第319話 夜明けの詩は、片翼と共に
「うわぁあああああっ!?」
「きゃあああああああっ!!」
「にゃあああああああっ!」
身に寄せる衝動にひとしきりを叫んだ後、我に返った俺の視野へと映ったのは――朝ぼらけに雲一つのない快晴。俺は、一体何を……。
「……んん?他にも悲鳴が二つほど聞こえた気が……」
していたのか、と繋げようとする意識から転がり出るように、何故だかそんな言葉が勝手に飛び出してくる。どうにも、妙な感じだな?
敢えて表すとするならば、複数の思考が未だ合致しきっていないようなもどかしさ。今こうして言葉に表そうとする間にも、思いも付かない言葉が湧いては馴染み、また新たな別の思考が湧いてくる。
そんな、自分でもいまいち表現に苦しむ感覚に浸されながら、ここ暫くをひたすらに泳ぎ続けた想いの坩堝と言えよう、長くもあっという間に過ぎていった事変よりの解放を実感した。
「結局、俺はどっちなんだ?」
ひとまず身を起こそうとして、心地の良い鈍麻感に支配された現状を識る。
あれが性質の悪い夢魔の類という訳でなければ、再び日の出を拝めるかさえも怪しい激動の一日だったんだ。こうして意識を取り戻せただけでも御の字というものか。
仰向けに寝転がったままに、目線をのみ動かして周囲を探る。それにより辛うじて感じ取れたのは、ここが幾度か目にした禊の泉が祭壇の一つであるらしき水の気配。それと何故か裸の上に薄布一枚が被せられているといった、寒々しいとも言える現状だった。
少しばかり自分の置かれた状況を把握したところで、やはりまともに動く気のない身体の現状に白旗を上げた。
どうせ俺の成すべきだった事はとっくに終わっているんだ。文字通りに精魂尽き果ててしまっていることだし、外界から何らかの刺激を迎えるまではこのまま二度寝で惰眠を貪るのも悪くはない。
穏やかに瞼を閉じた俺は、再び安寧の誘いへと身を委ねた―――
「……眠れやしねぇ」
夢枕に石蜥蜴鶏を数えること二百匹、そろそろ一部が岩軍鶏へと進化を果たして地割りトレーニングの大合唱をし始めた辺りでやむなく目を開く。
気分としてはバーベル背中にトライアスロン数セットをこなした後に、一晩中般若心経の読み取りをやらされたかの様な、やはり良い喩えが浮かばない謎の疲弊感が重苦しく覆い被さるというのにだ。感じる身体の感覚としてはおめめぱっちり、肌艶はとぅるんとぅるんで飾り気の無い短い黒髪さえキューティクルは完璧に。
今ならきっと秋の夜長に血迷った、あの頼華と転じて女装コンテストに出たって上位入賞を果たすであろう。そんな要らん予感と共に、思い出したくなかったトラウマまでをもばっちりと掘り当ててしまう。
「ンの野郎……本気で全てを植え付け直していきやがったな……」
そうだ。この童は無貌が顕現の切欠として俺と扶祢の想いから抉り取られた残り滓が形を成したモノ、なんて言っていたがシズカの奴、あの時の魔狗からしてみれば間違いなく本物で。ご丁寧にも神通力で象ったと宣っていた自身の姿に、サカミ村での邂逅から秋の魑魅騒動に至るまで、あの影絵の世界できっちりと七尾の影ともども俺達の心象へと型を付けていきやがったんだ。
「触手風呂……つるぺったん……幽霊こわい、シズ姉こわい……洗濯板なんかに負けないもん……」
生憎と首一つ動かせないが為に視認する事こそ出来ないものの、ふとしてみなくとも流れてくる、聞き慣れた麗しき響きの中にも情けない泣き事混じる娘声。まともに動かない肩を気持ちばかりにずり下げつつも、どうやら悪夢に魘されながらも近くに居るらしい扶祢の存在にほっと一つ息を吐く。
こちらはこちらで無意識ながら、本人が耳にすれば更なるトラウマを刻まれる事請け合いな弱々しい憎まれ口をうわ言に格闘中の模様。無事に再起動するまではそっとしておくとしよう。
「う~む……しっかりと影の記憶もある、よな」
身体が動かせない反動からか、気持ち多めに吐かれる独り言と共に更なる自己を紐解いていく。
恐らくは頼太としての精神が限界を超えて砕けてしまった後に、あの樹牢で目を覚ましてよりの影としての短き生。それからこちら、童子の影との対峙を終えて消え去るその時までの全ての記憶を、今の俺は持ち得ていた――あの時この頼太に対して抱いた、影としての昏き想いの全容に至るまで―――
「――だ~めだ!さっぱり、分かりゃしねぇ」
それなりに神秘へ触れたここ暫し。とはいえその道の専門家でもなければ希代の天才なんて言葉からも程遠い、ただのいち人間なこの俺だ。実感的に触れた出来事について本能的には朧げな理解を見せながらも、あの時に魔狗自らが語っていた情報以上は知り得ない。
オ前ガ仮ニ戻レタトシテ、ソノ時ニハモウ、ワタシハ―――
それが、影に対して魔狗が唯一語らなかった事実。だからこそ、手繰られようともそれを由とした魔狗ただ独りの、盲目なまでの熱き想いが一端だ。
泣キ腫ラシタオ前ノミットモナイ顔ナンテ、モウ見タクハナイ、カラナ―――
だからこそ、何も言わずにさようなら。
今の俺の心中には渦巻く哀しみとそれ以外の感情が半々、といったところ。終始明け暮れた夜の激情を通り越したが故か、あるいは砕け散った欠片を無理繰り拾い直したばかりであるからか、見送る俺の感情は微塵たりとも動けやしない。
「俺、本当にどうなっちまったんだろうな」
あまつさえ独り言つ中にも他者をして分かるであろう、他人事とも言えようニヤニヤと、まるで絵に描いた冒険活劇を満喫した後であるかのような、厭らしくも緩んでしまう表情筋。
だってのに、どうして―――
《――お早いお目覚めね、甘えん坊の泣き虫さん》
「……いつから、見ていやがった」
いつから、無貌が居ると気付いていやがった。
あいつに劣らず撫でかけてくれる、この優しき声にも恨み言。
だって。こいつが語りかけてくるこの状況こそが、舞台の幕が下りてしまった現実を否が応でも理解らせてくれるのだから。
《今のお前が晒す間抜け面。その理由を、教えてあげましょうか?》
「余計な、お世話だっつの……」
本当は、言われなくても分かってる。この、性悪天使が。
あの時の俺は。消滅の危機に瀕しながらもひとに想われ、それを喪ってしまう悲壮感に魂を吼え猛らせていた筈の影と魔狗は。
「その、反面で――想われる歓びに打ち震えてもいた」
《ふふっ、よく出来ましたっ♪》
仮にも自身の半身であったモノへの見送りにしては、やはり道に外れた明るさを以て返してくれる、無貌の女神。
それが救えぬ人の性だと、それが想いの本質だと、釣られ乾いた笑いが出てしまう程にあっけらかんと口にする。
生きる、歓び。生きていたいと願って、望んで、臨み続けてようやく掴んだ一縷の希望。それは元より、無貌が今一度の消滅を大前提として成り立っていたものだ。
未だ心は合致を見せず、我が心は彷徨い惑う。
故に我が想いを魅せて、その御霊を鎮めよう。
それこそが、我が身が担った代わる者なき責務。
それこそが――罪深くも哀しき人の業。
あの影があれだけ求めてやまなかった、誰かに想われる歓び。何の事は無い、影は初めからそれを、持ち得ていたのだから。
《お前は直観的に、それを感じ取っていた。どこかのお節介焼きな精霊崩れ風情が茶々を入れてくれた所為で、本質が薄らいでしまったのは否めないけれど》
この言い様。やはりこいつと白さんはどこかで縁を持っていて、そして白さんによる介入に目を瞑ってもいた。影が目覚めたあの時より、寂しさに揺れる思考の反面、僅かな拠り所に無意識にも安心感を覚えていた心の齟齬が生まれるのも、また道理。
それが為に目的が見え辛くなってしまった感こそあれど、様々な寄り道をしたお蔭で影は目的を見定めるだけでなく、一個の人として生きる事が出来た。だからこその胸に抱けた充実感、そして迂闊に本質を見据えしまうという落とし穴に填まり込んでしまう事もなしに、哀しみに押し潰されないだけの歓びを抱えて……終えられたんだ。
「それでも、よぉ……」
今度こそ、無貌を喪ってしまったその現実を。泣き笑いな表情をはっきりと自覚しながらに受け止める。やっぱりそれは哀しくて、とても……口惜しくって。
《まぁ、それはそれとして。早速だけれど、改めてワタシからの試練を与えます》
「……はぁ!?」
また脈絡というものを無視した、随分と突飛な振りをしてくれる。
幾ら軽い口調で取り繕ったところでだ。心が繋がっている今この瞬間だけは、その本心など言わずもがな。
《とはいえ、あの時ワタシが絡め取れたのは魔狗であった半身のみ。二つが溶け込んで別個の一となった今の小虫君であれば、魔の誘いに従う謂れも無いでしょうけれど》
絵に描いた傍若無人に憎まれ口を叩きつつも、その実俺が塞ぎ込まないよう、ずれた気を遣ってくれる。そんなこいつだってあの無貌と変わらない。
あの地の底で見せてくれた、どうしようもない程の孤独感。怒りとのせめぎあいの果てに、差し出したそれを掴んでくれた手の持ち主は俺にとっては底抜けてお人良しで、やはりかけがいのない縁の一人というもので―――
《ふぅ~ん?》
俺にこいつの心が分かるという事は、その逆もまた然り……やっちまった。
それから暫くの間、目にも新しい玩具を弄るかなニヤニヤとした視線ならぬ、心が向けられ動けぬままに悶えてしまう。くっそ、自分の迂闊さにつくづく後悔の念を禁じ得ないってもんだ。
「……で、試練って何だよ?」
《ふふん。どうにか舞台に戻ってこれた、ピュアな小虫君の精神を再起不能にするのも可哀想ですし。お前の為だけに自らを喪ってしまった、あの無貌の意趣返しはこの位にしておいてあげましょう》
「ごブッ……!?」
ぶっきらぼうに返したつもりが、覚えも新たなトラウマを早速ほじくり返すという荒行により僕のライフはもうゼロよ!状態。こ、このクソ外道ッ!
「お、おごっ……おごごごご……」
《あら~、過ぎた精神的ダメージが身体にまでフィードバックされちゃってるわね。うんうん、小虫君も段々とこちら側に近付いてきているようで何よりです》
「余計なお世話ですってばよ!?さっさと試練とやらの詳細を言いやがれっ」
これ以上こいつに口を開かせていたら、本気で俺の精神が殺されてしまう。
したり顔で腕組み語られる、甘酸っぱくも哀しくもないリアルに迫った死の危機に久々となる戦慄を覚え、苦し紛れに言い散らす。対してはやはりくすくすとでも言わんばかりに生暖かい思念を送られる事、少しばかり。
《そうね。まずは目前に迫った生命の危機に対して、取り急ぎどうにかするべきかしら》
ややあってコホンと一つ、お気に入りらしき咳払いをしてみせたその後に。この駄天使は大真面目に、こんな事をほざくんだ。
どうしてそんな表現をするかって?だって、その言葉と共に動かぬ視界へとぬっと現われたのは―――
「ぜっ、絶対にッ!ボクはッ…惚れてなんかッ……!」
その幼顔は一族を冠する真紅に満面染め上げられながら、わなわなと眉根に口を仲良く震わせて。眼より溢るる大粒の涙は零れ落ちると同時に結晶化が進み、身動き取れないこの身にざくざくごちごちと降り注ぐ。
「らっ、頼太を殺しテッ!ボクも死ッ、死んデッ!?」
「いやちょっ……痛ぇっ!?滴ッ、想いの滴?零れてるっ…正気に戻れェ~!」
この動転っぷり。ピノはピノで、どうやら色々とあったらしい。
その後も支離滅裂な言動を繰り返したままに、気持ち精霊への命令系統がより洗練されている印象を受ける幼女の攻勢を受けた俺は。迫りくる命の危機に痺れる身体をどうにか衝き動かす。
「だから落ち着け、つーの!」
「ひゥッ……ま、また触っタァ!」
実に皮肉な事ながら魔狗であった際に受けた白さんによるあの暴挙、それに晒された経験がここにきて活きてしまったらしい。自分でも驚く程に滑らかに、羞恥の熱に浮かされたらしき矢継ぎ早な精霊特攻弾をあっさりと掻い潜り、これまた懐かしき羽交い締めの形へと持っていく。
「ボクの、ボクの初めてを、返せェーッ!」
「……あっ」
ここにきてようやく暴走が収まったか、しかし変わらず泣きじゃくるピノの声に、間の抜けた声を上げてしまう。心当たり、あったわ。
《何だかんだであの白き精霊崩れも、味な真似をしてくれたものよね~》
「貸すだけって言ったのにっ!何もしないって、言ったのにィー!」
思い返せば影の歩んだ短きあの道中。寄り添い続けた白さんが取ってくれた、若き身空へ対する悩ましいまでの行為の数々。そして紅き童子との対峙の果てに雁字搦めに締め捕った、あの最後のやり取りに至るまで。
それは魔狗の側にしてもそう。終わりが近付いたあの時に朧げに見えた正体と、最後の最後にやらかしてくれた、とんだハプニング。そうか、そういう事だったのか。
「何度確信犯やりゃ気が済みやがるっ、あの白BBAぁっ!?」
「このッ、セクハラ野郎ォー!あのクソババア共々、絶対ブッ殺すぅー!」
「ほンッ!?」
脱力極まりない両の腕より強引に抜け出したピノによる、すかさずとも言えよう予定調和。妖精族とはいったいと言いたくなる程に鋭い捻りが利かされた駄々っ子キックは、物の見事に呆けた俺の下腹部へと吸い込まれてしまう。
「んホっ、ほっほっほヒっ……」
「死ねっ、死んじゃえっ、この変態!」
それ、俺のせいじゃねぇっ!?
しかし哀しきかな。生物学的に雄の急所である、そこを下から蹴り上げられてしまえばもうどうしようもない。
こうして俺は有名無実の罪により、一連の道化芝居を愉しんだリセリーがオトコの機能を回復してくれるまでの間を羞恥に塗れた幼女による足蹴の連撃という、人によってはご褒美ともなろう不本意の時間を余儀なくされたのだった。
「えらい目に、遭ったぜ……」
「がるるるっ!」
「わふぅ……」
未だ収まらないピノが猛犬注意の看板を首にぶら提げて、丁度よく見廻りより戻って来たらしき苦労犬な弟分がその襟首を繋ぎ止める頃となり、ようやく落ち着いて座り込む事が出来た。毎度毎度の事とはいえ、少しは色々と成長して欲しいものだと思う。
《それではそろそろもう一名様、ご案内~♪》
だというのに。もういい加減にしてくれと言いたい程に、次なる強敵が登場する。
これに比べれば先のピノの赤裸々な羞恥の告白など、他愛のない小手調べ。そう、断言出来よう強敵は、気付けばそこに、座り込んでいたんだ。
「………」
「―――」
その黒き瞳は、真摯に潤んで見えて。頬に浮かぶは幽かな紅。
平時の愛想を魅せる証と緩むふとまゆでさえもが、今はぼうっと浮かされた貌にくっきりとしたアクセントを添えて在る。
そう。今の幾らか精神的なタフネスが上がったであろうこの俺でさえ、ともすれば顔全体が熱くなりかねない、あの魔狗と七尾が共に在ろうとし続けた、切なる想い。で、あるならば―――
―――ぼんっ。
《破裂、しちゃったわね》
「お願いですから余計な口挟まんといて貰えませんかねぇっ!?」
目の前には未だ真っ赤に蒸気を噴き出す、乙女回路が成れの果て。それでも熱き視線はある一点へと注がれ続けて――下手すりゃこれ、これまで起きたどんな問題よりも厄介じゃね!?
「まずは落ち着け、落ち着こう、な?」
「……ぃ」
「……い?」
「ぃひぁあァあぁっ!?」
どうやら先制で声をかけようとしたのが裏目に出てしまったらしい。
査定会の場での演出用と気合いを入れて着込んだ特注品の着物が汚れるのも構わず、その形の良い脚腰を目一杯に使って掃き掃除をしたかと思えば次の瞬間にはこの妖精郷の土を踏んで以来、幾度目かを数えるのも億劫になってきた既視感。
かくして帝都騒ぎの一夜騒動を想わせる動作で後頭部をごっちんこ。大樹の幹へと一際大きく響かせた扶祢は、見事に夢の世界へと旅立っていった―――
―――狗に噛まれたと思って、忘れよう。
それを初めに口にしたのは、誰だったか。
何故にいぬの字がそっちなのかなどと思うところは多々あれど、この手のデリケートな問題はきっと、引き摺ってしまうと碌でもない事になる。特に今まさに心の裡で舌打ちをかましてくれている、出歯亀天使が同席している現状では尚更だ。
「うん、今更だもんね……だってこの前なんか、お風呂場で頼太のその、もにょもにょまで……」
「はい検閲とかに引っかかりかねないのでストォーップ!?」
「いつか、ボクもやり返してやル……」
ほらな!色々と危うくなってしまうので、これまでっ!
それにまぁ……仮に真っ当にそういった展開を迎えてしまったならばいざ知らず、今回のアレについては不可抗力だと思うんだ。だから少しばかり落ち着いた後に俺達が出した結論としては、全て無かった事にする。こればかりは譲れない。
《どいつもこいつも、ヘタレねぇ》
「「「誰のせいだ(よっ)!?」」」
《少なくとも、ワタシのせいではないと思うのだけれど……》
そんなやり取りの結末はともあれだ。今度こそ一段落ついた証として、大きな溜息と共に朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。
冷たく肺を刺すかと思われたそれはしかし、思っていたよりは暖かくって。
「そろそろ、春かぁ」
「そう、ね」
「ふんッ……」
今回もどうにかぎりぎり、薄氷の上を何とやらと謡いつつもその実、経年劣化で土台の腐り切った集合住宅を急ピッチでリフォームするかのような、そんな危うい勢いながら終着点にまで辿り着く事が出来た。
ひとまずは、皆の無事な生還に乾杯を。
そして、人知れず去り逝く者には―――
《マタ、哀シム顔ヲサセテシマッテ、スマナイ――》
―――え?
聞こえる筈のなかった、その言葉に。はっと周囲を見回して。
「頼太……?」
「え、あれ……」
次に俺が取った行動は、心の裡へと語りかけること。
言の葉は返されもせず。感じられるはただただ肩を竦める気配ばかり。
「まさ、か……」
元より顕れる筈もなかった、ちっぽけな残り滓。
どんな因果の気紛れか、別れの為の哀しき出逢いを今一度望んでしまった。
《本当ニ、スマナイ……》
それこそが、無貌が顕現した際に零した、ただ一つの告白。
それこそが、奉じられる存在ではない、無貌としての一個の歓び。
「ちく、しょ……最後まで、ずりぃよ……」
今度こそ、最期の最期。だと、いうならば。
顔にはくしゃくしゃになった笑みを貼り付けて。それでも頬には一筋の雫。
せめて、見送り終えるその時までは泣き崩れたり、しないよう―――
・
・
・
・
《今度こそ、お疲れさまっ♪》
「随分と、お軽いこって」
今度こそ、本当に終わり。場違いにも軽き過ぎる労いに、少しばかりを皮肉で返す。
出来得る限り、我慢をするつもりだったけれども。やっぱり、傍で見ていた二人にはそれとなく伝わってしまったらしい。湿っぽく、なっちまったな。
「あ~、格好悪ぃったらありゃしねぇ」
「だって頼太だもノ、今更、ネェ?」
「ね~」
「へ~へ~、どうせ俺ぁ恰好付かないヘタレ野郎ですよっと」
今度こそ、終わってしまった束の間の邂逅に別れを告げた余韻を断ち切るように、平時のおちゃらけた態度を押し出しながら脇へ畳まれていた服へと袖を通そうとする。いくら儀式の一環だからって、何も裸のまま放置する事はないと思うんだけどな。お蔭で体中冷え切って仕方がないぜ。
「……頼太。何、それ?」
「あん?」
防寒用に履いてきたレッグウォーマーの片方が見当たらず、訝しげにかけられる声にも生返事。そのまま暫し着替えの予備を探すも、その間も感じる視線は強くなる一方。何だってんだ。
その内不貞腐れていたピノまでもが、俺の腕を引いての大騒ぎ。せめて着替えが終わってからにしてくれと思いつつも、このままでは埒が明かないと判断する。
仕方がなしに振り返ってみれば、慣れている俺でさえつい引いてしまう程のがぶり寄りを見せてくれる、扶祢とピノ。
「その背中の、模様って」
「何ソレ!」
そして何やら、心の裡には不気味な含み笑いが響いているときた。
既に嫌な予感がひしひしと。でも、見てみるしかないんだろうな。
「……ほんぎゃぁあああっ!?なんじゃ、こりゃー!」
つくづくベタな叫び方で済まないと思う。
仕方がないんだ。だって泉に映った俺の、肩甲骨をまるまる覆うように描かれたその形状は―――
「――ぶふっ」
「厨二病!厨二病ダ!」
背の右半分へと描かれた、漆黒の片翼。
無論のこと実際の翼などではなく、よくよく見てみればそうと思える形状というだけではあったが――そうと言われてしまえば十人が十人とも黒き翼と認識してしまおう、紋様らしきものが俺の背に描かれて、いたんだ。
「なっ、ななな……なな何だこれっ!?」
「ぷくっ、か、格好いいかもよ……駄目、ぶふふっ」
「うくクッ……頼太、カッケー。アハハハハッ!」
どうみても晒し者と言えよう、この状況にしかし、本日最大の衝撃を受けた俺には笑い声など届かない。ただただ、呆然とその片翼を見詰めるばかりで。そして、その見覚えのある形状は。
「まさか、てめっ!?」
《ふふっ……どっちだと、思う?》
―――あ。
このお人好しにも性悪な駄天使の仕業かと思いきや、思わせぶりに語りかけられるその一言で、理解をしてしまった。
そう。これこそが消え去ってしまったあいつからの、唯一遺された―――
このお話は、狐耳他の精神的に恥ずかしい姿を激写する(以下略
表パートという但し書きこそ付きますが、これにて今章最終回となります。長かった……。
次回より、EP風最終幕。




