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04

 王都に戻った頃には、日が傾き始めていた。


 シアが戻ったという知らせは瞬く間に広がったらしい。城門を抜けるなり、騎士だけでなく神官や王城の役人まで次々と駆け寄ってきて、居場所を尋ねる声や、怪我や体調を案じる声が重なり、答える間もないほどだった。


 無事ですと何度繰り返したのか分からないうちに、今度は医務官に半ば強引に診察室へ連れていかれ、怪我も病気もないと認めてもらうまで、ルーファスのところへ行くことは許されなかった。


「だから先に休めって言っただろ」


 ようやく解放されて廊下に出ると、壁際で待っていたリアムが呆れたように言った。


「ルーファスに会ってから」


「逃げないぞ」


「分かってるよ。でも、今日がいいの」


 リアムはまだ何か言いたそうにしていたが、シアの顔を見ると、それ以上は口にしなかった。


「その前に着替えろ。砂まみれだ」


 言われて自分の裾を見下ろせば、海辺を歩き回った名残がしっかり残っている。さすがにこのままではルーファスの部屋に入れないと納得し、シアはリアムとともに自室へ戻ることにした。


 扉を開けると、窓辺の机も、寝台の脇に置かれた花瓶も、棚に並ぶ本の背表紙も、目を閉じれば思い浮かべられるほど見慣れた場所にあった。


 だからこそ、机の上に伏せられた一冊の本が目についた。手に取ってみれば自分の本に間違いないのに、ここまで読み進めた記憶がない。隣には茶を飲んだあとのカップが残され、予定表には身に覚えのない予定が書き込まれている。


 見覚えのある字に、シアは予定表を持ち上げた。


「……これ、私が書いたの?」


 扉のそばにいたリアムが近づき、横から予定表を覗き込む。


「お前の字だろ」


「そうなんだけど……」


 文字は間違いなく自分のものなのに、これを書いた瞬間も、茶を飲みながら本を閉じたことも、シアの記憶にはなかった。


 一年前に戻ったのなら、ここにあるものはすべて、自分が一度経験した過去の中にあるはずだ。それなのに、この部屋にはシアの知らない「昨日」が残っている。


「私、いついなくなったの?」


「四日前の朝だ。侍女が来たときにはもういなかった。前の晩までは普通にいたぞ」


「リアムは会った?」


「夕方にな。稽古しただろ」


 その言葉にも覚えがなく、シアは手元の予定表へ目を落とした。


 そこには自分の字があり、茶を飲んだあとのカップも、途中まで読んだ本も残っている。誰かがシアのふりをしてここで暮らしていたようには見えない。自分の知らない時間を過ごした自分が、四日前まで確かにここにいたのだ。


「シア」


 リアムに呼ばれて顔を上げると、案の定、こちらをじっと見ていた。


「また考え込んでる」


「……うん」


「今すぐ分からないことまで考えるな。ルーファス様に会うんだろ」


 予定表を握ったままの手に目を落とし、シアは小さく頷いた。今ここで考え続けても答えが出ないことは、自分でも分かっている。


「そうだね」


 予定表を机に戻すと、リアムには部屋の外で待っていてもらい、シアは急いで着替えを済ませた。


 再び廊下へ出ると、待っていたリアムとともに東棟へ向かう。


 ルーファスが眠っている部屋には薄く薬草の匂いが漂い、窓辺のカーテンは半分だけ開かれていた。


 夕暮れの光が差し込む寝台に、ルーファスはいた。


 最後に見たルーファスは、黒い靄に身体を覆われ、剣を支えにしてようやく立っていた。それなのに今は、何事もなかったように白い寝具の中で眠っている。傷も血も見えない姿を前にすると、あの神殿での出来事が、ずっと遠い日の記憶のように思えてしまう。


「……ルーファス」


 寝台の傍に近づいてそっと手を取ると、思っていたよりも冷たかった。シアはその指を両手で包み込み、眠ったままの顔を見つめる。


「ねえ」


 呼びかけても返事はない。


「私、戻ってきたよ」


 どこへ戻ってきたのか、自分でもうまく説明できない。それでも、彼には伝えたかった。


「だから、起きて」


 手の中で何かが動いた気がして、シアは息を呑んだ。


「リアム」


 呼びかけると、少し離れたところに立っていたリアムが顔を上げる。


「どうした?」


「今、指が……」


 言い終わらないうちに、寝台の傍らで小さな金属音が鳴った。


 二人でそちらを見れば、透明な石を嵌め込んだ測定器の針が、ゆっくりと右に動いている。


「これ、何?」


「リカルド様が置いていったものだ。ルーファス様の魔力の変化を測ってるらしい」


 シアはもう一度ルーファスの手を握り、眠ったままの顔を覗き込んだ。


「聞こえてるの?」


 針が微かに揺れた。


 ただの魔力の揺らぎかもしれない。握った手に反応したのだと決めつけるには、小さすぎる変化だ。


 それでもシアは冷えた指を両手で包み、もう一度呼びかけようとして、ふとルーファスの手首に目を留めた。


 そこには、細い黒い線が走っている。


 袖を少し捲ると、黒い線は皮膚の下を這うように、肘のほうへと伸びていた。


 その色と形に息を呑む。最後の神殿でルーファスの身体を覆っていたものと、よく似ている。ただ、あのときよりずっと薄く、今にも消えてしまいそうなほど細い。


「これ、いつから?」


 シアが手首を示すと、リアムも寝台のそばへ歩み寄った。


「俺には分からない。リカルド様なら何か知ってるかもしれないけど」


「リカルドは?」


「研究室だと思う。ここ数日はほとんど寝てないみたいだから」


 シアはルーファスの袖を元に戻し、その手を寝具の上へそっと置いた。


 黒い線の原因を聞きたいのはもちろんだが、それ以上に、ただリカルドの顔が見たかった。あの神殿で一緒にいた彼が、ここにもちゃんといることを、自分の目で確かめたい?


「行ってくる」


 そう告げて立ち上がると、リアムも一緒に部屋を出ようとした。


「俺も行く」


「リアムはここにいて」


 足を止めた彼に、シアは寝台のほうを示した。


「ルーファスを一人にしたくないから。私は大丈夫だよ」


 リアムは寝台に視線を移し、しばらくしてから頷いた。


「分かった」


 シアはもう一度だけルーファスの眠る姿を振り返り、静かに部屋を出た。

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