白の篇⑪-変遷の予感-
今ではない、ここではない、最も近くて遠い何処か。
我等は常に、決して相容れる事なしに。
訣別の時は必ず訪れていた、筈なんだ―――
目覚めてよりも依然と途切れぬ、耳障りな雑音。強いて喩えるとするならば、念話通信などに見られる一定間隔の固定信号へと強引に割り込んでくる、ノイズの様なもの。
それが脳髄を焼き、知らず認識の誤誘導が進んでしまう、漠然とした恐怖感。
「具合が悪いなら、今日はやめておくか?」
「要らぬ、気遣いだよ」
大丈夫。どうしようもなく螺子暮れてしまったこの精神を構築する過去の経験、そして我が我として生まれ持った凝り固まった性質は、この程度の雑多な惑いになど靡く理由も無ければ道理もない。まだ、いけるさ。
「……代行、予定も押しております」
「ぬっ」
偏頭痛に悩まされる側頭部を軽く押さえ、気遣われる自覚を持ちながらも足元も疎かに歩を進める。その最中に傍らよりかけられた声。軽い昼食を終えた後に合流した、この黒髪を湛えた妙齢の女はボルドォの副官といったか。
「お客様の体調が芳しくないという事でしたら、いっそお手隙に見えるその両腕で……お姫様抱っこ等のオプションなども……視野に入れるべきかと」
「ぐぁっ……」
昨夜半にも名前のみは耳にしていた、平時は沈んだ雰囲気を前面に押し出すというボルドォの評は実に妙を得ているな。これで接客業が務まるとなれば、相当にその手腕が光るものと推測されよう。
「あぁ、それは良い。是非とも願いたい、心躍るオプションだね」
「さっきは要らぬ気遣いだと言っていたばかりだろうが!?カンナ!お前も余計な事を言うんじゃないっ」
「……?」
その後の顛末としては、特に言うべきものはない。一際大きな憤りの吠え声を上げた後に、気が滅入った様子ながら依頼者の要望を受け入れた大男。そして脇では何を考えているのかよく分からないぽやりとした顔を冬の優しい日差しに晒し、一歩後ろへと控え付いてくる受付嬢の姿。そんな情景に置かれ、心絆されるなというのは無理筋だろうさ。
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「神官が、長期不在だと?」
「ひっ!?……ひぅぅ、ごっ、御免なさいっ!」
目的地である、無貌が潰えた地。その惨状は我の想像を遥かに超えていた。
惨状――否、違うな。この光景を目の当たりにさせられて、胸に湧く今のこの想いをどう表せば良いものか。
その道に通ずる者達の間では樹精神殿と呼ばれるらしき、巨大な樹木の立つ帝都東部区画。道中にもそこかしこに出没したアラクネー達。
今もボルドォの訝る言に強い怯えを見せて逃げ出してしまった様に、生来臆病な種族の在り方そのものとしては間違ってはいない。いないんだ。
《無貌の女神さまを祀る、樹精神殿まで――後もうひと踏ん張りですっ☆》
本当に目と鼻の先に建てられた、荘厳さの欠片も見当たらないカラフルな案内板ではあるが、そこには間違いなく質の高さというものが垣間見える。
だというのに、この突き抜けたとしか言えないセンスはどうだろう。
平時の暮らしを営む上ではまずお目にかかれないであろう光を照らし返すどぎつい蛍光緑の枠縁に、一体どういった絡繰りか文字そのものが持続的な点滅を見せる、主張が過ぎるまでのピンク色。それら二色を取り持つは主張をしない程度に薄められながらも、無駄に明るい印象ばかりは強く受ける、黄褐色に染め上げられた板本体。
更には何の冗談かと思わせる程に芸術的な白亜の天使像が案内板の両脇をふんだんに固めていて、揃いも揃って胡散臭い笑顔をその造形へと貼り付けていた。
「代行……顔の造りが怖いです……」
「それは努力ではどうにもならないだろうが!?」
今の妖精族と同じく、元来森の奥にて細々とした営みを好むアラクネーにはとてもではないが想像も出来なかろう、前衛芸術の類。それでも屋外に展示されている品の数々には、間違いなく芸術に秀でた彼女達が携わっていると確信出来る、正確さと繊細さの両立が見て取れる。そしてそれらを創らせた存在による、先を見据えた思惑も。
そんな彼等曰く、ここは已む無き事情により一度は棄て去られた、遺棄地域。未だ帰る者はおらず、その大半は廃墟となった住宅地が立ち並ぶばかりだという。
「ですが、アラクネーの皆々様……逃げてしまいましたね……」
「ぬっぐぐ」
「やはり、代行の顔を見て……」
「しつこいわぁっ!だからここには、来たくなかったんだ!」
出し抜けに始まったらしき即興の掛け合いなど、気を留める余裕が無くなってしまう程の衝撃と共に。この場は間違いなく、滅びを感じさせるそれではない、生きた実感をとみに感じさせてくれるのだ。
棄て去られた地の呼称に真っ向反する現状。それこそが、久方ぶりにこの地を踏んだ我が感じた、僅かな違和感の正体。
「いや、違和感どころの話じゃあないな。出来ればすぐにでも、ここの調査に乗り出したい」
「ぐ、むぅ」
「……代行、お時間があまり……」
単刀直入に切り込んでみる。しかしながらボルドォ達の反応は、目に見えて曖昧なもので。
「昨夜の話といい、煮え切らないな。君達は、何を厭うているんだい」
彼等にだって彼らなりの背景があって、こうまで迂遠な姿勢を取らざるを得ないのだろう。それでも身元さえ確かでない不審者に対し、出来得る限りの協力をしようとの真摯を持っている程度の事は、彼等との付き合いが浅い我にだって分かる。
「だからこそ、分からないな。ボルドォ、君はこの状況を見せて我に何を伝えたい?そして、何を隠している?」
そのまま暫し、目線に主張を乗せて交わし合われる互いの主張。
始めこそ厳つい見た目に似つかわぬ、何らかの躊躇に揺れていた白銀の瞳。加えて促すまでもなく彼の意志の灯は徐々に強さを増していき、その分だけ、諫めるかな女の囁きには諦めの響きが混じりゆく。
「カンナ。時間はあと、どれ程残っている?」
「……会談の場はいつも通りに、帝都支部応接区画の一角となります。帰路も含めた前提で、あと一時間半程でしたら……」
決まり、だな。苦虫を噛み潰した様ながら、何らかの覚悟を決めたらしきボルドォの二の腕を軽く叩いてやる。返す手で向けたカンナへの感謝の印は幾分増した沈み調子のまま、もの言いたげな目線を伴って軽く往なされてしまったが。中々どうして、良い副官に恵まれているじゃあないか。
―――ヴンッ。
無人の野と化した神殿敷地へと足を踏み入れた途端、またしてもあのノイズが脳裡へと突き刺さる。
映った画としては変わる事なしに、彩を喪い現実味も薄れた何処かの月夜。
同行者の様子を確かめるまでもない。我以外には感じられないであろう一瞬の白昼夢。
その情景にて対峙を果たすのは、紅一色に塗れた、凄絶なる白虎の仁王立ち。そして――その前に凄惨な笑みを浮かべて立ち浮かぶのは―――
「戻るなら、今の内だからな」
「――っ」
刺し込むノイズに魘されるままに、気付けば神殿入り口の大扉にまで歩んでいたらしい。あぁ、ここまできて、こんな虚仮嚇し程度に怯んだりなど、するものか。仮にも無貌が最後の信徒のちっぽけな意地にかけて、何処の誰とも知れない偽物の正体を暴いてやる。
改めて意識を前方へと向けて、重さを感じさせる扉が押し開かれる音を耳に響かせる。
それが所謂、地獄への直行便となりかねない危険を伴う行為となろうとも。そんな悲壮な決意さえをも固め、やがて内側へと招く様に開き切った扉を傍目に、一歩を踏み出した。
「へっ?」
まず耳に飛び込んできた間の抜けた声は、誰が漏らしたものだったか。
それを確認出来る程には刹那の時間さえ残されてはおらず、その異常を五感で自覚した時にはもう手遅れ。
「すっ、ろぉぷぅっ!?」
「うおぉおっ!?」
「ですよ、ね……」
この希少な体験を敢えて表現するならば、我等三人ともが両の足を神殿内へと踏み入れた直後、足下の感覚が前触れもなしに、揃って全てが消え去った、だろうか。
それでも我一人ならば、咄嗟に翅を開くなりして逃れられた可能性は、ある。
だがしかし、我等は地へ両の足を踏みしめ、ある種の決意を以て奥を目指そうとしていた正にその矢先の事だ。それが揃ってほぼ同時に縦方向のベクトルに流されて、おまけに落ち込む床の周囲が誂えられたかの如く滑り台形状へと変化をしてしまえばどうなるか。
結果、三人分の重力がまとめて圧し掛かる下方向への運動エネルギーを支え得るなど到底出来はせずに、そのまま暫しを文字通りお先真っ暗なトンネル移動へと強制的に費やされる事となったのだ。
―――ペッ。
暗く狭くも勢いの付いた慣性移動により、意識が若干朦朧としてきたその頃となって。
ご丁寧にも誤飲した物体を吐き出す様な効果音さえ見繕われて、衝撃吸収用のクッションの上へと放り出された我等。ぐらんぐらんと回る三半規管にどうにか鞭打ちつつも周囲の光景を見回してみれば、位置としては正面玄関脇の勝手口らしき死角となる踊り場だった。
【無断侵入は、御法度です】
その勝手口の上部には、神殿付近で見たそれと同じくむやみに主張をする表示板。踊る文字を目にした我の顔はきっと、盛大に引き攣っている事だろう。
「な、んなんだ……ここは……?」
「だから、ここには入りたくなかったんだ……」
「残り、一時間と少々です……」
この期に及び、傍目には冷静に見えるやもしれない副官女の言葉を呆然と聞きながら、煮え立ち始めた頭の片隅でこう思う。
どうやら今の神域の支配者は、随分と良い趣味をしているらしい。
次回投稿、5/3(木)となります。




