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06

 王城には、城勤めの者たちが利用する食堂がある。


 騎士や文官、研究員などが自由に食事を取るための場所で、王族や貴族が使うことはない。聖女という立場のシアも本来なら別に食事を用意してもらえるのだが、堅苦しい場所で一人きりになるよりこちらのほうが好きで、以前からリアムについて何度か利用していた。


「本当にここでいいのか?」


「うん。こっちのほうが落ち着く」


 夕食を載せた盆を持ち、リアムと空いている席を探していたシアは、食堂の隅に見覚えのある青い髪を見つけて足を止めた。


 リカルドが一人で食事をしていた。卓上にはパンとスープしかなく、シアは思わず眉を寄せる。


「……少ない」


「何が?」


「ちょっと待ってて」


「おい、シア」


 呼び止める声を背中で聞きながら、シアはリカルドの席へ向かった。


「リカルド」


 呼ばれた青年が顔を上げ、こちらを見るなり何とも言えない表情になる。


「……聖女様」


「それだけ?」


「何がでしょう」


「夕ご飯」


 リカルドは自分の食事を見下ろした。


「十分ですが」


「全然足りないよ。野菜もないし」


「私が何を食べようと、聖女様には関係のないことでは?」


「関係なくないよ。放っておくとリカルド、研究に夢中になって食事を忘れるし、食べても適当なものばっかりで――」


 そこまで言って、シアは口を閉じた。


 リカルドが怪訝そうに見ている。


「……なぜ、そんなことをご存じなんです?」


 研究室で紙を拾ったときと同じだった。自分にとっては当たり前になっていたことが、今のリカルドにとっては知られるはずのないことになる。


「それは……」


「シア」


 追いついてきたリアムが、困ったように名前を呼んだ。


「リカルド様が困ってるぞ」


「でも、このご飯じゃ少ないよ」


「本人がいいって言ってるんだからいいだろ」


「よくないよ。絶対あとでお腹空くもん」


「あなたも聖女様を止めていただけませんか?」


 リカルドに問われ、リアムは少し考えてから肩を竦めた。


「すみません。昔からこうなので」


「リアムまで私を変な人みたいに言わないで」


「みたい、じゃないだろ」


「ひどい」


 頬を膨らませたシアは、自分の盆に載っている温野菜へ手を伸ばしかけた。


 以前なら、何も聞かずにリカルドの皿へ乗せていた。文句を言われても気にせず、食べ終わるまで隣に座って見張ったことだってある。


 けれど今は、勝手にそんなことをしていい距離ではない。


 シアは温野菜を取ろうとしていた手を止めた。


「……食べる?」


「結構です」


「おいしいよ」


「そういう問題ではありません」


「一個だけでも?」


「いりません」


 きっぱり断られてしまい、シアは仕方なく手を引っ込めた。分かっているのに、一年かけて縮めた距離を、身体はまだ覚えている。


「……じゃあ、ちゃんとパンは全部食べてね」


「なぜ約束しなければならないんです?」


「残しそうだから」


「残しません」


「ほんと?」


「聖女様」


 とうとう咎めるように呼ばれて、シアは笑いながらリアムのところへ戻った。


 そのあとも何度かリカルドの皿が気になって振り返り、そのたびに目が合っては嫌そうな顔をされたけれど、最後にはパンがなくなっているのを確認できたので、ひとまず満足することにした。


 友達ではなくても、リカルドはやっぱりリカルドだった。


 研究室で見たルーファスの記録だけが、食事を終えて部屋へ戻るまで、ずっとシアの頭から離れなかった。


 ◇


 夜になっても、なかなか眠る気にはなれなかった。


 部屋へ戻れば、机の上には覚えのない予定表と、途中まで読まれた本が置かれている。どちらも今の自分が残したものらしいのに、シアにはそこへ至るまでの時間がない。


 リアムと過ごしてきた時間は変わらず、昨年の秋にゼノと出会ったことも、そのあと何度も話したことも、この世界から消えてはいなかった。リカルドとはまだ友達になる前だったけれど、それもシアの記憶を辿ればおかしなことではない。


 それなのに、本来ならいつものようにそばにいるはずのルーファスだけが、呼びかけても目を覚まさない。


 何が同じで、どこから違ってしまったのかを考えているうちに息苦しくなり、シアは薄い上着を羽織って部屋を抜け出した。


 向かったのは、王城の上階にある外廊だった。


 使われていない小さな階段を上れば屋根に近い場所へ出られ、低い手すりの向こうには王都の夜景が広がっている。千年祭を控えた町にはいつもより多くの灯りがともり、通りを飾る白と青の布が夜風に揺れていた。


 シアは壁際に身体を寄せるように座り、膝を抱えた。


 千年祭を、自分は知っている。


 一度経験した千年祭では、ルーファスと歩き、リアムも、リカルドも、ゼノも一緒に、五人で笑った記憶がちゃんと残っている。


 そのあと夏が来て、秋が過ぎ、冬を越え、もう一度春を迎えた先で、みんなで厄災と戦った。


 だから自分は、一年前へ戻ったのだと思っていた。


 けれど、本当にそうなのだろうか。


 同じ春なら、どうしてルーファスは眠っているのだろう。どうして自分には、ここで過ごしたはずの日々の記憶がないのだろう。


「……分かんないよ」


 膝へ顔を伏せると、春の夜風が髪を揺らした。


 そのとき、頭上で小さな光が弾けた。


 顔を上げると、淡い光の粒がひとつ、夜空をくるくると舞い降りてくる。やがて小さな花へと姿を変えたそれは、思わず差し出したシアの掌にふわりと落ちた。


「なーにしょぼくれてんの? 聖女サマ」


 聞き慣れた声に振り返ると、外廊へ続く階段をゼノが上がってくるところだった。


「……ゼノ?」


「他に誰に見えるの」


 笑いながらやってきたゼノは、シアから少し離れたところに座った。


「夕飯、足りなかった?」


「足りたよ」


「じゃあ何。リカルドに振られた?」


「振られてないよ」


「友達になってって迫ってたじゃん」


「聞いてたの?」


「聞こえた」


「もう」


 思わず頬を膨らませると、ゼノがおかしそうに笑う。


 その笑い声を聞きながら、シアは掌に乗った小さな花へ目を落とした。


 こうして一人でいるところをゼノに見つけられると、思い出す夜がある。


 昨年の秋、聖女になって間もなかった頃、何もかも放り出して一人になりたくなった夜があった。そんなときに出会ったのがゼノで、国一番の魔法使いと聞いていた彼は、偉そうでも近寄りがたくもなく、初対面のシアに遠慮なくくだらない冗談を言ってきたのだ。


 そして最後には、魔法で夜空いっぱいに光を打ち上げてくれた。


 あの花火を見て、シアは久しぶりに声を上げて笑ったのだ。


「ねえ、ゼノ」


「ん?」


「前に見せてくれた花火、覚えてる?」


 何気なく尋ねたつもりだったのに、返事を待つ間、掌に乗った花を包む指には自然と力が入った。


 ゼノは少しだけ目を丸くしてから、覚えてるけど、と何でもないことのように答えた。


 その声を聞いて、シアは知らず詰めていた息を吐いた。


「……そっか」


「何。忘れてると思った?」


「ちょっとだけ」


「ひど。あれ結構頑張ったんだけど」


「嘘。すごく簡単そうにやってたよ」


「簡単そうに見せるのが天才なの」


 いつもの調子だった。


 あの夜のことを、ゼノも覚えている。昨年の秋に出会ったことも、自分を笑わせてくれた花火も、この世界からなくなってはいない。


 それだけで絡まっていた不安のすべてが消えるわけではない。それでも、知らない場所へ一人きりで放り出されたような心細さは、少し遠ざかった。


「もう一回、見たいな」


「花火?」


「うん」


 ゼノは王都を見下ろし、それからシアへ顔を戻した。


「え、今?」


「……駄目?」


「駄目っていうか、こんな夜中に王城から打ち上げたらみんな起きるでしょ。明日から祭りなのに、聖女サマが王都へ夜襲仕掛けましたって怒られるよ」


「そんなに大きくしなくていいよ」


「俺、国一番の魔法使いだから。やるなら盛大にやりたい」


「そこは加減してよ」


「天才に加減を求めないで」


「面倒くさい天才だね」


「今さら?」


 呆れながらも笑ってしまうと、ゼノは得意げに目を細めた。


 祭りを待つ町は明るく、遠くからはまだ人の声が聞こえていた。白と青の飾りが風を受けて揺れ、その向こうには、記憶の中にある千年祭の夜と変わらない春の空が広がっている。


 昨年の秋に見た花火と、今夜掌に落ちてきた花は違うけれど、どちらも同じ人が、一人でいるシアを見つけてくれた夜の魔法だった。


「ゼノ」


「んー?」


「ありがとう」


「何が?」


「花」


「ああ」


 ゼノはそれ以上尋ねず、手すりの向こうへ目を戻した。


 シアもそっと指を開く。小さな花はまだ掌の上にあり、夜風に吹かれても消えず、淡い光を零している。


 知らない昨日ばかりではないのかもしれない。昨年の秋に見上げた花火を覚えている人が、今もこうして隣にいる。


 シアは掌の花を壊さないようそっと指を閉じ、十日後に迫った千年祭を待つ町の灯りを、ゼノと並んで眺めていた。

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