今出川館
「儂は伊勢じゃ。義視様にお取次せよ」
門番の小者は腰をかがめて如何にも服従するような素振りをみせたが、その実、腰を屈めたのみで目は無遠慮に新九郎を見つめていた。
「へぇ、左様でございますか。して、お前様はどちらの伊勢様で」
「どちらの伊勢とは如何なる事じゃ」
「御所には伊勢様が大勢いらっしゃるでな、名をお聞きしただけでは誰が誰やらわかりませぬ。よっていずこの伊勢様か聞いておる次第」
へへへと笑う佐平次は無遠慮な物言いではあったが悪気はないらしい。
「左様か、儂が京から出ておった間に門番も代替わりしてしまったようだな。ならば而今覚えておけ。儂は今出川様申次衆である伊勢じゃ。伊勢貞親様をご本家にもつ備中荏原の地頭だよ」
「さようでございましたか。ならばお通り下さいまし」
流石に次期将軍と目されていた義視の住む今出川屋敷の小者だけの事はある。還俗した当時の様な殿上人達の賑わいはなかったが、それなりの身分の者を門で相手にしているために新九郎の身分を聞いた所で驚く事すらしなかった。
「ならば通るぞ」
そう言って目の前を歩いて行く新九郎を、佐平次はその値を見るように足元から頭の先までじっくりと舐めまわすように見ている。
このとき、声を荒げたのは大道寺であった。
「無礼な」と一言、門番の小者を威嚇するような大声である。
「そのようにじろじろと眺めるとはどう言った了見か」
新九郎の後ろから歩いていたのだが、佐平次のこの行為がどうにも気に障った。
主人の姿を、今出川様の門番とはいえ、あからさまに眺めまわすとはどう言った心算なのか。余りにも無作法、無礼でもあり、つい腹に据えかねた大道寺が門番を怒鳴っていた。
「あ、いやこれは。御無礼仕りまいた」
「どうした」
見られていた事など露ほども気にかけなかった新九郎が太郎の言葉に振り向いた。
大道寺の急な大声に軽く驚いた風情である。
「この門番が殿のお姿を無遠慮に見ておりましたもので、つい」
「さようであったか」
恐縮する佐平次に、新九郎はからからと笑うと諭すような口調で語りかけた。
「初めて見る我らを怪しむには及ばぬ。何も今出川様を手篭めにしようというのではない。何れな、今出川様を伊勢国に落とさねばならぬ。そのご説得のために参内仕ったまでさ」
これを聞いた佐平次は、始めは呆けたような顔をしていたが言われた意味が脳裏を充分に走り回ると顔色を失う程に驚いた。
ただの好奇心から荏原の地頭と自らを名乗った男を眺めていただけだったのだが、その口から将軍後継者と目される足利義視を伊勢に落とすなどの言葉を聞くとは、驚天動地の言葉である。
ただの好奇心から荏原の地頭と自らを名乗った男を眺めていただけだったのだが、その口から将軍後継者と目される足利義視を伊勢に落とすなどの言葉を聞くとは、驚天動地の言葉に聞こえた。
「なんと申されます、それはまことにございますか」
先程までは寝惚け眼だった佐平次の目が丸く開かれた。
「やっと起きてくれたか」
再び笑い声をあげた新九郎だったが、直ぐに声を押し留めると佐平次の胸倉を掴んで手前に寄せていた。
佐平次の耳元に口を寄せた新九郎。
「まこともまことよ。何れ知れ亘る事ゆえ小者のその方にも話して進ぜたのだ。でな、門番であるお主が儂に手を貸し、平穏に事が成就するように力を貸してくれれば良いのだが」
新九郎は一度ここで佐平次を放してやった。
放心する様な目で新九郎を見る佐平次はもはや何事を言っても同意するだろう。
「もし儂の言う事が聞けず、公方に知らせに走るとするならばここで切り捨てるが、どうするか」
新九郎はわざと笑顔を作って見せた。
笑顔で物を言う新九郎とは対照的に、門番の佐平次はみるみる青ざめて行った。
「あの、あのあの」
哀れにも口を開閉させるだけで言葉が出ないようだ。
「では、力を貸してくれるな。罪の無いその方を斬るのは忍びない。これより一両日、義政様に近しい者がやって参った時には義視様は病で伏せっていると申して追い返せ。良いな」
否とは言わせない威厳が籠っていた。
ここで新九郎の申し出を断れば将軍後継者の秘事を知る小者として確実に新九郎のもつ太刀の錆になるのは確かである。ましてやたかが小者の分際で新九郎の申し出を断れるものではない。
「は、ははぁ」
佐平次は思わず地べたに貼り付いて平伏していた。
「ならば参るぞ」
新九郎は大道寺達家臣を引き連れると長屋門を潜って今出川屋敷の中に入って行った。
その入り口で屋敷の従者に来訪を告げると、接待役の侍が数人現れて新九郎を一室に案内した。大道寺達は家臣の溜まり場である侍所に案内されたようだ。
半刻ほども待たされた頃、じっと目を瞑ってその場に座っていた新九郎の耳に、廊下を渡って来る数人の足音が響いてきた。
新九郎はちらりと片眼を開けると、渡り廊下の先に、左右を近臣に挟まれるような姿で丸い下膨れの、やや機嫌の悪そうな殿上眉の鉄漿殿がやってくるのが見えた。
今出川殿と呼ばれた足利義視である。
酒に焼けた顔はやや赤黒く変色しており、公家風におしろいをしている為に首周りだけがやけに目立って赤い。
怠惰な生活をしているのだろうその顔は、目の下が爛れて隈がはっきりと浮き出ている。
目も今まで酒を飲んでいたのだろうか、充血して白目の部分が薄黄色く濁っていた。
「伊勢の新九郎ではないか、前触れもなく何用じゃ」
平伏した新九郎の頭上から、着座すると同時に声が降ってきた。
「御所様、お久しゅうございます。新九郎只今備中から参上いたしました」
「おう無沙汰じゃ。しかし何用ぞ。こちらからは呼んではおらぬぞ」
「これはこれは、御所様に於かれては腹の虫の居場所が悪いご様子で」
義視は一度、言葉を区切ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「その御所様もやめい。御所とは公方の事ぞ。それを知らぬ新九郎ではあるまい」
なるほどこの義視、兄の義政からの約束だった次期将軍の地位を安易に継げない為に自暴自棄になっているようだ。
「これは申し訳もございませぬ。ならば今出川の御前様、実は」
そこまで言うと、新九郎は膝を義視の近くまでにじらせた。
「火急の用件がございまして、前触れなく参上いたしました次第」
義視は檜扇を手元でいたぶりながら殿上眉を小刻みに動かしている。
「して何用じゃと申すに」
酒宴を邪魔されたのがよほど癪にさわるのか、随分といらいらした様子だった。
「実は、先ごろ周防の大内政弘殿が上洛するとの報告が参りましてございます」
小刻みに動いていた殿上眉がぴたりと止まった。
「な、なに、何と申した」
妙に甲高い声が響いた。
「大内殿が、上洛する。との事にございます」
「大内か。大内が参るのか」
「はい」
義視は喉の奥から唸り声を上げた後、じっと押し黙ってしまった。
「如何されました」
新九郎は少々意地悪く義視の言葉を待った。
「……面倒じゃな」
ぼそりと義視が口を開いた。
「兄上が、いや、嫁御前殿(日野富子)が何かと口煩かろうなぁ」
「五月蠅いどころではありますまい。大内殿が上洛すると言う事は、公方様は御前との対立にけりを付けるお心算ではないかと」
「けりじゃと」
「はい、殿を亡きものとするお心算にございましょう」
この時義視は阿呆のように口を開いて驚いた。
そんなに驚く事はあるまい。と思うのは新九郎だからか。
「面倒じゃ面倒じゃ。儂は公方になりたいだけなのじゃ。兄上も儂に公方の地位をやると言ってくれた。それを今更反故にするとはどう言った了見じゃ。新九郎」
「確かに面倒ではございますが、このまま放っておくと物事が悪い方へと流れて行くでしょう」
「何か、良い知恵はないか」
「一つだけ、有り申す」
「そうか、流石は新九郎じゃ。して、それは何じゃ」
「明朝、御前には伊勢国に落居して頂きます」
事もなげに新九郎が伊勢落ちを告げると、義視は何を言われたのか直ぐにはわからなかった。しばらく目をくるくる回していたが、やっと酒に漬かった脳細胞が動いたらしい。
「なっ、なにをたわけた事を、わしは伊勢になど参らんぞ」
「貞親様も政務に復帰なされた今、大内殿が上洛したとあればお兄君の義政様はともかく、正室の日野富子殿がまたぞろ悪だくみを始めるのは確実。此度は貞親殿のような讒言では済まぬかもしれませぬ」
義視は義視なりに冷静になろうとしたのか、一度顔をつるりと掌で拭い、そして酒臭い溜息を大きく吐いて見せた。
「ふむ、何にせよ、周防からでは京の都までどんなに急いでも十日はかかろう、火急と言うほどのことではあるまい。新九郎、伊勢落ちな、三日後までに支度せよ」
義視はこの時に及んでも酒の席に戻りたかった。伊勢に落ちればここにいるより贅沢はできない。ましてや酒を好きなだけ、また、いま屋敷にあげている旅の白拍子等を侍らかす事も出来まいと思うと、今の生活に名残惜しさが滲んだ。
「義視様、この報は我が父盛定からもたらされたもの、ゆめゆめ間違いではござらぬ。また大内殿は数日前から周防を進発している様子、上洛も最早猶予はありますまい。このまま京に入る事になれば山名方の力はますます上がりましょうぞ」
新九郎、少し誇張した。
義視はここにきてようやく事の危急がわかったらしい。小刻みに手が震え始めた。
「今、都は細川殿が押さえておりますが、大内殿がここに至れば山名殿が勢強になるは必定、まごまごして居りますれば義視様が捕縛の辱めをうけ、後には討たれるか、流されるか。いずれかになるは必定にございましょう」
序ではあるが、細川殿とは先に説明したとおり義視が還俗してから後見役となっている人物である。その後見役殿に敵対する山名宗全方に付く周防の守護、大内氏がこの度上洛するのだ。
もう一つ。細川・山名の二大勢力を東軍・西軍と呼ぶが、これは細川方の勢力が主に京を中心に東方面に多く、山名方の勢力が西方面に多かったことから便宜上分けられた呼び名である。今ある京の名産西陣織などの名称も、この西軍が本陣を置いた所から来ている。
義視の小刻みに震えていた手の震えが体に伝わったのか、がたがたと震えだしていた。
「新九郎、何とかしてたもれ」
「そのためにこうして罷り越したのでございます」
「ならばどうすればよい」
「先程御前様は三日と仰せでございましたが、今夜、丑の刻に我が手の者とお迎えに参上仕ります。どうぞそれまでに都落ちのご用意を」
義視はがくりと肩を落とした。
身の定めに落胆したのだろうか、公方になる心算で入京したにもかかわらず、その譲渡人である兄と合戦騒ぎになり、今また京を離れて伊勢の草深い田舎に向かわねばならない。
こんな事であれば還俗などせず、浄土寺門跡の身分のまま生涯を過せば良かったかと思いが過った。
一つ溜息がでた。
「まことに今宵、京を落ちると申すのか」
「何を申されます。今にでも追手が現れても御前はそう申されますか」
「今そのような追手がおると申すのか」
「たとえばの話でございます」
新九郎は体内に充実していたはずの気が、体中の毛穴と言う毛穴から煙のように抜けて行ってしまうような感覚を覚えた。
「先ほども申したとおり、近々にも京の都は大内殿の軍勢で満たされるでしょう。その軍勢に囲まれても待てと申されるなら新九郎、御前と共に一日が十日でも待ちましょう」
「待て待て新九郎、わかったすぐに支度をする」
嫌々ながらも支度を始める心算になってくれたのだろう、新九郎の前から近臣を伴って退出していった。
義視の姿が消えてから新九郎は大きく溜息をついた。
数代続いた貴族とはこれほど危機感がないのだろうか。とも思う。
新九郎は室町幕府がもう長くないことを感じた。今の管領家、四職家、幕臣、守護大名などは将軍を利用し自領の拡大と権力の増大を狙っている。
それなら申次衆の自分もその流れに乗ることも悪くあるまい。とも考えた。
ただ、今の花の御所、ひいては京の都にいてはあまりにも権力に近すぎて力の無いうちは潰されるのが落ちだろう。
新九郎にしてみればこの度の義視の伊勢落ちは千載一遇の好機と思えた。
屋敷を辞して先ほどの長屋門に向かうと、中から佐平次と、先に屋敷を辞していた家臣の六人、後日御由緒六家とも呼ばれた大道寺太郎、荒木兵庫頭、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又二郎、在竹兵衛尉が居並んでいた。
「皆、苦労をかける。御前には話が通った故、今宵今一度ここに集まる」
「はっ」
「して、夜集まって何をするのでござろうか」
山中才四郎が新九郎に疑問を投げかけた。
今の今まで自分達が主と共に何をしでかそうとしているのか、太郎以外は皆目見当もつかなかったからでもある。
「そう言えば皆にはまだ話してはおらなんだな」
そう言うと、長屋門の一間に佐平次を入れた八人を車座で座らせた。
皆なぜ佐平次のような今出川の門番がここに混じるのか不思議でもあったが、このとき新九郎も佐平次のことはすっかりと忘れていた。
「今宵闇に紛れて今出川殿を伊勢国の一色義直殿の元に落とし参らせるのじゃ」
「なんと」
車座がざわついた。
「皆はそこで暫く厄介になっておれ。何れ儂が迎えに行く」
「いつまで一色殿の厄介になっておれば宜しいので」
大道寺が顎に手を当てながら聞いて来た。
「まだ分からぬ。一年か、二年先か」
「それほど長い間にござるか」
多目権兵衛が驚きの声をあげた。
「暫くは自領には戻れぬぞ。皆、覚悟が肝要じゃ」
新九郎のこの言葉が後年、本当に自領に戻る事が無くなる事を暗示していたのは面白い。
言い終わるや新九郎はさっと立ち上がった。そして大股で門を出ると父の居る伊勢家の屋敷に向かって歩いた。
緊急の難題を聞いた新九郎の家臣も顔色が優れないままに急いでその後を追ったのだが、一人、異色な者までもついて来た。
その者は先を歩く大道寺達をすり抜けると、新九郎のすぐ後ろまで小走りで駆け寄って行く。
さきほどの門番、佐平次である。
「あ、あの、それがしは何をすればよろしいので」
新九郎はすっかり忘れていた。
「あっははは。そこもとも居ったの、義政様に近しい者は現れたか」
「いえ、あれから屋敷に参られたのはこちらの六人のみに御座います」
「左様か、ではこれより儂について参れ。運が良ければ立身出世ができるかも知れぬぞ」
これは本心から出たものか。
その夜、新九郎は父盛定と共に夕餉をとっていた。
伊勢屋敷では新九郎親子をどう思っているのか、家の主に面を合わせる事が殆ど無い。また朝餉夕餉などは侍所に案内された家臣共々、侍女達が宛がわれている部屋に膳を運んでくれていた。
おそらくではあるが、義政、義視と、乱の双方の首魁に仕える者達が一つ屋根の下に居る事自体おかしなものであるために余り干渉しないようにしているのだろう。
「新九郎、今出川殿の事、使いは出したのか」
盛定は提子から盃に白酒を注いでいた。
「はい、今宵、我が家臣と共に御前を今出川屋敷から連れ出し、そのまま伊勢へと向かう手筈となりました」
「なんと今宵の内にでるか」
盛定は提子を膝もとに置くと、驚いた表情で新九郎を見据えた。
「如何されました」
「い、いや、儂は明日に答えが出るものと思い、まだ義政様には何も手を打ってはおらぬぞ」
「さようにございましたか。ならば義政様もこちらの裏をかいて怪しげな手を打つことも無い。ということにもなりましょう」
「そ、そうじゃな。しかし今出川館には義政様の手の者も幾人も入っておる故、そう易々とは義視様を館の外にお連れする事はできまい」
新九郎も父に合わせたのか、持っていた箸を膳にそっと置くと、両の掌を膝の上に持って行った。
「これは運だめしにござる」
「運だめしだと」
「さよう、運だめし」
新九郎は自分に言い聞かせるように繰り返した。
「今宵今出川の御前を館からお連れ申しての伊勢落ち、これが不首尾に終わるようならば、それがしの諸国見聞などは無駄に終わりましょう」
「その方の諸国見聞とは、いったいどのような事をしでかしに行く心算なのじゃ」
「なにごとも世情を見ておかねば幕府に仕える事にも不首尾がございましょう。また、この様な世情にございます故、いつまた事が起きぬとも言えぬもの。それを防ぐための種を拾いに行って参ろうかと」
「……まるで天下国家を揺るがすかのような口ぶりじゃの」
父は毒気のない息子の夢物語と思ったか酒の注がれた盃を一気に呷ると、さも面白げに笑っていた。
しかし、この父の口から出た『天下国家』。この言葉が新九郎の心の芯に強い何かを与えた事は確かだった。
父との夕餉が終わると、夕闇の迫る中宛がわれた自室へと曳き籠った新九郎。心の中で先ほどから天下国家の言葉がじりじりと何かを焼くように蟠っていることに悶々としていた。
自分は確かに運だめしとして今出川様を伊勢まで落とすと言った。そしてその足で諸国を巡る心算であるとも。
そのために家臣達を伊勢の一色殿のところで客分として置く心算であった。
しかし、先ほどまでの新九郎にとっての諸国見聞とは御所内での仕事の道具とする種草。それだけのことでしか無かった。
「天下国家」
口に出してみたが臭いも味も無い。ただの言葉が何故こうも心を揺さぶるのだろうか。
三十路を越えてから身の内にたぎる様な物事も、とんと薄れていたのになぜか今日はその言葉で身が焼けるような熱を帯びていた。
「儂は伊勢家の出とはいえ、ご本家とは違う。御所様の執事にはなれぬし、ましてや管領の様な兵権を持てぬ」
しかし、と思う。
諸国には京の都の戦乱を利用して、地力をつけ、独自に強勢となった守護勢力や地頭共がぽつぽつと現れているではないか。
「儂が」
とは思わぬでもなかったが、なれる。とも思えなかった。
「せめて伊勢本家ほどの権能が持てれば」
夢よ。そう自問自答しながら悶々と時が過ぎて行った。