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道灌

「やあ道灌殿、小太郎、参りましたぞ」

 道灌の馬廻りらしい武者に案内されて本陣までやって来た小太郎と新九郎が陣幕の裾を払って内に入った。だが、思いもかけずそこに道灌の姿はなかった。

 道灌どころか誰もいない。

「はて、道灌殿はおられぬようじゃが」

 小太郎は小首を傾げてみせた。先ほどの名簿帳の載る台はそのままに、本陣内はもぬけの殻になっている。

 立ち止った小太郎は、不審げに馬廻りの武者に振り返ると、

「小太郎殿、殿はその奥にござるよ」

 微笑みながらその武者は先立ち、重臣達が座っていた床几の裏まで進むと奥に張られていた陣幕を払って見せた。

 さっと開かれた幕の切れ目から視界に入ったそこには五十坪ほどの、もう一つ陣幕で仕切られた空間が広がっている。

 その中には合戦前の本陣には似つかわしくない、趣旨が異なる雅な設えが施されていた。

「ほう、これは」

「うむ、大したものじゃ」

 新九郎はその空間を見て溜息を吐いた。

 小太郎はといえば、「おぉ」と感嘆のため息に似た声を漏らしたのみで我を忘れたかのように魅入っている。

 二人の目線の前にはいつの間に取り揃えたのか、藺草いぐさの香りも芳しく如何にも真新しい厚畳が何枚も敷かれ、茶釜のかかる風炉の奥手には金絵巻の屏風が張り巡らされた茶室が出現しているのだ。

「野点か。これはなかなかに面白い趣向」

「のだてですと?」

「うむ」

「のだてとは何でござろうか」

「茶を屋外で点てることを野点てと言うのさ」

「ふぅむ」

 小太郎は茶の湯というものを見たことがなかった。

 領主や高貴な人物、世上やんごとなき雲上人の嗜みなのは分ってはいたが、自分がそれをやろうとは思ってもいない。

 湯水のごとく銭や金を使わなければ満足にできぬ嗜みならばやらぬが良いし、山賎やまがつを少しだけ大きくしたかのような自分達の生活には合わぬし身の丈にもあってはいない。ましてやそれこそ日頃の生活の足しになる程のものではあるまいとも思っていた。

 とはいえ、憧れてはいないかと言えば嘘になる。

 その嗜みの為の道具一式が目の前にあった。

 珍しい道具の一覧に目を皿のようにして見つめている。

 しばらく眺めた頃、ふむ、と、なにやら腑に落ちたのか、納得したかのような声を出した。

「これが茶の湯の道具と言うものでござるか。儂はまた、もっと煌びやかに金銀を散りばめたような御器で嗜むものだとばかり思うておったが、意外に質素なものでござるなぁ」

 小太郎には、茶とは雲上人が金銀や玉を惜しげも無く食器にあしらった贅沢な遊びかと思っていたようだ。

「金や玉ではないが」

 そう言うと、新九郎は風炉の奥にあった台子だいすを指差した。

「あれを見よ。ぽつり、とではあるが、碗が飾られておるだろう」

「はい、ありますな」

「あの碗のなりは高麗渡りのものだろう。あれ一つ手に入れる為に銭なら値が何貫目になるか、わからぬぞ」

 小太郎は唸り声をあげてみせた。

「御前様は茶を飲まれるのか」

 隣にいた新九郎に対しての言葉だった。

 室町の、伊勢家の連枝と紹介を受けているのだから当然茶の湯程度は嗜んでいるものなのだろうと想像はつくが、目の前の現実に呑まれた小太郎は虚ろに言葉が出ていた。

「ああ、少々は嗜むよ」

 新九郎も小太郎に合わせている。嗜みは少々どころではないのだが、少し謙遜してみせる事は忘れない。

「そうか、それは頼もしい。儂は茶など飲んだことがなくてな」

「ならば足柄への土産話の一つにもなろう。道灌殿は我らを野点に招待してくれたようだから、その人物を見ながら茶を馳走になろうか」

 馳走の言葉に小太郎は俄かに我に返った。

「儂も同席するのか」

「道灌殿は我ら二人を呼んだのだ。当然小太郎もさ」

 『茶の湯』という唐渡りの贅沢を生まれて初めて目にしたためか我知らず高揚していたのだが、いざそれを使って嗜むとなれば話が違うものだ。

「儂には訳の分からぬ趣向じゃ。いや、これは参った」

 高揚感が一気に不安へと変わっている。

「儂は作法を知らぬ。白湯ならよく飲むのだが」

 小太郎の視線が新九郎へと向けられた。助けを請う光が灯っているように見えるのが可笑しかった。

「臆することはない、ただ茶の旨味を味わえば良いだけじゃ」

「そのようなものかな」

「それ、使者殿も待ちくたびれておるぞ。ささ、行こうか」

 陣幕を開けていた馬周りの武者が相好を崩しながら空いていた右手で手招いている。

「ささ、どうぞこちらへ」

 武者に案内されるままに内陣幕手前まで歩を進めると、その脇に無地の屏風を回してある一郭があった。

 なるほど厚畳が敷いてあるのだ、着用している具足をそこで脱ぎ、書院の茶を嗜むように装束を軽くせよ。と言う事なのだろう。

 手回しが良いことだ。具足を脱がせることで仮に刺客であった場合の対処も兼ねている。新九郎は道灌像をずいぶんと用意周到な男かと思い始めた。

「屏風、ちと借りまするぞ」

 新九郎は案内の武者に一言伝えると、そそくさと屏風の内側に入ってくるくると腹巻を脱ぎ捨てていた。

「小太郎、お主も具足を脱がぬか。それでは畳の上にも上がれまい」

 新九郎の行動に呆気に取られていた小太郎だったが、その意味がわかるとひとり、へへへと笑いながら新九郎の後に続いて屏風の内側に入って行った。

 さて、二人の装束が軽くなったところで勧められた座につくと、四方が予想とは違っていたことに再び驚かされた。

 内側はただの陣幕とばかり思っていたが、金蒔絵の屏風の他にも唐人絵の描かれた別な屏風が幾重にも回され、外界とは隔絶された空間を演出しているのだ。

 そこから上に見える竹藪は境内からの借景なのだろうが、上手く茶の湯の風景に馴染ませている。

「道灌殿は余程の数寄者なのだな」

 新九郎の素直な言葉だった。ここまで馳走されると流石に心底からの感嘆の声が出るものだ。

「見事だ……」

 暫しの間、当世の上手が描いたと思われる見事な唐人絵、金蒔絵を眺めていると、ふと背中越しに人の気配が感じられた。

 その気配は足音と共に近付き、やがて意外ともいえる陽気な声を響かせた。

「やぁ、お待たせいたしました」

 聞く人によればあまりに気安いと思われるかもしれない。

 新九郎でさえもつい、古い友垣でも来たのかと思ってしまうほどの軽い言葉の響きがあった。

 道灌自身もその心算で声をかけたのだろうが、人をたらす芝居であっても悪い気分にならないのは、その役者が無類の銘俳優だからなのかもしれない。

 現れた道灌は面通しの時に着用していた大鎧を脱いでおり、小袖の上に胴服どうぶくを着用しているのは、不用意に警戒心を抱かれないようにしたためだろう。

 小太郎が都から来た貴人と紹介しているために敢えて陣触れの最中であっても甲冑を脱いでいたのだ。

「それがしが太田の入道、道灌にござる」

 扇谷の家宰殿が新九郎に対して軽く会釈をしてきた。

 これにあわせて新九郎が立ち上がろうとすると、そのままそのままと、掌を見せながら気軽な体で畳みにあがって亭主の席に着いてしまった。

 なんとも気楽な挨拶もあったものだ。

 伊勢流を極めた新九郎から見ればなんとも人を食ったような挨拶だったが、悪い気はしない。明快な道灌の性格が垣間見られた気がした。

 席に着いた道灌が改めて小太郎を見た。

「小太郎、こちらのお方が都から参られた貴人であらせられるな」

「さようにござる。室町の伊勢貞親様の系累であらせられる備中伊勢家の御当主で、足利義視公の申次衆を務められておられます伊勢の新九郎様にござる」

「さようか」

 道灌は目尻に笑みを乗せたまま新九郎に視線を投げると、そのままやんわりと頭を垂れた。

「あらためて御挨拶を申し上げる。それがしは扇谷上杉家の家宰職を拝領しておりまする太田資長と申すもの。今般我が陣中に都から貴人が参られたと、そこにおります足柄の小太郎から知らせを受けまして急ぎこの様な用意をさせて頂きました」

 先ほどの軽い会釈とは打って変わっての挨拶だった。これも道灌流の人心把握の手管なのだろう。

「これは痛み入ります。今では京でも見る事が中々できなくなったこのような馳走、新九郎、度肝を抜かれましてござる」

「御謙遜を申されること。京の趣に比べればお恥ずかしいほどにございます」

 道灌は上機嫌であった。

「それこそ御謙遜と申すものでしょう。これほどの贅沢、今では京にあってもとんと目にすることがありませぬよ」

 新九郎も呵々と笑って見せた。

「そうそう、実はそれがし、伊勢殿を室町の花の御所でお見かけした事がござりましてな」

 道灌は意外な言葉を口にした。新九郎にその様な記憶はない。

 普通守護職や守護代などが御所や今出川亭にやって来るとなれば、何日も前からそれなりに噂が囁かれるものなのだが、どこで見られたのか。

 どこそこの守護は御所の誰それとの繋がりがある、等と広がれば、力の無い奉公人などは直ぐに上洛して来た守護職と近しいものに接近しようとする。

 色々と繋がりを持ってその守護職と親しい関係を作ろうと躍起になるものなのだ。

 都の権威が下がって来た昨今は娘を各地の有力な者に嫁がせて、その伝手で一族を養うことも始まっている。

「ほう、さようにございましたか。それがし、義視様の臣でござる故なかなか御所まで出向く事はござりませなんだが、では使いになっているときにでも見かけられましたかな」

「たしか今年の初め……」

 ちょうどそのとき、家臣が菓子を運んできた。珍しい砂糖を使った高価なものだ。

 水菓子のような果物であればそれなりの手間はかかるが手に入り易い。

 しかし砂糖などは金と同じように高価なものである。それを茶菓とは言え惜しげも無く振舞ってくれる道灌の真意は、京との繋がりを強く持っている新九郎に配慮したものなのだろうか。

「駿河の今川公を義政の公方様に御取次をしている盛定様とご一緒だったときにございます。それがしは縁を渡った先でお目通りをお待ち申し上げていたときだったので、遠目ではありましたが間違いございますまいかと」

 新九郎は「ああ」と合点が入った。なるほどそれならば思い当たる節がある。

「ならば我が妹が駿府へ輿入れする為の会合の頃でござるな」

 妹の輿入れ先である駿河今川家では今年の初め、当主義忠が軍勢を率いて上洛していた。

 これは将軍警護の為の上洛であったためにそのまま東軍へ属して花の御所に入ったのだが、義政としては今川家を東軍(御所側:細川勝元)との繋がりを強くしておきたい。

 このため足利義政の命で駿河申次衆をしていた伊勢盛定の娘を嫁がせることにした経緯があった。

 まだ正室を設けていない義忠の身辺も義政にしてみれば都合が良いもので、側室ではなく正室ならば、今川家において義政に近い伊勢の娘の政治的立場も強いものとなる。

「公方様御推薦での輿入れだったので、それがしも父盛定の跡取りとして公方様に御拝謁を許されたときでございましょう」

「我が主、政真様は今川義忠公とは御親類(義忠母が扇谷上杉氏の出)。その義忠公の正室であられる桃源院殿(北川殿)は盛時殿の御妹。ならばそれがしは、今川家を通しての遠くない仲、陪臣とも言える仲ともなりますな」

 間柄をどうこう言えるほどの繋がりは無いのだが、妹が嫁いだ今川家と上杉家との繋がりを持ちあげる事で新九郎の伊勢家を守護大名と同格であると言い、自らは新九郎よりも家格が下であると言っているのだ。

 新九郎もその機知を受け取った。

 少々大袈裟ではあるのだが、道灌の自分に対する気遣いが嬉しかった。

 関東の田舎にやって来て知己もいないであろう伊勢家の男にたいして、扇谷の家宰殿が家格の折り紙を付けてくれた事にもなる。

 いずれこの野点ては小姓などから口々に漏れ聞こえ、道灌がどのような者と会っていたのかが知れ渡ったとき、新九郎の権威が共に伝えられるだろう。

 そうなればこの地で新九郎を粗末に扱うものはいなくなる。

 このこともあってか、初めて顔を合わせた二人ではあったが、どこか懐かしい友と昔話をしている雰囲気が醸し出されていた。

 また、双方が話題にする事も面白く、それぞれの置かれた世上が漠然とながらも分かって来た頃には、なんとなく馬が合うことを感じていた。

 そんななかで、道灌は一つ、ほうっと溜息を吐いてみせた。

「新九郎殿が羨ましい」

「なぜにござろう」

「それがしも室町にお仕えできていれば京の水や風に毎日触れる事が出来申す。東国の地で合戦に明けくれることなく、都で月や花を愛でて詩歌作りなどに没頭したいと常々考えておりますよ」

 道灌は、今の都の戦乱を知らぬ筈はあるまいが、新九郎の顔を立てたのだろうか。真意を測りかねた。

「これは。しかし上杉様ほどの強豪であれば花鳥風月を自邸で満喫する事もできましょうに」

 道灌は目線をつつと足元に向けながら苦笑をすると、

「室町におられる伊勢殿ならばおわかりでありましょう。上杉様ほどの御家に仕えればこその軍役にございます」

 そう呟いた。

 享徳三年から十四年も経過している応仁元年になっても未だに続いている関東の戦乱、享徳の乱を言っているようだ。

 管領である山内上杉氏と扇谷上杉氏、それの後押しをしている室町将軍家。この三者が関東に拠点を持つ古河公方(鎌倉公方)足利成氏と争っているのが享徳の乱である。

 成氏には関東の豪族が後ろ盾となっているため室町公方・両上杉氏連合との兵力が均衡しており、各地で散発的な戦乱が多発しながらも膠着状態に近いのが現状である。

 折悪しく応仁元年に入った今では、室町の幕府も内乱が発生したために余計関東の為に兵を割けなくなっていた。

 このため関東の乱の収束に予想が付かない時期でもあるのだ。

 道灌は都より一足早く戦国時代に入った関東の戦乱を憂慮していた。溜息と都への憧憬はそのせいであったかとの思いが過った。

「成氏公との合戦には、まだ先が見えませぬからなぁ」

「さようにございます」

「この度の豊島の合戦も、それにござるか」

 ここで新九郎は、敢えて知らぬ風を装った。

 いままで菓子を食いながらもしきりに二人の会話を聞いていた小太郎は、途端に顎に手を当てると我関せぬといった風情で金蒔絵の屏風に関心を示したふりを見せている。

 あまりにも白々しい新九郎の態度に驚きと笑いを堪えているようでもあった。

「今日のこの合戦は、ちと分からぬところが多々あります。豊島の言い分では我が方の人数が関所に押し入って、鳥目ちょうもくや米穀を根こそぎ奪い去ったと申したてての合戦騒ぎ」

「ほう、そのような事がありましたか」

「実は誰かが、本当にその様な事を仕出かしたのか、家中の者にも問い質してみたのですが、誰もその様な事はやってはおらぬ。と申すばかり」

「それは面妖な。豊島の言掛りとも取れましょう」

「面妖であり難儀でもあります」

「降って湧いた災難にござるな」

 いかにもお気の毒といった表情をしてみせたのだが、笑いを堪えるのが精いっぱいだった小太郎は、このときそっぽを向いていた。

 笑わぬように我慢をしているのだろうが、肩がふるえている。それを誤魔化す為かしきりに空咳をしていた。

「今は山内の顕定公と共に、上野の五十子いかっこの陣で成氏殿と対陣しておる次期ではあるし、次の輪番も近いというのに迷惑なことでござるよ」

「そういえば政真殿は上野に在陣されておりますのか」

「いえ、五十子にも館を持ってはおりますが、今は所用で河越の城に入っておられます。近々相模の糟谷館へ参ると申されておるので、その時は我が江戸の城にもお立ち寄りなさりましょう」

「そうでしたか、政真殿にはいずれ、お会いしたいものです」

「機会がありましたら、殿に申し上げておきましょう。さて、そろそろ一服いかがですかな」

 この後、野点ては一刻程に及び、道灌、新九郎共に点前の美しさを認め合ったようだ。

 新九郎は言うに及ばずではあるが、道灌の点前、作法も見事なもので非の打ちどころがないものだった。

 ただ、小太郎の為に途中から茶の手習いが始まってしまい、手間が相当かかったのだが、これが意外にも幸いしたようで、道灌と新九郎の親交は益々深まって行った。

 始終穏やかな野点は、まま聞こえる談笑が合戦前である事を忘れさせるひと時をもたらしていた。

「かほどに旨い茶は、ここしばらくは味わった事が無い。今日の馳走、新九郎生涯の思い出となり申した」

 道灌は茶道具をそれぞれ拭い清めながら微笑むと、こくりと頭を垂れて見せた。

「粗茶にございました」

「もし、資長殿が都に参られたならば今度は、それがしが馳走いたしましょうぞ」

「その日を楽しみにお待ちしております」

「さて、ならば我ら是より具足を纏い、陣借りさせて頂きますぞ」

「よろしく頼みます。新九郎殿は我が客人まろうどじゃ。まずは陣の中軍に入られませい」

「承る」

「坂東武者の陣立て、とくとご覧あそばされよ」

 道灌の言葉を最後に新九郎はさっと座を立つと屏風の内へと入り、再び現れた時にはやって来たときと同じ赤糸威の腹巻を纏った一個のもののふとなっていた。

「見事な武者ぶりにございます。どうぞご武運を」

「かたじけない」

 遅れて屏風の内に入って行った小太郎も瞬く間に具足姿になって出て来た。

 茶の湯よりもこちらの方が性に合っているらしく、先ほどまでの渋茶を飲んで渋い面付きだったものがいやに艶やかになっているのが面白かった。

 言葉も発せずに冷や汗をかいていたが、いまは溌剌とした表情となっている。

「小太郎、参ろうか」

「ご案内仕らん」

 声にまで張りが出ていた。

 さて、陣幕の外、地べたに座り込んで新九郎ら二人を待ちわびていた佐平次と足柄の男達だったが、二人が道灌の本陣から現れると、さっと立ち上がり、自らの主の帰りに頭を垂れた。

「各々、これより豊島への戦、太田殿の陣を借りて出陣の号令を待つ。まずは中軍にて出陣するまであの……」

 新九郎が指差したところは将門の首塚であった。

「豊田の小次郎殿の元で出陣の支度をしよう」

「御前様のご先祖様にござるからな。あそこならば余程御利益がありましょう」

 小太郎の追従から直ぐに場所を移して出陣を待つ事四半時、伝令が本陣から走り抜けて出陣の下知を各所に知らせて周りはじめた。

「いよいよだな」

 新九郎がのそりと腰を上げてから半刻も過ぎない頃、全軍が動き出した。

 ときは午の刻、頂点の太陽に照らされながら千を越える軍勢が江戸城脇、神田明神社から地滑りのような出陣を始め、目と鼻の先ともいえる豊島の居城である石神井郷牛込庄にある石神井城を遠巻きに囲んだのは未の下刻ほどであった。

 軍の中には相模七沢要害の上杉(七沢)朝昌ともまさ、三浦から三浦時高、小田原からは大森実頼(大森氏頼の長男、藤頼の兄)らが矛先を揃えて道灌の軍勢に集まっている。

 この内の三浦氏、大森氏は四年前、道灌に危急を救われた事がある為に、道灌への恩返しと思ったか軍勢が傍目からも逸りに逸っているように見えた。

 今にも囲んだ石神井城に攻め込もうとする勢いがあるのだが、道灌が軍令として押し留めていた為に個々に攻めかかる者は見られない。

 ただ頻りに本陣へと城攻め下知を催促に来ているのだ。

「坂東武者は血気盛んよなぁ」

 新九郎も呆れる思いで本陣への伝令の出入りを見ているのだが、さすがに原因は分からない。

「三引き両に二つ巴の紋が次々と本陣へと入って行くのが見えます。これは三浦と大森の両氏にござろう」

「しかしあの逸り様、なにか有ったのか。戦の褒美が目当てならああまで逸る事はあるまい」

「あの二家と七沢の家は曰くがありましてな、道灌殿に恩返しをせねばと焦っておるのでしょう」

「恩返しと」

「さよう」

 このあと小太郎が新九郎に語ったのは四年前の出来事だった。

 事の起こりは寛正三年(一四六三年)。

 堀越公方足利政知とその重臣、渋川義鏡の讒言によって騒動を起こされた事があった。

 政知は自らが鎌倉公方として下向したにも関わらず、伊豆の堀越まで来たところで相模守護である扇谷上杉氏から足止めを食らっていたのだが、その重臣渋川義鏡が鎌倉に入れず伊豆に足止めされているのは『ひとえに扇谷の家臣である大森氏頼とその子実頼、千葉実胤と三浦時高が妨害しているからだ』と言うのである。

 扇谷側からいえば関東が不穏な時期、軍事力もなにも持たない還俗したばかりの将軍の弟が来ても軍勢を任せられるはずも無く危ないばかりで、どう足掻いた所で古河公方成氏に勝てる見込みも無い。

 下手をして政知だけが討たれるならばまだよいが、割を食らって自陣営の豪族達に痛手を被る可能性も大きかった。

 この打算と庇いだてが政知には伝わらなかったらしい。

 三浦時高は呆れ果てたが逆賊の汚名を着るよりはと剃髪出家し、大森氏頼は余りの事に馬鹿馬鹿しくなったのか、政道から隠退してしまった。

 これを契機として扇谷の重鎮が相次いで不穏になることを防ぐために、道灌が奔走して事を治め、氏頼を伴って上洛。義政から赦免を受けることになった。

 これが二年前の事なのである。

「なるほどな」

「豊島にはとんだとばっちりですなぁ」

 小太郎はさも愉快げに笑っている。

「しかし、而儘に攻め込む事を押さえる事のできる道灌殿は流石よ。これは信用と信頼があっての事。見習わなければならぬ」

 この後、豊島勘解由佐衛門尉は石神井城で籠城、弟平右衛門尉康明は練馬城に籠って道灌の軍勢と対峙することになるのだが、局地的な小競り合いがあったのみでこの合戦は終結した。

 今川家から遠江の斯波氏や国人との争いの為に後詰の要請が来た事や、美濃の斉藤妙椿さいとうみょうちん等が三河への不穏な動きを見せ始めたからでもあった。

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