ドジな怪物
義経のおかげで、俺は随分早く学校に復帰できた。
まぁ、義経以外、俺が休もうがどうしようが、興味なんて無いだろうけれど。
一応、マスクは口元に付けていて、それとなく咳き込みながら、俺は登校した。一日ぶりの教室は、休む前と変わらず、無色透明だったと思う。
俺がよくわからない虚しさを感じながら、自分の席に着く。
「あ、七島君、風邪治ったんですね」
と、背後から鈴の鳴るような澄んだ声が響いた。
振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた鈴木(怪物)が。
フラッシュバックする場面。
背中から生えた触手。
頬まで避けた口。
鮮血に染まった美少女。
「う……」
俺は思わず口元を抑え、吐き気を堪える。
「だ、大丈夫、七島君? 保健室に連れて行きます?」
鈴木が心配そうに声をかけてきた。
鋭く、美しい目元をしているというのに、鈴木の性格はのほほんとしたお人よしらしい。見た目だけなら、知的なクールビューティなのだが、クラスメイトとの会話を聞く限り、ちょっと天然が入った完璧超人みたいな感じなようだ。
「大丈夫。ちょっと、むせただけ。熱はもう無いよ」
俺は心配そうに眺めてくる鈴木へ、できるだけそっけなく言葉を返す。
だというのに、
「そっか。うん、ならよかったです」
なぜ、鈴木は花が咲いたような笑顔になるのだろう?
というか、よく、俺の名前を覚えていたなぁ。多分、クラスメイトの何人かは俺の名前を覚えていない奴居るぞ?
疑問に思ったので、訊いてみた。
「そういえば、名前。よくわかったね」
「ん? 名前って七島君の名前? やだなぁ、隣の人の名前ぐらい、ちゃんと覚えてますよー。変な七島君」
お前だけには変だと言われたく無い。
けれど、少しだけ予想外だった。
てっきり、一週間前に一言挨拶しただけの相手なんて、名前すら覚えていないと思っていたのだが。鈴木は記憶力が良いから、クラスメイト全員の名前と顔を覚えているのだろうか? もしくは、ただ単にお人よしだから。うん、そうだと良い。俺に興味を持っていた、なんてことだったら、今後、動きが取り辛くなってしまう。
だが、俺の心配は杞憂だったらしい。
今日の俺と鈴木の会話はこれだけ。後はいつも通り、鈴木は谷沢や女子たちと会話をしながら、楽しげに過ごしていた。もちろん、いきなり怪物になって教室で大暴れ、なんてことにはなっていない。その代わり、なぜか弁当は女子とは思えないほど重量感溢れるものだった。
相変わらず、今日もクラスの人気者だった。
みんな、笑顔で鈴木の周りに集まり、楽しげに談笑していた。
もしも、このクラスの奴らが、鈴木の正体を知ったら、どんな反応をするだろう?
恐れおののき、逃げ出すのだろうか?
それとも、友情やらなんやらで、まるで児童向けの漫画のように、あっさりと和解して解決するのだろうか?
爽やかイケメンの谷沢は、どうするのだろうか?
「まぁ、俺には関係の無いことだ」
俺は鈴木が面倒事を起こさなければ、それで良い。
この退屈な平穏を愛して、だらだらと青春を潰して生きよう。
――――――とまぁ、そんな風に鈴木のことなんか無かったことにして、いつも通りの日常に戻れたらよかったんだけど。
事件は、俺が日常に復帰した二週間後ぐらいに起きた。
はっきり言って、その時の俺は油断していた。
復帰してから二週間、何事も無く無事に過ごし、鈴木の顔を見ても吐き気も覚えなくなった。変わったことといえば、放課後、きらきらと目を輝かせる義経相手に、魔術を教えることぐらい。
だから俺は、いつも通り、気だるく授業を受けていたんだ。
「えー、それじゃ、この英文を……皆川、和訳してみろ」
「は、はいっ!」
ドスの効いた低い声。
英語教師の高木は、昔、中村とタメを張ったほどの不良で、今でも地元に影響を及ぼす硬派な中年である。俺が苦手な教師だ。
対して、皆川はバレー部に所属する運動大好き、勉強大嫌いという典型的なアウトドアタイプ。俺が苦手なタイプの女子だ。
そして、両者の相性は最悪である。
「おい、皆川ぁ。ちゃんと予習してきたんだろうな?」
「え? あ、はい、もちろん」
「なら、どうしてそんな名詞で止まる。文法が分からないならともかく、単語だったら辞書引けば分かるだろ、誰でも」
「あ、はい、あの……」
英語は予習、復習が肝心だと高木は言う。うん、間違いなく正論であり、ごもっともだ。この場合、悪いのはきちんと予習をやってこなかった皆川であり、こうしてしかられるのは仕方ない。
しかし、問題なのはこの後だ。
「えーっと、と、来年の悪魔がジョークで笑う?」
「来年のことを言えば、鬼が笑う、だ。次、長文の中のこの文を和訳してみろ」
「は、はい、えっと……」
この通り、高木は皆川が答えられるまで、問題を出し続ける。だが、かといって予習やってこないことを素直に謝っても、それはそれで五分ほどのお説教が待っている。
どちらにしろ、皆川はある程度被害を受け成ればならない。のだが、皆川の方も頑固で、意地でも予習をやってきたと嘘を吐く。結果、泥沼のような戦いが繰り広げられるのだ。そして、戦いが長引くほど、教室内の空気は悪くなる。
「ふあ、あ」
ま、俺には関係ないことだし、勝手にやってれば良いと思う。
そんな風にいつもは思考遮断してだらけるところだが、ふと、こんな場面で、隣の鈴木はどう動くか、気になってしまった。
俺は、こっそりと隣の席へ視線を向ける。
「…………」
鈴木は、無言で高木と皆川の様子を見ていた。
観察していた。
いつもは緩めているその鋭い目を、鋭いままに、ただじっと、俺たちより高い視点で二人を見下ろしていた。
なんとうか、その時の鈴木は、実験結果を眺める研究者みたいな、プログラムのデバックするプログラマーみたいな、そんな超越者じみた目をしていたと思う。
やっぱり、こいつは俺たちとは違う次元の存在なんだな。
わかりきっていたことだが、余りにもこの二週間、クラスに馴染んでいたから忘れかけていたのかもしれない。
「へぷっ」
と、いきなり鈴木が可愛らしいくしゃみをする。
その音はとても小さく、高木と皆川の騒動の所為でほとんど掻き消されていたので、気づいたのは鈴木の注意を向けていた俺ぐらいだろう。
そして、鈴木の額から、一本、見事な『角』が生えたのに気づいたののも、俺だけだったようだ。
「………………………………角ってなんだよ」
俺は思わず、口元を抑え、小声で呟く。
くしゃみ? くしゃみ程度であんたの擬態は解けるもんだったのかよ、鈴木ェ……つか、気づけ! めきょ、って生えてきたのに、どうして気づかない!? とんがりコーンが数倍でかい三角錐の奴が生えてきたのに、どうして気づかない!? 鋭い目つきで観察するの止めろ! もう、滑稽以外の何者でもなくなってるから!
くっ、とはいえ、ここで鈴木の正体がばれるのはまず過ぎる。正体がばれてしまったとき、鈴木が何をしでかすのか、わからない。
なら、ここは俺がなんとかしなくては。俺が、角が生えていることに気づいていない振りをしながら、さりげなく自主的に鈴木に気づかせる手段で! ……無理じゃね? いや、諦めるな、俺。
とりあえず氷属性の魔術を使って、角を軽く冷やそう。角に神経通っているのか分からないけど、違和感ぐらいは持つはず。つか、持ってくれ。
俺は息を整え、集中する。思えば、日常生活で魔術を使うのは、ゴミ箱にゴミをシュートするときぐらいだ。ああ、後、缶ジュースを冷やしたりとか。というか、現代は電化製品で何でも解決するので、無駄に疲れる魔術はめったに使わないし――――っと、集中だ、集中!
微妙な威力の魔術を無詠唱で行使するため、俺は細心の注意と割と集中力を込めて――――
「っ!?」
魔術を行使しようとした瞬間、鈴木の顔が突然、こちらを向いた。
まさか、あんな低レベルの魔術行使ですら、感知することができるのか!? そんな芸当、お袋でも不可能だっていうのに!
「うおっ」
というか、余りの驚きで俺の体勢が崩れ、豪快な音を立てて椅子ごと床に倒れた。
しまった、と思いつつ鈴木を見るが、その額には既に角は無い。
とりあえず俺は胸を撫で下ろす。
が、しかし、その代償として教室中の視線が俺に集まっていた。もちろん、教師である高木のも。
「七島、どうした?」
「すみません、寝落ちしたら、椅子から落ちました」
「よし、皆川と一緒に放課後残れ。眠気が覚めるようなプリントを出してやる」
「うへぇ」
多分、このクラスになって初めて、教室中を沸かせたと思う。後、皆川が露骨な顔で嫌がっているのが、割とむかついた