
「今回私が向井教授から引き継いだ採掘場所はここになる。」
佐々木は守に日本地図を用いて説明していた。
「はぁ~・・ここが向井教授の言われていた60~70%の確率で採取できる場所ですか?」
「そうです!この場所に生産井と呼ばれる井戸をメタンハイドレート層まで深く埋め込み構築します。その井戸が出来上がればその井戸を介してメタンハイドレート層にある水をポンプで引き揚げ、層内を減圧させる。今まで水で圧迫されていたメタンガスは減圧されることにより一気に生産井を同様に介し地上に引き上げられるという訳です。」
「なるほど。ちょっと化学には疎いもので・・・でも今の説明でしっかり理解しました。」
「ははは。大丈夫ですよ。現場の指揮は我々の仕事ですから。石川さんは見守って頂くだけで結構です。」
「ありがとうございます。佐々木先生にお任せします!まな板の鯉です。」
「ふたりでしっかり夢を追いかけましょう!」
和やかに最終打ち合わせは終了した。佐々木も守もこの短期間全力を尽くしたのだ。あとの結果は天に任せるしかない、その時の守はそう願うしかなかったのだ。
そんな時、シカゴの空港に降り立ったスーツ姿の一人の男がいた。そこに一台の高級セダン車が止まり、中から一人の綺麗な日本人女性が笑顔で降りてきた。
「向井先生、ようこそおいでくださいました。私は島田教授のアシスタントを務めさせております、神田と申します。」
あまりに綺麗な神田に向井は驚いた。
「お出迎えありがとうございます。島田先生にこんな美人な方がついておられるとは。」
「いえいえそんな。では向井先生、島田先生が心よりお待ちしております。どうぞお乗りください。」
そういうと神田は後部座席のドアを開けた。向井は神田に一礼し車に乗り込んだ。向井はこのような待遇に自分に期待されている重圧が痛いほどのしかかってきた。島田は当時大学内では天才とも呼ばれるほどの男でそんな男のサポートが自分にできるかどうか不安だった。失望されたら面目もたたない。しかし、そんな不安をかき消すように大きく息を吸い込んだ。空港から20分ほどすると向井の目に大きな建物が目に入ってきた。シカゴ大学である。研究所は大学と隣接し敷地内に建てられていた。外から見ても向井の務めていた研究所とは比べ物にならないほど大きかった。
「ここが研究所になります。さあ、先生お降りください。」
そういうと運転手が回り込み向井のドアを開けてくれた。向井は神田の案内に沿い後をついていった。中にはいると向井は研究員の多さに驚いた。また、その研究員が活気に満ち溢れて研究に打ち込んでいる。世界中の優秀な学者がここに集まっているのだ。しばらくすると、島田が待つ部屋についた。
「島田先生、向井先生をお連れしました。」
「おお入って入って」
それを聞くと神田はドアを開けた。向井は恐る恐る部屋に入り顔を上げた。そこには大学時代とは風貌が変わった島田の姿があった。髭は頬から口の周りまで伸び、肌は焼け、如何にもワイルドな男に変身していた。
「おおー向井君!久しぶり!よく来てくれた!」
そういうと島田は向井に駆け寄りハグをした。向井は慣れないハグに照れくさい。
「島田君。すごいところだね。まさにここは世界の知が結集された素晴らしいところだよ!」
「ありがとう。ここは世界中の有力な学者が集まっているんだ。シェールガスの需要が彼達を駆り立たせている。今やシェールガスの市場は巨額市場だ。トレジャーハンティングだよ。しかし、希少な資源であればあるほど競争が激化してね。国の異なる学者の間でも一緒なことだよ。それで安藤教授からも聞いたと思うが向井君!僕にはそんな熾烈な競争を共に戦う信頼できる同志が必要なんだよ。力になってくれ!」
そういうと島田は向井の手を両手で強く握った。向井は島田の歓迎にただ純粋に嬉しかった。こんな中年の男をそこまで必要としてくれる人などどこにもいない。向井の人生で空っぽになった心をどこか満たしてくれた。またここで一から頑張ろう!人のためにまた汗をながそう!そう決意できた。
週末、石川家では貴之夫妻を招いてバーべキューをしていた。
「京香ちゃん外泊おめでとう~!!かんぱーい!」
元気のいい貴之の声が響き渡る。京香は1週間の科学療法を耐え抜き見事に外泊の許可がでた。
「ホントに京香頑張ったね!北村先生も褒めてたよ!すごい根性あるねって(笑)」
郁美も今日は休みでバーベキューに参加していた。
「なにそれ?あんまり嬉しくないんですけど~(笑)」
久しぶりに賑やかな休日だ。どれくらいぶりだろう?守はもう京香の病気がきえてなくなったように感じて仕方なかった。
「修一郎はどうなったんだ?守。」
「あーなんかあいつ今日は予定があってダメだって言ってたわ。京香には外泊おめでとうって言ってたよ。」
「そうなんだ。残念だね。デートかな?」
「絶対そうだよ、あいつ。変わんねーな!」
「あなた羨ましいと思ってんじゃないの?」
「馬鹿!もうおれはそんな遊び卒業したの!」
「できないだけじゃなくて?」
「今日貴之への当たりがきついね~奈央さん。」
「そうなんだよ。こいつなんでかわかんねーけど朝から機嫌悪いんだよ!」
「なんでか分からない?由愛の夜泣きで全然寝れなかったの!一度でも起きたことある?」
「それはだめだぞ、貴之。奈央さんも育児で疲れてるんだから・・」
「それで怒ってたのか?じゃあ言えよ。その時によ~」
「気付きなさいよ!」
「はははは」
「子供産むとこんなに強くなるんだね、京香ちゃん。」
「そうよ~子供産むとき女は死ぬ覚悟で産むんだから。強くなきゃ出産できないのよ。でも、生まれて来た時の赤ちゃんの顔見るとそれまで辛かったこととか不思議と全部忘れるの。」
「思い出した!寧々の時大変だったんだよな。なかなか生まれなくて陣痛のたびに京香の肛門押してたんだよ!」
「寧々のとき?そうだったんだ!」
「肛門?(笑)」
「そうなんだよ。産婦人科の看護師さんに言われて。楽らしいよ。」
「うん。楽だった(笑)」
「郁美ちゃんも出産のとき参考にしたらいいよ(笑)」
「郁美はだれに押してもらうんかね(笑)。」
「まだまだ押してもらう人みつかんないわ~誰かいい男いない?守さん!」
「うーん。会社に誰かいないかな~?」
「修一郎!(笑)」
「遊び人なんでしょ~そんな人こりごり。しっかりした人で優しい人がいい!」
「そんな人に郁美は扱えないよ~」
「どういう意味?」
そんな他愛もない会話で盛り上がっていたら家の前の道を薄汚れた洋服に伸び放題の髭を蓄えた老人が通り過ぎていった。そんな老人に貴之が気付いた。
「なんでこんなとこにあんなの歩いてるんだよ。」
「ほんとそうよね。ホームレスなのかしら?」
「汚らしい。迷惑だよね。なんで生きてるかしら?」
「郁美!」
「だってそうでしょ?全然働く気がないんだから!怠け者よ!ホームレスなんて。」
「なんてこというの!郁美!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。」
守が二人の喧嘩を止めに入った。周囲に気まずい空気が流れる。京香は曲がったことが嫌いな性格だ。たとえ自分に利益が無くとも間違ったことをしていれば許せない。でも、俺もそう思う。世の中には弱者、強者だけが存在するわけではないし、強者がなんでもしてもいいとは思えない。そんなこんなでバーベキューは終わった。喧嘩していた郁美や京香は仲直りしなんとか無事、京香の外泊祝いは終わった。守は後片付けをしていたがあのホームレスがずっと気になっていた。そんなとき、後片付けを手伝ってくれていた寧々が不思議そうに守に聞いた。
「パパ、ほーむれすってなあに?悪いひと?」
守はドキッとした。いい大人達が子供の前で醜いところを見せてしまった。守はにこやかに落ち着いた目で寧々の方を見た。
「寧々、ごめんな。パパたち驚かせたな。全然悪い人たちじゃないよ。ただ、みんなよりお金なくておうちが無いんだ。だから外で寝たり、お風呂にあまり入れないから汚いかっこしてるだけなんだよ。だから、悪い人でもないし弱い人でもない。だからあんまり変な目で見たらだめだよ。」
「そうなんだ。おかねないんだ。かわいそうだね。パパおうち泊めてあげたらどう?」
「ははは。うーん。ホームレスの人みんなが来たら困るな~(笑)でもちゃんとお世話してくれる人がいるんだよ。ご飯をあげたりする人もいるんだ。ママが病院にいるみたいに。だから、パパたちは特に何もしなくていいんだよ。できることは、いじめたり馬鹿にしたり変な目で見たりしないこと。みんな一緒な人間なんだから。」
「うん、わかった。」
「じゃあママのとこにこの皿をもっていって。」
「はーい。」
皿をもって行く寧々を後ろから守は目で追っていた。このまま、元気にたくましく成長していってほしい、そんな目で窓ごしに寧々を見ていた。寧々の成長を感じれるのは守にとって一番の力の源だった。寧々が成長しているのに俺が成長しないわけにはいかない!そういつも心に言い聞かせていた。
「さあ!片づけ片づけ!」
守は片づけが終わるとリビングに戻りソファーに腰を下ろした。京香は台所で寧々と皿洗いしている。守は京香が台所に立っているのを見るのが好きだ。なにか安心感がある。そんな守に京香が気付く。
「なににやにやしてんの?気持ち悪い。ねぇ寧々。」
「パパ気持ちわる~い。」
「にやにや?してないよ。疲れただけだよ!それより京香体は大丈夫か?」
「へーきへーき。リハビリ(笑)」
「あんまり無理すんなよ。じゃあ俺風呂入ってくるから。」
「あれパパ一人ではいるの?」
「寧々ママとはいるだろ~」
「そうだね。久しぶりに一緒にお風呂入ろうよ!寧々。」
「うん!じゃあお風呂でお歌うたって!聞きたい!」
「じゃあパパ上がったらはいろうね。」
「ヤッター!パパ早く入ってきて!」
「はいはい。」
こうして、一家三人で揃う一夜はあっという間に過ぎ翌朝、京香を病院に送り届ける時間になった。
「じゃあ、寧々いってくるね!」
「うん。またお見舞い行く!ママ頑張ってね!」
「さあ、行こうか!寧々気を付けて眼光行くんだぞー」
守と京香は車に乗り込み病院に向かった。京香は車中で昨日の楽しかった時間を思い起こしていた。病気なんてなくなってみんなと一緒な体になったと思ったらまた現実に引き戻される。憂鬱に窓越しに流れる景色を見ていた。どんなに頑張っても逃げられない現実に嫌気がさしていた。そんな京香に守が気付いた。
「京香今度また北村先生に会いに行くよ。これからどんな治療方針で今の状況はどんな感じかまた聞いたいしな。」
「うん。」
「絶対よくなるよ。こんな状況が一生続くわけないんだから。」
京香は窓を見ながら体を震わせていた。そんな京香の背中をやさしくやさしく撫でた。