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坂東へ

 盛定から密かに義視が向かう事を知らされて伊勢で待ち受けていた一色家は、義視を下にも置かぬ饗応振りであった。

 草深い伊勢まで落ちて来た義視ではあったが、京ではいざ知らず、田舎の政治にはまだまだ純然たる影響力を持つものだ。

 公方の貴種性が地方の豪族に有難がらせる。中央を良く見知った新九郎にとっては実に馬鹿馬鹿しいことだが、地方に遠く離れた鄙であれば未だに雲の上の人となって手を合わせて拝んでくれる。

 当の義視も京の御所での扱いとは雲泥の差があった為かいつにも益して上機嫌だ。

 一色屋敷に都の公方が来たと言う噂は瞬く間に伊勢中に広がり、近隣の地頭・豪族などは滅多に見る事ができない公方を見ようと進物を荷車に乗せて一色館までやって来るほどの賑わいをみせていた。

「新九郎、よくぞ儂を伊勢に落としてくれた」

 最初こそ新九郎の手を取るようにしながら舞い上がる程に喜んでいた義視だったが、ただ、それが連日となると話が変わって来る。

 始めの頃は公方への挨拶と称して各地から足を運んで来る豪族達を億劫とする事も無く始終雛壇の上で受けていたものの、これがやたらと数が多い。

 七日も過ぎるころになると流石に義視は懲りたようであった。

「新九郎、この地頭共の挨拶じゃが、どうにかならぬか。落ち着いて酒も飲めぬ」

 酒が飲めぬ、とは義視の諧謔なのだろうが、確かにここ二日ばかりは挨拶疲れで酒宴も辞退し、早々に寝所へと引き取っている。

「御前、今少しの辛抱にございます。鄙びた伊勢では御前のような貴種血統を目にする機会が少のうございましょう。故に公方様を物珍しく思い、また有難がってこの様に……」

 新九郎は義視の左右に山と置かれた進物を指差した。

「貢物をもって参るのです。どうかもう少し、悪意の無い可愛い者共と思し召しませ」

「なれどこう毎日では体がもたぬ」

「確かに、さようにございまするな。ならばこうしては如何でございましょう」

 新九郎は膝を進めた。

「御前は酒をお召しになりたいと申された。ならばこれより挨拶に参ったものには酒宴に招くのがよろしい」

 義視は掌をぽんと打つと、その表情がみるみる明るくなってきた。

 苦痛であるばかりになっていた豪族達の挨拶が、酒宴と言う艶陰な楽しみに変更された事が余程嬉しかったのだろう。

「なるほど、それは名案じゃ。早速支度をせよ」

「なればそれがしは別室にて支度をしてまいります。御前には少々お待ちいただけますように」

 さっと平伏して義視の前を辞した新九郎、一色義直の元に向かうと直ぐに酒宴の用意をしてくれるように頼んだ。

 館の主も喜色満面の笑みを浮かべ、それはよろしゅうございます。と二の句も無く同意してくれた。義直も近隣豪族を堅苦しく迎えなければならない作業に疲れを見せ始めていたことも幸いしたらしい。

 この直後から義視も念願の酒宴となり、地頭達の挨拶が含まれるという煩わしさはあったものの、連日酒を振舞われ数日前の今出川邸での続きができたようで更に満足したようである。

 あとはここの主、伊勢の豪族殿にこの今出川の鉄漿殿を任せておけば良い具合に進む。

 義視伊勢落ちの一仕事が一段落した瞬間であった。

 一方、新九郎達にも今出川の申次衆という肩書があるので、なかなかに豪勢な馳走が振舞われている。が、しかし、それが元で今度はこちらが悲鳴を上げる番になっていた。

 今度は連日続く酒宴に義視の側近と言う事で新九郎も同席を余儀なくされていたために酒量の少ない新九郎は辟易としていた。

 酒宴を進めた張本人とはいえ、義視がこうまでも底無しだとは思いもよらなかった。注いでも注いでも酒が溜まる事が無いざるなのだ。

「これは参った」

 ある日、酔いを抜いてまいりますと言い残して酒宴の席を離れた新九郎。広間脇の濡れ縁で腰を下ろしたとき、大道寺が傍らに寄って来たときに漏らした本音である。

「連日これではお身体が持ちますまい。良い加減で切り上げられてみてはいかが」

「さようよな、これでは身が持たぬ」

「殿に倒れられでもされたら我らが路頭に迷いまする」

 大道寺は洒落たのだろう。

「安心せい、こうなるように仕組んでもいたのさ」

「酒宴で酔いつぶれる事を、でござるか」

「そう。具合が悪くなれば義視の傍から離れることもできよう。それに今は儂より一色殿の方がべったりじゃ。これは好都合」

「ほう、なぜ好都合なのでござるか」

「今宵、儂は病で伏せるぞ。見舞いと称して七人で我が元へ来よ。そのときに話して進ぜる」

 そう言い残すと新九郎は再び義視の座る酒宴の座に出向いて行った。


 そしてその晩、新九郎は急な腹痛を理由に酒宴の座が設けられた屋敷とは少々離れた屋敷に一室を借りうける事ができた。

 そこに入るまでは如何にも急病人のように両脇を抱えられながら歩いて行ったものだが、新九郎が座敷に敷かれた褥に入れられたあと一色家の家人が心配そうに顔を覗いてくれていた。

「まことに申し訳ないことです。我が主義視公が世話になっていると申すのに、家人であるそれがしが病に倒れてしまうとは」

「なにをおっしゃられる、公方様(義視)と同じく、儂らにとっては貴方様も雲の上のお方。御病気ならば快癒されるまで御芳志致します」

 新九郎は息も絶え絶えといった風情で言葉を返した。

「そ、それは有難いお言葉。ならば、と言う訳ではござらぬが、万が一と言う事があり申す。それがしの遺言を我が家臣たちに伝えておきたい故、どうかそれがしと共に来た七人をここに呼んでは下さらぬか」

「何をお気の弱い事を。ただの水中りでございましょう。気をしっかりとお持ちくだされ。その七名の方々には私からお伝え申し上げておきまするゆえ、ごゆっくりとお休みなさいませ」

「たのみます」

 枕頭を立ちあがった一色の家臣が座敷を去ると、新九郎はむくりとおきあがり、締められていた障子を少しだけ開けた。

「まずは良し」

 先の宣言通りの仮病なのは間違いない。

 障子の隙間から見えた一色屋敷は既に日も落ち夜の帳の中に沈んではいたが、義視の居る酒宴の場は篝火や燈明が赤々と辺りを照らし出している。

 また進物の中には酒の肴となるものも多く、懐の痛まない義直も嫌な顔一つ見せず義視の放蕩に付き合ってくれている。

「鉄漿殿には丁度良い守役じゃな」

 一方、新九郎は障子を締めると宛がわれた部屋で燈明皿にこよりを二本差し込んだ。

 炎がふわりとひろがり、新九郎の畳みに落ちた影が一層その濃さをましてゆく。

 一色の家臣に託した事は、捕えようによっては他家に上がっての家臣との密談とも取れるものだ。ここで余計な詮索をされて義視の立場を悪くすれば伊勢から出ざるを得なくなる。

 暗い中での話は自然、悪だくみと取られる事もある。病気と称してはいるものの、誰の目が光っているか分からない所では警戒が常に必用なもの。

 気を配らなければならない。

 夜にも関わらず板襖を使わずに障子のみを締めた部屋の明かりを外にわざと零れさせた。

 中に居る家臣の影は如何にも新九郎の看病のようにも見えるだろう。

 そんな中、褥に胡坐をかいた新九郎の元に足音も静かに先の七名がやって来た。

「殿、お加減は如何にございましょうか」

 問いかけた大道寺に障子の内側から声がかかった。

「来たか、入れ」

 すっと障子をひらくと、そこには胡坐をかいた新九郎が褥に座っていた。その様子はどうみても急病人には見えない。

「計画通りにござるな。してどのような話しなのでござろうか」

「うむ、まずは周りに座れ」

 褥を前にして家臣がそれぞれ左右に着座すると、新九郎はいちど、全員の顔を見まわした。

 その主従を、油を満たした火皿がゆらゆらと煙をあげ、ぼんやりと照らしだしている。

「みな、苦労だった」

 新九郎を取り囲むように座った六人が神妙に頭を垂れた。

「さて苦労ついでなのだが、これからもう一度、その方達には一働きしてもらいたい」

「それにござる。まず何をすれば宜しいでしょうか」

「儂はここに来る時、その方達には伊勢で数年厄介になれと申しておったが、このありさまを見て気が変わった」

「ならば、どうされます」

「その方たち六人は明朝より駿河に下向し、今川義忠殿の元に参ってそちらで数年の間厄介になっていてもらいたい」

「明朝ですと、それはいきなりでございますな。して、行き先は今川殿でございますか」

 これは在竹兵衛。

「さよう、我が妹が嫁に行った先だから粗末には扱うまい、わしの口添え状も持って参れ。それとな、駿河から見た伊豆、相模の情勢をつぶさに調べておけ。それと鎌倉の公方じゃが、これは関東の古河と言う所に落ち延びたと聞いている。この情勢も駿河で手に入れられる程度のものをそれとなく探っておいてくれ」

「まず伊豆相模ならば管領の扇谷と山内ですな」

 これは大道寺。

「そうだ。伊豆の堀越には政知様もおられる。できればこの古河の当て馬も調べたいものじゃ」

「当て馬とは、殿ともあろうお人がずいぶんとお口がお悪い」

 山中才四郎がからからと笑っている。

「坂東で強勢となった鎌倉殿を押え込むには上杉の管領を使えば事は治まると思っていたようだが、ことはそう簡単では無かったようでな。上杉の家も四分五裂すると鎌倉殿だけを相手にしておる事もできなくなった。よって苦渋の策として室町から形だけだされた鎌倉公方の後釜が堀越公方じゃ」

「ならば管領家は堀越様の指揮下に入っておるのですか」

「堀越はなんの実権もないよ。全て室町からの指図で動いていると聞いている」

「なるほど」

「伊豆は山内上杉家の分国ゆえ上野の本貫を探らなければ雲を掴むような話になるかもしれぬがそこは儂が行く。それよりもその方たちは相模だな。小田原の大森、そうそう、鎌倉の先の三浦もな」

「かしこまってござる。しかしいま、殿は上野に儂が行く、と申されましたか」

 新九郎はうむ、と顎を引いた。

「明朝儂は、お前達と共にここを出立し諸国見聞に参る心算でおる。佐平次、その方はこれよりわしについて参れ」

 余りの事に驚いた佐平次は目を丸くしていた。伊勢から上野。これははるか彼方までの道のりと思われたがらだ。

 佐平次は今まで京の都でしか生活する場を持たなかった。いま伊勢国にいるのも新九郎に連れて来られたからであり、ここへ来るのにも一世一代の大旅行だったのだ。それをその数倍北に向かって旅塵にまみれなければならないとは。

「こ、上野に参られますのか」

「せっかく今出川殿を離れるのだ。駿河の北東、坂東を見回ってくるのさ」

「坂東には荒くれ武者や鬼が住み着いておると聞いておりますでな、少々気が進みませぬわい」

東夷あずまえびすは遠い昔の話じゃ。とも言い難いが、確かに坂東は荒れておる。しかしその乱を作っているのは室町じゃ。鎌倉殿の元に集まれば良し。管領殿の元に集まってもよし。しかしその何れも戦乱で明け暮れ血で血を洗っておる」

 このとき、自らの言葉の中で荒れる関東に隙があることに気がついた。禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などを経て中央から様々に追討を受けた関東。

現在は鎌倉殿の力は衰え、その配下であった管領上杉家が何家にも分かれて覇を競い合っている。

『いけるかな』

 関東の力を元に自らの将軍への影響力を持つ野望が朧げながら出来つつあった。


**************


 翌朝、一色義直に緊急の別れを告げ、義視のことを託した新九郎、伊勢から海路で尾張に向かうとその足で三河、駿河へと入った。

 新九郎はここで六人の家臣に駿府へと向かうよう指示すると、自らは佐平次のみを従え駿河を通り越して相模を抜け一気に武蔵まで足を伸ばす事になる。

 その間およそ一月。

 新九郎の東海道行脚は国々の政治や情勢、百姓達の暮らしぶりなどを見ながら歩く。

 しかし、いまだ家臣と共に歩いていた尾張の関所を越えたあたりで伊勢の名の影響力が陰りはじめ、三河を越えるころになると関所を抜けるのも一苦労となったものだ。

 賄賂が必要なのである。

 もし行商の商人などが商隊を組んで通行しようとするなら、手持ちの鳥目が何貫文あっても十も関所を越えれば無一文になってしまうだろう。

 幕府政所執事、伊勢家のご連枝などと言った所でその肩書は最早通用しなくなる上に、それほどこの時期の関所は通行人から税を搾取することを目的としていた。

 だからと言ってこれをその国を治める領主に相談等は持ちかけられる事ではない。その関所の通行税が領主達の収入に直結しているからだ。

 為に、なおの事搾取は手ひどかった。

 新九郎一行は浜名湖と三河湾を望む場所にある今切関所では手持ちの路銀が少なかったために数日間も留め置かれている。

 そのとき偶然にも上洛していた今川家の一行が自領に戻るために行軍していたところに出会ったため、通りかかった今川家臣に話をつけて無事関所を越えた。

 大道寺達とはこれで別れることになった。

 そして武蔵。

 武蔵、両総、安房に囲まれた内海を眺めながら武蔵の海沿いを鎌倉から下り、見える範囲全てが葦原ではないかとも思えるほどの広大な平野を、新九郎と佐平次主従は海岸から眺めていた。

「なんとも広い土地にございますなぁ。目がくらくらと致しますぞ」

 佐平次は京の盆地しか見た事が無い。

 見渡す限りの関東平野は、佐平次には目眩となるほどに広かった。

「わが庵は、松原続き海近く、富士の高嶺を軒端にぞ見る。か」

「それはなんでございましょう」

「いまの歌かね」

「さようにございます」

「これはな、いま居る武蔵の守護、扇谷上杉家の家宰である太田道灌殿が上洛した折り、道灌殿の居城である江戸の城はどのようなところかと後土御門の御上に下問された事があったんだが、それをいまのような歌にしたのさ」

「なるほど道灌様でございましたか。ずいぶんと海に近いお住まいなのでございますな」

「ここから見えるかもしれぬぞ」

「まさか」

 太田道灌を肴に冗談を言っていた新九郎主従の立つこの海岸は、関東に厳然たる影響力を持つ管領家の分家、扇谷おおぎがやつ上杉家の勢力圏である。

 扇谷上杉家とは足利尊氏の母方にあたる血縁で、南北朝期に上杉顕定うえすぎあきさだが鎌倉公方に仕えて鎌倉の扇谷に住んだことからそう呼ばれるようになっていた。

 ここで扇谷の上杉家を管領山内やまのうち上杉家の分家と書いたが、事実は扇谷の分家が山内上杉家だ。

 元々は公家であったものが宗尊親王の従者として関東入りしたときに武家となったのだが、そもそもは丹波国何鹿郡いかるがぐん上杉の庄が本貫だった氏族である。

 藤原北家勧修寺流とも伝わる。

 それが足利に従い姻戚となったころに家が二つに分かれた。

 鎌倉に仕えてから関東に地盤を持った鎌倉府の執事、山内上杉家と、京に本貫を持っていた扇谷上杉家である。

 時代が下るとその二家も更に別れ、深谷、犬懸、宅間の各上杉氏となるのだが、その内の犬懸上杉家からは現在、伊豆の堀越御所に上杉政憲が名目上の関東執事として入っていた。

 全ての上杉家は室町にも関東にも近く、その影響力もいまだ衰えてはいないのだが、一族同士で勢力争いをしているために一時期、犬懸も扇谷の家も衰退した事があった。

 犬懸家はそのまま衰退著しいものの、つい最近では太田道灌と名乗る扇谷上杉家の家宰が一人気を吐き、山内の上杉家と比肩できるほどの勢力を持たせる事に成功している。

 さらにこの男は城の縄張りに天性の才能を持つと噂されているのだが、どの程度の人物なのだろうか。

 新九郎は興味があった。

 そして扇谷上杉家の現在の総領は政真と言った。

「新九郎様、これからどちらへ参りまするので」

「そうよな、まずは扇谷の様子を探ってみようかね。出来れば道灌殿にも会って話をしてみたいもの」

「上杉家の家宰様は詩歌に精通された雅なお方なのでございますなぁ、何事も優れたご領主とは聞き及んでおりましたが」

 小者とはいえ流石に今出川邸に仕えていただけの事はある。

 義視も次期将軍と目されていただけに各所からの来訪があったため各国の内情などが佐平次のような小者にまで流れていたのだろう。

「ならばこの佐平次めが前触れとして江戸のお城に伝えて参りましょう」

「まぁこちらから行っても良いがそれではちと芸がない」

「ならばどうなされますので」

「何か考えてみるさ」

 特に考えが有った訳ではないが、そう言うと砂浜を海風に嬲られながらも内陸に向かってすたすたと歩き出した。

 とりあえず今日の宿を見つけるためだ。

 近隣の大きな寺や地侍の屋敷などならば、義視の申次衆の箔で宿泊することもできたが、扇谷の治める武蔵領の実態も見ておくべきかな。とも思っている。

 室町の名を出してはそこの領主からどんな迎えが来るかもわからず、土地を好き勝手に見回る事などできはしないだろう。

 そして人影のない田の畔道をしばらく歩いて行った頃、かやぶき屋根の小さな家がぽつぽつと並ぶ程度の村に辿り着いた。

「村に出ましたな」

「手ごろな所だ。今宵はここで厄介になれると良いのだが」

「ならば、ちと様子を見て参りましょう」

 佐平次は速足になって集落の通りに進んで行った。しかし、どこか雰囲気がおかしい。

「はて」

 とは云うものの、なんだろう。何かがこの集落では足りなかった。

「どうかしたかね」

 道の中央で立ちすくんでいた佐平次は、いえ、と一言発すると手近な一軒に足を向けた。

 そしてその戸を叩くのだが、家人が居ないのか何の返事もなかった。

「佐平次、この村には人がおらぬようじゃな」

「あぁ」

 新九郎の言葉になる程と先程の疑問が氷解した佐平次。奇妙だと思ったことは村中どこにも人影が無かった事だった。

「それにございます。人がおりませぬようで」

「田畑に出向いている。かな」

「儂らはさきほど、田の畔道を歩いて参りましたが、だれも田にはおりませんでしたぞ」

「左様よな」

「とにかく一々と戸を叩いてみましょう」

 この村で今夜の夜露をしのがせてもらえなければ野宿である。伊勢からここまでも似たようなものだったので野宿も慣れたが、できる事なら屋根があると過しやすいものだ。

 佐平次が近くの家から順々に戸を叩いている。

「だれか居らんのか」

 次の戸を叩いても人どころか猫の子一つ出て来る事はなかった。

「どうにも奇妙じゃ。どれ、儂も叩いてみようかい」

 新九郎と佐平次がいくつか手分けして家人を探してみたが、稀に人の居る気配はするものの誰も表に出てこない。

「これは愈々様子がおかしいな、戸を開けて中を覗いてみるか」

 というと、新九郎はかたがたとなる引き戸を開けて声をあげた。

「誰ぞおらぬか」

 昼日中にも関わらず、蔀を跳ね上げることもしていない家の中は暗がりが広がり、昼の明かりに慣れた新九郎の目には暗闇に見えた。

 同時に妙な臭いが鼻をついてきた。

「なんじゃ」

 目を凝らして暗闇を見通すと、やっと日陰に慣れた視界に、人が横たわっているのが見えた。

「誰かいるな」

 土間をあがったところにある囲炉裏の脇で、この家人であろう、人が横たわっているのだ。

 しかし新九郎が家の土間に侵入してもぴくりとも動く気配がなかった。

 後ろから佐平次が入って来た。

「新九郎さま、これは、死んでおりますぞ」

「そのようだ。他の家も戸を開いてみよう」

「かしこまってございます」

 この後、村にある全戸の開けられる戸という戸は全て開いて見回ってみたが、ほぼ全ての家で死人が横たわっており、辛うじて息のあるもの数人が褥に寝込んでいるだけだった。

 健康と言える者は一人もいない。

「一体どうしたのだ」

 なんとか口がきけそうな者に尋ねると、何日も前から風邪の病が流行っており、村人が次々に倒れたのだが、健康な若い男は連日の戦に駆り出されているため働き手もなく、米はほぼ全て持っていかれるため病も治らず死人まで出る有様だったらしい。

「それは不憫な」

 一言漏らした新九郎はその場で目を瞑り、しばらく思案をしていた。


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