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京の都

 ふと目が覚めた。

 障子に早朝特有の白い光が差し込んでいるところを見ると、空が白々と明け始めているのだろう。室町風の枯山水を拵えた庭に、幾羽か雀が遊びに来たのか囀っている声が障子越しに聞こえてくる。

 褥にうずくまった男は、両の腕を伸ばして大欠伸をした。ついで腕を下ろすと首を回し、寝疲れたのか両肩まで回し始めて節々を鳴らしている。

「奇妙な夢じゃのぅ」

 そう言うと、鳴っていた節々が落ち着いたのか、再び目を閉じて夢を思い出そうとしている風情を見せている。

 この日はいつもの目覚めと違い、妙に頭が冴えた目覚めだった。

 妙ついでに夢も妙だったようだ。


 広大な平野に鬱蒼とした森が連なり、その中に古式然とした社が建っている。

 何を祭っているのか判然としないが、その両側に巨大な杉が二本天に聳えていた。

 そしてその根元には一匹の鼠がうずくまっている。

 何をするでもなく、しばらく社を見つめていると嵐が来たのだろう、森がざわつき大杉が揺れだした。

 すると根元にうずくまっていた鼠が突然に目を覚まし、いきなり杉の根を食い破り始めたのだ。

 その光景を見るともなく眺めている内に、瞬く間に二本ともに巨杉を喰い倒してしまった。

 倒れた杉のあった空間から見える空には、嵐に流された速雲が渺茫とした天を流れ去っている。

 再び根元に目を落とした時、その鼠は美しく力強い虎に変じていた。


 男はゆっくりと目を開け、朝の光に溢れたしとねの中で思考をめぐらした。

「ほんに、おかしな夢を見たものよ」

 むっくりと床から起き上がり、身支度を始めながらも同時に夢解きを始めている。

「この夢にはどんな意味があるのやら」

 独り言を呟きながらも、それをじっくり楽しむように吟味していると、日の差し込む障子の向こうから足音が聞こえて来た。

 今は辰の刻限、何時もの日課である馬責めを知らせる為に家臣の誰かが起しに来たようだ。仕切られた障子を挟んで声をかけて来た。

「殿、お目覚めにございましょうや」

「うむ、起きておる」

「褥を片づけましょう。侍女を呼びまする」

「たのむ」

 男は家臣が跪く濡れ縁の障子をからりと開いた。

「太郎、今日は天気も良いようじゃ。一つ、遠出でもして馬を駆けさせようかい」

「今日は馬を駆けさせるには丁度良い日和にございましょう」

 男が中途半端に開けた障子を膝を付いて開け切った家臣が、軒先越しに春も押し迫った空を見上げた。

 浮かぶ雲にはもはや冬の気配は無く、丸みを帯びて揺蕩たゆたっているように見える。

「されど」

 家臣が空を見ていた顔を再び男に向け直した。

「お馬も宜しゅうございますが、実は早暁に父君、盛定様からお使いが参られまして、茶などを馳走致すゆえ京の伊勢屋敷に参られますようにとの言伝でございました」

「なに、京から使いが来たと」

「はっ」

「都からわざわざ備中まで茶の使いを寄越すとは。何かあったかな」


 太郎から殿と呼ばれたこの男、下剋上の先駆けをし、後の世に戦国の梟雄と呼ばれた北條早雲の若き頃である。

 今の名は伊勢新九郎盛時。または長氏とも名乗っていた。この物語の中では新九郎と呼ぼうと思う。

 新九郎の所属する備中伊勢家の流れは桓武平氏と言われており、室町御所における政所執事、伊勢貞親が当主となっている伊勢本家の傍流でもある。

 所領は備中国荏原庄で三百貫。そこの領主である伊勢盛定を父に持ち、室町御所で足利義政の申次衆を務める伊勢貞道の養子となってから、その口利きで公方足利義政の弟で天台宗浄土寺門跡を務たことのある義尋ぎじん改め足利義視よしみの駿河国主申次衆に就いていた。

 義視は還俗した後今出川の屋敷に入り、管領の細川勝元が後見をしている。その事から市井では、義視を今出川殿と呼称する場合がある。

 そして新九郎の父盛定も将軍義政の駿河国主申次衆として仕えていた。親子で反対の勢力に付いていた事になる。

 新九郎の年の頃は三十を越えたくらいであろう。物静かで公家のような丸い顔立ちをしているが、馬や弓の上手だったらしく日焼けした肌は浅黒い。 また、眼光が鋭く相手を射抜くかのような目をしている。

 子はまだない。

 当時三十歳を越えた年齢で子がいないのも珍しいが、本人は特に気にする様子もないようだ。

 その三十路男の新九郎が小首をかしげた。

「茶飲み話がしたくてわざわざ京から備中までの遠路、使いを出した訳ではなかろう」

 新九郎は顎を摩った。この髭の薄い荏原の地頭は無精ひげが伸びている訳でもない所を見ると、考えごとの癖なのかもしれない。

 新九郎の所属する備中伊勢家が治める荏原の庄は備中の中ほどにある。その備中国主は管領細川氏であった。現在も足利義視の後ろ盾として京に住まう守護大名でもあるのだが、その人物が国主であると言っても、政治が京に近いと言うだけであり地理は京からは遠い。おいそれとは京に向かえるものではない距離なのだ。新九郎が不審に思った原因の一つでもある。

「ともかく太郎、今から家中に号令をかけて上洛の用意をしてくれ」

「はっ」

「それとな、手の者に指図が終わったら、今一度儂の元に戻るように」

「畏まってござる」

 太郎は一度、さっと頭を垂れると踵を返して城中に消えて行った。


 太郎が新九郎の前から去って一刻ほど過ぎた頃、書院で書物を読んでいる新九郎の前に再び太郎が現れた。

「太郎めにございます。参上仕りまいた」

 新九郎はふと視線をあげ、手元に開いた書物に栞を入れてぱたりと閉じた。

「太郎か。入って参れ」

 新九郎が端坐する書院畳敷きの間は、濡れ縁に面した二方向の障子が開かれている。その濡れ縁に座る太郎の姿が良く見えた。

「ならば」

 にじりながら体を座敷に入れて来た太郎、少し膝が入った所で止まり、頭を垂れた。

「何をしておる」

「あ、いえ」

 このとき、室町風の礼法・形式が邪魔をした。

 何事も形式張り、物事がすっと流れないのだ。このことでも『入れ』と言われたら直ぐに座敷に入ることができれば良いのだが、それは高位の者を相手にする時は礼を欠く行為でもあるのだ。まずは遠慮するかのようにもじもじと入り口で恐れいらねばならない。

 これは新九郎も一族に入る伊勢家のせいでもある。

 伊勢家とは先程も書いたが、幕府政所執事でもあり奉公衆・申次衆を多数輩出している一族でもある。また公方世継ぎの養育係でもあった。

 当時、天下三流と呼ばれた武家礼法の一家に伊勢流があり、弓術・馬術の外向きの礼法は小笠原流、内向きの礼法は伊勢流とされていた為でもある。

 宮中・御所内の作法は全て伊勢家が室町将軍家に教育しており、その分家でもある備中伊勢家の新九郎の家も作法は厳しく仕込まれ、普段の生活にも現れる程に染み込んでもいた。

 しかし新九郎、家臣には「使い分けよ」と常から嘯いている。

 しかるべきところでしかるべく作法を守ればその他は良い。との考えなのだ。

 室町殿に非常に近い存在である伊勢家の出にしては、新九郎のこの考えは奇矯なほどに合理的なのかもしれない。

「よいわ。作法は御所や宮中、他家に赴いた時のみ用いれば良い」

 太郎は床を目の前に見ながら再び頭を深く垂れた。

「なれば御無礼仕る」

 言い終わると、すっと立ち上がった太郎は袴の両ひざを摘まみながら新九郎の前までつつと寄って行った。

「太郎」

「はっ」

 再び平伏して袖をさっと払った太郎に新九郎が体の正面を向けた。

「聞くが、父上の御用とは茶ではあるまい。今出川様のことではあるまいか」

「これはこれは、流石に目がお利きになられまする事で。それとのう探らせてはおりますが、おそらくは左様でございましょう」

「また細川殿と山名殿の良い道具にされておるのだろう」

「手の者を京周辺に撒いておりますが、聞こえて来るのは義政様と義視様の、あまり宜しく無いお噂ばかり」

「で、あろうな。祭りあげる神輿をころころと替える幕臣達に、父上もさぞ気苦労を重ねられておるのであろう」

 この時期、足利義政の実子義尚、義政の弟義視の将軍後継争いを火種にして室町御所内は一触即発の状況に置かれていた。

 後の世にいう『応仁・文明の大乱』前夜である。

 元々公方義政は、将軍就任当時には積極的な政務をとっていたようだが、数代前から続く側近と守護大名の対立や、各地の有力守護大名の反乱、その家臣や守護代の台頭などが相次いで起こり政治的混乱が続いていたためか、当初の志を捨ていつしか能や猿楽などに没頭してしまい、煩わしい政治は奉行衆・奉公衆の新九郎の属する伊勢一族と管領の細川や四職家の山名にまかせっきりになっていた。

 さらに悪いことには二十九歳になっても世子がなかったため、将軍職を弟義視に譲ると約束していたのだ。

 後に義政に男子、義尚が生まれたことが切っ掛けとなり、犬猿の仲だった西軍の山名宗全と東軍の細川勝元を筆頭とする二大勢力がそれぞれの将軍後継者を推して天下騒乱の元にしてしまった。

 京は荒れた。

 だがおかしなことに町は焼かれ住民は戦乱に追い立てられてはいたのだが、当事者でもある武家は殆どその実害を被ってはいなかった。

 重要人物が東西どちらも討たれる事が無かったのだ。

 実に馬鹿げた内乱とも言える。

 結局日本の首都が灰塵と化し、主な大名たちが自国に帰ると力をなくした中央の制御を外れ、各地に点在していた荘園・公家領などを強奪して益々中央の力を削ぐ事となり、結果、税の入る事が殆ど無くなった中央が廃れて地方の有力者が勃興し始めた。

 これが戦国時代幕開けの端緒となったのである。



「旅支度のご用意が整いましてございます」

 大道寺太郎からそう言われたのは翌々日の事であった。

 江戸時代のように大名行列のような大人数で上洛する訳ではなかったが、この時代どこにも関所がある。うっかりと進んで行けば大名とて怪しまれ、身ぐるみを剥がれるまでならまだ良いが、稀に命を落とす事もあるのだ。

 先ずは先触れとして京までの各関所に使いを出していたために出立までに二日を要したに過ぎない。

「苦労、ならば参ろうか」

 旅装束を整えていた新九郎は実の父に会いに行く為だけに上洛するのだ。案外な軽装である。同行する家臣達も同じ様な装束をさせていた。

「新佐衛門、後は頼んだぞ」

「かしこまりました」

 式台まで見送りに来ていた者は伊勢新佐衛門隆資と名乗る一族の者であった。

 新九郎には自城である高越山城を父に任されてからは、城の留守を任せる事のできる一族の新佐衛門の他、多数の家臣はいたが、いまだ自身の家族と呼べるものは持っていなかった。身の周りは児小姓や侍女が仕え、台所回りには下男やはしためが働いている。 領地の行政には弟の弥次郎や、先程の太郎を筆頭に幾人かの気心の知れた家臣達が居るため不足は感じない。よそからは『女に興味がないのでは』等と噂も囁かれないでもなかったが、当人はそんな噂も構う事もなかった。

『我が身我が根城が不安な時に女房等を持つ馬鹿もおるまい』などと嘯いてもいたが、実の所新九郎、伊勢家とは名ばかりの分家も分家である我が家が潰えても良いと考えているふしがある。

 新九郎の伊勢家は室町将軍家に仕える政所執事の伊勢家と血の繋がりがあるとは云っても枝葉の内の末端。本家の主である伊勢貞親から見れば新九郎など遠い親戚にちらと見た顔程度にしか思ってはいないだろう。

 軽い家である。そう思っていた。

 そして備中荏原の庄にある高越山城の薬医門から日が昇った辰の刻、新九郎一行十数人が京の都を目指して出立していった。


………………………………


「盛時様、参られましてございます」

 伊勢本家の室町屋敷は御所に近い。公方のまします花の御所は烏丸通、室町通り、今出川通りに面している。伊勢家はそこから辻ひとつ離れた場所に邸宅を設けていたのだが、新九郎の父である盛定はそこの一室を借りうけた格好になっていた。

 屋敷は全てに広く大きい。

「来たか新九郎」

 新九郎は伊勢本家の小姓に案内を受け、実父の居所となっている座敷の縁に着座していた。

 濡れ縁の周りには庭園が造られており、主や客の目を楽しませるような工夫がされている。しかし、そこから外縁を遮る築地塀の上には、遠方で上がる戦乱の煙が見えていた。

「はい、新九郎只今参着致しましてございます」

「よう参ってくれた。備中から遠路、骨折りだったのう」

「いえ、御本家の御威光もあり、途中の関所も難無く通る事が叶いましたので左程の骨折りはありませなんだ」

「左様か。それは何より」

「して、この度はどのようなご用件でございますか」

「うむ、その様な縁に座っていては落ち着いて話す事も出来ぬな。まぁ茶を進ぜる故、一服どうじゃ」

「茶、でございますか。これは久しぶりの父上のお点前。是非馳走になりまする」

「ならばこちらじゃ。ついて参れ」

 盛定がすっと立ち上がって新九郎を手招いた。

 濡れ縁を歩く親子二人。その二人が幾つめかの角を曲がると茶室と呼ばれる八畳ほどの座敷に出た。

 当時の茶室は広い。数多くの客人を招くこともある為なのだが、後世の狭い利休茶室とは趣を異にしている。

 さて、屋敷の一隅に設けられた茶室に通された新九郎、静かに着座した。

亭主に盛定が座るのだが、予てからここに呼ぶつもりだったのだろう、既に小姓が準備していたと思われる赤々と燃えた炭の上で茶釜が湯のはじける音をきんきんとたてていた。

 ふわりとした所作で茶の支度を始めた父を、新九郎は一服の絵や書を楽しむように眺めている。

 しばらくすると、芳しい香りが辺りに広がり新九郎の鼻をくすぐった。

「これは、良き香りでございます」

「うむ」

 盛定の点前は流石に将軍家に仕える申次衆の一人であると思わせるほどの腕前であった。各国の守護を将軍と引き合わせる役目のため、何度も茶を点てる事があったのだろうが、やはり礼法の家と言われる伊勢家の出ではある。

 ちなみに新九郎の父である伊勢盛定は、駿河守護、今川義忠の申次衆をしていた。

 新九郎の膝前に湯気をあげる碗が進められた。

 すっと碗を取り上げ舶来物であろう碗を目で楽しみ、茶の香気を楽しむと、一口。

「うむ、うまい」

 盛定が新九郎の素直な一言で破顔した。

「今日ここに呼んだのはな、御所の事じゃ」

 口に付けた碗をそっと放し、懐紙で碗の縁を拭った。

「やはり左様でしたか」

「先日周防の大内政弘殿が上洛するとの報がきての」

 碗を膝前に置いた。

 新九郎も伊勢家の端に連なるもの。父に遅れることなく見事な所作である。

「なんと。大内殿は山名殿の息がかかったお方。義視様の一大事ではありませんか」

「うむ、それでな、儂の立場では捨て置くが良いのだが、そちが義視様に就いておる故そのままにも出来ぬ。それでお前に近々、義視様をお連れ申して伊勢の一色殿の処に落とし参らせてもらいたいのじゃ」

 新九郎は一つ、深く頷いた。

「左様にございましたか」

「伊勢に落居されればしばらくは幕府に出仕もかなうまいが、大内殿もそう長く京に居ることもかなうまい」

 この頃の武士団は、半農半武で領地に居る時は農業を主体に生活している。

 田植えの季節や収穫の時期には領地に戻らねば収入が途絶えてしまう事になる為、合戦等は主に農閑期に行われていた。

 このために長く遠征の軍を催す事が出来ないのである。これは大内氏にのみ関わる話では無く、日本全国どこの守護であっても同じ事だった。

「ならば、事は早く手を打つに限ります。明朝にでも今出川邸に出仕致しましょう」

「うむ、さようよな。義政様の方は儂が何とかする。それと先日、貞親殿が許されて幕府に復帰しておるので、早々に幕府に戻れるよう話をつけておくゆえ、しばらく忍耐せよ」

 先にも出た貞親とは伊勢氏の棟梁であり、公方義政の奉公衆であり、義尚の乳父である。

 だが先年、義視を謀反の讒言で追い落とそうとした事があり、義視の弁解を管領細川勝元が聞き入れた事で反対に貞親が幕府から追放されていた。

「暫くは、義視様には忍辱にんにくの修行にござりますか」

 膝前に置いた碗を、父盛定の方につつと押しやった。そのとき、ふと新九郎の脳裏に日頃より思っていた事を父に伝えねばとの衝動がおこった。

「ところで父上、それがしはこれを我が身の好機と捉えて、義視様と伊勢に落ちたあと、しばらく諸国を巡り見分を広げようと思いまする」

 新九郎の思っていた事とはこれである。

「ほう」

 碗を取り上げ、湯をかけながら盛定は続けた。

「左様か。しかし何故じゃ」

「ちと思うところがありまする」

「まぁ好きにするとよい。よい骨休めになろう。おぉ、それでは一つ頼まれてはくれぬか」

「なんでございましょう」

「もし駿府に赴く事があったら、芳乃に物語などをしてきてくれ」

「承知致しました。駿河の国で息災におりましょうか」

 芳乃とは今年初めに上洛した駿河守護、今川義忠の室となった新九郎の妹だ。駿府では桃源院殿と呼ばれていた。後年その妹が一子龍王丸を産むのだが、北川殿と呼ばれる様になるのはもう少し先のことである。

「高越山の城はどうするね」

「はい、父上のお戻りをお待ちしておりまするが、それまでは新佐衛門に城代として務めてもらう心算にござる」

「なるほど、やつは実直一途な男ゆえ、それがよかろう。儂も近々、京から離れねばならぬ日が、それこそ遠くない内に必ずやって参る」

「それほど京の情勢は危ういのでございますか」

「もう、左程持たぬよ。ここを離れる事になったら、高越山城でお主を待つ事にしよう」

 このとき、障子を透かして雀が数羽、庭木を揺らしながら飛び去って行く姿が見えた。

「ささ、湿った話は終わりにしよう。もう一服どうじゃ」

「頂きまする」

 その後、一刻ほど盛定の茶を楽しんだ。

 その間中、屋敷に面した通りに、近頃巷に現れた足軽とよばれる荒くれ者達が何かを叫びながら走り回る足音や、念仏踊りの時宗の集団が練り歩く音が響いていた。

 京の治安の悪さが、御所に近い伊勢屋敷に居て奥で茶を喫していても分かる程なのである。世も末とはこれであろうか。

 最後の一服を啜り終わると、再び膝前に碗を置いた。

「父上のお点前なかなかのものでござった」

「こやつ言いおるわ」

 盛定はにこにことしながら碗を引き取り湯をかけ始めた。

「ときに、我が身はここで厄介になりまするが、かまいませぬか」

「おぉ、かまわぬぞ。儂が口を聞いておく故、ゆるりと致せ」

「ならば当座の宿は安心でございますな。では……」

 新九郎はすっと膝を立てた。

「今より今出川辺りに出向いて参ります」

「明日向かうのでは無かったのか」

「備中に引き籠っていたため京の都も久しぶりにございます。まずは今出川周りから見物に参ろうかと」


 伊勢本家の館を辞退した足で今出川屋敷の周りを見回ってみる事にした新九郎、同道していた大道寺太郎の他に気の利いた家人を幾人か集めていた。

 そろぞろと人数が歩き始めるのだが、伊勢本家の館から今出川館まではさほど遠くは無い。目と鼻の先であったためにそこを横目に素通りし、京の中心部に向かって歩き出した。

「先ずは様子見」

 新九郎は見るからに荒れた京の町を見て回った。町すべてが焼け落ちた訳ではない。被害を受けていない煌びやかな寺社の脇などに、所々に点在する武家屋敷が襲撃を受けた跡が生々しい。

 消し炭になった、焼ける前は豪勢なものだったであろう屋敷の跡が、土地を殊更広く感じさせていた。

「これは思った以上に荒れておりまするな」

 声をあげたのは太郎である。いや、太郎だけではなかった。新九郎の目にも栄華を誇った日本の首都である京の都がこれほど荒れているとは思いもしなかった。

 室町通りから二条大路を西に向かい、鴨井殿を横に見ながら進むと冷泉院が現れる、その先に神泉苑や大学寮が並ぶ。

 その頃には内裏へと続く築地塀が連なり美福門、朱雀門、皇嘉門がある。

朱雀門を入れば応天門の先に大極殿が見える。

 しかし、その全てが戦乱であちこち傷んでいた。

 場所によって内裏の築地塀が崩れている所もあるのだ。

「公方は何をしておるのやら」

 新九郎の本音でもある。公方とは天皇を補佐する武官の、実質の最高峰ではないか。ならば京の町で合戦等を起す事など到底考えられる事では無い。だが、いまは三管・四職の幕府中枢の有力者によって合戦沙汰にまでなった。

 家臣すら押さえる事ができない公方には、もはや京の町を守れる力など無かった。

 くるりと踵を返した新九郎主従、再び来た道を引き返すと人影もまばらになった道を進み、足利義視のまします今出川屋敷にまで出向いて行った。

 日の光は丁度中天を指している。午の刻前後か。

「殿、これからどちらに向かわれますので」

 新九郎の後ろをしっかりとついて来る太郎がこれからの行き先を聞いて来た。

「儂は親父殿に義視様を伊勢に落とすよう言いつけられたわ」

「それは大変な事にござるな」

「だが」

 新九郎は京の町並みを目に焼き付けるようにしながら話を続けた。

「親父殿には明朝、今出川館に向かうと言っておいたが、明日等とは言っておられぬ。父上には悪いが、内密な話が漏れるのは身内からと相場が決まっておるゆえ」

「お身内をお疑いなさるか」

 太郎はやや呆れるような口調であった。

「あっはは。太郎、今の御所の荒れようを見てみよ。全て身内から始まっておるぞ。欲がからむと人間、血の繋がりは希薄なものとなるようじゃ」

 太郎はぐうの音も出せなかった。御所はもとより、それを見習って各地の守護大名達も一定の家督相続の決まりが無かったために家中分裂が始まっている家もある程なのだ。

 応仁。文明の大乱がもたらしたものは、将軍家から始まった血で血を洗う家督相続争いと言っても過言ではない。

「ならば花の御所に知らせが行く前に今、手を打とう」

「かしこまる」

 今出川館は近い。

 新九郎一行が話をしている最中にも、すでに門前まで辿りついてしまった。

 しかし一行が到着した今出川屋敷の門前には誰一人としておらず、門番は長屋門の中に入っているようであった。

 合戦の最中でもあるのに警戒心が薄いのはどうした事なのであろうか。

「このような所に賊が押し入ったらたちどころに今出川殿は獲り籠められてしまうな」

「乱の最中であっても我関せぬ。でございましょうか」

「如何にも京の将軍家に繋がる人物らしい。足利に刃を向けるものはおらぬと思うている様子よな」

 新九郎は苦笑と同時に心配にもなっていた。

 足利がどうなろうと知った事ではないが、その足利の力に頼っている伊勢本家が潰えれば、末端の伊勢家である我が家はそれだけで外敵から食われる恐れがある。

 而儘じままに潰えるのであれば気にもしないが、外から敵が来るのであればその敵には食いつかなければならない。

 このとき、他者に食い付ける程の力が今の自分にはあるのか。身の不肖とも言える忸怩たる不安が身を駆けた。

「誰かおらぬか」

 腹に宿った不安を打ち消すかのように、門の前で新九郎が叫んだ。

「開門、開門。義視様申次衆の伊勢盛時である。開門」

 このとき、長屋門の扉ががたがたと音を立てた。ついで引き摺るような音が続くと、間の抜けたような男の声が聞こえて来た。寝ていたのであろうか。

「えぇい。暫時お待ち下され」

 門の引き戸が開くと、門番と思しき小者が頭を掻きながら現れた。見た目は小兵の小回りの効きそうな男なのだが、寝惚けた顔はあまり敏捷そうには見えないものだ。

「その方、見ぬ顔だな。名はなんと申す」

「へぇ、佐平次と申します」

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