この美しき世界との邂逅
朦朧と海を揺蕩うように、押しては引いていく自覚の奔流。自己を確立できないまま眠る赤子のように、穏やかで心地良い揺り籠が覚醒を促す。
霞みゆく闇の中。母に守られるような安心感に似たなにかを胸に抱きながら、気がつけば少女は湖畔に呆然と立ち竦んでいた。
「……ここはどこで、私は誰でしょう?」
そんな誰に言うでもない、鈴を鳴らしたような澄んだ声音が闇夜に溶ける。その場には少女しか居らず、当然答えが返ってくることもない。
空には静寂を慈しむように双月が浮かび、少女が暗闇に隠れてしまわないよう惜しげもなく月光で照らしている。
清涼な夜の風が頬を優しく撫で、足元には白い花が咲き誇り、遠方には切り立った断崖がたたずんでいる。そっと周囲を見渡せば、緑力溢れる木々が守るように湖を囲っていた。
「あら?」
周囲をうかがった拍子に、肩からこぼれた髪の毛が視界に入る。
「綺麗な髪ですね。まるで絹糸のよう」
触れればサラリと指をすり抜け、白く長い髪が白磁の肌をくすぐる。自身の全容を確認しようと視線を落とせば、僅かに膨れる母性の象徴が目に入った。衣服などは身に着けずに一糸纏わぬ姿だ。
「どうやら私は女性のようですね」
脳裏をよぎった違和感はすんなりと納まり、自身の性別が女性であることを確認してそれを受け入れる。
不意に、足元に照らされる月影がおかしい事に気がついた。人型のシルエットに鳥のようなシルエットが重なっている。意識すれば腰元に生えている純白の翼が広がった。
「どうしましょう。私は人間ではなく天使なのでしょうか?」
落ち着いた口調で可能性を提示する少女。
翼は大きく、全身を覆えるほどの面積がある。湖を覗き込むと水鏡に映るのは十歳前後ぐらいの女の子で、黄昏を連想させる茜の双眼が印象的だった。
白髪茜眼。アルビノに近い特徴。整った容姿は息を飲むほどに美しい。
深淵の令嬢や傾国の美女と呼ばれるであろう容姿。美姫という言葉はまさに水鏡に浮かぶ女の子にこそ相応しいだろう。
しかし、そんなことよりも気になるのは腰付近に生えている翼だ。試しに軽く羽ばたけば、半ば予想通りに足が地面を離れて浮遊感に包まれた。
その風圧で花弁が宙に溢れ、羽根が舞い、微かに甘い香りが鼻孔をついた。
大きく息を吸い込み勢いよく舞い上がる。重力など歯牙にもかけない浮上は想像以上で、あっという間に木々の高さを追い越した。
力強さに躊躇したのは最初だけ。すぐに慣れて体を捻り旋回させることも容易だった。
「ふふ、これは楽しいですね」
波一つない湖面を沿うように飛び、速さを全身で感じ、水面に触れれば冷たい水の感触が手の平を伝い線状の波紋が広がっていく。
湖を横断するとそのままの勢いで上空へと方向を変える。
遮る雲もない天上に鎮座する三日月の女王を一点に向かい、高く高く、どこまでも高く昇って行く。
意のままに操れる自身の翼でどこまで行けるのか。そんな疑問を抱き、どんどん高度を上げて更に上を目指す。
――そこでふと疑問が浮かんだ。
「イカロスは蝋で作られた翼で太陽を目指して墜落死したと言いますが、月に向かって飛んだらどうなるのでしょうね」
何処からの知識かなど歯牙にもかけず好奇心の赴くままに飛ぶ。
まるで流星のように真っ直ぐに突き進み、空気は流動し、大気を隔てて大地との距離が広がっていく。
しかし当然ながら月になど辿り着けるわけもなく、次第に息苦しさからスピードが落ちていく。
「やはり、無理……でしたか……」
息を切らせながら。
楽しい飛行なのは間違いないが、遥か頭上の大地に辿り着けなかったことに対して少しばかりの残念さは否めない。
手を伸ばして掴もうとしても月は遥か高みにあるばかり。生物の辿り着けない領域には翼があっても辿り着けない。
「残念ですね――あら……?」
夢中になって気がつかなかったが、いつの間にか太陽の光が当たる高さに到達していた。元居た場所に戻ろうと翼を翻した瞬間、狭まっていた視界が開け、不明瞭な衝動が胸を高鳴らせる。
「これは――贅沢な情景ですね」
前を向けばどこまでも続く地平線。
僅かに見える青は海だろうか。空の青と海の青が混ざり合い、見事なまでの境界線を描いている。
果てしない『世界』。その光景は少女の中に柄も知れぬ解放感が全身を駆け巡らせた。
飛び立った場所を見れば湖に繋がる川は毛細血管のように張り巡らされ、山々が蔓延り樹木が生い茂る。
下で見た切り立った断崖だと思っていたものは如何やら巨峰だったようで。山頂には現在の距離からでも視認できる巨大な白亜の城が佇み、そのすぐ近くには遠近感が狂いそうなほど巨大な一本の大樹が森全体を庇護するかのように見守っている。
広大な自然と芸術的な人工物。性質の異なる二つは見事に調和し、神性とも言うべく神々しさを醸し出している。
その光景はどこか心もとない――郷土を想うような、故人を追慕するような、出所も不明な懐かしさで心を焦がす。
――――ああ、なんて美しく素晴らしい世界なのでしょう。
まるで一枚絵だった。
大地は明るくも赤く、頭上には青が広がっていて、天地の二色は混ざり合うことなく地平線に隔てられていた。
眼下に広がる光景を生涯忘れることはないだろう。
高鳴る胸の鼓動は肉体に収まりきらずに外へと漏れ、溢れ出す興奮は言葉になり、言葉は歌となって福音を紡いだ。
舞台は遮る物のない空中。
大道具も小道具も無く。
共演者も観戦客も存在しない舞台だが、それでも構わなかった。
こんなにも壮大な世界を見せてくれた感謝を胸に秘めるなんて真似がどうしてできようか。
日光と月光が集約するかのようにスポットライトの役を担ってくれている。それだけで事足りた。
緩やかな風が髪を靡かせ、純白の翼から羽根を舞い散らせながら歌い、踊る。
その姿は童女のようにあどけなく、乙女よりも純粋に、母のように慈愛に満ち、天使よりも儚く、女神よりも美麗だった。
玉のような肌にうっすらと掻いた汗はキラキラと輝くアクセサリー。
絶対的で神秘的で神話的。
いつの間にか瞳から流れ落ちる一滴の涙。
たった一人の公演を止める者はなく、完全に日が昇り切るまで産声という名の演目が幕を下ろすことはなかった。
♢
時間が経ち、思いの丈を存分に紡いだ彼女は元居た場所にふわりと着地して一息ついた。
「さて、ここはどこで私は誰でしょう?」
そこで再度、誰に言うでもなく問いかける。
記憶はない。自分が誰なのかはもちろんのこと、ここがどこで、なぜこのような場所にいるのかすら分からない。
不思議と不安や恐怖といった感覚はしないが……モヤモヤとした、もどかしさのようなモノが蟠りとなって胸に残る。
さてどうしましょうと考えを巡らせていると、近くの草むらがカサリと葉が擦れる音がした。
音源に視線を向けると、そこには一匹の狐が窺うように顔を出していた。
「あらあらこんにちは狐さん――いえ、日が昇ったことですし、おはようございますでしょうか?」
コテンと首を傾げて間の抜けた挨拶。
するとそれに応えるように、うかがうような態度で狐が近づいて来る。
「お名前をお聞きしてもいいですか?」
「クォンっ」
「クオンさんですか。素敵なお名前ですね」
ふふっ、と花が綻ぶような笑みを浮かべて狐を撫でる。首元が気持ちいいらしく、小生意気そうな口を上に逸らして目を細めている。
少しごわついていて煽てにも触り心地が良いとは言えないが、それでも生き物の温もりは他に代えがたい安心感を与える。
少女は我慢できずに狐を抱き抱えていた。
「あらごめんなさい。出会ったばかりで失礼でしたね」
「クゥ~ン」
そんな事はないとばかりに首を振られて頬を舐められる。なんだかこそばゆく感じられた。
お返しとばかりに彼女も狐の頬を舐めるが――
「はぅ……毛が口の中に」
歳に不相応な落ち着きを見せる少女は、年相応にバカなのかもしれない。口中で絡みつくような不快感がそれを証明する。
湖で口の中を洗い流した後もクオンの温もりを堪能していると、直ぐそばの草むらにポテリと空から黒く小さな塊が降って来た。
覗き込むと、そこには今にも死にそうな蝙蝠が横たわっている。
「大丈夫ですか蝙蝠さん!」
クオンを下ろして力無く羽をダラリと垂らす蝙蝠を抱き抱えた。
「どうしましょう……お医者さんはどこにいるのかしら……」
おっとりとした口調を震わせ、あたふたと狼狽する少女に。
野生動物であるクオンが落ち着いてとばかりに一鳴き。
「そうですね。慌てても仕方ないですよね。でも一体どうしたら……」
焦燥感に駆られながら辺りを見渡すも、そこには変わらぬ景色が広がっているだけ。
「キキー……」
「キキさん……」
弱弱しく鳴く蝙蝠。勝手に名付けた名を呼び、心配そうに顔を歪ませる。
どうにか元気にさせる方法はないだろうか……そう考え、悩み、少女の残念な頭脳は思いつく。
「そうです! 蝙蝠なら血を吸えば元気になるかもしれませんね!」
少女はやはりバカなのだろう。
実際には血を吸う蝙蝠は極一部なのだが、今の少女は動揺の余りその事には気がつかない。思い立った時には既に行動を起こしていた。
自分の親指を噛み切り、垂れる血をキキの口元に近づける。
「はいキキさん、口を開けて」
キキはたどたどしくも口を開き、言われるがままに彼女の指を咥える。
チュー……チュー……と吸血行動を幾ばくかの時をかけて行うと、
「――キュイっ!」
先程までの弱々しい態度が嘘のような元気な声を鳴らした。
「良かった。お腹が空いていただけだったみたいですね」
蝙蝠キキはパタパタと羽を振りながら彼女の腕の中から離れ、まるで感謝を示すように周囲を飛び回る。
本当に死にかけだったのだろうか? そう思わせる程の目を見張る回復力だ。
キキの元気になった姿に彼女はホッと胸をなでおろし、微笑ましい物を見るように頬を弛めた。
吸い寄せられるように集まる狐や蝙蝠。その流れのまま、次に現れたのは焦げ茶色の毛並みをした小熊だった。
「グルルゥーーー」
ただ今までとは違うのは敵対の意志を示している点で、警戒するように喉を震わせての威嚇行動をとっている。
明確な敵意を向ける小熊に、少女は――
「ふふふっ、千客万来ですね。初めましてグル―さん。私の名前は……えっと、何でしょうか?」
そう問いかける。
初めて誰かに向ける問いかけ。
その事がなんだか嬉しくて、また笑みがこぼれる。
「グゥオオンッ!」
「あらあらご機嫌があまり宜しくないみたいですね。貴方もお腹が空いているんですか?」
少女はバカだ。それが疑念から確信に変わる。
相手は小柄とはいえ熊。
距離があるとはいえその間はほんの数メートル。
熊は人間以上に足が速く、剛力を備えている。その気になればその差はあっという間に埋められてしまうだろう。
「クォン!」
「キキーっ!」
クオンとキキが少女を守るように間に入る。
抱きかかえられるほどの大きさしかない狐と、先ほどまで死にかけていた蝙蝠。――戦力差は明らかだ。
それでも逃げようとせずに小熊と対峙する勇敢な二匹。
「あら? 貴方、怪我をしているんですか?」
だというのに、当の本人は無警戒に小熊に歩み寄る。
どうやら小熊の両前足の毛が剥がれ、痛々しく血を滲ませていることにしか目がいっていないようだ。
身を護る防具はおろか、衣服すら身に纏っていない人物がとる行動ではない。
「どうにかして血を止めないと……」
慌てて止めようとするクオンとキキ。
警戒を強める小熊を他所に、痛ましい傷に心を痛める彼女は背中に生える翼を広げて羽根を一枚摘み取った。
彼女が摘んだ羽根を握ると、羽根はほぐれるようにして形を変えて巻軸包帯のような形状になる。
「――ツッ!」
「動かないでくださいね」
当然のように小熊の腕に包帯を巻こうとする少女に、小熊は一歩退きそうになるが、
「コラ、動いちゃダメですって言ったじゃないですか! そんなんじゃいつまで経っても良くなりませんよ?」
幼い子供を窘めるような叱責に小熊は戸惑う。
それに構わず、少女は怪我をしている両腕に包帯を巻いていく。
「はい出来ました。傷が治るまで無理しちゃダメですからね」
小熊に釘を刺し、不恰好に巻かれた包帯を見て満足そうに頷く名も無き少女。そこに打算や怯えはなく、まるで自身に害意など向けられるわけはないと。
貴方が私を傷つけるはずがないと、そう言いたげな落ち着きぶりだった。
それからは穏やかな時間が過ぎていく。
小熊に背を預けるように腰を下ろし、膝の上には狐が。
彼女の翼には蝙蝠が逆さまにとまっている。
自然の声に耳を傾け、喧騒などとは程遠い静かで静謐な幸せの時間。
――しかし、それも長くは続かなかった。
なんの切っ掛けも予兆もなく。
少女は突如として吐き気を催す頭痛に襲われたのだ。
「な、に……ひゃッ!」
地に膝をつき、エビ反りに体が弾ける。そのまま仰向けに倒れながら頭を押さえた。
脳の一番奥から響くような痛みは全身を蝕み、殺人的なまでな苦痛を与える。
それに呼応するように体の内から何かが漏れ出そうとする。
その様子を見て心配そうに三匹が寄り添う。
感覚的に、もしくは本能的に少女は叫んだ。
「私から離れなさいっ!」
今まで穏やかだった少女の変貌したような大声に、三匹はたたらを踏む。
乱暴な物言いになってしまったと思う余裕は既にない。
気が狂いそうな痛みに苛まれ、身を焦がす熱が体の内から沸き上がり体の内から焼いていくようだ。
そんな様子を見て、困惑したまま行動を起こさない三匹に少女は業を煮やしてもう一度叫ぶ。
「私から離れて! 私に近づかないでぇえええええええっ!!」
それは絶叫というよりも懇願に近かったかもしれない。
三匹が自分から離れて森に逃げていくのを視界の端でとらえた少女は――溢れ出す熱をその身から噴出させた。
「いやぁぁああああああああああああああ!!!」
それは少女の白髪より白く。
少女の翼よりも柔らかく。
整い過ぎた少女の容姿よりも魅せられる白い炎。
白炎がもたらした惨状は明確だった。
少女の周囲をドーム状に広がった白炎が辺りの草木を灰にする。
無情に無慈悲に悍ましく。
一切の躊躇なく差別なく執行される様はとても……そして何より美しかった。
――何故?
――何が?
――どうして?
気絶することも出来ない理不尽な境遇で脳裏を巡るのは陥った事への疑問。
訳も分からないままただ耐える時間が過ぎていく。縋る物も人も記憶すらない孤独な戦い。
唯一の支えは先程空から見た美しい光景。
無事に森へと逃げられた三匹。
それだけを心の拠り所にして必死に耐えた。
ドクンドクンと波打つ鼓動は激しさを増し、後どれだけ耐えれば解放されるのか分からないまま苦痛の時が過ぎていく。
――いっその事このまま……。
そう思い始めた時、ゴールの見えなかったデスマーチは始まりと同じく唐突に終わりを迎えた。
「はぁ……はぁ……」
髪は乱れ、荒い息を吐きながらぐったりと大の字に倒れたまま空を仰ぐ。
辺りは少女を起点としての焼け野原。
太陽が昇り、どこまでも続きそうな果てなき天空には薄っすらと白夜月が浮かぶ。
そんな空を呆然と眺めながら一つ呟く。
「俺、人間だったわ」