第309話 エイカの異変
放心状態のガードフェアリー達の大半を寝かせ終えたところで、タイミングを見計らったかの様に連絡員が広場へと顔を出した。栗鼠の耳に尾を持つそのシルエットは夜の暗きも相まって、遠目ではコタさんかシンさんかの判別がつかない。
そのまま手短に釣鬼の耳元へと囁き、妖精翁達に軽く会釈を交わした後に夜の森へと消えていった。
「っかぁ……また面倒臭ぇ事になってんなぁ」
見るからに憂鬱を前面に押し出して、くたびれた身体を支える様に腰に手を当て空を仰ぐ。そんな釣鬼の仕草を目にし、圧力を維持したままに白虎姿が歩み寄っていく。
「二人程、取り逃がしが出た。今は北西に向かってるってよ」
「ちっ……」
誰が、とは言わずとも、短く交わされたやり取りでそれが差す対象は言わずもがな。ひとたび倒れ臥すエイカさんへと視線を向けた代行は、然る後に自らも森の側へと足を踏み入れた。
「オーク共の領域に逃げ込まれる前に、仕留めてくる――小僧、逃げるなよ?」
そう、ご丁寧にも物騒な物言いを残してくれて。
敢えて俺達にも聞こえるよう口にする事で、得られる利がある。先程の釣鬼の発言などは正に、そういう事なのだろう。
とはいえ正味の話、今の俺が残っていても代行の言う陽傘頼太の確保依頼には関係ないと思うのだが。それを口にする間もなく、代行の姿もまた、闇の中へと消えてしまう。
見送る俺は何とも言えない気分のままに、ピアの治療を手持無沙汰に眺めるばかり。仕方がなしに代行の口にした、オークという呼称について考える。
オーク、といえば豚にも似た頭部を有し、背丈と幅は人族以上、オーガ未満。その手の創作読書などではゴブリンと並んで敵役とされがちな、あの種族の事だろうか。
そういえば、と思い返す。彼の世界の独立都市では豚頭族の棟梁が主に建築などに携わっていたっけ。
その意を乗せて釣鬼へと視線を向けてはみたものの、それ以上を語る気はないらしい。表情も曖昧に明後日の側を向かれてしまう。
「昔からあの連中とは、どうにも反りが合わないのさ」
代わりとばかりに補足気味に耳打ちをしてくれたのは、白さんだ。
妖精郷の付近にオークの集落があるというのも初耳だが、トリス・ムンドゥスの類似世界であるこのアルカディアの場合、少なくとも集落を築き上げる集団であればその知能の程度は人族とそう変わらないと聞く。それが明確に不仲とまで表現をする時点で、のっぴきならない事情が察せられようものだ。
「……う?」
その裏事情に想いを巡らせている間に、治療も一段落したようだ。先程よりは幾分力の籠もった苦悶の呻き声を上げ、額に大粒の脂汗を滲ませたエイカさんが瞼を開く。
「良かった。無事だったんすね」
「エイカ、さん?」
安堵の息をほっと吐く。その最中にも、容態を診続けていたピアが何かを訝るような、震える声で不安気にその瞳を覗き込もうとする。対してエイカさんは状況がよく判っていないのか、焦点の定まらない瞳を夢遊病者の如く彷徨わせていた。
「―――」
「……初代様、これは」
幽かな異常の気配にいち早く反応を見せたのは、俺と同じく遠巻きにそれを眺めていた白さん。無造作に進み出てピアと面する形で跪き、災害救助にかかる救急隊員を彷彿とさせる、手慣れた手付きで身体の各部分の診断に取り掛かる。
ややあって、一言。
「朧の実成分の過剰摂取にかかる中毒症状、かな」
「あぁっ……」
上がる悲嘆の声からは、手の届かない悲劇を目の当たりにするかな確信。目に見える程に具現化された火精、そして人体に宿る僅かばかりな水精を介した治療行為の手を止めて、両の掌を覆う隙間よりは大粒の涙を零し落とす。そんなピアを見上げる顔は、変わらず焦点の定まらないぼんやりとしたものだった。
「白さん。朧の実、っていうのは?」
「ん、ライタは知る筈もないか。我等妖精族が遥かなる地より渡ってきた際に持参した、治療補助薬のようなものさ」
曰く、神の奇跡たる神職魔法による回復とは違い、精霊の働きかけによって治療効果促進を促す回復のみでは齎す癒しに限界がある。その補助として使われていたのが、朧の実だという。
強烈な滋養強壮効果に鎮痛鎮静といった特効薬的役割をも果たし、かつては身体的に華奢な妖精族の生命線ともなったと言われる朧の実。妖精族がこの地に根を張ってより数百年の時が流れ、代々の研鑽により精霊魔法としての回復効果も相応に発達した結果、その役目を終えつつあった。
元の故郷より共に移り住んだ名残として、栽培をされていた朧の実。徐々にそれが精霊魔法効果のみに移行していった治療環境の背景としては、危険なまでのその副作用にあった。
「その効果としては、強い陶酔作用により、酩酊にも似た恒常的な朦朧状態へと陥ってしまうこと」
強靭な意志をも朧と薄れさせ、ともすれば夢の彼方へと追いやってしまうが故に付けられた名称が、朧の実。
元は原液を数倍に薄めた上でかつ、適量を見極めるのが難しく、当時の我等でさえまともに扱えたのは一部の薬師のみ。そう続ける白さんを力無く見上げる蕩けた眼は、とてもその会話内容を理解している様には見えなかった。
恐らくガードフェアリー達が構えていた武器には、朧の汁がたっぷりと塗られていた。そしてエイカさんによる喪神の秘技、だったか。それが発動すると引き換えに、穂先に塗られていた朧の成分が体内へと染み込んでいき―――
「そうだ!毒、解毒の魔法をかけれ、ば……」
一縷の望みをかけて発した言葉はしかし、とある出来事を想起させ、途切れてしまう。そんな俺を見る白さんの視線はやはり、痛ましくも沈みがちで。
『アルコールによる二日酔いって、解毒系の回復魔法でどうにか出来たりしないのかな?卓ゲーRPGなんかじゃよくそんな設定を聞いたんだけどな』
『そんなのがあるなら今直ぐかけてぇ!』
想い起されるは、遥か夏の日の記憶。本人の名誉の為に詳細は伏せるが、あの時は二日酔いに苦しむ扶祢が無理に解毒をお願いして、結果数日をうら若き乙女としては恥辱の限りな状態に陥ってしまったという、懐かしくも他愛の無い出来事だ。
『ほらネ?二日酔いもなるべくしてなった、身体の調整機能ってヤツなんダヨ』
『ありゃあ、暫く戻っちゃ来れねぇな……』
二日酔い。それは即ち、今のエイカさんにも通ずる強い酩酊状態。あの魔法脳なサリナさんでさえ挫折した、ひとたび酩酊状態となってしまった身体機能へと無理に割り込む行為は、その後どういった妙な作用を引き起こすかも分からない。
ましてや今のエイカさんは、麻薬中毒にも似た状態だ。だからこそ、それを聞いたピアは即座に治療行為を中止せざるを得なくなり、白さんでさえ迂闊には手を出せないのだろう。
「このままでは、エイカさんは……」
「覚悟は、しておくべきだろうね」
ぎり、と噛み締める音がする。強く握ったその拳に、最早感覚らしい感覚は残っておらず。ただ、その中に僅かな熱さが残るばかり。
過去と現在、それぞれを担う巫女達の物言い。それが意味するところは―――
―――わたくし、無貌の大神官。●ノ●●●●タと申します―――
不意にこの身へと襲い来る、強烈な悪寒と共に。目の前で仰向けに意識を彷徨わせるエイカさんと、あってはならない筈の、あの深淵の先で頽れていた傷だらけのエイカさんの虚像が、今ここに重なり合う。
視界は全て昏く染まって、総身より噴き出す冷たい汗。今やその殆どが金一色に変質した髪といい、身体を虫食むそれといい、その症状に少しばかりの差異こそあれど、状況としてはほぼ同じ。
あの時に目の前で頽れるエイカさんを見て、あいつが取った行動。それにより、訪れてしまった結末は。
この、俺に。果たして、あのような真似が出来るだろうか。そんな覚悟――否、狂気に身を任せるのが、本当に今ここで為すべき事なのだろうか。
「……ライタ?」
「白さん。もしもの時の後始末は、宜しくたのんます」
怪訝に覗き込んでくる白さんへ、そう答えた声は間違いなく震えていて。俺の顔を覗き込んだ白さんは、無謀な一歩を踏み出そうとするこのちっぽけな意志に、何を見るだろう。
別に、自問への答えが出た訳ではない。けれど、深淵の昏きより這い上がってくる絶望感のその傍らで。ある種の確信もまた、膨らんでいたんだ。
このままでは、エイカさんは廃人となってしまう。話に聞いた朧の実による中毒症状とはそれ程までに強く、危険なものだ。だから、やるのであれば症状が進行しきって脳を冒してしまう、その以前である今。
「願わくば、自棄にだけは、ならないよう――」
「へへっ。そのアドバイス、有り難く頂戴いたしますってね」
いつも通りに軽薄な返しをしようとするも、歯はカチカチと打ち震え、心を吹き晒す寒気に知らず目端がじんわりと滲んでくる。
今や忍ぶ事さえやめたかのように、目の前へと歩み寄る、喪失の実感。いやだ、こわい……もう、逃げ出したい。
けれど、どうしてだろうか。そんな心の弱きと反して、この足は一歩また一歩と、倒れ臥す女の許へと歩を進めていく。
(無貌。もしかして、お前が操っているのか……?)
それが、この身体の為すべき事、だっていうのか……?
もはや思考は支離滅裂。目を背けたくとも、あの悪夢の情景がどうしても頭から離れずに。その一方で、夢の中で見たあの光景に、どうしようもなく心惹かれてしまうんだ。
《――ワタシハ、何モ求メナイ。オ前ハドウ、シタインダ?》
所詮は仮初たるこの身。そう、思っていた。
帰ってくる筈の無かった声は、しかしあっさりと俺の呼びかけに応え、心の裡へと囁きかけてきた。きてくれた。
気付けば、震えは止まっていて。眼下には朦朧とした状態ながらも何かを探し求めるかのように、視線を彷徨わせるエイカさんの肢体。
何を探しているのかは分からない。だが、何かを見つけようとする心を持ち得る程には、この人にも誰かしらとの繋がりが、ある。それを識ってしまった時点で、俺が取る行動はもう、決まっていたのかもしれない。
「心の、裡へと、器を象り――」
「頼太、さん?いったい、何を……」
暗示の如くぼそりと呟き、エイカさんの柔らかな胸元へと掌を当て沈めていく。
そんな俺の挙動を目の当たりにして戸惑いに声上げるピアを押し留め、首を振って諭すのは、白さん。その際に顔を不安と憤りに歪めたピアが何かを口にした気がするが、こんな時にまで外の雑音へと耳を傾けられるほど俺は器用じゃあ、ない。
「扉を、開いて……違う。扉を、引いて、招き……入れる?」
なにぶん、この手法は無貌が垣間見た、どこかの悪夢の覗き見だ。あの時にあいつが施した、神秘の儀式を見よう見真似で再現するなどという大それた真似事は、土台無茶な話だったのかもしれない。
《――ワタシハ別ニ。期待ナド、シテハイナカッタ》
だのに。いつの間にか、どこからか手取り足取りで教える誰かに、支えられている錯覚を感じ。
「その身を、虫食む、全ての澱を。我が、器へ、飲み干さん」
拙いながらも言祝ぎ捧げて。そして誘われるままに、祈りの儀式は完成した。
「仮初たるこの身ながら、ここに魅せ、奉じよう。我が名は無貌の大神官――」
その際に名乗ったのは、誰の名前だったか。はっきりとは、覚えていない。
だからこそ、だろうか。最後の最後にケチがついてしまった儀式の祈りは、当然のごとく失敗に終わった。
―――ドクンッ!
「う、ぉ……?」
「頼太さんっ!?」
まず自覚をしたのは、受け入れ難い巨大な何かを強引に詰め込んだかな、圧迫感。開かれた筈の鯉口は錆び付いたたまに半端に止まり、器へと招き入れた中毒症状は精々が半ば程度。
しかし、だからこそ―――
「よくやった、ライタッ!」
耳に心地良い高ら声。弾む調子に白き光がまばゆく応え、腕引かれたピアと共に更に二つ程の掌がエイカさんの胸元へと沈み込む。
《――ダカラコソ、命拾イヲシタナ》
何故だか嬉しげな声を聞きながら、ぐるんぐるんと回る視界に、三半規管が音を上げてしまう。堪らず倒れ込んでしまった横向きの視界の中では、何かを察したかに真剣な表情を見せるピアが白さんと共に治療行為を再開し始める。
その一方で俺はと言えば、これもまた確信と言えよう安堵感と共に、刻一刻と歪んでいく世界を見ながらにエイカさんの無事を知る。あぁ、良かった。本当に、良かった。
「あ、で……でぼ、いばのおで。やばくだい?」
目下の問題としては、そこだと思う。
あれだけ廃人だなんだとの脅されて、その上で辛うじての覚悟を決めて臨んだ結果の出来事だ。そりゃあ最悪の事態をも考えてはいたけれど、どうにか生存フラグが立ってしまえば、やっぱり我が身可愛さの欲が出ると言いますかっ。
「なぁに。あれだけの無茶をやり続けて、仮初の殻に移されてもなお我を保ち続けるしぶとい君だ。その程度の中毒症状で、忽ちの内にどうにかなるという事はあるまいさ」
「頼太さん、ごめんなさいっ!エイカさんが落ち着いたら、すぐにでも頼太さんの治療にも取り掛かりますのでっ!」
返される口調としては対照的ながら、言っている中身としてはKIAIでどうにか耐えてくれといった無茶振りが二名分。あんまりじゃないっすか!?
「ピィ、ピピッ?」
そんな中、案じている風ながらそう心配していないようでもある声に合わせ、肩口につんつくと突かれる柔らかい感触。どうにかその発生源へと目線を移してみれば、普段は真っ先にパニックを起こして騒ぎ出すであろう、ピピの愛らしい顔。何やら手元に持った木の板へと白墨を走らせている様子。
「あ"ぁ、だんだ……?」
『無形の鎧。纏えば頭、すっきりする?』
「へ……?」
駄目元でやってみた、あっさり解決しやがった。
「何なんですかよ、このオチは!?」
「いやはや。ライタらしいというか、何というか」
「ピキー!キャッキャー」
とはいえこの中毒症状は、身体の側に深く根差してしまった重篤なものだ。エイカさんの症状が安定するまでの暫しを無形の鎧に身を包んだ俺は、長老衆より向けられる厳しい視線に肩身の狭い思いをしながら体育座りで過ごす羽目となったそうな。




