風魔
関所小屋が轟々と火を噴きあげ始めた。辺り一面の宵闇がその部分だけ切り取られ、遠方からでも美しい紅蓮の演舞を伺う事ができたことだろう。
燃え盛る小屋を尻目に新九郎主従は歩きだした。
「おそろしげな」
とは、繰り返し振り返ってその光景を見た佐平次の独り言である。
「これがな、後に面白い事になるさ」
「面白い事でございますか」
「応とも」
「ほんに面白い事ならばよいのですが」
「なに、悪くても道灌殿には近づけたと思うぞ」
車輪が今にも外れそうにがらがらと鳴る荷車に荷を積んだ主従は、闇夜に松明も点けずにまずは東へと道を取り先の村に向かっている。
辺りは一面、暗い。唯一の光源だった燃える小屋を離れれば、そこにあるものは月明かりのみである。詩の心があればこの主従二人の侘しい粛々たる行脚を詠む事もできるかもしれない。
事実、新九郎は詩歌にもそれなりに精通している。だが、今宵はそれを詠む事はなかった。
「しかし、暗いですな」
村から持ってきた松明を関所小屋の火種にしてしまったお陰でもう手元に松明は無い。無いだけではなく、新九郎が松明を使う事を禁じていたのだ。
「月がこれだけ明るければ足元に不自由はすまい」
「さようにございますが、なぜ松明を使わないのでございますか」
「知りたいかね」
新九郎はにこりと微笑んでみせた。
関東平野は、そこ以外に住む者にとっては想像を超える程に平坦ではある。下野国(栃木県)の南側や下総国(茨城県・千葉県)辺りであれば甲斐駿河境にある富士の高嶺が見えるなどと言うと本気で笑われる程なのだが、特別高い所に登らなくとも事実見えるほど平坦な土地が茫漠と広がっている。しかし新九郎の居るこの辺り、武蔵の江戸と呼ばれる付近は平野の中にも珍しく谷や丘に恵まれた地形であり、至る所に水辺が入り込んでいた。
兵を置くのも賊を置くのも頃合いの地形となっているのだ。松明等を点ければ遠方からでも血の臭いを嗅ぎつけた肉食の獣のように、足音を忍ばせ起伏に身をひそめながら夜盗共が群がって来るのは予想できる。起伏の激しい場所ではいつどこで賊に襲われるか分かったものではない。
「備中の山野はな、ここよりももっと恐ろしいところだぞ。先ほどの関所辺りならば平坦な土地ゆえに、運良く相手が明かりさえ持っていればずいぶんと先から逃げおおせることができるが、ここのように見通しが利かぬところではどこから賊に狙われるか分からぬ」
そう言いながら新九郎は、先にある丘の裾にある見通しの利かない辻を指差した。
「あのような所で賊は待ち伏せしておるものよ」
佐平次はその言葉で怖気を振るった。
「くわばらくわばら」
「そこでじゃ、佐平次」
「はい」
「あの辻に一足先に行って様子を見て参れ」
「ええっ!」
佐平次は驚いた。というより、つい先ほど新九郎の口から、あそこならば賊が居るかもしれないと言ったばかりではないか。それをわざわざ行けと言うとは。この主人について来たのは間違いだったかとの思いが過った。
「それは余りに無体でございます」
佐平次は泣きそうな表情になっている。しかし新九郎はそれに斟酌する事は無かった。
「良いから、まずは行け」
このとき、新九郎の視線が先の辻から丘の稜線を辿り、自分達のいるほぼ真上まで伝っていることに気付いた。
「と、殿様、まさか」
新九郎の人差し指が口の前に立つ。
「確か、荷の中には弓があったな。ちと、それをあるだけの矢と一緒に取り出してくれぬか」
その声は何かを警戒するような小声である。これに佐平次は危急の事態である事を知った。
「……はい」
言われるままに荷車に載った荷を解くと、弓弦と弓、そして空穂に入ったままの矢を新九郎に差し出した。
荷車を止めてその脇に立っていた新九郎だったが、佐平次の差し出した弓弦を受け取った途端にぱっと伸ばすと、逆に反った弓を押さえつけて末弭に弦環をかけた。見事な早業である。
「佐平次、ちと手伝え」
二人掛かりで弓をしならせ、元弭にもう一方の弦環をかけ終わったとき、丘の斜面辺りから小石が崩れてきた。崖状になっている上部に人がいるのだ。
「さっきの追剥だろうな」
新九郎は関所小屋に来る前に見つけた森の中の火明かりを覚えている。そのとき確信は無かったが、遠方から見える関所の火事で何かを察してこの辺りまで出向いて来たのだろう。
これがどこかの家中武士団であれば派手に松明を焚き武威行動を示して近寄って来るものだ。それを忍び足でやって来た。
「間違いなかろう」
新九郎は独りごちた。
「殿様」
「佐平次、さっさとあの辻まで行かぬか」
「し、しかし」
「お前がいてはちと足手まといじゃでな」
新九郎は笑ってみせた。ようは佐平次を危ない目に合わせない為の新九郎の心遣いでもあったのだ。
「殿様、どうぞご無事で」
「あたりまえよ。儂が無事であらねばあの百姓共がみな冥途へ行ってしまうわい」
佐平次が名残惜しげに幾度も振り返りながらその場を去ると、きっと表情を引き締めた新九郎が崖の上を見た。
一人、二人、目で数を追って行くうちに朧げに見えて来た人数は十人を超えているようだ。だが、考えようでは手下が二十人程度しか居ない追剥とも言える。
「やろうず」
暗闇の中、荷車を楯に構えた新九郎、矢を番えてきりりと弦を引き絞ると最初に目に入っていた者を確実に射止めていた。
声もあげずに丘の上から転げ落ちた男の仲間は何が起こったのか分からず慌てている。その間も新九郎は次々と矢を番えてはひょうと放ち、まず的を外す事がない。
この人並み外れた芸当は、暗闇の中の出来事とは云え当然と言えば当然でもある。先に新九郎の出は伊勢家と言った。伊勢家は礼法の家とも。
その礼法も外向きである弓術・馬術は小笠原家が担当であるとも述べたが、それは飽くまで一般に口伝で広まっていただけの事であり、本来は伊勢家も弓術・馬術の礼法がある。また新九郎もその達人の域まで来ているのだ。
将軍家主催の流鏑馬などでは伊勢家も見事な腕前を披露するのである。
そんな新九郎が足を地べたに付けて矢を射るのだ。馬上でも滅多に的を外す事の無いその腕は確実に的の星を射抜く。
つるべ落としに仲間を射殺された丘の上では何者かが「弓じゃ」と叫んでいた。
崖の上の者はここにきてようやく何が起こっているのか悟ったらしい。外れる事の無い矢が次々に仲間を射落として行くところを目の当たりにした者から物陰にするすると身を隠していく。
全ての影が消えたことを見届けた新九郎は荷車をそのままに丘を迂回して辻とは反対方向から崖を登りはじめた。
崖の肌に根を張りしっかりと粘る草木が生えた斜面は、手でそれに捕まり登り易い半面長大な弓は邪魔になる。
先ほどまでの有力な武器を惜しげも無く打ち捨てると、一気に登りきった新九郎は崖の上に隠れた者達の後方に出た。
そして声も出さずに太刀を鞘から抜き放ち、未だ崖下に気を取られている者の背後から順繰りに斬りつけて行った。
暗闇のなかでの阿鼻叫喚である。
松明を点けない荷車を襲う心算の追剥達が反対に襲われているのだ。
新九郎が振り下ろす太刀が当るを幸いに七、八人ほど斬り捨てた頃、半数ほどになっていた追剥達の奥から一際大きい声が上がった。
「まてまて! これは驚いた」
その声に新九郎は反応した。
声をかけられたせいで太刀を振りまわす事を止めてしまったが、直ぐに手近な男を楯にすると声の主に目線をやる。楯にされた男は不意に腕を捻りあげられ後ろ手になった腕と肩の痛みに耐えきれずに悶えていた。
「余り動くと腕が折れるぞ」
耳のそばで恐ろしげな台詞を聞いた男は腕を折られてはたまらぬと痛みを堪えたようだ。
「それでよい」
静かになった男の肩越しに先程の声の主を伺った新九郎、夜目に慣れ相手の表情までが見える。表情どころかその装束までもが見えた。
上背があるが、随分と細身の男のようだ。
「我等の所に一人で乗り込みこれだけの人数に臆することなく立ちまわるとは、余程腕に覚えのあるものなのか」
どうやら声の主はこの追剥共の頭なのだろう。
「ならばどうする」
「これだけの腕前じゃ、まず名を聞かせい」
「なにゆえ追剥が儂の名を聞きたがる」
「追剥か……、確かに、追剥だな」
この言葉に新九郎は違和感を覚えた。追剥がなぜ物悲しそうに言葉を繰り返すのか。しかし夜目で見えるようになった装束は、どうにも追剥然とはしていないのも確かだった。
山野に寝起きする追剥・夜盗の類は総じて垢じみた、元は何色で染めてあったのか分からない小袖を着ているものだ。そこに落ち首拾いで集めた胴丸などを着込むのが通例でもあり、京の町を我が物顔で歩き回るようになった足軽にどことなく似ている。
しかしこの目の前の追剥は洗ったばかりのようなかちんの小袖を着ており、頭も茶筅にきりりと結い上げてある。
「その方、追剥ではないのか」
「いや、追剥だよ」
「ならば討ち捨てるまで」
新九郎は片手で太刀を振り上げた。
「待てと申すに」
追剥の男は得物を持たずに新九郎の前までぬっと進み出た。
「今は追剥をしておるが、我等は相模の足柄を根に持つ風間の一党じゃ。儂はその棟梁よ」
「ふうま、じゃと?聞いた事がないな」
「風間を知らぬでも相模の守護職顕定公(山内上杉)ならば存じて居ろう」
「それは知っておる。だがふうま等という一族が足柄郡の地頭だなどと聞いた事が無い」
風間と名乗った男は呵々と笑った。意外なほどに高い声だった。
「それはそうじゃ。儂は地頭では無い。足柄を根城にしておる乱破だよ」
「似たようなものではないか。で、その足柄の乱破がなぜ江戸におる」
「ちいと前まで我等は道灌殿に雇われておってな。つい先ごろ鎌倉殿(古河公方)といくさするために岩付まで行ったのは良いが、上杉様と鎌倉殿が矢止めとなって合戦がなくなってしもうた。我等は領地を持たぬゆえに合戦での稼ぎが無ければ飢えるしかない。そこで仕方なく追剥のような事をしながら足柄まで帰る途中ではあった」
ここまで自分の出自を打ち明ける乱破を頭から信用する心算もなかったが、どうにも嘘を言って新九郎を騙す心算りでもなさそうだ。
新九郎は楯にしていた男を開放してやった。
「儂は備中荏原の地頭で伊勢と云う。室町の、伊勢の連枝よ。して、その方の名はなんと申すのだ」
「伊勢か。伊勢貞親様の一族だな。儂は小太郎。風間の頭領、小太郎じゃ」
伊勢貞親を知っているところをみると、この追剥は室町の事も少しは心得ているのだろう。道灌殿や管領上杉殿との関わりがあるのは事実のようだ。
「よく存じておるな。さよう、その伊勢の親戚さ」
「ふん、しかしなぜその伊勢様がこのような田舎に一人でおられる。流されたか」
「たわけた事を抜かすな」
「まぁよい、しかしあの関所の火事、あれはお主が火を点けたのだろう。なぜじゃ」
「良く見たな。儂はここに来る途中、死にかけた村を通って来た。そこは重い年貢がかけられ働けるものは兵に取られ、残った者の殆どは死にかけていた。それを助ける心算であの関所に火を点けたのさ」
「村を助ける、だと?」
「ただの気まぐれよ。だがあの関所は豊島が領分、儂が救おうとしておるのは太田が領分。何故あの関所に火を点けたか、太田との繋がりのあるその方ならばわかるだろう」
新九郎の話を聞いていた小太郎は目を輝かせ始めた。両の掌をぽんと打ち叩くと何度も頷いている。
「なるほどなるほど、これは面白い御仁に出会ったようじゃ」
小太郎と名乗った男は腕を組み、うろうろと歩きながら何かしばらく考えごとをしていたが、ふと振り返った。
「ならば我ら、これよりお主の手伝いをしよう、いやさせてくれぬか」
意外な申し出に新九郎は少々驚いた。ついさっきまで殺し合いをしていた男が新九郎について来ると言っているのだ。どう言う心境の変化なのだろうか。
「そこもとは儂とともに村を救うと申すのか」
「その通り。儂はほんに面白い御仁に出会ったぞ」
「儂の郎党になると言っておるのか」
「それは違う。我らは小田原の大森殿や江戸の太田殿に銭で使われる身。今は太田の道灌殿の指図で動いているゆえそれは反故にはできぬ。しかしお前様と同じ様に気まぐれで太田の百姓を救って進ぜたい」
「ほう、それはなにゆえ」
新九郎はにやりと笑みを溢していた。
「お前様が豊島と太田の中互いを誘ってくれたからな。それならば太田の村で合戦騒ぎになるまで時を過せば稼ぎ口が出来るというものさ」
「さようか、ならば儂がお主らの恩人と云う事にもなるな」
「これは」
小太郎と名乗った男は少々面食らった。
「なかなか食えぬお人でもあったか」
「なに、儂を食う事はできぬが、もし儂と志を共にして村まで行くと申すなら、さきの関所から拝借してきた銭と米をお主らにも分けてやろう」
佐平次は月明かりの辻で一人待っていると、静かになった崖の上から人数を引き連れた新九郎の姿を見て驚愕した。まさか追剥共に新九郎が捕えられたのかと慄然としたのだが、次の瞬間、新九郎の笑い声が響いた所を聞くとどうやらそうでもないらしい。先ほどまで命のやり取りをしていた筈の追剥を配下に加えたような素振りとなっている新九郎を見て、我が殿であるあの男は奇妙な術でも使うのかと小首を傾げていた。
しばらくすると、暗かった空も次第に東から赤みを帯びると明けの明星が現れた。日の出の刻限が近い。
風の凪む早朝を豊島領から太田領に入った辺りで日が昇った。
その旭に照らされながら、荷車を引いた佐平次と新九郎主従、そしてその後ろから足柄の男達がぞろぞろとついて歩く。
行く時には二人きりであった宝の升探しの行脚も、帰りには奇妙な男達を引き連れた行列となっていた。
村に入ったころには辰の刻限となり日は高く登っている。
辺りは明るく普通であれば百姓達が総出で田畑の手入れを始める頃合いだ。だが当の村には人の気配がしない。また村に近い雑木林も日頃の薪で使われる筈の柴刈りもされていないため下草が鬱蒼としていた。
病んでいるのだ。村すべてが、である。
村人は昨日、久しぶりの飯が食えたとはいえ未だ病床にある。深刻な病に倒れたままなのだから致し方ない事ともいえる。
一行の入った村は、一応は燦々とした日の光に照らされてはいるが、目に映るものはすべてが陰鬱の底に沈んでいる。
全ての家屋が廃屋然としており、家屋敷の庭や茅葺の屋根には伸び放題になっている草が緩い風に嬲られていた。
「……伊勢殿、御手前が申していた村とはこれか?」
余りにも人の気配の無い村に小太郎は少々驚いた。近頃良く見られる、村人に逃散された村にしか思えなかった。
「捨てられておるのではないか」
男達の誰かが呟いた。
このように寂れたところに、本当に人など残っているのか、との疑問が湧くのは当然だったろう。
あれじゃ、と新九郎は一軒見の屋敷を指差して見せた。その仕草につられる様に足柄の男達が指先の向く方角に目をやった。
「病人は一つ家に押し込んであるからな。そこ以外に人はおらんよ」
新九郎は振り返り、消沈する男達を見回している。
「なるほど。それで余計に人の気配がないのだな。このありさまは痛々しいばかりじゃ」
村の現状を見た小太郎の本音でもあった。
「これが今の政の結果、でもあるな」
「うむ、しかしまぁなんじゃ。このようなところはこの辺りではどこにでも、それこそ掃いて捨てるほどあるじゃろ。ところで伊勢殿」
新九郎はうらぶれた村に視線を戻して眺めていたが、小太郎に返事をするかのように「うん」と声をだした。
「お前様の本貫ではどうなのじゃ、京の都も同じか」
「似ておるな。近頃はどこでも米の取れ具合が悪いらしい。領主はせっせと年貢(米)や税を絞り取ってその場をしのごうとしておるが、やられておる農民こそ良い面の皮じゃ」
「お前様も領主であろうに」
新九郎はこの一言には返す言葉を見つけるのに一苦労した。言い返したくとも言葉が無かったからでもあったが、だからと言って取れ高三百貫の領主ではどうする事も出来ないものだ。
「そうよ、それは致し方の無い事。お天道様が相手では何事もどうにもならぬし、地頭も政の為には銭米が必要だからな。しかし、施し程度ならばできる」
「この村に施しをされる事で由とされるか」
「偽善さ」
新九郎は諦めとも取れる表情であった。達観でもないことは当の新九郎が良く分かっている。年貢を取らなければやって行けない領主である新九郎に、この村の現状をどうこう言える筋合いは無い。
「そうか。でもな伊勢殿、儂は偽善でも良いと思うぞ。偽りであろうが何だろうが、救われる者は救われる。儂はお前様のような領主には初めて会うたわい」
「そうかね。そう言われると少しは気が晴れる」
「うむ、決めたぞ」
「何を」
「今の年季が明けたら、儂はお前様に仕えようと思う。どうじゃ」
「ついさっき我が郎党にはならぬと言ったばかりではないか」
「気が変わった」
「勝手にせい」
がらがらと鳴る荷車がようやく屋敷の入り口まで到着した。
病人の看病をするため、「さて」と云う新九郎よりも早く動いたのは意外にも足柄の男達だった。其々の組を自然と造り、一つは水汲み、一つは飯炊きを始めている。さらに意外だったのはもう一つの組が雑巾がけを始めた事だ。また掃除の一環としてか屋敷の板戸、蔀などを全て開け放つと中の空気を入れ替え、屋敷の中を清めている。
「なぜこの屋敷の掃除などをする。これでは外からの風が入り込んで病が悪化するのではないか?」
新九郎の脇に立ち配下に指示を出していた小太郎は新九郎を見た。
「風邪の病とは云わば吹き流れる風の毒よ。家屋敷に入り込んだ風が外に出る事が出来なくなると、そこで淀む。すると風が腐り毒となるのさ。それを吸い込む事で五臓六腑が疲れて血の道がふさがり風邪の病となる。だからその淀んだ風を追いだし、清い風と入れ替えたまでよ」
「家中を拭き清めるのは何故じゃ」
「良くはわからんが、そうした方が治りが早い」
「ふむ、小太郎、そこもとは医術を心得ておるのか」
「医術というほど大層なものではない。我が里に昔から伝わるやり方さ。他にも風邪の病に効く煎じ薬や煮薬もあるぞ」
薬草を煮込んで水気を飛ばし大豆の粉や米の粉で丸めた、何に効くのか良く分からない丸薬ならば新九郎も持っていた。始めに村人に分け与えた薬がそれである。
おそらく鼻が通る程度の効き目しか無い様な代物ではあったが、飲ませぬよりはましとばかりに分け与えたものなのだが、回復して外に出ている者がいないところを見れば効果が無かったことは明白だ。だが、小太郎の言う煎じ薬、煮薬などもその程度の類なのかもしれないが、先ほどの立て板に水の説明を聞いた後では余程効き目のある薬なのかも知れないと思うのは新九郎も人の子だったためだろう。
「儂はいままでこの様な重病人を診た後はすべて寺の坊主に任せていたが、これからはその方のやり方のような事が理に適うのかも知れんな」
「坊主に任せる、と言うと、加持祈祷か」
「そう。それが当たり前だろう」
「上杉様や太田様ならばそうであろうな」
「ふむ、面白い。儂も風間の里に興味が湧いたわい」
「伊勢殿は京からこの様な辺鄙な田舎まで参られたのだ、どうせ暇なのだろう。お前様さえ良ければ案内してさしあげよう」
「宜しく頼もう。ともかく、この病人達を何とかしてからだな」