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黒い靄が、ルーファスの身体を這い上がっていた。
足元を覆い、白銀の鎧へ生き物のように絡みついていくそれを押し戻そうと、シアは胸元で両手を重ねる。
祈りに応じて溢れた白い光は、崩れかけた神殿の奥まで眩く照らし、触れた端から黒を焼いていく。それでも祭壇の奥に澱む闇は尽きることなく、押し返したそばから新たな靄がルーファスの足元に流れ込んできた。
額を伝った汗が頬を滑り、顎の先から落ちていく。息を吸うたびに喉から肺までひりつき、重ねた指にはもう思うように力が入らない。
ここに辿り着くまでに、どれほど神聖力を使っただろう。それでも最後に必要になるからと、傷ついた仲間を前にしてさえ少しずつ残してきた力を、今は惜しまず注いでいる。それなのに厄災は、ルーファスの身体そのものに根を張ってしまったかのように離れようとしない。
「シア。もういい」
「よくないよ。まだ消えてない」
答えながら、さらに力を込める。白い光が強く膨らみ、その向こうでルーファスが眉を寄せた。
金色の髪は血と埃に汚れ、普段なら眩しいほど白い鎧にも数えきれない亀裂が走っている。床に突き立てた長剣を支えにしなければ、立っていることさえ難しいはずなのに、青い瞳だけはまだ力を失っていない。自分がどうなるかより、こんな時までシアたちのことを案じているのだろう。
ルーファスは昔から、そういう人だった。
見上げた神殿にも、かつての面影はほとんど残っていない。白い石造りの柱は半ばから折れ、壁を飾っていた神々の浮彫は砕け、天井に穿たれた大穴の向こうには星ひとつない夜空が覗いている。外から絶え間なく響いていた剣戟や魔法の炸裂音も、いつの間にか遠くなっていた。
ここまで来れば、すべてを終わらせられると思っていた。
五人で辿り着いたのだから、帰る時も五人なのだと、疑いもしなかった。
「リカルド」
ルーファスに呼ばれても、床を埋め尽くすほど広げられた紙の中央で、リカルドは顔さえ上げない。
「話しかけるな。計算が狂う」
ひびの入った眼鏡の下を一筋の血が伝っている。本人はそれを拭おうともせず、黄水晶色の瞳で書き上げたばかりの術式を端から追うと、その紙を横へ押しやり、新しい一枚を引き寄せた。
握り続けているペンの軸には血が滲み、指先も震えている。それでもルーファスから厄災だけを切り離そうと、ここへ来てから一度も手を止めていなかった。
「境界が定まらない。このまま引き剥がせば、お前の魂まで傷つける。だから余計なことを考えず、そこにいろ」
返事はなかった。
妙に重い沈黙に、シアは祈りを続けたままルーファスを見る。
「シア」
青い瞳が、まっすぐにこちらを向いていた。
「私ごと封印しろ」
掌から溢れていた光が揺らぐ。
「……何を言ってるの」
「厄災はもう私から離れない。このまま私ごと消せば、ここで止められる」
聞き間違いであってほしかった。けれどルーファスの顔には冗談の色も、恐怖に駆られた迷いもない。
シアは息を詰め、光を宿した自分の手を見下ろす。
できないわけではない。
聖女の力は傷を癒やすためだけにあるのではなく、人の世に害をなすものを封じ、世界の理から切り離すこともできる。厄災だけを消せないのなら、それを宿したルーファスごと――シアが選びさえすれば、ここで終わらせることはできるのだ。
外へ広がり続ける闇も、それに呑まれようとしている人々も、救えるかもしれない。
「……嫌だよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「外にはまだ人がいる。ここで止めなければ――」
「分かっている」
その先は聞きたくなかった。
外にいる大勢の命と、目の前にいる一人。聖女であるシアなら、どちらを選ぶべきかなど考えるまでもないのかもしれない。
けれど、ここにいるのは数に置き換えられる誰かではない。
祭りの日に少し薄着をすれば黙って外套を掛け、怪我をすれば本人より先に顔を顰め、シアが聖女であることなど忘れたように叱ってくれる人だ。何度も隣で剣を振るい、何度も守ってくれた。その人を自分の手で消してしまうのだと考えただけで、胸が痛み、息が詰まる。
シアは光を宿した両手を握りしめ、首を振った。
「あなたのいない世界なんて、選べないよ」
ルーファスの瞳が揺れる。
何かを言おうとした彼の声を呑み込むように、祭壇の奥で黒いものが大きく膨れ上がった。神殿全体が地の底から突き上げられたように揺れ、ルーファスに絡みついていた靄が一気に胸元まで這い上がる。床に突き立てた長剣ごと身体が後ろへ引かれ、その足が石床を滑った。
シアは考えるより先に駆け出す。
「ルーファス!」
横から肩を強く突き飛ばされた。
受け身を取る暇もなく石床へ倒れ込み、掌と膝に鋭い痛みが走る。直後、頭上を黒い奔流が唸りながら通り過ぎ、その向こうで何かが裂けるような鈍い音が響いた。
顔を上げると、リアムが立っている。
黒い髪の隙間から覗く横顔が苦痛に歪み、握っていた剣が手を離れた。その身体まで傾くのを見て、シアは這うように駆け寄り、倒れる寸前で抱き留める。
触れた掌が、生温かなもので濡れていった。
「リアム……!」
「お前が飛び出すからだろ」
声は掠れているのに、叱る時の口調だけは昔から何ひとつ変わらない。
右肩から背中へ、鎧ごと抉られた深い傷が走っていた。溢れた血がシアの腕まで伝い落ちるのを見て、喉の奥が狭くなる。すぐに掌を翳せば、祈りに応じて生まれた白い光がリアムの傷を包み、裂けた皮膚を少しずつ塞いでいく。
身体の奥に残る神聖力を掻き集めるようにして注ぎ続けた。
もう惜しむ理由などない。
けれど、深い傷がようやく半ばまで癒えたところで、掌の光が頼りなく明滅する。シアはもう一度力を呼ぼうとしたが、指先に集まった淡い光はリアムの傷に落ち、それきり消えてしまった。
「……待って」
もう一度。あと少しだけ。
何度祈っても、掌には光ひとつ生まれない。
先ほどまで、ルーファスを厄災ごと消せるだけの力が確かに残っていた。それを使わないと決めたのは自分なのに、今は腕の中にいるリアムの傷さえ治しきれない。選ばなかったことを後悔しているわけではない。それでも、目の前で苦しむ彼を救えない自分が悔しかった。
俯きかけたシアの肩に、リアムの手が触れる。
「血は止まった。充分だ」
痛みに顔を歪めながらも、リアムはシアの腕から身体を起こし、落とした剣へ手を伸ばした。
「俺はまだ動ける。それより前を見ろ」
言われて振り返れば、ルーファスはまだ立っている。リカルドのペンも止まってはいない。
けれど黒い靄は先ほどより濃く、祭壇から這い出した闇は石床の目地を満たしながら、少しずつこちらへ広がっていた。遠くで何かが弾ける音がして、神殿を覆っていた結界の光が一枚、音もなく消える。
そこでシアは、一人の姿が見えないことに気づいた。
「ゼノ!」
「いるよ」
崩れた柱の向こうから、聞き慣れた間延びした声が返ってきた。
瓦礫を跨いで現れたゼノは、額から流れた血で片方の眉まで濡らし、オレンジ色の髪もすっかり乱れている。外套は肩口から大きく裂け、普段なら真っ先に文句を言いそうな有様なのに、シアと目が合うと何事もなかったように笑った。
「そんな顔しなくても、置いて帰ったりしないって」
「結界は?」
「一枚駄目になったけど、まだ二枚ある。俺、優秀だから」
いつもなら呆れて何か言い返すところなのに、今はその軽い声がいつもと変わらないことに、少しだけ救われた。
ゼノはそれ以上ふざけることなくリカルドのもとへ向かう。差し出された紙を受け取ると、緑の瞳から笑みが消えた。
二人の間で短い言葉とペンが行き来し、ゼノが余白に式を書き足せば、リカルドはすぐさまその先を書き継いでいく。説明を重ねる時間などないのに、互いが次に何を必要としているのかだけは分かっているようだった。
それでも、書き上げた紙が増えるばかりで、ルーファスを覆う黒は薄くならない。
外で残された結界が低く軋んだ。
その音を聞いた瞬間、リカルドの手が止まる。
「……時間が足りない」
書きかけの術式を見つめたまま、ペンを握る指に力が入った。
「あと少しあれば境界を固定できる。厄災だけを切り離して、その先まで繋げられるかもしれないのに……」
悔しさを押し殺すように唇を結び、リカルドは目を伏せる。
「次があるなら、今度は間に合わせる」
ゼノの指が止まった。
リカルドの横顔を見たあと、床一面に散らばった術式へ視線を落とす。何枚もの紙と、書き潰された式を、あと少しのところで届かなかった答えまで確かめるように見渡してから、ゼノは何も言わずに立ち上がった。
「……そっか」
「ゼノ?」
シアが呼ぶと、彼はこちらを向く。
口元には、もういつもの笑みが戻っていた。
「俺、こう見えて天才なのよ」
返事を待たず、ゼノは指先を持ち上げる。
淡い光が灯り、何もない宙に一本の線が引かれた。そこへ新たな線と円が重なり、シアの知らない文字が次々と連なっていく。
ひとつの式が次の式を呼ぶように広がり、やがて複雑な術式が神殿いっぱいを覆った。
「待て、ゼノ。その術式は何だ」
リカルドが弾かれたように立ち上がる。目の前で組み上がっていく式を追っていた黄水晶色の瞳が見開かれ、眉が険しく寄った。
「……見たことがない」
ゼノの指先が最後の線を結んだ。
光が一斉に広がり、床に散らばっていた紙が風もないのに舞い上がる。銀髪を大きく煽られながら、シアは咄嗟に足を踏ん張った。
けれど、おかしい。
確かに石床を踏んでいるはずなのに、足元の感覚が薄れていく。ルーファスも、リアムも、リカルドも、すぐ傍にいるはずなのに、神殿ごと遠ざかっていくようだった。
「ゼノ」
返事はない。
シアは光の中へ一歩踏み出す。
「何してるの。こっちに来て」
伸ばした手は届かない。
舞い上がる紙の向こうに、ゼノの背中が見えている。ほんの数歩しか離れていないはずなのに、どれだけ腕を伸ばしても、その距離は縮まらなかった。
「ゼノ」
もう一度名前を呼ぶ。
ようやく彼が振り返り、いつものように笑おうとして――途中でやめた。
その顔を見た途端、何も分からないまま、ただ行かせてはいけないと思った。
シアはさらに手を伸ばす。
「待って。みんなで帰るんでしょ」
ゼノは答えない。
緑の瞳が、まっすぐにシアを見つめている。
「ごめんな、シア」
その言葉とともに、目を開けていられないほどの光が溢れた。
伸ばした指先は、最後までゼノに届かなかった。




