契約は履行されました
大統領執務室の扉が、ゆっくりと開いた。
新大統領は、まるで場違いな客が迷い込んだような足取りで中へ入る。
スーツは身体に合っておらず、ネクタイは少し曲がっている。
だが、彼はそんなことを気にする余裕もなかった。
部屋の中央にある大統領デスク。
その椅子に腰を下ろした瞬間、彼は小さく呟いた。
「……ついに……大統領になったぞ……」
その声は震えていた。
喜びか、恐怖か、自分でも分からない。
その時だった。
「おめでとうございます」
背後から拍手が聞こえた。
乾いた、丁寧な、しかしどこか冷たい音。
大統領は飛び上がるように振り返った。
そこには、黒いスーツを完璧に着こなした男が立っていた。
表情は薄く、笑っているのかどうかすら分からない。
「だ、誰だ……警備っ……!」
大統領は慌てて電話を取る。
だが、受話器の向こうは完全な無音だった。
雑音すらない。
まるで世界そのものが消えたような静寂。
男は軽く首を傾けた。
「無駄ですよ。今は時間が止まっていますから」
大統領の喉がひゅっと鳴った。
男は一歩近づき、深く一礼した。
「さて、大統領になれたので──
約束の報酬を頂きにまいりました」
──覚えている。
酒場の薄暗いカウンター。
酔いと恨みでぐちゃぐちゃになっていた自分。
そして隣で静かに笑っていた、この男。
(やばい……本当に来た……)
だが、大統領は表情を必死に作り直す。
汗を袖で拭い、わざとらしく眉をひそめる。
「……あ、あなた……誰だ?
どこから入った?
私はあなたなんか知らんぞ」
声が裏返っている。
自分でも分かるほど不自然だ。
男は一歩近づき、淡々と告げる。
「とぼけるのはやめましょう。
あなたは私の顔を見た瞬間、思い出したはずです」
大統領の喉がひゅっと鳴る。
「な、何のことだ……?」
男は軽く笑う。
「あなたみたいな人が、大統領になれると本当に思いましたか?」
その一言で、大統領の顔色が変わる。
図星を刺された痛みと、
“あの夜”の記憶が一気に蘇る。
だが、それでもとぼける。
「し、知らん……知らんぞ……!」
男はため息をつく。
「酒場で愚痴をこぼしていたあなたは、
“世間を恨んでいる、もうどうでもいい”と嘆いていた。
そして私に言ったのです。
“できるもんならやってみろよ”と」
大統領の肩が震える。
「……あれは……酔ってただけだ……」
男の口元がニヤリと笑う。
「ちゃんと覚えているじゃないですか、
しかし酔っていようが、契約は契約です」
「ま、待ってくれ……!
私は……まだ死にたくない……!」
男は淡々とした声で答える。
「そんなことは私には関係ありません」
その言葉を聞いた瞬間、大統領の恐怖はさらに膨れ上がった。
──あの夜の酒場。
薄暗い照明。
湿った木のカウンター。
安いウイスキーの匂い。
その日、彼は勤めていた工場が閉鎖されて職を失った。
そして、その日の夕方、
スマホが震えた。
知らない番号。
出ると、淡々とした声が告げた。
「お母さまが交通事故で亡くなられました」
その言葉を聞いた瞬間、
彼の世界は、音もなく崩れ落ちた。
スマホを握る手が震え、
視界がじわりと滲む。
「……嘘だろ……?」
声にならない声が漏れた。
電話の向こうの担当者は、
まるで天気予報でも読み上げるような調子で続けた。
「身元確認のため、ご来院いただけますか」
彼は何度も頷いた。
頷きながら、涙が頬を伝って落ちた。
その夜、彼は家に帰らなかった。
帰れなかった。
気づけば、足は酒場へ向かっていた。
──そして、あのカウンターに座った。
ウイスキーのグラスを握りしめ、
何杯飲んだかも覚えていない。
無意識に手の指輪をいじっていた。
母の形見──
今日になって急に重く感じる小さな銀の輪。
「……なんでだよ……」
呟きは誰にも届かない。
店内の薄暗さが、彼の影をさらに沈めていく。
その時だった。
隣の席に、いつの間にか男が座っていた。
黒いスーツ。
整いすぎた姿勢。
そして、薄い笑み。
「つらい一日でしたね」
彼は顔を上げた。
「……誰だ、お前……」
男はグラスを指で軽く叩いた。
「あなたの“願い”を叶えられる者ですよ」
「願い……?」
男は静かに言った。
「あなたは今、世界を恨んでいる。
仕事も、家族も、未来も──すべて奪われた。
だからこう思っているはずです」
男は彼の耳元で囁いた。
「 “こんな世界、ひっくり返してやりたい”と」
彼の心臓が、ひときわ強く跳ねた。
男はグラスの縁を指でなぞりながら、
まるで天気の話でもするような口調で言った。
「大統領に立候補すればいいんですよ」
彼は思わず笑った。
乾いた、ひび割れた笑いだった。
「……は? 俺が? 大統領?
冗談だろ……」
男は首を横に振る。
「冗談ではありません。
あなたはこの社会に裏切られた。
工場を閉鎖したのも、
お母さまを事故に遭わせたのも──
“この社会”です」
その言葉は、彼の胸の奥にある黒い塊を、
そっと撫でるように刺激した。
「……社会が……悪い……?」
男は静かに微笑んだ。
その笑みは、挑発でも圧力でもなく、ただ“余裕”だけでできていた。
「あなたが望むなら、道は整えますよ。
社会を変えたいのでしょう?」
彼は拳を握りしめた。
胸の奥で、怒りとも悲しみともつかない何かが渦を巻く。
「……そんなこと……できるわけないだろ……」
男は首を傾ける。
「できないと、誰が決めたのです?」
その一言が、彼の中の何かを弾いた。
「……できるもんなら……やってみろよ……!」
言った瞬間、
自分の声が、酒場の空気を切り裂いたように感じた。
男の目が細くなる。
「──承りました」
世界が、静かに軋んだ。
男が静かに言う。
「では──約束の命…」
男の話を遮るように大統領は慌てて話し出す。
「ま、待て……!
ちょっと待ってくれ……!」
男は首を傾ける。
「何を待つ必要が?」
大統領は必死に笑顔を作る。
だが口元は引きつり、目は泳いでいる。
「ほ、ほら……私はまだ大統領になったばかりで……
まだ何もしていないんだ……!
今持っていかれたら……大統領になった意味がない……
せめて……一年……いや半年……いや三ヶ月……!」
男は淡々と告げる。
「契約は“就任まで”です。
あなたが椅子に座った瞬間、契約は履行されました」
大統領は崩れ落ちるように椅子にしがみつく。
「そ、そんな……!
就任演説もしてないんだぞ……!
国民に顔も見せてないんだ……!
せめて……せめて一度くらい……!」
男は静かにため息をつく。
「あなたは“何かを成し遂げるために大統領になりたい”と願ったのではありません。
“世間を恨み、大統領になりたい”と願っただけです。
その願いは、椅子に座った瞬間に満たされました」
大統領は震える声で叫ぶ。
「金ならいくらでもやる!
国家予算でもいい!
お前が欲しいだけ持っていけ!」
「興味ありません」
「じゃ、じゃあ部下だ!
優秀なのが何人もいる!
あいつらの命なら──」
「私は“あなた”と契約しました。
他人の命を差し出されても困ります」
大統領の顔が歪む。
涙と汗と恐怖でぐしゃぐしゃだ。
「頼む……頼むよ……!
私はまだ死にたくない……!」
男は静かに言う。
「そんなことは私には関係ありません」
その言葉が、大統領の恐怖を決定的にした。
大統領は机の引き出しを乱暴に開け、
震える手で拳銃を取り出した。
「く、来るな……!
近づくな……!」
男はただ静かに立っている。
大統領は引き金を引いた。
──カチリ。
乾いた音だけが響いた。
弾は出ない。
銃身の中で、弾丸は空中に固定されたまま微動だにしない。
時間が止まっているのだ。
大統領は顔を真っ青にして銃を振り回す。
「な、なんでだ……!
撃てよ……撃てよ……!」
男は淡々と告げる。
「時間が止まっていると言いましたよ。
あなたの行動だけが動いているのです」
大統領は銃を握りしめたまま後ずさる。
「で、でも……もし撃てたとしても……
お前に効くのか……?」
男は少しだけ首を傾げる。
「あなたは本気で、
“拳銃で私をどうにかできる”と思っているのですか」
その言葉が、大統領の心を完全に折った。
大統領は拳銃を握りしめたまま、
壁に背中を押しつけて震えていた。
「な、なんなんだ……
なんなんだお前は……!」
男は静かに歩み寄る。
その足音すら、時間の止まった世界では異様に響く。
「私はただ、契約の確認に来ただけです」
大統領は叫ぶ。
「契約なんて……!
あれは酔ってただけだ……!
冗談だ……!
覚えてない……!」
男は淡々と返す。
「覚えていようがいまいが、契約は契約です」
大統領は必死に言葉を探す。
「わ、私は……世界のリーダーだぞ……!
私がいなくなったら……世界が混乱する……!」
「それも私には関係ありません」
その一言が、大統領の心を完全に折る。
大統領は涙を流しながら、
机の上の書類を掴んで投げつける。
もちろん、紙は空中で止まったまま落ちない。
「なんでだ……!
なんで何も動かないんだ……!」
男は静かに告げる。
「あなたの行動だけが動いているのです。
世界はあなたの都合では動きません」
その言葉は、
“あなたの命も、あなたの価値も、世界にとってどうでもいい”
という意味に聞こえた。
大統領の顔が歪む。
「……どうでもいい……?
私の命が……どうでもいい……?」
男は無表情のまま。
「私には関係ありません」
大統領の中で、何かが切れた。
「……そうか……
そういうことか……」
ゆっくりと立ち上がり、
涙と汗で濡れた顔のまま、
大統領は執務机の奥へ歩き出す。
男は止めない。
ただ見ている。
大統領は震える手で、
机の奥にある“赤いボタン”のカバーを開いた。
「どうせ……どうせ死ぬなら……
みんな道連れだ……!」
その瞬間、
彼の指は核ミサイル発射ボタンへと伸びていく。
金属のヒンジが、
時間の止まった世界でやけに大きく響く。
「……どうせ……どうせ死ぬんだ……」
大統領は涙と汗で濡れた顔のまま、
振り返って男を睨みつける。
「だったら……
だったらみんな道連れだ……!」
男は微動だにしない。
ただ静かに見ている。
大統領は叫ぶ。
「お前が俺の命を取りに来たんだろ……!
だったら……俺だって……!」
そのまま、
震える指でボタンを押し込んだ。
──カチリ。
赤い警告灯が点滅“しかけた”ところで止まり、
サイレンも最初の一音を残して凍りついた。
時間が止まっているからだ。
だが、時間が動けば
ミサイルは発射される状態だった。
大統領は肩で息をしながら、
自分の行動の重さを理解していない。
「は……はは……どうだ……これで……
時が動けば世界は破滅だ!」
男は静かに言う。
「本当に押すとは思いませんでした」
その声は、
驚きでも怒りでもなく、
ただの事務的な感想だった。
「あなたは想像以上にひどい男ですね。
……だからこそ、私はあなたを選んだのです」
大統領は崩れ落ちる。
「も、もういい……
もう……どうにでもしてくれ……
命でも魂でも……なんでも持っていけ……!」
男はゆっくりと歩み寄る。
「では──約束の報酬を」
男はゆっくりと手を伸ばし、
大統領の手を取った。
その指には、
古びた銀の指輪が光っている。
「あなたが“命より大切にしている”
母の形見の指輪を」
男は淡々と指輪を外す。
「契約は履行されました。
あなたは大統領になりたいと願い、
私はそれを叶えた。
そしてあなたは──
命より大切なものを差し出すと約束した」
大統領は崩れ落ち、
声にならない声を漏らす。
男は指輪を手に取り会釈する
「では、これで失礼します」
その瞬間、
止まっていた時間が動き出す。
一発の銃声とサイレンが鳴り響き、
警備員たちが駆け込んでくる。
だが大統領は、
ただ呆然と座り込んでいた。
男は静かに背を向けると歩きだした。
その背中に向かって、
大統領はかすれた声で吐き捨てた。
「……この悪魔め……」
男は足を止め、
ほんの少しだけ振り返る。
「悪魔……?
どちらかというと──」
薄く笑い、
「私の職業は“死神”かな」
そう言い残して、
ふっと空気に溶けるように姿を消した。
大統領執務室の外、
夜空の下に男が立っていた。
遠くの空で、
いくつもの光が尾を引いて飛び立っていく。
核ミサイル。
男はそれを静かに見上げ、
淡々とつぶやいた。
「一つの契約で……ずいぶん多くの魂が手に入る」
風が吹き抜ける。
男の姿は、
夜の闇に溶けるように消えていった。




