味を知らない食卓の上
華乃宮に連れられて、月凪はお世話になった場所を出ることとなった。
「いつでもおいでな」
「…うん。」
「じゃあね、月凪。」
「……」
月凪は無言でうなずいた。春風と風弥に別れを告げ、月凪は華乃宮に抱きかかえられた。
「お世話になりました」
そう言って、華乃宮は月凪を抱いて歩いてゆく。
「うっ…?」
「どうしたの?」
「…どこ、…いくの?」
「私のお家。」
「かの、みや……しゃん、の?」
「そう。今日から、君のお家だよ。のんびりして良いからね。」
「…僕の、おおち、なの?」
「そうだよ」
その言葉に、月凪は不安げに首を傾げる。華乃宮が、日々彼とかかわっていくうち、少しずつ彼は心を開いて行ってくれた。しかし、やはりまだ閉ざしているところ、そしてまだ信用できていないところがあるようだ。彼は、きっと苦しい過去を持っているのだろう。だからこそ、周りを信用して自分をさらけ出し、時には頼り、時には甘えることが出来ない。自分の腕の中で、小さな彼は小刻みに震えている。なぜ、そんなに怖がってしまうのだろう。安心だ、信用できる、そんな言葉では、もはや解決できるほどの傷ではない。それには、しばらく彼と関わっていて気が付いたことだ。過去に何があったかは知らないし、探る気もない。しかし、もしかしたら、自分たちよりもつらい過去があるのかもしれない。
(彼には、まだ軽いかもしれないけど、いくつかの後遺症があるみたいだ。知的も含め、これからのことをちゃんと考えていかなければいけない…。)
月凪は、清々しい風を感じながら黙って森林を見上げている。そして、やはりその瞳は不安気で、恐怖心が見え隠れしていた。
「大丈夫だよ。君の部屋も、ちゃんとあるよ。」
「……」
「月凪?」
彼は、華乃宮の方を見ずに震えた。
「怖いんだね…」
その姿を見ると、とても切なくなる。そして、遣る瀬無い思いがこみ上げる。彼の恐怖心、不安感、怯え、全てを取り除いてあげたい。本来あるべき彼の姿を、見せてほしい。今は大人しく縮こまっている彼の、本当の姿を見せてほしい。
しかし、それにはもちろん時間がかかり、そう簡単にいく問題でもないことを理解している。理解しているからこそ、彼女は月凪を自宅に連れて行くことを決意したのだ。母親、愛というものを知らず、恐怖だけ知ってしまった彼を、育てていこうと決意した。
「ついたよ」
「…?」
それは、ウサギたちがくつろぐ草原のそばに建てられた綺麗な家だった。静かに生い茂る草花に、そこを憩いの場とするウサギたち。
「……」
月凪は、そんな風景を見渡している。華乃宮は、その草原を進み、バルコニーのようになっているところに月凪をそっと降ろした。
「草原と続いているから、いつでもウサギちゃんと遊んでいいからね。」
「…うん。」
月凪は、頷いた。どうやら、ウサギのことが気になっているようだ。しかし、華乃宮には、自らウサギと触れ合いたいという気持ちはないように映った。動物と触れ合うのも、怖いのだろうか。それとも、何か別の理由が…。
とりあえず、華乃宮は月凪を下ろした後、そのバルコニーから窓の鍵を開けて窓を開けた。
「おいで」
そう言われて、月凪は立ち上がり、ぴょこぴょこと駆けて家の中へと入って行く。そして華乃宮に抱きかかえられ、ソファーの上に月凪を座らせた。
「…?」
そのフカフカのふわふわな不思議な感触に、月凪は興味を示している。左手で優しくソファーを押して感触を感じていた。そんな彼に、少し笑顔が見えた気がした。安心しているのだろうか。そんな彼をあまり刺激しないように、華乃宮は温かいココアとゼリーを持ってきた。
「疲れちゃったんじゃないかな。これ、月凪のおやつね」
「みゅ…おやつ」
カタンッ
月凪の目の前に置かれたココアと見たこともないおやつに、彼は首を傾げた。透明な可愛い入れ物に入った、紫色の堅そうなもの。月凪は、スプーンでそれを少しつついてみる。弾力のあるなにか。何かわからないが、月凪は不思議そうにそれをスプーンですくい、一口食べてみた。
「…???」
口の中で広がる甘い世界。かめばかむほど美味しかった。
(…何だろう、これ)
火傷しないように暖かくなっているココアも、甘くて幸せな味がした。月凪は、その2つの美味しさに驚きながらも、ゆっくりと自分のペースで食べていた。心がだんだんと温まると同時に、悲しみも湧き上がった。こんなに美味しいものを、自分は食べたことがあったのだろうか…と。自問自答すれば、『なかった』の一言で終わってしまうに違いない。忘れていた食事という行動と、味覚という感覚。忘れてしまっていた食事という言葉。そして、食べるという楽しみ。甘い、辛い、しょっぱい、苦い、酸っぱい、などの味という存在。そして、誰かが自分のために何かをしてくれたという喜びが、今口に幸せを運ぶたびにこみ上げる。自分のために、このおやつを作ってくれたのだろうか。わざわざ、こんな自分のために、こんなに美味しくて、幸せな気持ちになれるおやつを。わざわざ時間をかけて、作ってくれたのだろうか。そう考えたら、何だか申し訳なくて、でもとても嬉しくて、心の底から何か震える思いがこみ上げてきて、月凪は小さな体を小刻みに震わせていた。そして、唯一美しさを忘れなかった瞳から、大粒の涙が零れおちた。食べるたびに美味しくて、嬉しくて、幸せで、だから涙が零れてきた。こんなにうれしい思いを、今まで経験したことがなかったから…。
「月凪?大丈夫?」
手を止めて、震えるながら泣く彼に気が付き、華乃宮は慌てて駆け寄る。
「月凪、泣きたかったら泣いていいんだよ」
その涙の理由を聞くこともせず、華乃宮はそういってギュッと月凪を抱きしめた。
「!!」
「ほら、私の胸の中で泣いて。」
その言葉に、月凪の心にある思いがよみがえった。そして彼は、思いっきり華乃宮にしがみついて、思いっきり泣き声を上げた。
それはまるで、小さな子供が母親に甘えて、そして泣きじゃくって、慰めてもらうのと同じように…。もう、堪えることが出来なかった。華乃宮のその行動に、堪えることが出来ずにすべてがあふれ出していた。そして、それを拒むことなく、華乃宮はただ優しく月凪の背中をさすり、本当に母親のようにそれを受け止めていた 。
そしてその温もりを体中で感じながら、月凪は泣き続けた。
(おかあさん…。)
この話を途中で書きながら泣き出してしまいました…。
批評などくださればありがたいです。
読んでくださりありがとうございました。