第一章
人生の3分の1は睡眠時間である。
嘘だ。そんなことを言ったのは、一体どこの誰だろう。本当にそんなに寝ている人がいるのなら、その一握の時間でも構わないから、譲ってはもらえないものだろうか。電車の揺れに身を任せながら、恭平は人の熱でのぼせそうな頭でぼんやりと考えていた。
夏になりきらないこの時期、電車の中は冷房が乗客が望む程には効いておらず、1車両に何十人といるサラリーマンが家から駅に着くまでにかいた何十種もの汗の臭いが混ざり合い、強烈な吐き気を催した。鼻から意識を逸らす為に、目を固く閉じる。
電車が揺れるに連れて、お腹の中では家を出る前に慌てて流し込んだ黒い液体が激しく波打ち、吐き気に拍車をかけた。
「………」
隣のサラリーマンが怪訝そうに恭平をチラリと見た気がした。
学生時代はトマトやグリンピースと並んで嫌いだったブラックコーヒーが、今ではヘビースモーカーの煙草のような存在になっている。
車体が止まり、小さな衝撃がぎゅうぎゅうの車内に伝わると、それが大きな波になって襲ってきた。つり革を握る手に全力を込めて受け止めると、あちらこちらでギリリッと悲鳴が上がった。
目的の場所にようやくたどり着いた人は、出勤前にすでに疲れきっている。ドア付近にいた恭平は、乗客がおりた瞬間に新しい空気を深く吸い込む。せっかく降りた乗客とあまり変わらない人数の人が乗り込み、恭平は再び息を殺した。
「次はー田坂ー、田坂ー」
目的地を告げる車掌の声にホッと胸をなでおろす。
人の波がおさまるのを待って、恭平もホームに降りた。そのまま足早に駐輪場に向かい、定位置に停めた自転車の鍵を開ける。思い切り踏み込むと同時に車が来ていないかを確認する。
この先にある踏切と、さらに先にあるY字路の渋滞に引っ掛かると予定時間を5分以上オーバーしてしまうのを、この道を通勤路とする人達は知っている。それ故に朝のこの時間帯に人の優しさは存在しない。『誰かが行かせてくれるだろう』は通用しないのだ。
恭平はスピードを上げて踏切を通過し、カーブミラーに目を凝らしてさらにスピードを上げる。両車線から対向車が来ていたが、タイミング良くその間を通り抜けることができた。小さな満足感に浸りながら小学校の前に差し掛かると、ペダルを漕ぐ足を緩めた。数年前に見つけた細い脇道に入り、陰の中を真っ直ぐ進む。
大きな通りに出た瞬間、都会の地平線から差し込む凸凹とした光が恭平の身体を容赦なく刺した。
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