こころざし
翌日、新九郎と佐平次は屋敷の土間で身支度をしていた。
もう病床についたままの者はいなくなっていた屋敷では、新九郎主従の出立の為に村人総出でなにくれとなく世話を焼いてくれている。
その土地の領主が郎党を引き連れて合戦に赴く訳でもないのだが、どこから仕入れたのか三方に打ち鮑、勝栗、昆布が乗せられ、土間の上り口である囲炉裏の切られた板間から奥に進んだ座敷に、三献の義ができるまでに整えられていた。
病床となっていた藁敷は村人の手で綺麗に取り払われ、塵ひとつ無い程に床が見事に拭きあげられている。
これは新九郎への感謝の意の現れでもあったようだ。
「ほう、鎌倉の世よろしく酒作法に適った為し様じゃのぅ」
新九郎は忙しく手を動かしながら板間を見ていたが、顔は嬉しそうにほころばせている。どうと言う訳ではないが、百姓達が元気になった事が嬉しかった。
他意は無いようなところは本心からの人の良さの現れなのだろう。
その新九郎だが、赤糸で威された、黒漆が美しく輝く小札が並ぶ腹巻を手際良く着付けている。
昨晩、小太郎が合戦の前祝いであると称して腹巻二領と、兜の代わりに鉢金を支度してくれたものを着用しているのだが、物の具など何一つ手元に無かった新九郎には有難いものだった。
この腹巻の出所といえば、新九郎には薄々と想像はついていたが、小太郎達が新九郎主従を襲撃しようとした際、反対に討ち取られていた郎党の物だったのは間違いない。
「どうせ使わぬ」との事で、明朝の太田の陣同道の為の支度品として「進上」してくれたのだ。
簡単に呉れてやると言った割には、造り自体は抜群に良いものである。ただし、一揃いとなっている腹巻ではなく、兜や袖などはない。
袖の代わりに鉄銀杏が肩口に付き、胴とそこに下げられた草摺り、そして足に使う脚絆のほか、腕を通す決拾と簡易な小手がある程度のものなのだが、着用してみるとこれが非常に動きやすかった。
ぱっと見は鎌倉の昔、元寇襲来の頃の郎党のような姿なのだが、小太郎の里での工夫が施されているようだ。この辺りはやはり乱破の才能なのだろう。
一方、新九郎とは対照的に佐平次は少々着付けに手間取っていた。どうにも佐平次の手の動きは鈍い。今まで腹巻や胴丸を着た事がなかったのかもしれない。
「どうした」
「どうした、じゃありませんよ」
言いながらも脚絆の紐をどうやって結べば良いのか分からない風情のなか、うかない顔ながら口だけは休まず動いた。
「殿様、こんなところで戦に出るなどと、命がいくら有っても足りませぬぞ」
着付けが遅いのは、なにも腹巻を着ける事が初めてだから。と云う訳でもないらしい。微かではあるが佐平次の口元が震えている。
「寒いのかね」
「もう田植えの始まる季節にございますから寒くはございませぬ。ございませぬが」
「が?」
「ちと緊張いたします」
「そうか」
言葉を交わして口を動かしたせいなのか、僅かだった口の震えが大きくなってきた。歯の根もあわないように奥歯をがちがちと鳴らし始めている。
「そう緊張するものではない」
「し、しかし、お前様がいくさに参ると言われましたでな。ワシは気が気ではありませぬわい」
「なに、佐平次、お主の腹巻姿もよう似合っておるではないか。馬子にも衣装とも言うが、晴れの門出じゃ。勇ましげな姿を皆に見せてやれ」
「こんな時に戯れてござるな。ワシはいくさ働きなどした事もござりませんよ」
なるほど佐平次、合戦にでる事自体が初めてだったようだ。
よくもそれで今出川の門番が務まったものだな。とは、新九郎おくびにも出さなかったが、ちと意気地が無さ過ぎるきらいがあるように思える。
「儂もな、足軽の恰好をしたのは初めてさ」
「お前様は本物の地頭様じゃでな。御大将ゆえ、そうでございましょうが……」
佐平次の消沈ぶりがあまりにも憐れに見え、呆れる思いもしたがおかしくもあった。
こんなときはふと、佐平次に教えられている。とも思う。これがいくさ働きに率先して出て来る者「以外」が持つ、かり出される百姓の本来の心根なのだと思うと愛おしくもある。
在郷の百姓がどのような思いで領主に就いて来るのか、佐平次の今は、それを身を以て教えてくれる教師なのだ。
「佐平次よ、こたびはな、太田と豊島の軍勢の動きを良く見極めるのが目的じゃ。わしらは後備えにいて高みの見物よ」
「そ、それはまことにございますか」
「応さ」
合戦に加わらないと知った途端に佐平次の表情は一気に輝いた。
そうなると急に手際も良くなるもので、ついさっきまでは初めて着けた腹巻姿のために手間どっているような動きだったものが、見違えたようにくるくると器用に着付けている。現金なものでもある。
「お二人共、三献の用意ができておりますで、どうぞこちらへ」
回復した村人の一人が佐平次の様子を見ていたのか、途中から器用に具足を着付け終わった頃合いを見て新九郎主従を奥の板敷きへと手招いていた。
「うむ、面倒をかける」
その板敷きには村の年寄達が数名着座しており、全員が新九郎主従へ深々と頭を垂れていた。
ずかずかと足音も激しく板敷きに入った新九郎に対して着座していた者達が、それぞれ目の前に置いてあった三方と提子を取り上げると新九郎と佐平次の脇に捧げ持って来た。
新九郎が、まずは打ち鮑を口に入れると、すかさず手に持った土器に年寄が提子から酒を注ぎ入れる。
次に勝栗を口に放り込むと、同じ様に土器に酒を注がれそれを呑み、最後に昆布を口に入れたときに三度目の酒を注がれた。
ぐいと一気に呷った新九郎、土器を打ち捨てると大声を上げて気合いを入れた。
「敵に打ち、勝ち、喜ぶ心なり!いざ!」
年寄達が再び平伏したのを尻目に、新九郎は足音も激しく板敷きを踏みしめて土間を降りると屋敷の外に出て行った。
一方の佐平次。新九郎の見よう見まねで口にごそごそと三献を放りこんでいたが、どうにも上手くゆかなかったようで、とりあえず口に肴を収めたところに酒を流し込んでそのまま新九郎の後に続いた。
屋敷の外には小太郎が気を利かせてくれたのか足柄の男が二人ほど迎えに来ている。扇谷の道灌の陣までの道案内をしてくれる心算なのだ。
「小太郎の出迎えだな。苦労をかける」
新九郎の問いかけに男達は片膝を付いて頭を垂れた。
「小太郎様のお言付けで御前様をお迎えにあがりました。道案内を致しますのでどうぞ我らに付いて来てくだされ」
「たのむぞ」
新九郎ら四人がまず向かったのは道灌の居城、江戸城から北にある神田明神の社領だった。ここは、武蔵国は豊嶋郡の柴崎村と呼ばれる土地である。
江戸の城から目と鼻の先にある社は、天平二年に出雲氏族の何某と云うものに創建されたものらしい。
だがその後、承平天慶の乱で新皇を名乗った平将門の首が京から持ち去られ当地に葬られた。
将門の墳墓地が神田明神近くに造られたわけだが、それから間もなくの嘉元年間、近隣に疫病が頻発したことがあった。
この災厄が将門の祟りであると思われた当時、その霊を慰めるために奉祀したとされている。
平安期、関東の地で独立国を打ち建てようとしていた武人を祀った社だけに戦勝祈願の明神であると在所の武士達からは手厚い崇敬を受けていた。
その神田明神の近く、江戸の城から道灌が陣触れを発すると、在郷各所からおびただしい人数が江戸城の外曲輪に入り、その足で道灌の居る神田明神へと向かっていた。
城主である道灌はと言えば神域の奥、社殿の真横に桔梗紋を染めた陣幕をうち巡らして本陣とすると、次々にやって来る加勢の物頭以上の面通しをしているところであった。
馳せ付けた者達一人ひとりに声をかけるだけなのだが、これが意外と在地の地頭達には評判が良いようで上杉様の家宰殿が我が顔をご引見あそばされた。と喜ぶのだ。
管領の血筋である上杉家の、その家宰殿に顔を覚えてもらえれば戦場での働きを良く見てもらえる。視てもらえるならば働き如何では恩賞も間違いがない。
地頭達はこれに奮起した。本来ならば扇谷の当主である政真がそれをするべきなのだが、一切を道灌に任せている家風なのだ。
道灌殿をこそと考える風潮が扇谷家では出来上がっていた。
その道灌の元へと新九郎より先に向かっていた小太郎らも、家宰殿の面前に置いてある筈の名簿帳に名を記そうと、朝日が注ぐ境内を進んでいた。
当時から神田明神への参拝客は多く、辺りは時宗日輪寺もあり寺付きの町として開けているために山林のなかの神社という体では無い。
今日のみは道灌の本陣と云う事で在郷の者の立ち入りは止め置かれてはいるが、繁盛の地である事は一目で知れる造りであった。
その小太郎一行の目前に太田桔梗の内陣の切れ目が現れた。その中に目的の家宰殿がいる。
「将門明神の御前でみょうぶに名を記すとは、なんとも勝ち戦の霊験がこの身に降り積もるようでございますなぁ」
小太郎配下の一人がそう呟いた。
ふと気付くと、道灌本陣の少々奥まったところに将門の首塚と呼ばれた土盛りが見える。
目線の先にある地べたからは盛られた土団子が隆起しており、その上に「蓮阿弥陀仏」の板碑が建立されている。言い伝えではその中に石室が納められた古墳造りであるとも言われている。
「霊妙不可思議な御利益をもって我らに加護を与え賜んことを願い、道灌殿はこの地を選ばれたのでござろうか」
配下の言葉を背中に聞きながら陣幕の裾を払った小太郎、左右を近臣に固められた面前の道灌へ軽く頭を垂れた。
「道灌殿、ひと月ぶりでござりますな。息災でなにより」
その細い体のどこから出るのかと思えるほどの声音だった。また、恐れる風情も無く、ずかずかと歩を進め名簿帳の載る台まで大足で寄って行くのだが、道灌の近臣も慣れたものでだれも警戒する素振りを見せないところは余程信頼されているのだろう。
「おぉ小太郎か、よう参った。先ごろのいくさ、途中で無くなってしもうたから存分な稼ぎもできなかっただろう。だが此度は違う。ここを切所とも思い励んでくれよ」
床几に座る道灌は総髪に折り髷姿で古風な大鎧をまとい、面前の掻楯机で筆を走らせる小太郎を見る目はいかにも涼しげな風貌である。
後土御門帝の下問に対して歌を送れるほどに詩歌に通じた風雅人がそこにいた。
「それはむろん。たんと稼がせて頂きますぞ」
話しながらも小太郎は、名簿帳になんとも特長のある文字を書いている。いや、絵のようなモノにも見えるところは意外と達筆なのかもしれないが、どうにもミミズが溺れている様な線が置かれている。
とはいえ、筆を走らせながら口も動かせるとは器用なものだ。
「そうそう、道灌殿。本日は道灌殿に一度お会いして頂きたい貴人をお連れ申したのだが、どうかな、お会い下されましょうや」
「貴人と」
「都から参られたお人にござる」
「都からか。どのような御仁かな」
「目元は涼しげでありましょうか。色はやや黒く眼光只事ならず。とでも申しましょう」
「ほう、色黒な貴人というか」
「それと、腕が立ち申す」
小太郎の目が子供のように輝いた。
先の辻の崖で散々に打ち負かされた小太郎だったが、あまりの負けっぷりと、今回は自らの身内としての紹介だった事もあってどことなく誇らしい気分だった。
「これは面白い、貴人が色黒なだけでは無く腕も立つとはな」
道灌はさも面白げに顔は笑っては見せていたが、どうにも目が笑ってはいない。小太郎の言いざまに少々警戒の念を覚えたのだ。
「小太郎ほどの者の口から眼光只事ならず、腕も立つと言わせるほどならば気になるものよな」
「ならばお会い下さるか」
「して、そのお方のご身分は」
「室町伊勢家のご連枝にござる」
「ほう、さようか。ならば後ほど会うてみようか。出陣の前に使いを出すゆえ待っておってくれ」
小太郎と道灌のやり取りがあった頃、新九郎と佐平次は神田明神の社殿近くまでやって来ていた。
古木が茂り涼しげな木陰をつくる境内の中にはおびただしい数の騎馬武者が家人郎党を引き連れて屯しており、順繰りに列をなしているのが見える。
先の集団がある程度進んだところで別の集団が列を組み、境内の中に入って行くのだ。
「あの先の、陣幕の内側に道灌殿がいるのだろうな」
足柄の男達に案内されて新九郎はすたすたと歩を進めていた。
「たいそうな人気でございますなぁ。お馬の武者だけでも百はおりましょうか」
新九郎に続く佐平次も辺りを物珍しげに見まわしている。
「そうだな。家人郎党合わせれば全部で五百といった所かな」
「参陣の挨拶でこれだけの人数がおるなら、道灌様の陣にいれば安心にございますなぁ」
村を出るまでは身を振るわせていた佐平次だったが、自軍となる道灌勢の多さに安心したのか妙に余裕が出て来たようだ。
佐平次の変わりように苦笑した新九郎だったが、そのときふと明神社の脇へ数町ほど入った所にある森の中で蠢くものが新九郎の視界に入った。
まだ距離があったためにじっと目を凝らしてみると、数十人が集団で固まって屯しているように見える。
「ありゃあ何でございましょう」
佐平次もそれに気が付いた。
「かなりの人数があそこにもいるな。隠れているようには見えんから、おそらくは道灌殿の兵ではあろうが」
「しかし郎党のみであれほど屯することがありましょうか。主がおらぬようですぞ」
明神社に近付くにつれてその脇の森も近付いて来る。
手前数町まで来ると、その人数の着用している鎧が桶川胴と呼ばれた簡易ななめし皮の具足である事がわかった。
そこに居る全員が全て同じ物を身に着けているのだ。新九郎はなるほど、と思った。
「あれはおそらく……」
足軽だ。
皆同じものを着用していると言う事は、桶川胴が太田家のお仕着せ具足(官製具足)なのだろう。
あの村で言われていた「厄介住み」達がかり出された姿なのだ。
「これの主は、おそらく道灌殿だよ」
「はて、道灌様はご家中をこれほどに大勢お囲いなのでございますか」
「足軽さ」
「あぁ」
佐平次は少々間延びした返事を返して来た。余りにも垢ぬけない兵達が何故これほど大勢屯しているのか合点が入ったらしい。
「なるほど足軽でおざるか。それにしても多うございますなぁ。この森にいるだけで五百程もいるでしょうか」
「合わせて千の軍勢か。豊島勢は集められても二、三百が良い所。合戦になるかな」
「それほどならば大安心。この佐平次も気安く働けるというものでございますよ」
「あまり気を抜いたいくさ働きをすると大怪我の元ともなるぞ。人数が多いとはいえ用心せぇよ」
「へっ」
佐平次は肩をすくませるような真似をして見せた。これが意外な滑稽芸のようで新九郎の笑いを誘った。
そのとき、背中から新九郎に声がかけられた。
「おい、伊勢の殿様」
声の主は先に来ていた小太郎であった。
「おぉ小太郎。道灌殿へ参陣の挨拶は済ませたのか」
すっと頭を垂れた小太郎は、見ようによっては最早新九郎の郎党のような雰囲気となっている。上背も新九郎より高く相対せば見下ろす程なのだが、どうにも位負けしていた。
「応、さきほど済ませて参った。御前様のことも道灌殿へ伝えてきたよ」
「それは苦労をかけたな」
「それでな、道灌殿が出陣前に御前様に会いたいと申されたぞ」
「そうか」
「周りが落ち着いた頃合いで使いを寄越してくれるそうだから、それまでその辺りを歩き回ってみぬか」
始めは太田道灌の陣所を遠目にも見てみる心算でもあったのだが、ぐるり辺りを見回してみると明神前にはずらりと並んだ参陣の人数で溢れている。
近付くまでにも余程ときがかかりそうであった。
「むこうから誘ってくれるならばそれまで待とう。ならば将門様の塚へ参ってみたいな」
「では案内仕ろう」
小太郎に案内されながら境内の内にある塚へ向かって歩くと直ぐに土饅頭が現れる。
その上には板碑が鎮座し、ここが関東の諸将に敬われ祀られている祭神の一柱であることは一目で知れた。
辺りは掃き清められ、板碑も殆ど汚れがない。
神田明神の神人か神主が掃除をしているのだろうが、参拝に来る者も其々に板碑にかかる埃や土汚れを取っているものだ。
余程信仰を集めているのがわかる。
「うむ、この目では初めて見たが、これが豊田の小次郎殿の塚であるか。思っていたより小振りかな」
「豊田小次郎じゃと?」
新九郎は一度、塚の主である一柱に拝礼すると、そのまま塚の周りをするすると歩き始めた。
小太郎もその後を付かず離れずゆっくりと歩いている。
「これは将門の首塚でござろう」
新九郎は歩きながら、ちらと小太郎を見た。眉の片方が奇妙に持ちあがり気味になっていた。
「この神田明神の一柱である神を目の前にして呼び捨てにするとは不敬なやつめ。『様』をつけぬか」
「ならば、やはり将門「様」でござりますな。豊田の小次郎とはその神様の別名でござろうか」
「さよう。他にも相馬小次郎とも呼ばれていた様子だが、本貫地は下総国の猿島郡と豊田郡でありその館を豊田に置いたようなのでな、儂は豊田の小次郎殿と呼んだまで」
「知らなかったとはいえ、その名であれば儂とは一字違い。神様であっても何と無う親しみを感じるものですなぁ」
小太郎は将門の名である「小『次』郎」と自分の名の「小『太』郎」の響きが近い事に勝手に親近感を覚えたようだ。ひとしきり笑っている。
「それにな、我が伊勢家もこの将門公と同じ平氏よ。謂わば血を分けた肉親でもある」
「ならばご先祖の墓参りとも言えますな」
「まさにその通り。桓武天皇五世の孫であり関東に覇を唱えた英雄でもある。まぁこれは御上にとっては朝敵だから、儂もあまり声高には言えぬがな」
「しかし、儂のような乱破でも知っておることなのだが、御前様は伊勢平氏の伊勢殿じゃろ」
「そうだよ」
「ならば伊勢平氏のもとは国香様にござろう」
「よう存じて居るな。そう、我が伊勢家は国香様から別れた平貞盛の四男、維衡様を祖としておるよ」
「ならば、なぜその国香様を焼き打ちした将門様を奉じるので」
「未だ御上は将門殿を逆賊と云う事にしておるようだが、儂から見れば一族の英雄さ。それに、国香様を焼き打ちしたとは言っても、その国香様は源氏の姫君を娶っておられた。また国香様の弟君である義兼様も同様」
「と言う事は、将門様の起こした乱とは、平氏と源氏の争いだったと言う訳ですな」
「そう。将門殿の領地も横領されていたと聞く。ならば同情の余地はあっても恨む元になるものは何もないのさ」
「なるほどのぅ」
ぐるりと塚を回った新九郎が板碑の前に戻ると、再び頭を深く垂れて目を瞑った。
しばしじっと動かなくなった新九郎をよそに、丁度その時、道灌の使いと名乗るものがやって来ると足柄の男達に声をかけていた。
その男が小太郎に耳打ちをしている。
「御前様、道灌殿がお会い下さるそうじゃ。そろそろ参ろうぞ」
小太郎の声に反応したかのように頭をゆっくりと上げた新九郎だったが、その眼は板碑を睨むように見ながら腹の中で唸り声をあげていた。
(この関東の地に一大王国を建国なされようとした御前様にあやかりたい)
羨ましかった。これは羨ましいという生易しいものでは無い。新九郎の腹の中では、最早羨望に昇華されようとしているのだ。
室町を出るまえ、伊勢屋敷で父盛定の言葉を聞いて悶々とした夜があった事を鮮烈に思い出している。
(天下国家を揺るがす)
一つ大きく息をのみ込んだ。
(我が家は備中で高の知れた三百貫の領主だ。しかし室町を見よ。乱で荒れているではないか。おそらくこの後も数年は荒れよう)
微動だにしなくなった新九郎を、小太郎は心配そうな目で眺めている。
長い墓参りだと思っている風でもあった。
(小太郎もこの国は血で固められた権門貴族のモノだと言っていた。だが、天地を揺るがすような乱があれば崩れるとも。ならば今の室町の乱がそれに近いものではないか)
新九郎は自らの思いに、次第に血が沸き立つことを感じている。
鼓動が速くなり体温があがった。
(天下国家、いや、御上や幕府からの独立した国を造ることも夢ではあるまい。だがしかし、数年は乱に隠れ実力を付けて行こう。この関東行脚も室町の為では無く、儂のためのタネとしよう)
吸い込んだ息を一気に吐き出すと、新九郎は将門の塚の前で柏手を打ち、二礼二拍手一礼の参拝の礼を執った。神への礼拝である。
(将門殿、我に力を貸せ)
腹の内で大きく叫ぶと、塚の前からくるりと振り返った。
「では小太郎、道灌殿の元へ参ろうか」