「魔力なしの石ころが王妃など笑わせるな」と婚約破棄されましたが、もう少しで聖女さまの魔法が切れますので、どうぞそのままお続けくださいませ
1 頭の上
わたくしの頭の上には、砂時計がひとつ浮いている。
両手で抱えるほどの大きさで、金の枠に硝子の胴がはまっている。上の玉から下の玉へ、白い砂が糸のように細く落ちつづけている。鏡には映らない。侍女に髪を結わせても、櫛はそこを素通りする。見えるのは、わたくしひとりである。
今夜、その砂が落ちきる。
◇
砂時計が見えるようになったのは、8歳の春だった。
最初に気づいたのは、屋敷の廊下の燭台だった。灯りの魔法をかけた燭台の上に、指の先ほどの砂時計が乗っていて、さらさらと砂を落としていた。台所へ行けば、料理長が鮮度保ちの魔法をかけた肉の塊の上に乗っていた。門へ行けば、夜ごと錠の魔法をかけ直す門扉の上に乗っていた。大きさはまちまちで、長くもつ魔法ほど、砂時計も大きかった。
魔法のかかったものには、砂時計が乗る。砂は魔法の残りで、落ちきれば魔法が切れる。止めることも、足すこともできない。何の魔法なのかは、乗っている場所から見当をつけるしかない。わたくしにできるのは、見ることだけだった。
乳母に話したら、熱を測られた。二度目に話したら、神殿へ連れて行かれそうになった。三度目は、話さなかった。
そもそも、わたくしには魔力がない。7歳の魔力判定で、測りの水晶は少しも光らなかった。この国で貴族の娘の魔力がゼロというのは、読み書きができないのと同じくらい外聞が悪い。社交界でついた呼び名は「ヴァルデンの石ころ」である。石ころが砂時計が見えると言っても、誰も信じない。信じてもらえるとも思わなかった。
その石ころが、魔力判定と同じ年のうちに、王太子殿下の婚約者に定められた。
王命だった。侯爵家とはいえ、魔力のない娘をなぜ未来の王妃に、と誰もが首をかしげた。父も首をかしげた。わたくしも首をかしげた。首をかしげなかったのは陛下おひとりで、陛下は理由を一度もおっしゃらなかった。
頭の上の砂時計は、わたくしが砂時計を見られるようになったとき、もうそこにあった。
燭台の砂時計は、3晩でなくなる。門の砂時計は一晩でなくなる。けれど頭の上のそれは、10年かけて、少しずつ少しずつ減ってきた。
人の頭の上にあって、ゆっくりと尽きていき、尽きたら何かが終わるもの。10年考えて、わたくしは一つしか思いつかなかった。
寿命である。
砂の落ちる速さは、ずっと変わらない。だから、残りの量を見れば、いつ尽きるかは読める。何度読み直しても、答えは同じだった。
ユリウス王太子殿下が18歳になられる晩。成人前夜の舞踏会の、夜半の鐘。
つまり、今夜だ。
死ぬ支度は、思ったより早く済んだ。北の領地にいる父と、学院の寮にいる弟に手紙を書き、明日の朝いちばんの便で出すよう頼んだ。長く仕えてくれた侍女には、次の奉公先への紹介状を持たせた。あとは泣くかどうかだけだったが、10年も見上げていると、泣く時期はとうに過ぎていた。
最後の晩くらいは、いちばんきれいなドレスで踊って終わろう。
そう決めて、わたくしは王宮の大広間に来た。
◇
大広間の天井には、硝子の燭台が数えきれないほど吊られている。そのひとつひとつに小さな砂時計が乗っていて、わたくしの目には、天井いっぱいに砂時計が咲いているように見える。楽団の弦にかけられた響きの魔法にも、貴婦人がたの髪飾りにかけられた煌めきの魔法にも、それぞれの砂時計がある。
最初の曲が終わっても、王太子殿下はお見えにならなかった。
主役がいない。広間の人々がそわそわしはじめたころ、ようやく大扉が開いた。
殿下は、ひとりではなかった。
腕に、小柄な娘をつかまらせていた。桃色の髪をふわりと結い上げ、白いドレスを着ている。頭の上には、淡い金の光の輪がかかっていた。
コレット・ミルフォード男爵令嬢。この半年、下町で病人を癒やしたとかで、「聖女さま」と呼ばれている方である。神殿の認定はまだ下りていない。けれど殿下は、もう誰はばかることなく、あの方をそばに置いておられた。
わたくしは、ふたりの頭の上を見た。
殿下の頭の上に、小さな砂時計がひとつ。
コレット様の光の輪の上にも、ひとつ。三角巾で吊った左腕の包帯の上にも、ひとつ。
そして、ふたりの後ろに控えている侍女――地味な灰色の服を着た、若い女の胸のあたりにも、ひとつ。
どの砂も、残りが少なかった。
包帯の上のものは、ほとんど底が見えている。殿下の頭の上のものは、半分を割っている。侍女の胸のものと光の輪の上のものは、それよりは多い。けれど、夜半まではとうてい持たない量だった。
わたくしは、少しだけ首をかしげた。
聖女さまの光の輪に、砂時計がある。
それは、あの光が魔法だということだ。神の授けた奇跡なら、誰かがかけた魔法ではないのだから、砂時計が乗るはずがない。
コレット様が、ちらりと広間の大時計を見た。殿下の袖を、くいくいと引いた。
殿下が、わたくしのほうをまっすぐに向いた。
「エリシア・ヴァルデン。前へ」
音楽が止まった。人の輪が割れて、わたくしと殿下のあいだに、磨かれた床がまっすぐに伸びた。
ああ、そういうこと。
わたくしは扇を閉じ、前へ出た。
「この場をもって、貴様との婚約を破棄する!」
最後の晩のドレスは、少しもったいないことになりそうだった。
2 痣
広間がどよめいた。
10年の婚約である。王命の婚約である。それを殿下は、陛下のお見えにならない舞踏会で、大声で投げ捨てた。
陛下は今夜、王宮の奥の神殿で、成人前夜の祈りを捧げておられる。夜半の鐘とともに大広間へお越しになり、殿下の成人を祝福なさる。それが今夜の段取りだった。
陛下のお越しまでに、片をつける。殿下とコレット様のお考えは、それだろう。陛下の御前では、こんなことはできない。
わたくしは膝を折り、礼をした。
「殿下のお言葉、たしかに伺いました」
「ならば承れ。それで終わりだ」
「承るかどうかは、罪状を伺ってからにいたします」
殿下の眉が跳ねた。
わたくしたちの婚約は、ただの約束ではない。7歳と8歳の子どもが神官の前で誓いを立てて結んだ、誓約の婚約である。誓約の婚約は、ほどくのにも手順がいる。片方が破棄を申し出て、もう片方が「承ります」と答えて、はじめてほどける。申し出たほうは、相手の同意なしに言葉を引っこめることもできない。軽々しく口にするなという、昔の王の戒めだと、わたくしは王妃教育で習った。
10年の王妃教育は、たいていは退屈だった。けれど今夜は、少し役に立ちそうだった。
「……よかろう」
殿下は顎を上げた。
「聞かせてやる。貴様の罪は、ふたつだ」
殿下は、指を立てた。
「ひとつ。3日前の夕刻、王宮の大階段で、コレットを突き落とした」
指を、もう一本。
「ふたつ。コレットについて、根も葉もない噂を流した。聖女を騙る偽物だとな」
ふたつめのほうは、たった今、わたくしが胸の中で思ったことだった。噂を流した覚えはないけれど。
「以上だ。認めて、承れ」
「では、証を一つずつお示しくださいませ」
わたくしは、できるだけゆっくりと言った。
「王族の御前での訴えは、罪状ごとに証を示すのが定めでございます。訴えた方と証をなさる方は、裁きが済むまで座をお離れになれません。お離れになれば、訴えは取り下げたものとされます。……殿下も、ご存じのとおりに」
殿下は、ご存じなかった顔をした。
広間の年配の方々が、何人か小さくうなずいた。古い定めだが、生きている定めである。
コレット様が、また大時計を見た。
わたくしも、見た。それからコレット様の左腕を見た。包帯の上の砂時計は、底に砂がひと筋残っているだけだった。
「証なら、ここにございます」
コレット様が、三角巾から左腕を抜いて、袖をまくった。
細い腕の真ん中に、握りこぶしほどの紫の痣があった。貴婦人がたが、息をのんだ。
「階段で、突き飛ばされたときのものですわ」
「痛ましいこと」
わたくしは言った。
「皆さまにも、よくお見せくださいませ。燭台の下のほうが、見えやすうございます」
コレット様は一瞬ためらったが、殿下に背を押されて、燭台の真下へ進み出た。痣のある腕を、灯りの中に掲げる。
「何段目から、落ちられましたの」
「……上から、3段目です」
「突かれたのは、背中を? それとも肩を?」
「背中です。両手で」
「痣は腕にございますのね。背中にはございませんの?」
「背中にも、ありますわ。この場ではお見せできませんけれど」
「落ちたとき、どなたが助け起こしてくださったの」
「ハンナが。わたくしの侍女が」
受け答えは早かった。考えてきた答えなのだろう。
けれど、答えの中身など、わたくしにはどうでもよかった。腕を燭台の下に掲げていてもらえれば、それでよかった。
最後のひと筋が、落ちた。
紫の痣が、灯りの下で、湯気のように薄れて消えた。
広間の皆が、それを見た。
「まあ」
わたくしは、扇を口元に当てた。
「お腕、もうよろしいの?」
コレット様はご自分の腕を見下ろして、顔を強張らせた。
ほんとうに、一瞬だけだった。
「……ああ」
コレット様は腕を胸に抱いて、うっとりと目を閉じた。
「治りましたわ。殿下のおそばにいると、いつもこうなのです。聖女の力が満ちて、傷がひとりでに」
広間が、どよめいた。拍手をした方までいた。
「見たか」
殿下が、わたくしに向かって言った。
「これが聖女だ。貴様は、この方を偽物と呼んだのだぞ」
しくじった。
わたくしは扇の陰で、奥歯を噛んだ。痣が消えれば嘘が剥がれると思っていた。剥がれるどころか、奇跡がひとつ増えてしまった。
コレット様は、早い。痣の消える刻を知っていたのかどうかは、わからない。けれど、消えたものを奇跡に塗り替えるまで、まばたき一回もかからなかった。
あの方は、ただの嘘つきではない。場慣れした嘘つきだ。
残る砂時計は三つ。殿下の頭の上と、侍女の胸と、聖女さまの光の輪。
それから、わたくしの頭の上。
見上げなくても、わかっている。こちらは今も、変わらない速さで落ちている。
3 成人の曲
「次だ」
殿下は、後ろに控えていた侍女を手招いた。
「コレットの侍女、ハンナだ。3日前、大階段で一部始終を見ていた」
灰色の服の侍女が進み出て、膝を折った。胸の上の砂時計には、まだ半分近く砂が残っている。
足りない、とわたくしは思った。
あの侍女が本当に侍女なのかどうかは、わからない。わかるのは、あの人に何かの魔法がかかっていて、それがいずれ切れるということだけだ。今の調子で話が進めば、どう読んでも、裁きのほうが先に済む。
侍女が口を開くより先に、コレット様がふらりとよろめいた。
「殿下……少し、気分が」
殿下が、慌てて肩を抱いた。
「控えの間で、休ませていただけませんか。証ならハンナがおりますし、わたくしがいなくても」
控えの間。
わたくしは、光の輪の砂時計を見た。それから、侍女の砂時計を見た。
控えの間に入って、しばらくして出てきたら、あの砂時計はふたつとも、満杯に戻っているのではないか。
そういう段取りだったのだ。
断罪を手早く済ませ、控えの間で魔法をかけ直し、夜半には陛下の御前へ聖女として立つ。痣も、光も、侍女も、今夜の断罪のあいだだけ持てばよかった。だから、どの砂も少ない。断罪がこんなに長引くとは、思っていなかったのだ。
「お気の毒に」
わたくしは言った。
「けれど、先ほど申し上げたとおりでございます。訴えた方が座をお離れになれば、訴えは取り下げたものとされます。わたくしとしては、それでもかまいませんけれど」
コレット様の顔から、表情が抜け落ちた。
すぐに、弱々しい笑みが戻った。
「……いえ。がんばりますわ。殿下のために」
殿下が、わたくしを睨んだ。
「引き延ばしだな」
「いいえ。定めでございます」
「父上を待っているのだろう。父上のお越しは夜半の鐘だ。そのころには、とうに片がついている」
殿下は、ご自分の考えにすっかり満足した顔をなさった。わたくしが、陛下のお越しを待っていると思っておられる。
それで、よかった。何を待っているのかを知られるより、ずっとよかった。
「エリシア。今すぐ承れ。これ以上、コレットを苦しめるな」
殿下が、一歩、わたくしのほうへ踏み出した。
そのとき、わたくしは殿下の頭の上を見ていた。
砂時計の残りが、あとわずかだった。
人の頭の上にかかる魔法で、わたくしがまず思いつくのは、ひとつだった。
魅了である。
殿下は、この半年でお変わりになった。わたくしを見る目が冷たくなり、コレット様のことしかお話しにならなくなった。そのお心が、魔法で曲げられているのだとしたら。それが、今、切れるのだとしたら。
殿下は目を覚まし、ご自分が何をしておいでなのかに気づかれる。この断罪は、殿下ご自身のお口で終わる。
――殿下が8歳のとき、わたくしに押し花をくださったことがある。
婚約の誓いの翌日だった。庭で摘んだ青い花で、ぺしゃんこで、形もいびつだった。「石ころにも、花くらいはやる」と、そっぽを向いておっしゃった。
わたくしは、その押し花を今でも持っている。今夜、弟への手紙に同封するかどうか、少し迷って、やめた。
殿下の口が、また開きかけた。
ちょうどそのとき、楽団が弦を鳴らした。
成人の曲である。
夜半の鐘の半刻前に、成人を迎える王族のために奏される古い曲だ。式部官が、今夜の段取りどおりに合図を出したのだ。この曲が鳴っているあいだ、広間の者はみな口を閉じ、立って聴かなければならない。祝われる本人も例外ではない。
殿下は口を開けたまま、固まった。ご自分の成人を祝う曲を、ご自分でさえぎるわけにはいかない。
広間が、静まり返った。
わたくしは、殿下の頭の上だけを見ていた。
砂が、細くなる。細くなる。
最後の一粒が、落ちた。
殿下の前髪が、ぺたりと額に寝た。
丹念に巻いて、ふんわりと持ち上げてあった金色の前髪が、魔法が切れたとたんにただの直毛に戻り、額にべったりと張りついた。
それだけだった。
殿下は前髪の下から、さっきと同じ目でわたくしを睨んでいた。少しも変わらない、冷たい目だった。コレット様の肩を、さっきと同じ強さで抱いていた。
魅了ではなかった。
整髪の魔法だった。
曲は、ゆっくりと続いていた。わたくしは、口を閉じて立っていた。立っていなければならなかったので、ちょうどよかった。
殿下は、魔法で曲げられてなどいなかった。ご自分のお心で、ご自分の足で、ここまで歩いてこられたのだ。石ころに押し花をくれた男の子は、とうの昔にいなくなっていて、今夜はじめて、わたくしはそれを確かめた。
確かめなければよかった、とは思わなかった。死ぬ前に、ひとつ片づいたと思った。
ただ、困ったことになった。
殿下の砂時計は、ひとつめの賭けだった。外れた。残りは、侍女の胸と光の輪の上。どちらも、まだ落ちきっていない。
そしてこの曲が終われば、殿下はもう一度、承れとおっしゃる。
曲の最後の和音が、長く尾を引いて、消えた。
4 侍女
「承れ」
予想どおりだった。前髪を額に張りつけたまま、殿下はおっしゃった。ご自分の前髪がどうなっているか、ご存じないのである。広間の何人かが、扇の陰で肩を震わせていた。
「罪状のひとつめの証を、まだ伺い終えておりません」
「痣を見ただろう」
「消えてしまいましたので」
「聖女の力で治ったのだ!」
「では、治る前の痣をご覧になった方のお話を、伺いとうございます」
わたくしは、侍女のほうへ向き直った。
「ハンナさん。3日前の夕刻、あなたは大階段のどこにいらしたの」
侍女は、目を伏せたまま答えた。
「階段の下の、踊り場におりました。お嬢さまがおいでになるのを、お待ちしておりました」
「わたくしは、どちらの手で突いたのかしら」
「両手で、背中を」
「わたくしのドレスの色は」
「……紺でございました」
「髪は、結っておりましたか。下ろしておりましたか」
「結っておいででした」
よどみのない答えだった。こちらも、考えてきた答えなのだろう。
3日前の夕刻、わたくしはたしかに紺のドレスを着ていた。王宮の書庫に、王妃教育で借りた本を返しに行った。大階段も通った。そういうことを、あの方々はきちんと調べてある。
わたくしは、侍女の胸の砂時計を見た。
上の玉に、まだ小指の先ほど残っている。
「もう一度、伺ってよろしいかしら。踊り場の右寄りでしたの、左寄りでしたの」
「いい加減にしろ!」
殿下の声が、広間に響いた。
「同じことを何度聞く気だ。時間稼ぎも大概にしろ」
広間の空気が、少し変わった。さっきまで殿下の前髪を笑っていた方々も、今は眉をひそめてわたくしを見ている。石ころが、見苦しく粘っている。そういう目だった。
そう見えるだろう、とわたくしは思った。事実、粘っているのだから。
コレット様が、殿下の腕にそっと手を添えた。
「殿下、もうよろしいじゃありませんか。……ハンナ、あなたはもう下がっていいわ。怖い思いをさせてごめんなさいね」
侍女が、立ち上がりかけた。
「お待ちになって」
わたくしは言った。
「証をなさる方も、裁きが済むまで座をお離れになれませんわ。ハンナさんがお下がりになるなら、罪状のひとつめは、取り下げたものといたします」
侍女は、中腰のまま止まった。
コレット様が、また大時計を見た。
今度は、隠そうともしなかった。唇が、かすかに動いていた。何かを数えているように見えた。
それで、わたくしにはわかった。
この方は、知っている。痣がいつ消え、侍女がいつ侍女でなくなり、光の輪がいつ消えるのか。全部知っていて、大時計と見比べている。
あの砂時計は、全部、この方のための魔法なのだ。
「ハンナさん」
わたくしは、穏やかに言った。
「では、踊り場の右寄りでしたの、左寄りでしたの」
侍女は、答えなかった。
膝をついたまま、両手で胸を押さえていた。そこには、わたくしにしか見えない砂時計がある。その上の玉が、空になろうとしていた。
この人も、知っているのだ。
「……右、でございます」
侍女の声が、震えた。
最後の砂が、落ちた。
灰色の服の中で、侍女の輪郭が、陽炎のように揺らいだ。
細い肩が、ぐいと張り出した。結い上げた茶色の髪がほどけて、短く縮れた。白い頬に、青い無精ひげが浮いた。灰色の服の袖から、骨ばった大きな手首が突き出た。
膝をついていたのは、侍女の服を着た、痩せた中年の男だった。
誰も、声を出さなかった。
いちばん先に悲鳴を上げたのは、男の隣にいた伯爵夫人だった。それを合図に、広間じゅうが割れるような騒ぎになった。
「ギルベルト・ハース……!」
人垣の中から、白ひげの老人が進み出た。魔術院の長、ベルンハルト師である。
「禁術に手を出して、魔術院を破門された男だ。変じの術か……わしの目の前で、気づかなんだとは」
衛兵が駆けつけ、男の両腕をつかんだ。女に化けて、王宮の大広間に入りこんだのである。それだけで、十分に重い罪だった。
「し、知りません!」
コレット様が叫んだ。
「こんな人、知らない! ハンナはどこへ行ったの! ……エリシア様ね。エリシア様が、わたくしに恥をかかせるために、この人を仕込んだのよ!」
なかなかの切り返しだ、とわたくしは思った。痣のときと同じである。この方は、崖っぷちでも足を止めない。
殿下が、コレット様とわたくしを交互に見た。前髪の下で、目が泳いでいた。
それから殿下は、コレット様の肩を抱き直した。
「……聖女が、嘘をつくはずがない」
殿下は、そちらを選んだ。
わたくしは、もう何も言わなかった。言う必要がなかった。
わたくしは、コレット様の頭の上を見ていた。
光の輪の上の砂時計。わたくしのそれと同じように、頭の上に浮かんでいる砂時計。
あと、ひとつまみ。
コレット様が、わたくしの目に気づいた。わたくしの目が、ご自分の顔ではなく、その少し上を見ていることに気づいた。
コレット様の顔から、血の気が引いた。
「……あなた、まさか」
見えてるの、と、唇だけが動いた。
わたくしは、にっこり笑った。
「聖女さまのお言葉が真かどうか、もうすぐわかりますわ」
最後の砂が、落ちた。
淡い金の光の輪が、ふっと消えた。
燭台の火を吹き消したように、あっけなく消えた。桃色の髪の上には、何もなかった。広間いっぱいの人が、それを見ていた。
今度こそ、広間は静まり返った。
衛兵に押さえつけられた男が、声を上げて笑い出した。
「ははっ、切れた、切れちまった!」
男はコレット様を見上げて、黄色い歯を見せた。
「知らない、はねえだろう、お嬢ちゃん。光も痣も、俺の術だ。下町で病人を治したってのも、俺が幻を見せただけだ。代金はまだ半分しかもらってねえ。残りは王妃になってから払うって話だったよな?」
「嘘よ!」
「嘘なもんか。こうなったら、俺ひとり首を括られてたまるか。全部しゃべってやるよ。魔術院長さまにも、陛下にもな」
コレット様は、何か言い返そうとして口を開き、そのまま、何も言わなかった。
言葉が、もう出てこないようだった。
わたくしは、殿下のほうへ向き直った。
「殿下。罪状のふたつめ、聖女さまを偽物と噂した件でございますけれど」
殿下は、答えなかった。
「わたくしは、噂を流した覚えはございません。けれど、どなたかが流していたのだとしても、それは噂ではなく、事実でしたわね」
5 夜半の鐘
最初に動いたのは、殿下だった。
コレット様の肩から、手を離した。火に触れたように、ぱっと離した。
「……私を、騙したのか」
「殿下」
「聖女だと言ったな。私のそばにいると力が満ちると言ったな。私に、こんな大勢の前で――」
「殿下だって!」
コレット様が叫んだ。桃色の髪を振り乱して、殿下につかみかかった。
「殿下だって、あの石ころを捨てたいって言ったじゃない! 魔力のない女を王妃にしたら笑いものだって、あなたが言ったのよ! だから、手伝ってあげたんじゃない!」
広間の人々が、今度は殿下を見た。
殿下は、真っ青になった。
「衛兵! この女を連れて行け!」
コレット様は衛兵に両腕を取られ、ギルベルトと並んで引き立てられていった。わめき声が大扉の向こうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
聖女を騙るのは、この国では神殿への重い罪である。王族を欺いたとなれば、なおのこと重い。あの方がどうなるかは、わたくしが決めることではない。けれど、たぶん、あの桃色の髪を大広間で見ることは二度とないだろう。
広間には、殿下とわたくしが残された。
正確には、殿下と、わたくしと、わたくしたちを遠巻きにして息をひそめている大勢の人々が。
殿下が、わたくしのほうを向いた。
額に前髪を張りつけて、目の縁を赤くして、ひどい顔をしておられた。けれど声だけは、急にやさしくなった。
「エリシア」
殿下は、わたくしの手を取った。
「すまなかった。あの女に、たぶらかされていた。……破棄は、取り消す。そなたは、今も私の婚約者だ」
わたくしは、自分の手に重ねられた殿下の手を見下ろした。
それから、見上げた。
頭の上の砂時計。
10年、見上げてきた砂時計。
上の玉に残っているのは、もう、指でつまめるほどしかなかった。夜半の鐘は、すぐそこだ。
あと少しで、わたくしは死ぬ。
死ぬとしたら、この方の婚約者として死ぬのだろうか、とわたくしは考えた。
たぶらかされていた、とこの方はおっしゃった。けれど、魔法は前髪にしかかかっていなかった。わたくしを捨てたいとおっしゃったのは、この方ご自身だ。コレット様が嘘つきだとわかったとたんに肩から手を離したのも、この方ご自身だ。今わたくしの手を取っておられるのは、広間じゅうの目が、こちらを向いているからだ。
10年の最後の砂を、この方の婚約者として迎えるのは、嫌だった。
はっきりと、嫌だった。
「殿下」
わたくしは、そっと手を引き抜いた。
「誓約の婚約は、申し出た方が、相手の同意なしに言葉を引っこめることはできません。取り消しも、わたくしが承って、はじめて成るのでしたわね」
「……そうだ。だから、承ってくれ」
「殿下のお言葉は、今、宙にふたつ浮いております。破棄と、取り消しと。どちらを拾うかは、わたくしが決めてよいのでしたわね」
殿下の顔が、こわばった。
わたくしはスカートをつまみ、深く膝を折った。10年の王妃教育で、いちばん上手になった礼だった。
「婚約破棄、謹んで承ります」
頭の上が、ふっと軽くなった。
見上げた。
砂時計が、なかった。
落ちきったのではない。最後のひとつまみを上の玉に残したまま、硝子も、金の枠も、砂も、まるごと消えていた。10年そこにあったものが、何もなかった。
わたくしは、立ったまま待った。
死ぬのを、待った。
殿下が、何か言っていた。「待て」とか、「取り消したと言っただろう」とか、そういうことを言っていた気がする。耳に入らなかった。わたくしは自分の手を見て、胸に手を当てて、それから天井の燭台を見上げた。燭台の小さな砂時計は、相変わらずさらさらと落ちていた。
大時計が、夜半の鐘を打ちはじめた。
ひとつ。ふたつ。
わたくしは、生きていた。
みっつ。よっつ。
鐘を数えるうちに、大扉が開いた。
真っ白な祈りの衣のまま、陛下が入ってこられた。お供の神官たちが、息を切らしてあとに続いていた。
広間の者が、いっせいに膝を折った。
陛下は、殿下を見た。前髪の張りついた、ひどい顔の殿下を見た。広間に残る、ざわめきの名残りを見た。
それから、わたくしを見た。
「……ほどけたか」
陛下は、低くおっしゃった。
「神殿を出たところで、誓いの灯が消えたと知らせが来た。間に合わなんだな」
「父上、何を――」
「ユリウス。そなたの婚約は、ただの縁組ではない」
陛下は、静かにおっしゃった。
「王家に生まれた者は、みな知らされぬまま、ひとつ誓いを負う。幼いうちに立てた誓いを、成人の日まで守り通せるかどうか。守り通した者の頭にしか、王冠は乗らぬ。わしも負うた。わしの父も負うた」
鐘が、最後のひとつを打ち終えた。
「そなたの誓いは、この娘との婚約であった。申し出ただけならば、まだ破ったことにはならぬ。ほどけたときに、破れる。夜半の鐘まで守り通せば、そなたは王太子として立った。誓いの印はこの娘に置き、神殿に灯をともして見守らせておった」
陛下は、殿下を見下ろした。
「……あと、少しであったな」
殿下が、その場に膝をついた。
「王冠は、ルートヴィヒに回す」
「父上!」
「そなたは、ひとつ誓いを守れなんだ。王冠は、それを見逃すようにはできておらぬ」
殿下は、前髪の下で、口を何度も開いたり閉じたりした。声は出なかった。
わたくしは、ようやくわかった。
10年、見上げてきたもの。わたくしの寿命だと思っていたもの。
あれは、殿下の砂時計だったのだ。
殿下が誓いを守り通せるかどうか。その期限を、わたくしの頭の上に乗せて、誰にも知らせずに、10年、落としつづけていたのだ。
陛下が、わたくしに向き直った。
「ヴァルデンの娘。そなたにも、すまぬことをした」
「……もったいのうございます」
「魔力のない娘を選んだのは、ユリウスが必ず不満を持つと思うたからだ。不満を持ってなお守り通せるか、見たかった。そなたは、そのための問いであった」
「わたくしは、殿下の試しの問いでございましたのね」
「そうだ」
陛下は、否定なさらなかった。そういう方である。
「そなた、知っておったのか。今の刻を。承ったのは、それを知ってのことか」
わたくしは、少し考えた。
砂時計のことは、言えない。言っても、信じてはいただけないだろう。
「いいえ。存じませんでした」
わたくしは、正直に申し上げた。それから、もうひとつ、正直に付け加えた。
「存じておりましても、承りましたけれど」
陛下は、目を丸くなさった。
それから、祈りの衣の袖で口元を覆い、肩を震わせてお笑いになった。王の笑い声が大広間に響くのを、わたくしははじめて聞いた。
「……そうか。そうであろうな」
陛下は笑いをおさめて、おっしゃった。
「望みを申せ。10年の償いだ。たいていのことは聞いてやる」
わたくしは、また少し考えた。
困ったことに、何も思いつかなかった。
「恐れながら、陛下」
「うむ」
「わたくし、今夜までの予定しか立てておりませんでしたの。明日の分から、考えさせていただけますでしょうか」
陛下は、今度は声を立てずに、ただうなずかれた。
◇
大広間を出ると、夜風が冷たかった。
回廊の燭台に、小さな砂時計がいくつも乗っていた。門番の槍の穂先にも、ひとつ。夜空を横切っていく伝令の鳩の足にも、ひとつ。この国は相変わらず、わたくしの目には砂時計だらけだった。
そういえば、父と弟への手紙を、明日の朝いちばんの便で出すよう頼んであった。取り返さなければならない。遺書を受け取った弟が、学院の寮で泣き出す前に。侍女に持たせた紹介状も、取り返さなければならない。あの子は、もう次の奉公先を決めてしまっているかもしれない。
押し花は――明日、考えることにした。
わたくしは首をそらして、自分の頭の上を見上げた。
何もなかった。
星が、見えた。
10年ぶりに、わたくしは自分の明日を知らなかった。
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