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最高の贈り物

作者: 月花


今日も雨の音で目が覚めた。

もう7月に入ったのに未だに梅雨は明けてくれない。


ねむい目をこすりながら、いつもと同じように枕元の携帯を確認する。


「メールくらいしてくれてもいいのに…」


相変わらずメールや着信の知らせのない携帯の画面に向かって呟いた。

待ち受けは、夕方の海の写真だ。この海に行ったのは去年の8月頃だった。

天気のいいとても夏らしい日、すごくシャイで、付き合ってからもデートになかなか誘ってくれなかった彼から突然電話が入った。


「ちょっと行きたいところがあるんだけどさ。」


こちらの様子を窺うような、控えめな誘い文句に少し笑いながら二つ返事で頷いた。

しばらくして迎えに来た彼の車に揺られ、気付けばキラキラ光る海へ着いていた。

海水浴場ではないが、砂浜があり、辺りは木や山などの自然に囲まれている。

適当なところに車を横付けし、2人は誰もいない浜辺に降り立った。


「こんなところよく知ってたね。」


はしゃぎながらサンダルを脱ぎ、裸足で砂浜を波打ち際まで走りながら彼に叫ぶ。

嬉しそうに私のことを見ながらゆったりと歩いてくる彼は、目を細めて笑っている。


「気に入ってもらえたみたいでよかった。」

「すっごく気に入った。水も気持ちいいし。…ほら。」


彼の嬉しそうな顔に照れてしまいそうだったのを隠そうと、彼に軽く水をかける。

驚いて飛び退く彼が面白くて笑っていると、彼もサンダルを脱いで私と同じようにくるぶしほどまで海に入った。

お返し、というと彼は私に水をかけてくる。

その笑顔はいつもの大人びた顔よりも、少し子供っぽく見えた。

それからしばらく2人ではしゃいでいると、突然彼が遠くを指差した。


「ねぇ、見て。」


その彼の視線の先に目をやると、真っ青だった空と海の境目がほんのりと茜色に染まっていた。

綺麗、と思わず呟くと、そうだね、という彼の声とともに、温かなぬくもりが私を包んだ。

私は驚いて少し上にある彼の顔のあたりを振り返ると、彼は少し照れたように微笑んだ。


「今日、どうしても一緒にこの夕日が見たかったんだ。」

「…もしかして、覚えててくれたの。1ヶ月記念日。」


彼の顔を見つめながら尋ねると、はにかみながら頷いた彼の顔が少しずつ近づいてきて、私はそのまま目を閉じた。

背中に感じるのと同じぬくもりを一瞬だけ、唇に感じる。

それが私たちの初めてのキスだった。


「…この夕日撮って待ち受けにしようか。」

彼の意外とロマンチックな提案に少し笑いながら、私は頷く。

彼は気に入らなかったらしく、何度か写真を取り直すと、ようやく満足そうに携帯の画面を見つめた。


それからしばらく経ってからだった。

彼が突然東京に行くと言い出したのは。

彼にはプロのカメラマンになるという夢があった。

何度もコンテストに応募し、最近では小さいながらも賞をもらえるようになっていた。

また、ささやかながら個展を開くと、数人のファンが足を運びサインを求められることもあった。

アルバイトで生計を立てながら頑張る彼に、私はいつも励まされ、心から応援していた。


それでも、私は彼と離れることが怖くて仕方なかった。

私は大学生で、彼は社会人。

年齢はたった3つしか変わらないのに、学生という身分のせいで一緒についていくという選択肢などなかった私に、彼は無理しなくていいと言った。別れようと。


絵里えりは、これからまたいろんな人に出会う。自分の我儘で離れて、いつ帰ってくるかもわからない俺なんかのために、絵里の大切な時間を無駄にしないでほしい。」


落ち着いた喫茶店で彼が言った言葉に、私は涙した。


「無駄だなんていわないで。じゅんという人を選んだ私を否定しないで。」

「…ごめん。」

「私は待ってるから。私たちならきっと大丈夫。でも、連絡はできるだけしてね。遅くてもいい、メールだけでいいから。」

「ありがとう。うん、できるだけ連絡するよ。早く一人前になって、絵里を迎えに来る。約束だ。」


そう言った彼の瞳に、もう迷いはなかった。

数日後に、彼は東京へと旅立った。


しばらくの間は電話やメールの回数が、遠距離になる前よりも多いと感じるほどだった。

私は案外大丈夫だと少し自信を持ち始めていた。

しかし、それも最初のうちだけで、そのうち電話はなくなり、メールすら途切れがちになっていった。

1週間、一度も連絡がないので不安になって電話をしてみるも、電源が切られているというアナウンスが流れるだけで繋がらず、私は1日中携帯ばかりを気にする生活を送っていた。


久しぶりに掛かってきた電話の話によると、彼はあるカメラマンのアシスタントをしながら、いくつかのバイトを掛け持ちして、昼も夜も働き詰めになっているらしい。

きっかけなんて、ほんの些細なことだった。


「ねぇ、いつ帰ってくるの。」

「…わからない。」

「でも、もう1年だよ。1回くらい帰って来れないの。」

「帰れるなら、帰ってるさ。」


それは付き合ってから今までで、初めて聞く彼の怒鳴り声だった。


「ごめん、疲れてるんだ。おやすみ。」


彼は私の返事を待たず、一方的に電話を切った。

私は涙を抑えることができなかった。

会いたい。

ただそれだけのことを伝えるのが、こんなに難しい。

その夜から今日まで、彼から連絡が来ることはなく、私からどう切り出せばいいのか分からないまま、毎日が淡々と進んでいった。


せっかくの七夕なのに、雨が降っていては織姫と彦星は会えない。


「1年に1度くらい、会わせてくれてもいいじゃない。」


私は黒い雲が覆った空を恨めしそうに見上げて、呟いた。

その時、長い間聞くことのなかったメロディーが部屋に響く。

私は猫じゃらしに飛びつく猫のように携帯を手に取り、通話ボタンを押していた。


「もしもし、ひさしぶり。」


本当に彼の声だった。

あんな切られ方をしたのだ。今度連絡が来たら怒ってやろうとか色々考えていたくせに、いざ彼の声を聴いてしまうと、それだけで嬉しくて、何もかもどうでもよくなった。


「もしもし、絵里。聞こえてる。」


返答のない私に彼は訊ねた。

私は熱くなった目元をぬぐいながら、なんとか口を動かした。


「う、うん、ごめ、き、聞こえてる。」

「どうしたんだよ、どもってるぞ。」


面白そうに笑う彼の声は、本当に楽しそうで、晴れ晴れとしていた。

そんな彼の声の合間に聞こえる車のタイヤがアスファルトを滑る音。


「外にいるの。」

「うん、実はそうなんだ。珍しくね。」

「ほんと、珍しい。あ、アシスタントの仕事は。」


珍しくを強調していう彼に思わず笑いながら、問いかけた。

カメラマンに一般的な休日は関係ない。私はもう、そのことを嫌というほど目の当たりにしていた。

しばらく間を置いた彼は、あっけらかんと答えた。


「休んだ。」

「え、休んだの。なんで。」


私は驚いて、少し詰問するような声色で訊ねていた。

その時、ピンポーンという間抜けなチャイムが鳴り響く。

私にとっては、この話の方が大切で、特に誰かが訪ねてくる予定もなかったので、無視することにした。


「ねぇ、誰か来たみたいだよ、出なくていいの。」

「うん、いいの。それよりなんで休んだの。」

「俺の話なら後でいくらでも聞けるんだから、とりあえず出ておいで。電話は繋いだままにしておくから。言ったろ、今日は休みにしたって。」


彼の優しい声に、私はしぶしぶ電話を机に置くと、マンションの扉を開けた。


「休んだ理由、分かったでしょ。それにね、カメラマンさんにたまには彼女に会って来いって言われたんだ。」


だから、何にも心配いらないよ、そう言ってはにかんだ彼の顔は、少し男らしくなっていた気がした。

でも、私には滲んでいてはっきり断定することはできなかった。

涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は両手を広げる彼の胸へと飛び込んだ。


「お帰りなさい。」

「ただいま。」


黒い雲の隙間からは、ほのかな茜色の光が降り注いでいた。

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