絶望
今から考えると信じられないことだが、羽喰飛鳥という少女はとても善良な人間だった。
常に相手のことを思いやり、自分が傷付くのを恐れず、誰かを救い続けるような人間だった。聖女という存在が居るとしたら、間違いなく、彼女だったろう。
しかし、不運だったのは彼女の環境だった。
俺の両親が子供を戦場に連れまわす馬鹿親だったとしたら、飛鳥の親は外道。ただ、その一言に尽きた。
飛鳥の両親は、飛鳥が生まれた時から既に来るっており、『邪神』とやらの召喚を本気で実行するつもりだったらしい。
自分の娘を生贄にして。
飛鳥が小学校を卒業する年頃、ついに飛鳥の両親は『邪神』召喚の準備を全て整えた。今から考えると、ずさんな魔法陣だったし、魔術理論なんかはもう矛盾だらけのものだったと思う。けれど、召喚できてしまったのだ。飛鳥の心臓を繰り抜いて、それを捧げることによって、『邪神』とやらは降臨してしまったのである。
飛鳥の亡骸の中に。
ずさんな魔術だったんだろう。結局、召喚された『邪神』は肉体も精神も持たない、ただの力の塊だった。そして、力の塊はもっとも入りやすい器を、そう例えば、ついさっき死体になったばかりの飛鳥を選んだ。
俺がその瞬間を目にしたのは、よほど運が悪かったのだろう。
偶然、その時俺は戦場から実家に帰ってきていて、偶然、飛鳥の両親が儀式をしていた教会を覗いてしまった。
全身を赤く染め上げた飛鳥が、両親を肉塊に変えている姿を見てしまった。
飛鳥は、俺にその行為を見られていたことなどまったく意にも解せず、陽気に挨拶する。本当に、飛鳥なのかと思ったくらい、口汚く両親に対する罵詈雑言を口にした。そして、その後、狂ったかのようにいかに人間が救えないかを語り続け、最後に、ポツリと呟く。
「そうだ、世界を終わらせよう。そうしよう」
これが、後に第一級災害指定テロリストとして、全世界に指名手配される狂人が誕生した瞬間だった、
「西島さんっ!」
俺は飛鳥の存在を認識した瞬間、この場に居ないはずの人間の名前を呼んだ。
本来だったら、とち狂ったかのように思われる行動で、当然、応える声などありはしない。
「――――了承」
その相手が、次元魔術を得意とし、ずっと俺の同行者である鈴木を監察していた西島でなければ。
俺の一言で状況を理解した西島は、素早く空間転移魔術を発動。俺と飛鳥を巨大な空間の切れ目に引きずり込む。転移の瞬間、唖然とする皆川たちの姿と、「ちょ、ま――」とか言っている鈴木の姿が見えたが、今は無視。
後で何か文句を言われるかもしれないが、黙示録の獣と、終末主義者である飛鳥が出会ってしまうことと比べたら、まったく問題ない。
転移した先は、いつぞやの結界の中。誰も存在しない無人のコンクリートジャングル。もっとも、現在は鈴木が暴れた所為で、ジャングルではなくて、瓦礫の山が積みあがっている。
……さて、とりあえず緊急回避には成功したようなので、そろそろ目の前の凶事をどうにかするとしよう。
「飛鳥」
「うん」
俺が呼びかけると、飛鳥は満面の笑みで頷く。
「久しぶり。できれば、もう二度と会いたくなかった」
「ぎゃはははっ、そりゃ残念! 私は、君に会いたくて、会いたくて、こうやって、なんかうざったい結界も突破してきたんですけどねー」
「結界?」
俺が首を傾げていると、空間の切れ目から西島が登場。野太刀を肩に乗せながら、俺の疑問に答えた。
「我々【委員会】が作成したんですよ。ある一定以上の力を持った者は、天使に近づけないように。しかし、鳴子程度にしか役に立たなかったようです」
「あいつ相手には充分すぎるさ」
視線は飛鳥の方へ向け、一瞬たりとも逸らさないよう、俺と西島は会話を続ける。
「あんたの他に、【委員会】の増援は?」
「フェンリルが引き連れてきた狂人どもの相手をしていますよ。こっちの増援は見込めませんが、あっちの増援も無いはずです」
「そうか、じゃあ――」
口元を三日月に歪め、悪魔のようにこちらへ微笑みかける飛鳥。彼女と俺たちの戦力差を冷静に、かつ客観的に判断した。
「状況は最悪だな」
「ぎゃはははははははは」
哄笑。
何がおかしいのか、犬歯を剝き出しに、獣のように笑う。
笑う。
笑う――――――――その音が、いつの間にか消えていた。いや、笑い声だけじゃない、飛鳥の姿も……
「ちゃお♪」
一瞬たりとも、俺たちは目を離していなかったはずだ。いや、瞬きすらしていなかった。
なのに、どうしてだ!?
どうして飛鳥が俺の隣に居て、西島の腹を手刀で貫いている!?
「んー? どーしたー? 反応鈍いぞぅ、目ェ開けてるー?」
「……貴様、どうや――」
「うるさいよ、お前。私は弥一君と話してんの」
飛鳥は腰のホルターから、ハンティングナイフを引き抜き、西島の喉に突き立てた。西島の口から吐息と血液が零れ、紅蓮のロングマフラーが、より鮮やかに染まっていく。
そして、動かなくなった。
あっさりと、西島葵は絶命した。
――――忘れていた。そういえば人って、割とあっさり死ぬんだっけ。
飛鳥が西島の腹から手刀を、喉からナイフを引き抜くと、西島の体はアスファルトに倒れ伏し、赤い血だまりを作っていく。
「いやー、わりー、わりー。こいつがちょっとうるさくて。うん? おーい、弥一君? やーいちくーん?」
ぺちぺちと飛鳥が俺の頬を叩いた。
西島の腹を貫いた、真っ赤な手で。
「え? ひょっとして、こいつが死んだのに、ショック受けやがってます? 君が? あの弥一君が?」
呆気に取られたような顔で、飛鳥は小首を傾げた。
んだよ?
ショック受けちゃ、悪いかよ?
確かに親しい仲でも、友達でもなんでもなかったけどよ。それでも、俺が知っている人間が死んだんだぜ?
テメェに、殺されて!
「風を纏いて」
「おせーですよ」
ぱぁん、という破裂音が鳴ったと思ったら、視界が変わっていた。
いつの間にか、俺はアスファルトを背に、赤い瞳に見下ろされていた。
「風属性の中級魔術を詠唱なんて、ほんとどーしやがったんですか? そんな、下位魔術師じゃあるまいし。お得意の、視線を送っただけでオドを枯渇させる魔眼は? 君の魔術特性を使った混沌魔術は?」
「な、何を言ってやがる……?」
くそ、わけわからないことを口走りやがって。いや、それよりも今はいち早くこの状態から回復しなければ。
何をされたかさっぱり分からないが、俺は今、仰向けに倒れている。体中の感覚に異常は無い。異常は無いのに、まったく、力を込めることが出来ない。
落ちつけ、こういう時にこそ、落ち着くんだ。落ち着いて、飛鳥が使う魔術について思い出せ……っぐ!?
「が、あっ! てめ、一体、何を、しやがった!?」
鋭く針で頭蓋を貫いたような頭痛。
この悪趣味が、俺を痛ぶる気――――待て。何か、おかしくないか? この痛みに覚えは無いか? そう、ごく最近に味わったことはなかったか?
「話にならないレベルに弱体化。欠損している記憶。復元を妨げるセーフティ。ああ、なーるほどねぇ」
俺が答えに到る前に、飛鳥が解答する。
「弥一君。君、お父さんとお母さんに封印を施されやがりましたね? しかも、神様とか封じ込める類のおもっくるしい奴。でなけりゃ、あの弥一君が、こうはなりゃしねーですよ」
「封印、だと? テメェ一体、何を――――んむっ!?」
口を塞がれた。
手ではない。
恐らく、唇で。朱に染まった唇で、塞がれていた。
避ける暇なんて、無かったと思う。
気づいたら、飛鳥の顔が目の前にあって、その瞬間にはもう、口を塞がれていた。
柔らかな軟体の感触。
唇の奥から這い出てくるナメクジのようにぬめぬめとした、粘膜を帯びた肉の塊。
「んむぅうう!?」
口内に侵入してくる舌を妨げようと口を閉じようとするが、飛鳥の舌はまるでゴムのような感触を返してくるだけ。口を閉じることも、このまま舌を噛み切ることも出来そうにない。
舌は俺の口内を蹂躙し、舌を絡めさせ、そして、喉の奥に『何か』を押し込んだ。
生理的反射で俺の喉はそれを飲み込む。
喉から鼻腔に、それの匂いが充満する。
生臭い、鉄の匂いが。
「ぷはぁ」
長いくちづけが終わり、飛鳥は満足げに息を吐く。そして、蛇の如く舌なめずりすると、その言葉を口にした。
「思い出しやがれ、弥一君。あの戦争の果てで、君が手に入れた『灰色の風景』を――」
灰色の風景。
その言葉を理解した瞬間、俺は、俺は――――――
「それじゃ、弥一君。色々思い出した後、世界の終末でまた会いましょうぜ」
飛鳥の声を、辛うじて聞き取れた。
けど、それだけだった。
遠ざかっていく足跡を追うことも、何かを言い返してやることもできない。
ただ、俺の意識が深い穴へ落ちていくのを自覚する。
それだけしか出来なかった。




