狐の十三 狐耳達の異世界ツアーズ②
シズカの故郷である地球。静や瑠璃が生まれ育ったそれとは皮一枚の裏側に存在する、似て非なる世界だ。
ひとたび境界線を越えればそこは異界といった認識で見れば成程、今現在に静達が滞在するこの世界は間違いなく異界の分類へと当てはめられよう。そして互いの鏡映しが辿った過去にも見られる通り、彼の世界とは僅かながらに歴史の差異が存在する。その代表的な例がこの世界の日本についての国名呼称か。
日本皇国――過去の大戦の折に僅かに生まれた選択肢の解れにより、君主権の表だった制限を免れた結果。それがこの世界に於ける日ノ本の呼称であり現状でもあった。
「とはいえ、じゃ。戦後間も無くこの世界を去った童ではあるが、その後に行われた組織の調査に相違が無くば大筋としては汝等の暮らす日ノ本とそう違わぬ歴史を辿り、今生の君が御世も概ね安寧としておった筈じゃがな」
「へぇぇ。この世界の話はシズカ、あまり話そうとしなかったから殆ど変わらないと思っていたけれど。こうして詳しく聞くと結構違う部分もあったのね」
「言うても人の子の歴史じゃでな。我等には然したる影響も――今の日ノ本の事情は少々異にするのじゃったか」
そう続けつつ、シズカは目線を傍らへと移す。そこには複雑そうな表情でシズカの話を聞く六郎と、そして横に座る静の膝の上がすっかりお気に入りとなった様子を見せる、獣妖の証である丸い耳を生やした子供の姿。
「この耳、狢かや」
「ええ。取り立てて特徴も無い、と言ってしまえば語弊がありますが。獣妖に多く見られる通り、この子も昨年までは山奥の穴倉で親子水入らずの暮らしをしておりました」
「その物言いからすれば、親御さんはもう?」
「……この子の両親とは獣妖繋がりという事で、ちょっとした縁故がありましてね」
「そう……」
「本性のままに暮らすには何かと不自由な街中ですから。幸い変化を修めた僕の施術でこうして仮の姿を取らせてはおりますが、未だ人型への不信感が根強い様です」
狢の子を抱きながら遠慮がちに問う静に、六郎は困った様にはにかみながらも頷きそう返す。その後は特にこれといった会話が交わされる事もなく、食後のひと時は静かに過ぎていく―――
「――まずは状況の把握からかしらね。聞いた感じ、このまま神宮に向かったところで碌な事が起こりそうにないもの」
「じゃな。六郎殿、何処ぞ拠点となり得る住処に心当たりはあらぬかや?本性を隠す必要もない場でもあれば尚のこと結構なのじゃが」
「皆様方の本性を知って尚、受け入れてくれる場所の心当たりと言いますと中々に……先程申し上げました通り、狐妖はみな御先の方々の側へと付いておりますので」
聞けばこの世界の日ノ本に於ける狐妖の位置付けは、完全なる御先の配下といったものらしい。本来の御先のお役目から真っ向反するこの日ノ本の現状を知り、瑠璃の表情が徐々に苛立ちを隠せぬものとなってしまう。過去に同じく御先の頂点に立ったシズカとしても同様の想いを抱えており……であればこそ猶更の事と言うべきか、努めて平坦な声色のままシズカは口にする。
「これは、出直すが良いやもしれぬな」
「シズカ……?」
「童としては静よ、汝のリハビリついでの軽い旅路なつもりじゃったがな。どうにも童のおらぬここ数十年で、この世界の動向は不穏な側へと傾き過ぎておる。これならば彼奴等の世界へ赴き、サリナを始めとする知己を頼るが余程無難じゃろ」
その言葉に静は何も言えず、哀しげな様子で俯いてしまう。
シズカの言いたい事は分かる。ここで無理を押した結果、静の身に何かがあってしまえばサキの事だ。この世界へと乗り込み神通力の使用を躊躇する事もなく、たとえ知己と同じ顔を持つ者相手であろうとそれに関わった者全てを滅ぼしかねない。だからこそ、自分の身を案じてくれたシズカの発言にただただ無言で俯き、無力感に肩を震わせる事しか出来なかったのだ。
そんな静へと悼ましさを滲ませた視線を送るシズカ個人としては、一度別れを告げたこの世界に対する未練など特にありはしない。だが仮にそうなってしまえば狭間の監視者組織に属する者の責任として、その禍事の発端となろうサキを討たねばならなくなる。シズカ自身の過去にも起きた、親しき者を自らの手にかける悲劇。その様な事態に陥る事だけは何があっても避けたかったのだ。
故にシズカは情を断ち切り六郎へと言葉をかける。力になれず、済まないと。しかし―――
「ハッ、冗談も大概にしなさいよ」
「何、じゃと?」
そこに待ったと物言いが入る。振り向き確認するまでもなく、その自信と自負に満ちた声は紛う事無き御先の頂点に立つ者としてのそれ。挑発的にも受け取れようその台詞に、久方ぶりな心の底からの苛立ちと共にシズカの内なる鬼気は漏れ出し、その柳眉が吊り上がってしまう。
されど対する瑠璃は冷めきった視線のままに向けられた鬼気混じりの強烈な霊気を平然と受け流し、特徴的な長い巻き髪を鬱陶しそうに跳ね上げながら言葉を続けた。
「何の為にこの私が、本来のお役目を外されてまでこうして遣いの真似事をやらされたと思っているのよ?そういった不穏な事態をも半ば想定されたサキさまのご懸念の賜でしょうが」
シズカのそれが冷たく刺し込む外連の刃だとすれば、対する瑠璃の有り様は眩いまでの正道の芯鉄。初めから諦観からの切り捨てを口にしよう同輩へ、義憤を隠さぬままに誇りを持てと叱咤する。
「サキさまは静だけじゃあない、アンタの置かれた不遇をも案じたからこそ、自ら決めた方針を投げ打ってまで一時的に私の代行として御先に復職し、私が自由に動ける様にしてくだすったのを忘れるな」
「……ふん、余計なお世話というものじゃ」
瑠璃の断言に弱々しく憎まれ口を叩きながらも、シズカはサキの言葉を振り返る。いつもと変わらぬ素振りながらに妙に印象に残る寂しさを醸しながら、出立を見送る側として出来た精一杯の想いの吐露を。
『虫の報せとでも言おうかね。どうにもアタシの直感の部分が警鐘を鳴らしてやまない気がするんだよ。もしこれがただのアタシの過ぎた心配だったなら、その時は後で笑い話にすれば良いだけだ。けどね……アタシはもう、出来た筈の対策をせずの後悔はしたくないんだよ』
師であり親代わりでもあったサキに不安気な顔でそう訴えられては天狐兄妹も何も言えず、そして自らも似た経験をしているシズカもまた、強硬な反対をするには至らなかった。結果としてこうして瑠璃が旅路に加わった事により、脇の護りに相当な厚みが出来たのも事実。
そんな思考へと至ったのを見透かしたかの如く、未だ踏ん切りがつかぬ様子のシズカへと、後押しの言葉が投げかけられた。
「アンタだってこの日ノ本の現状には思うところが多々あるでしょうに。それとも、この期に及んで泣き寝入りでもするつもり?」
「……言うてくれよる。ならば伴としての役目、存分に果たすまでこき使ってくれる故、覚悟せぇ!」
「ふふっ、やっとシズカらしさが戻ってきたね」
こうして為すべき事を見据えたシズカ達は揃って六郎の側へと向き直り、改めて自身の意向を伝える。
「六郎殿、済まなんだ。先の不甲斐なき言葉、どうか戯言として聞き流して頂きたい」
「いえ、お二人のお話を聞き僕の側も覚悟が決まりました。この妖棲荘の空き部屋をお貸ししましょう」
「良いの?」
「えぇ、この子も静さんには随分と懐いているみたいですから。どうか、可愛がってあげてください」
「ねぇちゃ!」
そう言った六郎が手を放すや否や、狢の子は再び静の胸元へと飛び込んでいく。まだ人型と化して一年にも満たないが故か言葉足らずながら、その幼い手足を目一杯に伸ばして甘える姿についつい一同の目尻が下がってしまう。
「っと、いけないいけない。それじゃあ私は早速、肉体派担当らしく外回りでもしてくるわ」
「あ、あの瑠璃さま!少々お待ちくださ――」
「さま付けなんか要らないわよ。出来れば向こうの六郎と同じく、物言いももっと砕けた感じに言ってもらえると嬉しいわね!」
何かを言おうとした六郎に皆まで言わせず、瑠璃は気取った素振りでステップを踏む。その一挙動の間に耳と尾を仕舞った瑠璃は見慣れたドレス姿への変貌を果たし、日傘を片手に弾んだ調子を口ずさみながら妖棲荘を後にしてしまった。
「……情報だけでしたら、ある程度は奥のデータベースから引き出せたんですが」
「ククッ。あやつ、お役目より大っぴらに抜け出せた解放感で心躍らせておるのぉ。何だかんだで母上は、あやつの事も気に掛けておるのじゃ」
「でも、どうやって調査するつもりなんだろうね?狐妖の本性を隠していたら調べられるものも調べられないと思うんだけど」
「ふむ。しょぼくれた顔で帰ってきた時にどう揶揄ってやるか、楽しみじゃな」
当然の事ながら、その夜遅くにただの一つも情報を仕入れる事が出来ず途方に暮れた様子で帰ってきた瑠璃へ昼間のお返しとばかりにシズカが揶揄い始め、ある意味予想の出来ていた修羅場が始まったのは言うに及ばぬ話であろう。
「天狐の位階にまで上り詰めた方々というのは、もう少し落ち着いているものとばかり思っていましたが……思ったよりも普通なんですね」
「あの子達は数少ない、対等に接する事の出来る悪友関係みたいなものだからね。ほら、二人ともどっちかと言えば現場タイプだし」
「はぁ、そんなものですか」
「かぁ~」
「むふふ。むーちゃん可愛い」
一方では母性全開となった静がこれまた狢の子供を愛おしそうに抱きしめており、それを目にした六郎はと言えば一人、事なかれ主義を前面に押し出した微妙な笑顔を零していたそうな。
その後数日をかけて判明したこの世界の近況を基に、シズカ達は今後の計画を練り始める。
こちらの世界の六郎はシズカ達もよく知る彼と同じく、妖怪変化達とのネットワークまでは構築をしていた。しかし彼我のサキ、延いては御先の立ち位置の差異などの影響か、互助組織を形成するまでには至らなかったようだ。
「だからね。実際の顔合わせの機会を作っていって尚且つ、向こうの妖棲荘みたいにそういったモノ達の集まれる場所があれば良いんじゃないかなと思うんだ」
「ふぅむ、つまりは草の根運動の類かや」
「ですが御先の方々に目を付けられませんでしょうか?これまでも似た様な話が出た事こそありましたが、皆御先の方々とそれに対抗して作られた近代陰陽師の警戒組織を恐れ、ただの一人もそれを実行する事が出来なかったのですよね」
あるいは既に何処かで似た組織が存在するのでは、とも見込まれた静の提案。ではあるが、名の通った有力な存在には御先か陰陽師のどちらかが既に接触を終えており、囲い込まれているか排除をされてしまっている現状のようだ。
「向こうではサキさまが大神さまと組んでいたのもあって、この界隈は平和そのものだったものねぇ。その辺りの勢力図はあまり気にした事も無いけれど、言われてみればそういった懸念があるのは当然か……六郎って狸よね。狸の有名どころとの繋ぎなんて付けられないものかしら?」
「僕は狸の中ではまだまだ若輩ですからね。こちらは名を知っていても親分肌の方々とはあまり接点もありませんでしたから、残念ながら」
「――若輩、のぉ?」
六郎の返しに意味ありげな目を向け、シズカは一人口の端を吊り上げる。その視線からはまるで全てを見透かしておるぞとでも言わんばかりの意図を感じ、しかし六郎は素知らぬ顔でそっぽを向きそれに取り合う気はないらしい。
「ま、良かろ。今現在に妖怪変化共との縁故が無くば、新たに創り上げれば良いだけじゃ。あるいは隠れた兵の協力を得られるやもしれぬでな。童と瑠璃は外回りをしてくるが故、そちらは任せるぞよ」
「おっけー、任せときー」
斯くしてシズカ達異界の狐妖三人はこの日ノ本の妖棲荘に仮の居を構え、とある計画を立てそれを実行に移す事となる。
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「嗚呼、この身に流れる混ざりモノの血が憎いっ!人と妖の狭間に望まれぬ生を受け、しかしながら双方より忌み嫌われ続けた我が半生。よしんば手を差し伸べられたとて、その裏には私の事情につけ込み利用せんとする思惑ばかり。このわたしは……誰が為に生まれてきたというのかっ!?」
「――え。何これ」
街の共同広場に設置された簡素な舞台の上には、人前だというのにも関わらず本性を晒し熱の篭った独白の演技を披露する静の姿。そんな舞台の脇では天狐の象徴たる巨大な四尾こそ隠しはしたものの、これまた狐耳と死んだ魚の如き目の色を晒しつつお揃いのメイドドレスに身を包み寸劇進行補助役に従事していた片割れが、ふと我に返った様子で呆けた呟きを零してしまう。
「これ、正気に戻るのは劇が終わった後にせぇ。まずはお客様へ愛想を振りまくのじゃ。せーの……『皆さま、本日は薄野探偵事務所、青空演劇部へお越しくださりありがとですコンッ♪』」
「……まじ?」
「真剣と書いてマジと読むのじゃ。さぁ、瑠璃よ。観客共の期待を裏切っては御先の名折れぞ、はりーはりー」
「……ありがとです、こんっ★」
絶望的な心境とも言えよう中で納得がいかぬまでも為すべき事だけは成し、どうにかそれだけを口にした後にステージ上へと崩れ落ちてしまう瑠璃。それも演出の一つと見たか、直後主に大きなお友達とでも言おう表現が似合う鼻息荒い若者達からの拍手喝采などを浴びてしまう。
五月蝿い、お前達の為にやったんじゃない、勝手に被写体にするな。差し詰め今の瑠璃の心中はそんな遣る瀬無さに満ち満ちていることだろう。
「大体こんなののどこが御先に関係あるってのよ!?平日の昼間にこんなのやったところで、その手の濃ゆい半端連中か無駄に時間のあり余る専業主婦くらいしか来ないじゃないのっ!」
「むふふ、それで良いんだよ」
「くふっ、これで良いのじゃ」
「はぁ!?」
末妹と同じくこういった賑やかしの類が好きそうな静のみならず、普段の言動からはそれと正反対に位置しよう印象を受けるシズカでさえ、トドメのリップサービスとばかりに満面の笑みを浮かべ媚びを売りまくる。そんな混沌とした有様へと疑念を呈する瑠璃に対し、怪しげな笑みを浮かべるシズカ達はこれまた見事に息の合った様子で似た様な事を言い出した。
「最初に出た探偵事務所を開いて色々と調査を進めていく案もさ、地道に伝手を増やすという意味では有りだと思うんだけどねー。それだとまずは顧客を獲得していく所から始めないといけないから中々宣伝効果も薄いじゃない。だからまずはこうやって寸劇でも開いて、SNSを活用しそうな層による口コミを利用した方が早いんじゃないかなと思ったんだよ」
「うむうむ、流石は童の鏡映しよ。現代社会の特質を掴んだ、素晴らしく効率の良い案を捻り出したものじゃな」
「……呆れた。静は兎も角として、シズカ。アンタはこういうのだけはしないと思っていたのにね」
「はン、この程度の餌で大魚が狙えるんじゃ。旅先での一時の恥なんぞ、いっそ盛大にかき捨ててしまえば良いというものよ」
暗に若干の皮肉を込めて言ったつもりが涼しい顔で返されてしまう。その後も暫しの時を痛々しい萌え狐演技で過ごし、瑠璃のSAN値チェックが限界ぎりぎりを迎えた辺りでようやく悪夢な時間の幕引きとなった。
波が引いていく様に一人また一人と観客達が去り行く中、天狐にあるまじき痴態を晒してしまった自責の念により舞台裏でがっくりと床に手を付き自己嫌悪に苛まれる瑠璃の姿があったとさ。
「ご苦労様じゃ。いやしかしじゃな、羞恥心溢れながらも演技をやり通すその姿勢、天晴というものよ。くふふっ」
「瑠璃の勇姿はばっちりデジカメに収めといたから大丈夫。向こうに戻ったら霞草さんにも見てもらおっ♪」
「そんな事してみなさい、この私手ずからアンタを冥府に送り届けてやるわよおっ!」
駄目押しとばかりに脅迫紛いの悍ましき事実を語られ、その場で有言実行をしかねない反応を返す瑠璃から巻き起こった霊気の暴風により舞台裏の大半が吹き飛んでしまったりと、舞台の賃貸料とは別に少なくない額の弁償をさせられる羽目となってしまったのはご愛敬。この様にして異界の日ノ本に於ける、シズカ達の活動初日は幕を閉じたのであった。
時を少しばかり遡り、未だ若干名の熱心な観客達が娘三人を激写していたその頃のこと。並の人間の目では見る事叶わぬ高台より、一人の男が舞台を見下ろしていた。
「――あれは、まさか」
その片眼は痛々しい創により塞がれ、残る眼で悼ましさと怒りの感情の綯交ぜとなった視線を送り続ける。
あの娘達の頭より生える狐の象徴が紛い物などではない事は、見る者が見れば一目瞭然というものだ。あれらは間違いなく狐妖の出と言えよう。しかし、この日ノ本に存在する狐妖達は極一部の例外を除き、須らく御先の手の者となっている。
故に妖怪変化達の勢力図を知る者にとって、今の御先の指針に真っ向から反する様な浮ついたその情景は異常に映ってしまう。それこそが娘達によるこの催しを開いた意図の一つであり、またそれを見守る男としても一連の成り行きの不審さに眉を顰めるべき場面ではあった。
だが男の目には過去には間違いなく存在した、しかし今は居よう筈もない者ただ一人の姿のみが映っていた――否、それ以外が目に入らぬ程の衝撃を受けてしまっていたのだ。
隻眼の男は暫しの間、厳しい目付きを広場へと向け続ける。やがてその貌より一切の表情を捨て去った後、男は音もなく夕闇の中へと紛れていった。




