第157話 深海市秋の収穫祭②-裕香の憂鬱-
―――ねえ、あそぼ!
それはあの子という在りし日の幻想と出逢った、最初の記憶。
あたしがこの道を進むきっかけとなった、儚き思い出だ。
あの日、あたしは親戚の家に遊びにきていた。
今でこそそこそこの数のショッピングモールやアウトレットなどが立ち並ぶこの深海市だけれど、当時のこの深海市近郊の印象は良く言えば自然に満ち溢れた地方都市、裏を返した言い方をすればまぁ、山と川しか無いド田舎だった。でも子供心ながらに、目の前に広がる圧倒的な自然というものに感銘を受けてしまったのだろう。その日はいつになく興奮して野山を駆け巡り、気付けば山の中に迷い込んでいた。
「あぅぅ、ここどこ?はやとぉ……」
今思い返せばまだまだ陽も高く、焦るような時間では無かったと思う。けれどいつも一緒に居た弟ともはぐれ、当時は随分と怖がりだったあたしが見た情景は、薄暗く、不気味さ広がる山の木々。弟達の下に戻る事も叶わず、このまま山の中で朽ち果ててしまうのかと恐怖したものだ。迷い込んだ山の中でどうにか歩いていけそうな場所を辿って、偶然にも森を抜けた先の広場で蹲り、あたしは暫く泣いていた。
「ふぇぇ、ぐすっ……」
「どしたの?」
「きゃあっ!?」
―――ごちん。
「あいたっ」
「ふぎゃっ」
そこに何の脈絡も無く唐突に声をかけられて思わず跳び上がり――結果互いに頭突きをし合う形になってしまい、お互い暫くの間、その痛みに野原をごろごろとのたうち回っていた覚えがある。
「うぅ、いきなりのへっどばっとははんそくだとおもいます……」
「ご、ごめんなさい」
涙目でおでこを抑えながらそんな事を言って来るその子の第一印象は、現在の認識で言えばモフい、だったか。
顔は子供ながらにくっきりとした目鼻立ちで整った可愛い造形をしていたし、その小さい背丈に合った子供用の着物を自然に着こなした姿も相まって、世間一般で言う美少女に該当する愛らしい子だった。しかし何よりも印象的だったのは、その頭から伸びる二本の特徴的な長い耳と、その背からはみ出して見える多数の尻尾。
「……きつねさん?」
初めて出会う、現実とかけ離れた不思議な存在を目の当たりにして首を傾げ尋ねるあたしに対し、その子はと言えばやたら慌てていたっけ。そりゃそうだ。今だから言えるけど、現代日本でそんなモノに出くわしたりしたら間違いなく大騒ぎになってマスコミが殺到したり、最悪山狩りなんて事態にならないとも限らない。それ程に目の前に居る子は現実としては有り得ない存在で。でもその頃のまだ純粋だったあたしは、素直にそんなモノも居るんだなぁなどと受け止めてしまっていた。
「えっとえっと、ちょっとまってて!いましまうからっ!」
その子はそんな事を言ってうんしょうんしょと耳を抑え、尻尾をぷるぷると震わせる。そして数分程が経った後には先程までの狐耳と尻尾が消え去り、何かをやり遂げた様子で充実感満ち溢れる顔を見せるその子が立っていた。
「ふうっ、さっきのはきのせいということで!」
「………」
着物の袖で額の汗を拭う仕草を見せ、一仕事終えたぜとでも言わんばかりのそのドヤ顔。
これには当時の自分もないわー、と内心思ってしまったのは無理からぬ事だろう。なに、それで騙されろと?大体お尻の部分に空いている尻尾用のでっかい穴がそのままなんだけど……。
それを指摘したら、これまた慌てた様子で可愛らしいポーチから裁縫セットを取り出して手早く縫い付けていた。この齢で裁縫用具を使いこなす手際もそうだし、一つ一つの動作をとってみればてきぱきとしてるのだけれども、それさっきの姿に戻った時どうすんの?
「きつねさん、おもしろいね?」
「きつねじゃないですっ!おかあさんがぜったいにばれちゃだめだっでいっでだんでずっ!」
遂には半泣きになってしまったその子をつい良し良しと撫でてしまい、気付けば先程まで感じていたあたしの心細さはどこかに吹き飛んでしまっていた。
「だれにもいわないからだいじょぶだよ」
「ほんとっ!?」
何と言いますか。秘密を自分だけで独占する高揚感っていうのかな。その時のあたしはもうそんな気持ちで一杯で、あとその子の抜けっぷりにもちょっと絆されてしまっていたのだろう。
ちなみに、あたしの言葉であっさりと耳と尻尾を再び生やしたその子は、やっぱり縫い付けた尻尾の穴のお陰で色々詰まって四苦八苦していた。
それから互いに打ち解けるまでは早かった。秘密の共有という事もそうだし、今考えてみればその子も同年代の子供との接点というものが無かったんじゃないのかな。満面の笑みでこう言ってきたんだ。
「ねえ、あそぼ!ゆうがたになったらふもとまでおくってあげるからっ」
「うんっ!あたし、ゆうかっていうの。きつねさんのおなまえは?」
残念ながら、その時に聞いた名前だけは記憶に霞がかってしまって覚えてはいないのよね。これってやっぱり怪しげな術とかによる記憶の改竄ってやつ?
以来その子とはそれっきりだ。
あの時は結局暗くなるまでその子と遊び倒して、家に帰ったら親達が警察まで呼んでの大騒ぎになってたものね。それから何年間かは山に近付く事すら許されなかったし、結局その時の事は弟にも言わずに自分の心だけに仕舞っておいた。
―――ただ、最近思う事がある。
特に、まぁ……当時のその子の抜けっぷりと、今もあたしこと、来間裕香の眼の前で忘れちゃいけない類の事実をすっかり忘れているであろう様子で複数の尻尾をぶんぶんと振り続ける、オサキさまの巫女のコスプレをしてる「筈の」無駄乳女の姿が重なってしまうんだ。
(尻尾ぉぉぉ!お前こんな公衆の面前でリアルに尻尾振ってんじゃねーわよ!)
無駄乳女――つまり薄野のやつ、久々にステージに上がった高揚感からか、もしくは今回の狐コスを大っぴらに出来る事への喜びの現れかは知らないけど、耳も尻尾も動きまくりで……。
「……なぁ、姉貴。俺の目の錯覚じゃなかったらなんだけどな」
「錯覚だから言うな」
「いや、でも薄野のやつ」
「きっと手の込んだトリックだそう思えじゃなかったらまた女装させるわよ」
何か言いたげな勇斗をどうにか沈黙させ、あたしは薄野をステージ裏へと引きずり込む。
「うぇえ!?ちょっと裕香ちゃんいきなり何すんのさ?」
その非難の言葉にしかしあたしは無言のまま。どうにも自覚のなっていない薄野の尻尾を近くにあったモップを使ってべしべしと叩き、ついでにその狐耳を力いっぱい引っ張り上げる。
「いたぁっ!?」
当然ながらそんな悲鳴を上げる薄野、だがそんな苦情など聞いてやるものか。あたしはそれを冷めた目で睨み付けながら可能な限り平坦な声で口にした。
「……痛い?」
「あ!?いい痛くない痛くなんかないです!」
「自覚出来たらさっさとステージに戻れッ!!」
「はひッ!……あれ?」
表に戻る途中もあれ?……あれ?といった様子で何度かあたしの方を振り返りながらステージへと復帰する薄野。そんな今のあいつに一つ、声を大にして言いたい事がある。
「幻想か現実かどっちかにしろ、この駄狐!」
全く……今日程はっきりと確信してしまった訳では無かったけれど、あの安本丹の素性についてはまぁ、薄々と感じていた部分はあった。そりゃ毎回の様に狐コスばかりされてちゃね、当時の記憶に残るあの子と見た目もそっくりではあったし、「初対面」の頃からそうなんじゃないかなーとは思っていたのよ。
でも、折角再会出来たであろうあの子にそれを聞く勇気は……どうしても持てなかった。昔話にもあるように、それを話した途端に霞の如く居なかったことになってしまったらどうしよう、そんな恐怖にずっと苛まれていたんだ。結局高校の卒業と同時にあいつが一度あたし達の前から姿を消すその時までずっと、ね……。
あいつがあたしの前から去っていったと知ったその晩は、結局話を切り出せなかった後悔に、もう二度と逢う事は無いのだろうと大声を上げて泣いてしまった。だからこそこの前の夏にはそれを吹っ切る為に大々的にイベントを予定していたってのに、その直前になって弟の勇斗が街で薄野にひょっこりと遭遇したという。
当然の事ながら、その時は見間違いだろうと一笑に付さんとした。しかし以前の黒歴史コンテストの件に触れられた上に、身体の一部分と同じくあの無駄に豊富な運動神経を駆使して街中追いかけ回してきた挙句、しまいには薄野の縁者らしき人にどつき倒されていたなんて抜けた話を聞かされてしまえば、もう疑う余地などこれっぽっちも無くなってしまう。ふざけるな、あの時流したあたしの涙を返せ!
そして今日だって、こちらからアクションを起こす以前にこの様に勝手に自爆して物理的に尻尾を見せてくれる始末。ほんっとうに!あいつは!ガードが甘すぎるんだっ!
「はぁ~、なんで無関係のあたしがこんな余計な苦労を背負い込まなければいけないんだか。アホらし……」
「うむ、まっこと哀れじゃな。とはいえそれは、我等にとっては有難い事でもあるのじゃが」
「!?」
いきなり背中にかけられた声に思わず飛び上がってしまった。まずい、今のを聞かれてたか!?
反射的に迅速かつ秘密裏に処理をするべく、背後へとモップを突き出しながらの体当たり仕掛ける。しかし不意を打ったつもりのそれはあっさりと返された上、気付けばいつの間にか仰向けに転がされていた。
「ごほっ!?」
「うーむ。汝、まるで頼太みたいな奴じゃのぉ。即断即決で思い切りが良すぎるわ」
本格的に何かを習った訳ではないけれど、それでも薄野とのじゃれ合いで押し切られない程度にはモップ捌きにも自信があったのに。素手で、しかもこんな中学生とも思える程に小さな…子に……。
「って薄野!?」
「――ま、汝から見ればこの顔はそうとしか見えぬよな」
あたしの驚愕の叫びに、その、昔出逢ったあの子と瓜二つの顔をした、狐耳と尻尾を生やした少女はニンマリとした顔を見せ付けてきた。
「え、え!?もしかして、アンタがあの時のあの子なの!?」
「む?……あー、残念ながら、汝の儚き思い出である幼子は紛うこと無きアレの方じゃな」
あたしの問いに何故か憐れみまで込められた視線を伴い、そんな言葉で返す少女。それにしても、悔しいけどやっぱり子供時代の薄野は可愛いな。余計なモノもまだ付いていないし。
「それならアンタは一体何なの?もしかしてあいつに憑いている先祖とかそういう……オサキさま?」
「ふむ。やはり類は友を呼ぶというやつかのぉ。見事に彼奴等と似て想像力に溢れる思考パターンじゃ」
よく分からんけどとんでもなく失礼な事を言われた気がする。別にファンタジィ脳のつもりはないんだけど……。
「そこについても同様に、扶祢の親友であろう汝には少しばかり説明をしておくとするかや」
「いやあいつとは別に親友なんかじゃないからね?あまりにも危なっかしいからどうにも目が離せないだけで」
「これまた見事なツンプレイじゃな。それを世間一般では世話好きの友人と呼ぶのじゃがな」
「……チッ」
その指摘につい言葉に詰まってしまった。せめてもの抵抗として舌打ちで返すものの、対する少女はそんなあたしの態度を気にした風も無く楽しそうに目を細めながら笑っていた。
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「――つまりアンタはあいつの姉で、オサキさまも別に実在するという事?」
「じゃな。済まぬが母上へ報告書を上げてよりの汝の行動は逐一把握させてもらった故な、これはその詫びとアレへのフォローに対する報いを兼ねての情報開示というやつじゃ」
成程、その気になればあたし個人なんかすぐにでもどうにか出来るぞという警告も兼ねているという事か。この辺りの抜け目なさは確かにあいつとは似て非なる別人なのね。
「まぁ、薄野が本当にあの時のあの子だと言うのなら。世間に知れると大騒ぎになっちゃうし、あたしも困るから良いけどね」
「話が早くて何よりじゃな。素直な子は、お姉さん好感が持てるぞよ」
こうしてあたしは紆余曲折という程でもないが、偶然が重なり非現実的極まる現実の一端を知る事となってしまった。それにしても、薄野がオサキさまの娘、かぁ。
「……あれ、という事はもしかしてあの運営本部に居た薄野のお姉さんって」
「母上、じゃな。あれで齢の程は軽く四桁はいっておるわ」
マジか。正直薄野の素性なんかよりそっちの方が驚きだった。まだ齢若いあたしだけれど、だからこそこの際不老長寿の秘薬探しでもしてみようかなんて思ってしまう程に羨ましい限りの話だ。
「姉貴ィ、薄野だけこっちに追い出して何やってんだ?そろそろ次の催しに移行しないと間がもたないぞー」
「おっと、つい長話をしてしまったようじゃな。我が名はシズカと言う、もし詳細を知りたくなったならば御山の中腹にある薄野山荘へ行き童の名を出せば話が通るようにしておくでな。いつでも尋ねに来るが良い」
そう言って薄野のお姉さんは一飛びで舞台裏の天井へと姿を消した。あの人間離れした脚力、やっぱり妖怪変化といった存在なんだなー。
「ごめん、待たせたっ!」
「今回は姉貴が主催者なんだからしっかりしろっての。ほら薄野もなんか落ち着かないみたいだし、俺は向こうに行ってるから気の利いた言葉の一つでもかけてやれよ」
勇斗のやつ、そんな生意気な事を言って観客達とのトークで間を繋ぎにいきやがった。あいつ、実は昔からあたしと同じく気付いてたのかな?シズカさんと言ったか、あの人の許可が得られたら勇斗にもちょっとだけ秘密を教えてやっても良いかもね。
そしてあたしはこの場に残るそわそわとした様子の薄野へと視線を移す。
「あの……裕香ちゃん?さっきの事なんだけど……」
「………」
「いひゃいいひゃい!?――ぷはっ、何するのよぅ……」
うん、今度は耳も尻尾も動かさないよう気を付けてるみたいね。
「ンなどうでも良い事は後回し。アンタの相方が減らしてくれた観客増員用のファンサービスの準備は出来てる?」
「え。あ、うん。それは出来てるけど」
「良し。それじゃあ午後のメインイベント、精々気張って貰うよっ。『狐姫』さま!」
では、そろそろあたしもこいつのライバル役として、慣れない巫女コスでも楽しむとしましょうか!
イベントの佳境も過ぎた頃、一息吐いたところで同じく袖幕で一休みをする薄野を発見する。辺りに人影は……うん、居ないわね。
「そういえば、さっきの舞台裏の話だけど」
「ふぇっ!?……う、うん」
「シズカさんだっけ?アンタのお姉さんが来てたわよ。全てお見通しだから帰ったら母上に報告じゃ、ってさ」
「――げぇっ!?」
ふふん、今回はその慌て顔で許してやる。帰ったら精々説教でもされて自分の抜けっぷりを反省するが良いわっ!




