扇谷
道灌の軍勢が石神井の城の包囲を解いてから間もなく、新九郎は江戸城に招かれていた。
扇谷の政真が河越の城から糟谷館へと向かう途中江戸城に立ち寄ったのだが、そのとき道灌から新九郎の話を聞かされていたようで、
「そのような人物ならば会ってみよう」
そう言ったのは江戸城の三の曲輪に建つ東屋、香月亭の中で今後の駿河後詰の打ち合わせが済んだときだった。
政真は東屋の縁側に出て来ると、そのまま目の前に作られた池を眺めている。中心には浮島が設えられ、鯉が優雅に群れていた。
城の目の前には内海(江戸湾)の入り江が広がり潮水を引いた方が早そうなものだが、縁起を担いだのか淡水を注いで鯉を入れたのは道灌の趣味なのだろう。
好まれる験担ぎの中に、鯛の大位、鯉の高位とも言うが、海から遠い宮中では鯉を尊重していたことを知る道灌の意中でもありそうだ。
「して、伊勢殿だが、何をしにわざわざ江戸まで参ったのか、聞いておるのか」
隣に傅く道灌を横に、政真は稀に跳ねる鯉の姿を目を細めて眺めている。
「しかとは伺ってはおりませぬが、素振りからして室町からの介入とは思えませぬ」
「密書も何も持ってはおらぬのだな」
「仔細に調べてはおりませぬが、おそらくはさようかと。もし古河の成氏殿のところへ参る心算ならば、いつまでも我が元におるのは道理にあいませぬ」
このとき、鯉が一層勢いよく跳ねあがった。真鯉の猛々しい跳ねあがりは強い生命力を思わせるものだ。
だがしかし、勢い余って池の縁まで跳ね出てしまった。
「その伊勢殿は義視公の側近なのであろう。義政公と相反する主を担いでおるならば、あるいは」
そう言いながら政真は縁を降りて地面で跳ねる鯉に近付いて行った。池に戻してやる姿がどこか愛おしむようにも見える。
「噂にすぎませぬが、義視公は伊勢の一色義直殿の元に落居されたあと、今ではそこも離れて北畠教具殿の元に身を寄せておるとか。ならば」
「ならば、どうした」
足元に横たわる鯉は手に余る程だったが、政真の手でするりと池に戻されると元のように優雅に泳ぎ、群れの中へと戻って行った。
「もはや義視公に力があるとも思えず、また京の都から遠く離れた古河の成氏公に何事か言い含んだ所でどうなるものでもありますまいかと」
「まあ、管領殿(細川勝元)も鎌倉殿(成氏)を嫌っておるようだからな。その管領殿に庇護されている義視公の側近であれば鎌倉殿に靡くことも無いか」
政真がぬるついた手を池の水でゆすいでいると、隣に降りて来た道灌が手拭を差し出した。
「伊勢殿の真意、どうぞ御当主様がお尋ねされてみては」
「もし、馬の合う人物であるならば我が家に仕えてもらう事も考えよう。室町との繋ぎ役が欲しい。道灌はどう思う」
「それは良いお考えにございます。御当家に室町からの縁者が来て下されば何かと都合もよろしゅうございましょう」
閑話。
ここで管領細川勝元の鎌倉府嫌いの話をしてみようと思う。
細川勝元も、何も成氏の人間性を嫌った訳ではない。
成氏の父である足利持氏からの永享の乱、その遺児を祀りあげた結城合戦などを経て、室町幕府にとって鎌倉府は争乱の種であると見ていたからだ。
永享の乱で滅んだ鎌倉府の再興話が持ち上がったのは、乱から十年を経過してからの事なのだが、関東の土豪達からは鎌倉府無きあとの管領上杉家の政治に馴染めなかったようで、さまざまなところから鎌倉府再興の機運が上がっていた。
「我等の主となるのは室町ではなく、鎌倉殿にほかならぬ」と言い始めたのである。
そもそも駿河、信濃、越後までを室町管轄とし、それよりも北東、坂東や関東などと呼ばれた土地を鎌倉府管轄とした。これは京の政治がなかなか届きにくい土地柄だった事が原因だった。
このため源頼朝が開いた鎌倉幕府以降、関東の住人にとっては鎌倉府が現実の主であり、京都にある室町幕府は遠い存在として認識されている。上杉一族を例外として、直接室町と関わる事の少ない関東諸将が自分達の主は鎌倉殿であると考える事は無理からぬこととも言えた。
この関東の動きが伝わった幕府内部でも鎌倉府を再興させるか否か、喧々諤々の議論が交わされる事になるのだが、主だった所では前管領である畠山持国が賛成論、現管領細川勝元が反対論を唱えている。
関東は武の地である。荒ぶる武者の巣窟であり、内裏や京の作法を知らぬ田舎者と蔑まれてはいたが恐れられてもいた。ようは得体の知れない蛮族の住処のように考えられていたらしい。
しかもこの土地は長年に亘り安定した事がなく、常に荒れている事が常識となっている為、鎌倉府再興論はどうにも判断が難しい事案だった。
だがこの長期に及ぶ論争中に越後上杉家からの危急の報告が室町に知らされた。
「愈々関東の土豪達を押さえる事が難しくなった」事が原因なのだが、もう押さえきれない所まで来ていたのだろう。
管領独力で関東の土豪を相手にしなければならないのなら、いっそ鎌倉府を立てた方がこの化外の地は落ち着く。との思いで幕府に鎌倉府再興を懇願してきたのだ。
これ以上放置しておけば再び乱の元になると考えた幕府では賛成派の畠山持国の言を入れ、まずは関東管領として、嫌がる上杉憲忠を任命し、その後持氏遺児、万寿王丸(永寿王丸とも:後の成氏)を鎌倉に入れる事となった。
そして宝徳元年(一四四九年)、万寿王丸が将軍足利義成(後の義政)の偏諱を受けて足利成氏と名乗り、同時に鎌倉府が再興された事で鎌倉公方五代目就任の悲願が達成された。
しかし、である。
関東の安定を求めた幕府の思惑とは反し、鎌倉府再興から三年を経ずして再び暗雲が垂れ込んできた。
鎌倉公方となった成氏が結城合戦の功者であった結城氏、里見氏、梁田氏らを側近として加え始めたのだ。
上杉家にしてみればこの者達は先の乱の重鎮である。再びその者達が成氏の元に集まれば、管領として公方を思うように操れなくなると危惧した。成氏は形だけの公方、飾りものであって欲しかったのが本音である。
直接口にこそ出さなかったものの、公方方の旧臣達の集まりを快く思わなかった管領上杉憲忠や重臣の長尾景仲、太田資清等だったが、鎌倉府再興直後とも言える宝徳二年(一四五〇年)、恐れていた通り再び成氏が乱を誘発する事件を起こした。側近の梁田持助に命じて相模国鎌倉郡長尾郷を押領させたのだ。
その地は上杉家家宰を務める長尾家累代の土地であり祖先祭祀の御霊宮があるため、長尾氏一族が成氏に対して激しく抗議したが、成氏はそのような抗議を意に介する様子も無い。
これに激怒した長尾景仲は太田資清と図り鎌倉に兵を挙げた。だが、事前に長尾と太田の動きを察知した小山持政が成氏に急報し自ら先導して鎌倉を落居。窮地を救われた成氏は江の島に退去する事になった。
江の島に籠った成氏を討つべしと息巻く景仲と資清だったが、このとき千葉氏、小田氏、宇都宮氏等の成氏方の豪族が由井ヶ浜まで出陣すると、そこで上杉方と成氏方の合戦が始まった。
これを江の島合戦と言う。
結局は上杉方が惨敗して糟谷館まで逃げ込んだようだが、この事態を聞いた室町幕府では、新管領となっていた畠山持国が仲裁にあたる。
畠山持国は鎌倉府再興に賛成論を唱えていた人物だった為か、結果は成氏が有利な裁定となり合戦は終結。成氏も憲忠も鎌倉に戻ることになった。
この裁定から四カ月ほど過ぎた頃、両人とも形だけは鎌倉に戻ったのだが、しかし、もつれた間柄は再び元の姿に戻る事は無く以後は成氏側と憲忠側で領地押領が頻発。
鎌倉府復活に反対していた細川勝元の杞憂が現実のものとなっていた。
不穏な空気が流れる中、暫く月日が過ぎると畠山持国が管領職を失脚。再び細川勝元が管領職に復職するのだが、管領職就任直後から鎌倉府の力を削ぐように働き始めたのである。
細川勝元が成氏嫌いと言われる謂れがこの一連の事件なのだ。
さて一方、江戸城の一画に拵えられている屋敷に新九郎と佐平次が案内されていた。
左程広くもない城域ではあったが、各曲輪には矢倉が建ち並び板葺きの小屋が幾つも並んでいるのが見える。おそらく各地から集められた足軽達の寝床となる根小屋なのだろう。其々の規模は小さいが数が多く、かなり大掛かりとなっている。
また城郭周りの堀は深く穿たれ、ぐるりと回されて高く掻き上げられた塁の頂上には矢狭間の付いた土塀が結われている。
他にも、至る所に竹矢来が回され逆茂木が植え込まれており、如何にも争いの絶えない土地である事が城の縄張りを見ても分かった。また主廓から少し離れたところには主殿造りの屋敷や書院造りの建築物が幾つか並んでいる。
その中で二人が案内されたのは主殿造りの屋敷、城主との対面の部屋を持った建物の一部屋だった。
「室町に比べますと豪勢と言うほどではありませんが、なかなかどうして、田舎とは言え立派なものでございますなぁ」
新九郎の後方に控えていた佐平次が、屋敷の中を眺めまわしている。
他人の城に来て田舎だ何だと言う佐平次にも困ったものだが、あまり戦乱とは関係の無い室町の今出川屋敷を見知った佐平次の素直な感想だった。
「佐平次、今少し言葉を慎め。室町では門番の小者であっても、今は儂の郎党だぞ」
失言に気が付いた佐平次は頭を掻きながら阿呆笑いをしてみせた。こんな時にも小者の癖は抜けないようだ。
しかし、言葉の最後の意味を受け取ると流石に背筋を伸ばして見せた。
「わしを郎党と呼んで下さるのか……」
郎党とは、身分ばかりは武士であるとはいえないものの騎乗する事を許された、家の子に継ぐ身分の者のことである。
合戦に赴く主人に従うことは当然とされたが、小者や所従・下人(下男)などと呼ばれながら中間程度の者に今出川屋敷でこき使われる身分では無いと新九郎が保障してみせたのだ。
佐平次は新九郎の心遣いが嬉しかった。
言われてみればここにいる今も、本来小者であれば庭先の地べたに座らせられ、座敷に上がっている新九郎を日に焼かれ雨に打たれながら待つしかない身分であったにもかかわらず、新九郎と同席している。
また、先の豊島との合戦騒ぎでも、小太郎からの進物とは言え具足までも与えてくれているのだ。
もっと以前から思い起せば、室町を出てからはずっと新九郎の重臣とも言える家臣達と同席させてもらえていた。
単なる座興か、とも考えてはいたが、今言われた「郎党」の言葉で新九郎が自分をどのように見ていたのか、やっと理解が出来た。
「郎党……」
佐平次の顔に俄かに笑みがこぼれた。
小者でしかなかった佐平次は新九郎の郎党と呼ばれた事で内心踊り上がる程に嬉しくもあったが、気恥ずかしさを隠すかのように照れ笑いをしながら話題を変えてきた。
「そういえば小太郎様はいらっしゃいませぬようで」
「小太郎はひとまず相模の足柄へ帰ったよ」
「さようで」
それにしても佐平次と言い小太郎と言い、奇妙な間柄だ。
考えてみれば数日前、新九郎主従を襲ってきた夜盗の一団の元締め的存在なのだが、小太郎の、新九郎への奇妙な好意で、こちらも従者然とした形に納まっている。
これは新九郎が関東下向する前まで小太郎ら足柄乱破を使役していた道灌も不思議な思いで見ている事だろう。
「それにしても不思議な縁でございますなぁ」
「面白い男ではある」
「里に戻ったと言う事は失意の帰国、ですかな。豊島との合戦も今一つ稼げなかったようですから他の稼ぎ口でも探しに行かれたのでしょうか」
「それもある。だが、他の稼ぎ口とは儂の事だよ」
「儂の事ですと?」
「うむ、使いを頼んだ」
「はて、使いの駄賃でも宛がわれるのですか」
面白いと思ったのか、新九郎はつい声を上げて笑ってしまった。丁稚使いでもあるまいに、駄賃とは。買い物に行かせた程度と思っているのだろうか。
「いやなに、小太郎が戻れば儂はここを離れ、下総(古河)の公方の膝元まで出向く心算だ。そこが済んだら上野の平井まで行ってみようと思う。それには旅銀と装束がいる」
「旅銀と装束でございますか。もしかすると、小太郎様を荏原まで向かわせたのでございますか」
「そうだよ。あの乱破は足が早い。儂の書状を持って高越山の城に使いとなってもらった」
「さようでしたか」
ここで佐平次は気が付いた。旅銀を工面するために高越山城に小太郎を使わせたとするなら、余程信用できる男と看做したのだろう。ならば下総行脚に小太郎も供に加える心算なのだろうか。
見知らぬ土地での旅はなるべく大人数で歩いた方が良いのは佐平次でも分っている。食い扶持を失った牢人や、飢饉や年貢の取り立てで食い詰めた百姓が徒党を組んで夜盗や山賊となっている場所は案外に多いものだ。
そうでなくとも小太郎達足柄の乱破共が夜盗働きを新九郎主従に仕掛けて来ている。
「上州の平井まで小太郎様をお供にされますので」
「そのつもりだ」
「これは心強い。良い用心棒を雇われましたな」
「望んだわけでは無いのだが、どうしても連れて行けと言われたのでな」
一方の新九郎はあまり気にしている様子も無いようだ。よほど腕に自信があるのだろうか。
「好かれたようにございますな。して、供の人数はいかほどになりますか」
「うむ、足柄の里に戻ってある程度の人数を連れて来るようにも言ってあるから、十人程度にはなるだろうか」
「それは豪気」
二人の間で下総行きの話しが続いていた頃、誰かが庭を歩いているのか話声が響いて来た。隣の香月亭から上杉政真が太田道灌を筆頭に、何人か家人を引き連れてやって来たのだろう。するとすぐに式台を上がって座敷に繋がる濡れ縁を歩く足音が続いた。
おや、といった貌で耳をそばだてていた佐平次だったが、
「参られたようにございますな」
そう一言漏らして新九郎の後方に、幾分か大袈裟に離れて平伏した。
丁度の頃合いで濡れ縁を踏み鳴らしてやって来た上杉政真が新九郎の座る座敷に姿を見せると、続いて道灌が現れ、他にも近習が五人程、対面の間にぞろぞろと続く。
座敷に来て直後は全員無言のまま、其々に指定の場所が決められているのか乱れることなく個々の場所に納まって行った。
全員が着座した頃合いで道灌が声をかけてきた。
「お待たせ致しました、新九郎殿」
軽く会釈した新九郎の正面に座ったのは扇谷当主の上杉政真だろう。無言で対面の間の上座に座った政真は十七歳。
あばたも残るうら若き扇谷の当主である。
「こちらに渡らせられたお方が当方の主、相模守護職、修理大夫上杉政真公にございます」
紹介を受けた新九郎は侍烏帽子を軽く傾けた。
「殿、こちらが内々にお話し申し上げておりました、義視公申次衆であらせられる伊勢盛時殿にございます」
政真の若い瞳が興味ありげに新九郎を覗いている。
その顔は何か言葉をかけたいのか、そわそわとした雰囲気ではあるのだが、扇谷当主の威厳を持たせる為か軽々に口を開けないように見える。
もしかすると、当主たるべく重々しく坐せと道灌に言われているのだろうか。
ちらりと道灌に視線を送った政真の仕草がそれを裏付けているようで、新九郎にはそれが滑稽でもあり微笑ましくもあった。
「貴公が伊勢殿か」
道灌が頷いたところを確認したのか、まだ戦で声を潰す前の生な声が響いてきた。少々声が高い。
「初めて御尊顔を拝し奉る。上杉政真公には御機嫌麗しく。それがし、備中荏原の庄住人、伊勢盛時にござる」
「噂はこの道灌から聞いておる。室町に仕えてからは何年になりなさる」
「そう、はや二十年は越えましたでしょうか」
「二十年でござるか……」
この言葉の後、ほんの少しの間、沈黙があった。
政真が何か、新九郎に対しての質問を考えていたようだ。
「……やはり室町の伊勢家は作法には厳しいのか」
天下三流の一つ、伊勢流の一枝である。やはり質問はそこに流れた。
それでも目が輝いているところを見ると、やはり若さゆえの好奇心が眼前の男の出自を知りたがる事に繋がるのだろう。
室町将軍を教育する伊勢家に連なる男とは如何なる人物なのか。興味深々とはこの事を言うようだ。
「無論、殿中作法や弓馬礼法には厳しゅうございます」
「ん、弓馬とな」
政真はここで不思議なものを見る様な表情をしたのだが、新九郎の言った「弓馬」の作法に違和感を覚えたようだ。世間では外向きと呼ばれた弓馬礼法は小笠原流とされている。
「盛時殿、いま、伊勢家の作法を伺ったのだが、伊勢家には弓馬の作法がおありなのか?儂は今の今まで、外向き(弓馬)の作法は小笠原流だとばかり思っておったが」
「伊勢家にも外向きの作法は有り申す。ただ、内向きの才が多く輩出され外向きの才があまり出なかったことが、当方伊勢流が内向きとされた元でござろうか」
「ならば盛時殿、おん前も弓馬の作法を心得られるのであろう」
政真はひそと顎に手を当てた。考えごとをする時の癖なのだろうか。
「盛時殿、どうであろう、我らが後学のために伊勢流の作法を見せて頂けぬか」
「内向き、にござるか」
「外向きにござる」
左右に居並んだ家臣たちも、それは名案とばかりに感嘆の声を上げた。まだ見ぬ伊勢流の作法を一目見たいとの思いなのかもしれない。
新九郎は居並ぶ家臣達を一回り見回した後、政真に視線を戻した。
「して、どのような」
「流鏑馬などはどうであろうか。承知頂ければ急ぎ支度をさせますぞ」
「ご随意に」
「よし、ならば話は決まった……」
言いかけた政真の途中である。
「……ときに盛時殿」
これは道灌だった。
政真との対面は流鏑馬の約条で終わるかと思われたとき、ふと道灌が言葉を挟んで来た。
新九郎が政真に対して社交辞令の笑みを浮かべた時なのだが、その隣で静かに傅づいていた道灌が徐に顔を上げて主客の間の話しに口を挟んで来たのだ。通常ならば考えられないことではある。
客が主の目の前から辞退してから言葉をかけるか、主から意見を求められたときに口を開くならば有り得る事なのだが、直接言葉を挟むといった事は異例なのだ。主従の礼儀からも外れている。
(これが扇谷か)とも思え、新九郎は少々意外な気がした。
「少しばかり小耳に挟んだことなのですが」
ただ、道灌本人はそれを意に介する事も無いような素振りで話し始めている。政真も他の家臣も特に咎めだてをする者もいない。これが扇谷のならわしなのだろうか。
この行為が通常許されるものとなっているようで、道灌はちらりと政真を見ると政真も心得たもので頷いている。
(なるほどな)
新九郎は扇谷の内情を垣間見た気がした。既に扇谷は道灌に呑まれているのだろう。
相対する男の心底など知る由も無い道灌は、さらに言葉を続けた。
「豊島との合戦の少し前、我が領内の村で施しをしてくれた奇特な武家があったとか」
「ほう」
と声を上げたのは、新九郎では無く政真だった。
「施しとは、いかな事じゃ。我が領内で飢えるものでもあったのか」
(これは……)
新九郎は表情にこそ出さなかったものの呆れる思いがした。
(己の領内の事も知らされておらぬのか)
自領の、とはいっても道灌へ宛がっている土地だから目が届かないのは致し方の無い事かも知れない。
だが、一方の道灌は困惑した表情をしてみせた。
道灌は言わずもがなであるが、この事は新九郎も上杉領内の領民が飢えているとう事は既に知っている事実なのだ。であれば核心を避け、婉曲に話を持って行きたかった。
僧侶に喜捨をする領民や物持ちの良いどこかの武家の話をするように。と言う意味合いでこの話を持って行きたかった。だが、政真がいきなり話の核心を突いてしまった。
思惑どおりに話を進める事の出来なかった道灌は、やや肩を落とし気味ではあったが言葉を続けた。
「……殿、この事は我が領内のみならず、他領もさほど異なりはしませぬ。客人の目の前でこの様な身内の恥を晒すのは辛いことなれど、施しをしてくれたご本人様の目の前ゆえに実情をお話申そう」
「と、言うと、施しをしたのは盛時殿、お手前だったか」
改めて政真は新九郎を見た。だが、道灌が咳払いをした所で若い政真の表情が少々ではあったが引き攣ったようだ。
当主は軽々に口を開くな、との事なのだろう。
「で、道灌。実情とはなんじゃ」
道灌の咳払いで我に返ったのか、無理にでも威勢を造ろうとして居住いを正すと、胸を反らせて頷いて見せた。道灌に「話してみろ」と言う事なのだ。
「昨今は鎌倉殿との争いが後を絶たず、家の子・郎党などの家人だけでは戦に引き連れる人数が足りませぬ」
「それがどうした」
「足りねば人を連れて来るは道理」
「あたりまえではないのか?」
この時、開け放たれた濡れ縁から妙に生ぬるい風が吹きこんで来た。かと思うと、俄かにかき曇った空から大粒の雨粒が零れ落ち、乾いた土に黒い痕を穿ち始めた。
梅雨のこの時期、雨はとくに珍しいものではないのだが、つい先ほどまで晴れていた空がいきなり暗雲が垂れこめるなど、ずいぶんと季節外れの嵐のようだ。
不意の雨音に外に目をやった道灌だったが、つと主に目線を戻した。
「では殿、そのあたりまえの人数をどこから調達するとお思いか」
雨音が意外に大きい。声を先ほどよりも張り上げなければ聞き取れない程になってきた。
「在地の百姓共を連れて来ると、道灌、その方が以前申したぞ」
「さようその通り。領内の百姓から人数を賦役で取り立てねば兵の数も揃いません」
「回りくどいな。百姓などいくらでもいるではないか」
「それにござる」
「なにがそれじゃ」
前半に差した扇を抜き取り雨の連れて来た湿気を払おうと政真が煽ぎ始めた時、薄暗くなっていた空が青白く光り、飛び上がるほどの大音を発して雷が空を走った。
事実、政真は一寸ほど飛び上がっていた。落雷の音に驚いたのだろう。
一瞬だったが、対面の場に言葉が消えて雰囲気に笑いの感覚が漂った。
武士とは笑われる事を恥と考え、それが大きな争いになる事もあるのだが、しかしこれは主従の間の事。特段気にする事でもなさそうなのだが、自分が驚いた事を恥と思った政真は「はよう話せ」と道灌を急かしている。顔が赤い。
(まだまだ子供なのかな)とは主従のやり取りを見ていた新九郎の脳裏の言葉。面と向かって笑う事は出来ないが、腹の中で苦笑していた。
道灌は何もなかったかのような口ぶりである。
「さて、百姓を考えなしに連れて来ると何が起こるか」
「別になにも起こるまい。貴人や天子ならいざ知らず、百姓を何人いくさに連れてこようとも政はやって行けるぞ」
「そうも行きませぬ」
「なぜじゃ」
「政の基である米を作る者がいなくなり申す」
単純な事なのではあるが、この言葉に政真は雷にも似た衝撃を受けた。
生まれながらの貴人とは、百姓は無制限にいるものだと思い、年貢(米)や税等は自然と自分の米蔵金蔵に入るものだと思っている節がある。
毎日口にしている米や衣服を、百姓が汗水たらして育て上げた等とは夢にも思ってはいない。
「だが、しかし、百姓など掃いて捨てるほどもいよう」
「御当主は百姓を蝿か何かかと思っておいでか。今は幾つもの村が捨てられ、兵どころか田畑を耕す者すら居なくなっております」
流石に呆れ顔になってきたようだが、これは今まで道灌を含む側近達が政真に対してものを教える事がなかったこともその一端である。為政者に物の流れを教える事を二の次とするほどに戦乱が多発したことの査証なのかもしれない。
「なぜ……じゃ」
「殿、殿と我らが鎌倉殿や山内殿との争いで兵として雇い入れておる事が原因」
「なら、やはり居るではないか。百や二百、今でも我が軍勢で足軽として使っておるぞ」
「その足軽は田作りにございます。田仕事の最中に男手を取られた百姓は米を作る事はできぬのです」
「道灌は、百姓が飢えたのは儂のせいだと申しておるのか」
「殿だけのせいではござらん。鎌倉殿も山内殿も、直近では豊島も。それがしも言うには及ばずにござる」
「ならどうすれば良いと申すのだ」
「今はそれをどうこうと言う時期にはございませぬ。まずは……」
道灌はちらりと新九郎をみた。
「まずは、施しをしてくれた盛時殿にお礼を申し上げることが先決」
主従の言い合いのようになってしまったが、元々は領内の百姓に施しをしてくれた新九郎に対しての言葉が始まりだったのだ。その事を政真は思い出した。
咳払いをしてみせた道灌の真意は、当主らしく重々しく坐しませとの意味では無く、余計な事を言うな。との事だったのかとようやく思い当たったようだ。
「そ、そうじゃの……」
政真は急に歯切れが悪くなっていた。
一方、くるりと目線を新九郎に向けた道灌、
「盛時殿、我が領内の百姓を救って下さった事、この道灌、礼の申しようもありませぬ」
先ほどの主との会話を打ち切るように礼を述べてきた。
「いや、そう改まらないでくだされ。ただの気まぐれにございます」
「また図らずも手前どもの恥を晒してしまい面目も無く……」
「お気になさいますな。今は管領家と古河公方家の争いが治まるまでは、領民に賦役を課す事は致し方の無い事。いくさが無くならない限り、これはどうにもなりませぬ」
笑みを絶やす事無く形ばかりは道灌に合わせたが、新九郎の腹の内での扇谷上杉家の観察結果が出た。
“主が若く従との境がない。領内の為政は、なるほど、荒れている”であった。