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第一章その3

 目覚まし用のアラーム以外でその日初めて自分の携帯が働いたのは、残業がたったの1時間程度で終わるという、ある意味で異常な事態に少し戸惑っていた時だった。

 外来患者の診察がスムーズに終了し、ICUおよび入院中の全患者の容態も落ち着いていた。その上、この日は救命からの応援要請も無かった。よって、恭平達局員は普段であれば残業をして終わらせる書類仕事を正規の勤務時間に終わらせることができたのだ。

 携帯がどこにあるのか、バイブ音を頼りに書類や参考書の下から見つけるのに手間取った。そもそもが携帯するからこそ意味をなす携帯電話であるのに、恭平はこの頃といわずもう何年も前から、仕事中はデスクに置きっぱなしにしている。

 どこに放置しておいても支障が無い程に誰からも連絡は来ないし、恭平自身も誰かに連絡をすることは無かった。「今何してる?」と無駄に仲間と繋がりたがっていた学生の頃が懐かしく思えると同時に、自分の歳も痛感する。

 液晶画面には親しい友人の名前が浮かんでいた。お互いの仕事柄それほど頻繁に会える訳ではないが、高校時代の友達で今も『仲が良い』という意味で深く関わっているのは1人だけだ。

 いつも連絡は向こうから来る。恭平から連絡をするのは10回に1度くらいだ。

 その名前を見ただけで、疲れが少し消えていく。

 大学の医学部で一緒だった同期生はその活躍ぶりを耳にすることはあるものの、各々の戦場で忙しくしているはずだし、医者としての地位を確立してから性格の変わってしまったと噂される者も少なくはなく、誰かが集合をかけて集まるなどということは今まで一度も無かった。

「もしもし」

 すぐに自分がまだ医局にいることを思い出して声のボリュームを落とす。それに対して相手の声はテンションが高く、鼓膜にジーンと響いたが、それさえも愉快に感じる。

『よお、久しぶり!』

「そんなに久しぶりでもないだろ」

『1月会ってなかったら俺の中ではかなりお久しぶりだぜ、相棒』

 聞き慣れたその声と口調に安心する。

「そうか。今日はどうした?」

『おいおい、もう少し友人との会話を楽しもうという気持ちはないのか?』

「もう十分楽しいよ。で、何だよ?」

『お前もすっかり変わったな。社会という波にもまれて冷たい奴になっちまったか…』

 お決まりのやり取りだ。恭平の方も、適当に流して冷静を保つという自分の役割が楽しかったし、いつも変わらない相手からの返しが愉快だった。

「もういい。切るぞ?」

『待てって。お前、今晩暇か?』

「お前ほどじゃないけどな」

『馬鹿言うな。こっちは家庭持ってんだから暇という名の自由時間なんて滅多にないんだよ』

「じゃあ切るぞ」

『あほ、俺が電話したのに何でお前が勝手に切るんだよ。何もないなら飲もうぜ、俺がそっちに行くから』

「お前車だろ?」

『電車で行く。帰りは三咲が来てくれる』

「嫁さんを足に使っていいのか?」

『いいんだよ。三咲から久しぶりにお前と飲みに行ったりしたらどうだって言われたんだから』

「本当にいい嫁さんもらったな。じゃあ駅に着くころ連絡くれよ」

『ああ。後で』

 楽しそうに電話を切る友人を待ち、自分も携帯をしまう。

 何か仕事を見つけて残業しようと考えていたことをすっかり忘れ、手早く荷物をまとめる。

「お先に失礼します」

 高木は滅多にない奇跡を素直に喜び、すでに帰っていた。

 記入の終わった書類を片付けていた岸谷や、当直の局員に一礼して医局を出る。

「お疲れさま」

 岸谷が顔をこちらに向けて、嬉しそうに頷く。それに対して恭平ももう一度頭を下げた。

 職員用の出口から1歩出ると、肌寒くなく、生暖かくもない心地良い風が身体を包んだ。

「全然違うんだな…」

 油汗をかいていた朝と同じ季節とは思えなかった。確か、去年の今頃も同じ様に感じて、同じ事を考えていた気がする。

 病院の駐輪場から愛車を引き出し、そのまま押して歩く。そのうちにポケットの中のそれが友人の到着を知らせてくれるはずだ。あの駅の周りは全くと言っていい位に何もないし、この時間の待合室は、良い表現をすれば学生が仲間と共に青春を謳歌する為の場所になっている。

 朝来た道をゆっくりと戻る。

 初めてこの道を歩いて帰ったのは7年前、医学部を卒業し、前期研修医として働き始めてしばらくした頃だ。6ヵ月の内科研修を無事に終え、救命科での3ヵ月間の研修が始まっていた。

 初めて抱く感情に戸惑っていた。

 明日の激務を思えば一分でも早く帰って眠るべきなのに、なぜか自転車をこぐ気分になれず、自分のこの感情が何者なのかを考えながら、ぼんやりと歩いて帰ったことを覚えている。

 戻りたい。あの頃に戻って、大切な何かをやり直したい。けれど、何度思い出しても、その『何か』が分からない。答えが出ないまま、『いくら考えても時間は戻らない』という現実が、今も、肩をたたく。

 

 回想に浸る頭が、ポケットから伝わる振動によって現実に戻された。

「はい」

『おー、もうすぐ着くぞ』

「わかった。俺ももう少しだ」

『了解』

 静かになった携帯をポケットにしまい、7年間黙って自分を受け入れてくれている愛車に股がる。

 お世辞にも綺麗とは言えない見た目だが、持ち主のせいで数回パンクを起こした以外に大きな故障もなく、自転車の平均寿命をかなり過ぎた今でも働き続けていた。

「お前は根性あるな」

 頭を撫でる代わりにベルを一度鳴らし、ペダルを踏む脚に力を込めた。

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