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契約は履行されました

掲載日:2026/06/22

大統領執務室の扉が、ゆっくりと開いた。


新大統領は、まるで場違いな客が迷い込んだような足取りで中へ入る。

スーツは身体に合っておらず、ネクタイは少し曲がっている。

だが、彼はそんなことを気にする余裕もなかった。


部屋の中央にある大統領デスク。

その椅子に腰を下ろした瞬間、彼は小さく呟いた。


「……ついに……大統領になったぞ……」


その声は震えていた。

喜びか、恐怖か、自分でも分からない。


その時だった。


「おめでとうございます」


背後から拍手が聞こえた。

乾いた、丁寧な、しかしどこか冷たい音。


大統領は飛び上がるように振り返った。


そこには、黒いスーツを完璧に着こなした男が立っていた。

表情は薄く、笑っているのかどうかすら分からない。


「だ、誰だ……警備っ……!」


大統領は慌てて電話を取る。

だが、受話器の向こうは完全な無音だった。


雑音すらない。

まるで世界そのものが消えたような静寂。


男は軽く首を傾けた。


「無駄ですよ。今は時間が止まっていますから」


大統領の喉がひゅっと鳴った。


男は一歩近づき、深く一礼した。


「さて、大統領になれたので──

約束の報酬を頂きにまいりました」




──覚えている。


酒場の薄暗いカウンター。

酔いと恨みでぐちゃぐちゃになっていた自分。

そして隣で静かに笑っていた、この男。


(やばい……本当に来た……)


だが、大統領は表情を必死に作り直す。

汗を袖で拭い、わざとらしく眉をひそめる。


「……あ、あなた……誰だ?

どこから入った?

私はあなたなんか知らんぞ」


声が裏返っている。

自分でも分かるほど不自然だ。


男は一歩近づき、淡々と告げる。


「とぼけるのはやめましょう。

あなたは私の顔を見た瞬間、思い出したはずです」


大統領の喉がひゅっと鳴る。


「な、何のことだ……?」


男は軽く笑う。


「あなたみたいな人が、大統領になれると本当に思いましたか?」


その一言で、大統領の顔色が変わる。

図星を刺された痛みと、

“あの夜”の記憶が一気に蘇る。


だが、それでもとぼける。


「し、知らん……知らんぞ……!」


男はため息をつく。


「酒場で愚痴をこぼしていたあなたは、

“世間を恨んでいる、もうどうでもいい”と嘆いていた。

そして私に言ったのです。

“できるもんならやってみろよ”と」


大統領の肩が震える。


「……あれは……酔ってただけだ……」


男の口元がニヤリと笑う。


「ちゃんと覚えているじゃないですか、

 しかし酔っていようが、契約は契約です」


「ま、待ってくれ……!

私は……まだ死にたくない……!」


男は淡々とした声で答える。


「そんなことは私には関係ありません」


その言葉を聞いた瞬間、大統領の恐怖はさらに膨れ上がった。



──あの夜の酒場。


薄暗い照明。

湿った木のカウンター。

安いウイスキーの匂い。


その日、彼は勤めていた工場が閉鎖されて職を失った。


そして、その日の夕方、

スマホが震えた。


知らない番号。

出ると、淡々とした声が告げた。


「お母さまが交通事故で亡くなられました」


その言葉を聞いた瞬間、

彼の世界は、音もなく崩れ落ちた。


スマホを握る手が震え、

視界がじわりと滲む。


「……嘘だろ……?」


声にならない声が漏れた。


電話の向こうの担当者は、

まるで天気予報でも読み上げるような調子で続けた。


「身元確認のため、ご来院いただけますか」


彼は何度も頷いた。

頷きながら、涙が頬を伝って落ちた。


その夜、彼は家に帰らなかった。

帰れなかった。


気づけば、足は酒場へ向かっていた。


──そして、あのカウンターに座った。


ウイスキーのグラスを握りしめ、

何杯飲んだかも覚えていない。


無意識に手の指輪をいじっていた。

母の形見──

今日になって急に重く感じる小さな銀の輪。


「……なんでだよ……」


呟きは誰にも届かない。

店内の薄暗さが、彼の影をさらに沈めていく。


その時だった。


隣の席に、いつの間にか男が座っていた。


黒いスーツ。

整いすぎた姿勢。

そして、薄い笑み。


「つらい一日でしたね」


彼は顔を上げた。


「……誰だ、お前……」


男はグラスを指で軽く叩いた。


「あなたの“願い”を叶えられる者ですよ」


「願い……?」


男は静かに言った。


「あなたは今、世界を恨んでいる。

仕事も、家族も、未来も──すべて奪われた。

だからこう思っているはずです」


男は彼の耳元で囁いた。


「 “こんな世界、ひっくり返してやりたい”と」


彼の心臓が、ひときわ強く跳ねた。




男はグラスの縁を指でなぞりながら、

まるで天気の話でもするような口調で言った。


「大統領に立候補すればいいんですよ」


彼は思わず笑った。

乾いた、ひび割れた笑いだった。


「……は? 俺が? 大統領?

冗談だろ……」


男は首を横に振る。


「冗談ではありません。

あなたはこの社会に裏切られた。

工場を閉鎖したのも、

お母さまを事故に遭わせたのも──

“この社会”です」


その言葉は、彼の胸の奥にある黒い塊を、

そっと撫でるように刺激した。


「……社会が……悪い……?」


男は静かに微笑んだ。

その笑みは、挑発でも圧力でもなく、ただ“余裕”だけでできていた。


「あなたが望むなら、道は整えますよ。

社会を変えたいのでしょう?」


彼は拳を握りしめた。

胸の奥で、怒りとも悲しみともつかない何かが渦を巻く。


「……そんなこと……できるわけないだろ……」


男は首を傾ける。


「できないと、誰が決めたのです?」


その一言が、彼の中の何かを弾いた。


「……できるもんなら……やってみろよ……!」


言った瞬間、

自分の声が、酒場の空気を切り裂いたように感じた。


男の目が細くなる。


「──承りました」


世界が、静かに軋んだ。








男が静かに言う。


「では──約束の命…」


男の話を遮るように大統領は慌てて話し出す。


「ま、待て……!

ちょっと待ってくれ……!」


男は首を傾ける。


「何を待つ必要が?」


大統領は必死に笑顔を作る。

だが口元は引きつり、目は泳いでいる。


「ほ、ほら……私はまだ大統領になったばかりで……

まだ何もしていないんだ……!

今持っていかれたら……大統領になった意味がない……

せめて……一年……いや半年……いや三ヶ月……!」


男は淡々と告げる。


「契約は“就任まで”です。

あなたが椅子に座った瞬間、契約は履行されました」


大統領は崩れ落ちるように椅子にしがみつく。


「そ、そんな……!

就任演説もしてないんだぞ……!

国民に顔も見せてないんだ……!

せめて……せめて一度くらい……!」


男は静かにため息をつく。


「あなたは“何かを成し遂げるために大統領になりたい”と願ったのではありません。

“世間を恨み、大統領になりたい”と願っただけです。

その願いは、椅子に座った瞬間に満たされました」



大統領は震える声で叫ぶ。


「金ならいくらでもやる!

国家予算でもいい!

お前が欲しいだけ持っていけ!」


「興味ありません」


「じゃ、じゃあ部下だ!

優秀なのが何人もいる!

あいつらの命なら──」


「私は“あなた”と契約しました。

他人の命を差し出されても困ります」


大統領の顔が歪む。

涙と汗と恐怖でぐしゃぐしゃだ。


「頼む……頼むよ……!

私はまだ死にたくない……!」


男は静かに言う。


「そんなことは私には関係ありません」


その言葉が、大統領の恐怖を決定的にした。


大統領は机の引き出しを乱暴に開け、

震える手で拳銃を取り出した。


「く、来るな……!

近づくな……!」


男はただ静かに立っている。


大統領は引き金を引いた。


──カチリ。


乾いた音だけが響いた。

弾は出ない。

銃身の中で、弾丸は空中に固定されたまま微動だにしない。


時間が止まっているのだ。


大統領は顔を真っ青にして銃を振り回す。


「な、なんでだ……!

撃てよ……撃てよ……!」


男は淡々と告げる。


「時間が止まっていると言いましたよ。

あなたの行動だけが動いているのです」


大統領は銃を握りしめたまま後ずさる。


「で、でも……もし撃てたとしても……

お前に効くのか……?」


男は少しだけ首を傾げる。


「あなたは本気で、

“拳銃で私をどうにかできる”と思っているのですか」


その言葉が、大統領の心を完全に折った。



大統領は拳銃を握りしめたまま、

壁に背中を押しつけて震えていた。


「な、なんなんだ……

なんなんだお前は……!」


男は静かに歩み寄る。

その足音すら、時間の止まった世界では異様に響く。


「私はただ、契約の確認に来ただけです」


大統領は叫ぶ。


「契約なんて……!

あれは酔ってただけだ……!

冗談だ……!

覚えてない……!」


男は淡々と返す。


「覚えていようがいまいが、契約は契約です」


大統領は必死に言葉を探す。


「わ、私は……世界のリーダーだぞ……!

私がいなくなったら……世界が混乱する……!」


「それも私には関係ありません」


その一言が、大統領の心を完全に折る。


大統領は涙を流しながら、

机の上の書類を掴んで投げつける。

もちろん、紙は空中で止まったまま落ちない。


「なんでだ……!

なんで何も動かないんだ……!」


男は静かに告げる。


「あなたの行動だけが動いているのです。

世界はあなたの都合では動きません」


その言葉は、

“あなたの命も、あなたの価値も、世界にとってどうでもいい”

という意味に聞こえた。


大統領の顔が歪む。


「……どうでもいい……?

私の命が……どうでもいい……?」


男は無表情のまま。


「私には関係ありません」


大統領の中で、何かが切れた。


「……そうか……

そういうことか……」


ゆっくりと立ち上がり、

涙と汗で濡れた顔のまま、

大統領は執務机の奥へ歩き出す。


男は止めない。

ただ見ている。


大統領は震える手で、

机の奥にある“赤いボタン”のカバーを開いた。


「どうせ……どうせ死ぬなら……

みんな道連れだ……!」


その瞬間、

彼の指は核ミサイル発射ボタンへと伸びていく。



金属のヒンジが、

時間の止まった世界でやけに大きく響く。


「……どうせ……どうせ死ぬんだ……」


大統領は涙と汗で濡れた顔のまま、

振り返って男を睨みつける。


「だったら……

だったらみんな道連れだ……!」


男は微動だにしない。

ただ静かに見ている。


大統領は叫ぶ。


「お前が俺の命を取りに来たんだろ……!

だったら……俺だって……!」


そのまま、

震える指でボタンを押し込んだ。


──カチリ。


赤い警告灯が点滅“しかけた”ところで止まり、

サイレンも最初の一音を残して凍りついた。


時間が止まっているからだ。


だが、時間が動けば

ミサイルは発射される状態だった。




大統領は肩で息をしながら、

自分の行動の重さを理解していない。


「は……はは……どうだ……これで……

時が動けば世界は破滅だ!」


男は静かに言う。


「本当に押すとは思いませんでした」


その声は、

驚きでも怒りでもなく、

ただの事務的な感想だった。


「あなたは想像以上にひどい男ですね。

……だからこそ、私はあなたを選んだのです」


大統領は崩れ落ちる。


「も、もういい……

もう……どうにでもしてくれ……

命でも魂でも……なんでも持っていけ……!」


男はゆっくりと歩み寄る。


「では──約束の報酬を」


男はゆっくりと手を伸ばし、

大統領の手を取った。


その指には、

古びた銀の指輪が光っている。


「あなたが“命より大切にしている”

 母の形見の指輪を」


男は淡々と指輪を外す。


「契約は履行されました。

あなたは大統領になりたいと願い、

私はそれを叶えた。

そしてあなたは──

命より大切なものを差し出すと約束した」


大統領は崩れ落ち、

声にならない声を漏らす。


男は指輪を手に取り会釈する


「では、これで失礼します」


その瞬間、

止まっていた時間が動き出す。


一発の銃声とサイレンが鳴り響き、

警備員たちが駆け込んでくる。


だが大統領は、

ただ呆然と座り込んでいた。


男は静かに背を向けると歩きだした。


その背中に向かって、

大統領はかすれた声で吐き捨てた。


「……この悪魔め……」


男は足を止め、

ほんの少しだけ振り返る。


「悪魔……?

どちらかというと──」


薄く笑い、


「私の職業は“死神”かな」


そう言い残して、

ふっと空気に溶けるように姿を消した。







大統領執務室の外、

夜空の下に男が立っていた。


遠くの空で、

いくつもの光が尾を引いて飛び立っていく。


核ミサイル。


男はそれを静かに見上げ、

淡々とつぶやいた。


「一つの契約で……ずいぶん多くの魂が手に入る」


風が吹き抜ける。


男の姿は、

夜の闇に溶けるように消えていった。

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