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第一章その2

「奥寺先生、この書類を内科の田崎先生の所に持って行ってくれないか?」

 出来上がったカップ麺の蓋を開けようとしていた恭平の手が、差し出されたA4サイズの封筒に止められた。封筒の厚さからして、おそらく中身は新しく転院してくる患者のカルテやレントゲン写真だろう。

「今…ですか?」

 無駄と分かってはいたが相手にも分かりやすくカップ麺に視線を向ける。

「田崎先生から内線があってすぐに欲しいんだと」

 第一外科の先輩である高木祐助は封筒を恭平の頭に乗せた。35という歳の割りに見た目も若く、いかにも看護師や入院患者から騒がれそうな顔立ちをしている。さらにはそのことは本人も大いに自覚している様で、一度聞いた女性の名前を忘れないことはもちろん、「君、前髪切った?」などという女性に対するこまめなサービスを日々忘れずに行っていた。恭平をはじめ周りにいる誰もが彼が既婚者であることを忘れてしまうことは珍しくない。それと同時に高木とプライベートでも親しい人達の中では、かなりの愛妻家であることも有名なことだった。

「高木先生が持って行けばいいじゃないですか」

「俺は今忙しいの。あ、俺からじゃないぞ?医局長から『田崎から連絡があったらすまないけど持って行ってやってくれ』って言われてたんだよ」

 高木の『忙しい』というフレーズに対して『そうは見えませんが』と漏れてしまいそうになった心の声を飲み込み、封筒の代わりに出来たばかりのカップ麺を差し出す。

「これ、どうぞ。先生も昼飯まだですよね」

「食わねえの?」

「伸びる前に美味しく食べないと、ラーメンだって可愛そうです」

 封筒を持って医局を出る。きっと明日、高木はもう少し高いカップ麺を買って来て返してくるはずだ。

 廊下を歩いていると、まだ名前も覚えてあげられていない研修医や新人の看護師がペコペコと頭を下げて挨拶をしてくる。軽く会釈しながら、職員専用の自販機の前でふと立ち止まる。この自販機が売る缶コーヒーに、一体何人の医師達が助けられ、反対にどれだけこのメーカー会社の売上に貢献したことだろうか。そんなことを考えながらロビーを抜け、内科病棟に入る角を曲がる。

「失礼します」

 第一内科では、当直からの通常勤務の激務に果てたのであろう医師がソファーで仮眠をとっていた。

「おー、奥寺」

 デスクでパソコンをいじっていた田崎努は山積みにしたままの書類や参考書から顔を出して恭平を手招きした。体格が良く50を過ぎた年齢の割に引き締まった身体をしている、白髪混じりの髪を絶妙な具合に爽やかにカットしている。

「どうせ、高木に言われて来たんだろ?」

 椅子に座ったまま向きを変え、田崎は笑った。

「分かってるなら高木先生に頼まないで下さいよ」

 封筒を渡しつつ、チラリとパソコンを覗き込む。

「新患ですか?」

「ああ。難しいオペになる。ちょっと岸谷の意見を聞きたくてな」

 岸谷修一は第一外科の医局長で、田崎とは同期だった。もっとも、田崎は出世というものには関心がなく、内科の医局長の話が出た時も、その場で即座に断ったと噂で聞いた。医局というものは出世を目指す人間の塊だと言う人も少なくないし、実際に働いている立場であっても「それは違う」と断言はできないが、田崎はそれに当てはまらない数少ない医者の一人だ。

「愛妻弁当ですか?」

 ふと目についた口が開いたままの鞄の中に、少し大きめの弁当箱が入っていた。

「お前は?」

「ついさっき、カップ麺を高木先生にあげてきたところです」

「お前いくつだっけ?」

「もうすぐ32です」

「30越えてカップ麺ばっか食べてると、そのうち後悔するぞ」

 田崎は笑いながら続け、恭平を上から下までまじまじと見つめた。

「髭を剃れば顔立ちだってそんなに悪くないんだ、若いうちくらい髪とか顔とかもう少し気を使ったらどうだ?」

「田崎先生の髪型は将来の参考になりますね」

「妻の行ってる美容室でやってもらってるんだ」

 自分でも気に入っているのか、田崎は誉められた嬉しさを露出させる。

「じゃ、戻ります」

 軽く頭を下げて医局を出た。ふと歩く足を止め、ガラスに写った自分の姿を見る。乱れた髪に無精髭。身なりに構っていられる仕事ではないし、言い訳や理由をあげれば幾つもあるが、結局のところは自分の怠りに行き着いてしまう。

 かなり前に一度、高木と食堂が一緒になった時に聞いたことがある。まだ高木に対して少なからず苦手意識をもっていた頃で、もしかするとその口調は批判的になってしまっていたかもしれない。

『あの…先生は、モテたいんですか?』

 つい先日、仲間とのたわいもない話の中で高木が既婚者であると知ったばかりだった。

『は?』

 唐突の質問に高木も一瞬驚いていたが。さらりと続けた。

『当たり前だろ。男ならモテたいもんだろ』

『奥さんいるんですよね?』

 恭平の言葉に、高木は何かに納得した様な顔をして笑った。

『あのなぁ、だからこそだろ』

 意味が分からない。

『女からモテない旦那なんてダメだね』

『……』

『お前、モテるのと浮気と不倫は別物』

『まぁ、そうですけど…』

『お前……それじゃモテないぜ』

『別に望んでません』

 高木が『頭が硬いね』と首を振る。

『よく女が言うだろ?好きな男の人の為にいつまでも綺麗でありたいって。男もそうであるべきってのが俺のポリシー。まぁ、俺の場合は奥さんと患者とナースと、その対象が広いっていうだけ』

『奥さんのこと、大事にされてるんですよね?』

『当たり前だろ』

『ならいいんです』

『お前な、俺の奥さんの心配をするなんて何様だよ。

奥さんのことは何より大切にしてる。いつかお前にも紹介してやるよ。言っとくけどめっちゃ美人だからな。俺は男として、旦那として、釣り合う存在でありたいね。…おい、手を出したら殺すからな?』

 目の前で笑いながら普通に気恥ずかしい言葉を並べる男が医者であることを一瞬忘れてしまったが、同じ男として眩しいとも感じた。聞く人によっては馬鹿馬鹿しいナルシストの戯言に聞こえるかもしれないが、恭平はそうは思わなかった。もしかすると彼の奥さんは自分のような高木祐助の周りにいるその他大勢が考えているより、もっと幸せなのかもしれない。

 考えてみれば、確かに彼の周りにいる女性は彼の言葉に心から喜んでいるが、だからと言って高木とある程度の期間付き合いがある女性の中に色目を使う者はいない。さっき本人が言っていた通り、彼の中できちんとラインが引かれていることを分かっているからだろう。今現在彼にキャーキャー言っている新人の看護師であっても、しばらくすればそれに気付くのだろうし、少なくとも恭平がこの病院で働き始めてから今まで、何か問題を起こして仲間に迷惑をかけたことだってない。

 あの時から高木のとる行動に対する考えや理解度が自分の中でかなり変わった気がしている。男としてでなく、外科医の先輩として尊敬する所も多くある。たまに後輩を雑用係として扱う所はあるが、そんな高木もまた、恭平の見る限りでは出世にあまり興味のない人種に分けられる。高木に言わせれば、『向上心と出世欲は別物』となるのかもしれない。

 ガラスの中で情けない表情を浮かべている男を見つめていると胸ポケットからけたたましい悲鳴があがった。

「はい奥寺。…はい、すぐ行きます」

「悪いな」

 目の前の男に向かってボソリと詫び、『廊下は静かに』と書かれたポスターの横を全力で走った。



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