閑話⑪ 裏郷に出づる者:後編
「サキ様、モルトさん、お帰りなさいませ」
「あぁただいま。異常は無かったかい?」
翌日の昼過ぎになって裏郷に帰り、長の顔に戻ったサキが配下の霊狐へと問う。それは何時も通りの確認の言葉であったが、対し配下の霊狐は浮かぬ表情で返す。
「……まさか何かあったのかい?」
「まだ重大な事態という訳ではないそうなのですが、その……魔魅穴が再び開きました」
「っ!それは本当か!?」
その言葉に目を瞠り、報告をする霊狐の両肩を掴んで聞き直すモルト。つい大声を上げてしまったのは喜びか、それとも焦燥によるものか。
「ひゃうっ!?あああああのっ、仙狐の方々はモルトさんが居るせいだって言ってますけど!わたし達、そんな事思っていませんから!」
「――チッ。霞の懸念していた通りの事態が起きちまったか。まずいねこりゃ」
「あ、後ですね!今回は魑魅魍魎はまだ現れていないみたいなんですが、時折魔魅穴の向こう側からモルトさんを呼ぶ人の声が聞こえてくるんだそうです!現場に霞草様がおられますので詳細はそちらでお願いしますぅぅ……」
「何だって!?」
再び叫ぶモルトに身体を揺すられ顔を紅くするやら蒼くするやらと忙しい霊狐ではあったが、目を回しながらもどうにか伝えるべき事を伝え這う這うの体で下がっていった。残された二人は報告のあった魔魅穴の開く拝殿前へと駆け付ける。
「霞っ、魔魅穴が開いたって?」
「お帰りなさいませ、昨夜はお楽しみだったようですな」
「……こっ、こんな時にそんな下らない事言ってないでさっさと報告しなっ!魑魅魍魎共の状況は!?」
出合い頭の御挨拶を受け思わず赤面しながら怒鳴り返してしまうサキ。
対する霞草はと言えば落ち着いたもので相変わらず張り倒してしまいたくなるような生暖かい笑顔をサキに向けていたが、コホンと一息入れてから報告を始める。
「まず結論から言えば。一年前の出来事より今日の状況は十分に予測されていましたが故、既に結界を施しておるので魑魅魍魎共が入り込む余地など有りませぬよ。現状としては魔魅穴を通し時折聞こえてくる声への対応をどのようにするか位でしょうか」
霞草の報告に思わずほっと息を吐くサキとモルト。その何処か似た者同士な反応にくすりと笑い、直後揃って睨み付けてくる二人に気付き慌てて続きを語る。
「ただし、どうもこちらの声を悪魔の誘いと勘違いしている節がありましてな。何を言おうと無しの礫。交渉を試みようにもどうにもならぬ現状ですな……ほれ、噂をすればこの通り」
《――モルト、モルト!聞こえたら返事をしてっ!悪魔なんかの誘いに負けちゃダメっ》
「……ほーぅ?」
魔魅穴より聞こえてくる若い娘の声に、ついドスの利いた底冷えのする声を上げてしまう自分を自覚しながら半眼で隣を睨み付ける。そんなサキの凍り付くような視線の先には、蛇に睨まれた蛙の如く脂汗をだらだらと流すモルトの姿があった。
「可愛い声じゃあないか。お前、こんな子が居といてアタシを口説いてたって訳かい?下半身だけは一丁前に成熟し切ってるんだねェ」
「い、いやちょっと落ち着こうか?これには魔の領域の位置すると言われる深淵よりも深い訳があったのかもしれなくてだな」
「へェ~?それじゃあ天に属するアタシにゃ高度差が有り過ぎてその話は届かないかもしれないねェ?」
《――モルト!?そこに居るのね!無事で良かったぁ……》
そんな裏郷の側で始まりかけた修羅場を他所に魔魅穴よりの声は一時の喜びに満ち、しかしその後にしゃくり上げるようなすすり泣きが聞こえてきた。
《モルト、ごめんね。何とか声だけは届くみたいだけど、こちら側からは完全に門が閉じちゃっててどうにもならないの……この門も今にも消失しそうなのを戻ってきた皆でどうにかもたせている状態で、いつまでここに残っているか……》
一方声をかけられたモルトはと言えばおっかなびっくりといった表現が似合う素振りで恐る恐るサキの顔を窺い――無言で顎をしゃくり上げる仕草を受け口を開く。
「待て、ミランダ。戻ってきた……って、どういう事だ?」
《――え?そのままの意味よ。モルトの脱出魔法で魔国の外に飛ばされたけれど、あなたの事を見捨てられる訳が無いわ。十日程をかけてどうにかここまで戻って来て……でも、もうこちらからではどうにもならないのだけれど……ぐすっ》
《この馬鹿モルト!お前はいつも一人で何でも抱え込み過ぎなんだよっ!魔軍将との戦いで人一倍疲弊していたってのに無茶しやがって》
「シモンか。うん、そうだな悪かった」
魔魅穴を介したそのやり取りを聞き、サキ達もある程度の事情を察してしまう。そして、このままでいけば直ぐにでもモルトと魔魅穴の先に待ち受ける彼等との決定的な別れが訪れてしまうであろう事すらも。
「ふん。成程ね……時間切れだよ居候。さっさと元の巣に戻って自分の運命とやらを全うしてくるんだね」
「え――サキ!?」
先程ミランダと呼ばれた娘は言った。モルトが門を閉じてから十日程が経った……まだ十日しか経っていないと。
裏郷を含むこの世界では既にモルトが現れてより一年の月日が経過している。この歯車の狂いから導き出される答えはつまるところ……。
「恐らくだがこの魔魅穴の先とこちらでは時の流れが違うんだろ。あちらのお仲間達がもたせてくれている今しか戻れる機会は無いよ。考えるまでも無い事だろう?」
別れというものは唐突に訪れる。過去に何気なく出かける娘を見送り、そして永遠に戻ってくる事の無かった事実を刻み付けられたサキにはそれがどうしようもなく理解出来てしまうのだ。
不意なサキの言葉に戸惑いの視線を向けるモルト。その顔は未だ見付けた筈の目標に向けた一歩を踏み出す勇気を持てぬ少年のそれであり―――
「――俺は。サキは、それで良いのか?」
「……己惚れるんじゃないよ人間。本来であればアタシは俗世に穢れた人間風情が触れる事すら叶わぬ高みの存在なんだ」
「サキ……?」
不安気に見つめる少年に対し、少しばかりの沈黙の後に突き放すような言葉を叩き付けるサキ。だがその眼差しは―――
「うじうじと悩み続けるちっぽけな『ただの人間』のごっこ遊びに戯れに付き合ってやっただけの話さ。この言葉を噛みしめて……仲間達と腹を割った話し合いをしてきなよ」
「っ!サキッ……」
言葉の意味を識ってしまった一人の少年はサキを両腕で引き寄せ力一杯に抱擁する。
震えながらもその肢体を記憶、いや魂に焼き付けるが如くモルトはサキを抱き続け、そして先の辛辣な言葉とは裏腹に、サキは無抵抗に為されるがままとなっていた。
「サキ、俺と一緒に――」
「アタシは既に三千年の長きを生きた大霊狐だ。この世界が滅びでもしない限りはあと千年二千年かそこらなら余裕で生き続けるだろう、そこの霞を始めとする連中もね……そっちでの人生を全うした後に御霊になったその時にでも、またこっちに遊びに来ると良いさ。その時にはまた歓待の宴でも開いてやるよ」
意を決して言うその誘いにしかし、今度は迷う事無く返すサキ。その言葉は暗に拒絶の意を示していた。モルトにも共に戦い続けてきた仲間達が居るように、サキにもまた、霊狐としての仲間達が居る。
その二つの線は決して重なりはしない。気紛れに交わった羽根休めの一時、それだけの事だったのだ――と。
「……済まないっ、サキ」
こうしてささやかな幸せと共に在った一つの出逢いは幕を閉じた。異界からの客人は去り、消失した魔魅穴の前に立つのは傍らに控える霞草と……最後に心を通わせた証である余韻に浸り、ぼうっとした表情で冬の寒空を見上げる一人の霊狐。
「……とても寂しくはあるけれど、この別れは耐え難い痛みを伴うものではないのが救いさね。むしろ楽しい思い出を有難う、さ。ひよっ子のたらし小僧め」
もう二度と逢えぬであろう想い人に最後にそう語りかけながらその頬に流れる一筋の涙が、サキの心境を哀しく物語っていた―――
―――異界よりの騒がしい訪問者が去って後、更に一年と少しが過ぎた春。
「これはまた随分と愛くるしい御子ですなぁ。ばぶばぶ~♪霞おじちゃんでしゅよぉ」
「だー!」
「天狐筆頭ともあろう者が何て情けない顔をしてるんだか……こりゃアタシの見込み違いだったかねェ」
神宮裏郷ではつい先日に御先稲荷の最新位階発表が出され、正式にサキの引退が決定した。それに伴い本日この場にて天狐筆頭の任の引き継ぎが行われたのだ。サキが遂に空狐の段階へと至ったからである。
天狐の象徴でもあった四本の大きな純白の尾は完全に消え去り、今は神宮を離れご近所付きあいのリハビリを兼ねてとある田舎町へと居を移していた。
「改めて空狐への到達、おめでとうございますサキ様」
「ありがとさん。ただ、もうお前も御先を束ねる立場なんだ。引退したアタシにいつまでも様付けじゃあ下の者への示しが付かないだろ」
「ふぅむ、言われてみればそうですな。ではこれよりはサキ殿と……これ、違和感有り過ぎですな」
「はは、その内慣れるさね」
互いに苦笑いをしながらも、霞草の抱く笑顔を絶えない稚児を優しい面持ちで見つめる二人。
「生まれ出づるその時より人型というのは前例が無くもありませぬが、やはり珍しいものですな」
「静も生まれた時から人型だったからね。うちの家系は人型で生まれ易いだけじゃないかい?」
「静殿が生まれた当時には既にサキ殿は天狐の位にいました故。その高い霊質を受け継いだお二人は例外ではないかと……」
割とどうでも良さそうな感想を漏らすサキに、何時もの事ではあるが補足を付け加える霞草。
二人の言葉にある通り、霞草が抱える稚児は人の形を取っていた。
「それにしても彼奴のような人間としてでは無く確と霊狐の性質を受け継いで生まれた事は目出度くはありますが、この毛色と尾の数は素直に驚きですなぁ」
言いながら霞草は再び稚児を抱え上げ、まじまじとその姿を眺める。
まだ焦点も定まらぬ目でそれを不思議そうに見下ろす稚児の腰の下には――まだ産毛ではあるが、黒毛に覆われた六本の尾が生えていた。
「黒で六本。確か数字の六ってな、調和と統合を意味してたっけ」
「一説には天の幸運といった読み解き方も有りますな。そして黒狐と言えば天下泰平、吉兆の印」
「う~ん。あのたらしに似て色々と欲張り過ぎだろ、どんだけ善いことづくめを抱え込む気だよこの子は」
霞草の解説に我が子を見上げ、呆れた様子でその鼻頭をつつくサキ。何が面白いのか稚児はきゃっきゃと笑いながらその両手を母へと伸ばす。
「おっと、そろそろ母君の胸が恋しくなったようですな。では……そういえばこの子のお名前は?」
サキに稚児を返そうとしたところでまだその名を知らぬ事を思い出し、稚児を渡しながら尋ねる霞草。
それを受け取ったサキは手慣れた様子で稚児をあやしながら言葉を紡ぐ。
「よしよし、良い子良い子~。モルトの奴の向こうじゃ有名らしい苗字のスピリツァ……スピリッツと、いずれこっち側に来るであろうあいつの御霊を掛けてね。扶祢――父の御霊を支え助ける者、ってところか」
「それはまた随分と彼奴に入れ込んでしまったものですなぁ」
「む……まぁ子供までこさえておいて恥ずかしがるのも今更か。存分に惚気させて貰うさね」
「ほっ、これは一本取られましたな、ははは」
二人の笑いに釣られたか、再びきゃっきゃとはしゃぎはじめる扶祢。この子の未来に待つ運命は一先ず置いておくとして、今はこのささやかな幸せを噛みしめるとしよう。
サキは扶祢と名付けた自身の娘を愛おしそうに抱き、こうして裏郷最後の昼下がりを直弟子達との団欒で過ごすのだった。
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「――とまぁ。これがアタシが御先を引退し、扶祢が生まれた経緯さね」
「……びっくり。扶祢って人間との混血だったのね」
「とは言ってもお前達も知る通り、霊狐の血の方が圧倒的に濃かったらしくてさ。あいつの特性は何一つ受け継いじゃいなかったみたいだけどねェ――ってシズカ?」
そう締めて話を終えたサキではあったが、ふと一つの異変を目の当たりにしてしまい訝し気に首を傾げる。同じくそれに気付いた静も共にその発生源を覗き込み……。
「……うぅ、ぐすっ」
「えぇえええっ!?シズカが可愛らしく泣いてる!!」
「だっだれが泣いてるってのよ!別に私はそんな感情移入なんかっ……」
「しかも口調が別人なんだけど!?何、お前もしかしてそっちが素だったのかい?」
まさかのシズカが貰い泣き。
同じく良人や子供との別れを体験した静が当時を想い返して泣くのならばまだ理解出来る。だがここまで予想外に過ぎるシズカの反応が帰ってくるとは。
正直なところ、モルトの一件を含めたここ二十年間でも今程の衝撃を受けた事は無かったのではなかろうかと思うサキだった。
「よしよし。哀しかったよね、寂しい思いで一杯になっちゃったんだよね。分かるよーわらわも聞いててとっても切なかったもの」
「ふ、ふんっ!今のは一時の過ち、鬼の目にも涙というやつじゃ。童、鬼属性じゃし」
一方シズカはと言えば今更ながらに口調を戻し、よく分からない憎まれ口を叩いていたが……二人の脳裏には先程の泣き顔といい娘調の物言いといい「可愛いシズカ」の姿がばっちりと焼き付いてしまっていた。最早何を言い繕うとも後の祭りというものだろう。
「くくっ。お前って実は随分な甘ちゃんだったんだねェ?……ま、その位じゃなきゃ別の世界の存在であるこのアタシをわざわざ世界の軛から解放したり、自らの数百年の積み重ねを無にしてまで静を救ったりなんかは出来ないか」
「~~~っ!五月蠅いっ母上の馬鹿ぁっ!!!」
ついに限界に達したのか、居た堪れない様子で叫びながら部屋を飛び出してしまうシズカ。
後に残ったサキと静は顔を見合わせ――同時に吹き出してしまう。
「ああしてみると随分と初々しいというか、可愛いモンだねェあの子も」
「ふふっ、あの恥じらいの表情がまた良いよね」
こうして薄野山荘の夜は今日も平和に更けていく。
愛娘達と楽しく笑い合う今のサキの心には最早「退屈」に付け入られる空虚などは存在せず、日々の充実感だけが暖かく包み込んでいた―――
という訳でおかんの過去話兼、扶祢の出生の秘密でした。
やっと第44話の伏線が回収出来ました。今後もシズカは基本的に童様口調ですけどね。
次回、楽屋裏を挟んでから一休みします。詳細予定は次回の楽屋裏の後書きで。




