母と神⑥
深い水底に沈んでいくみたいに、意識が夜の色に染まっていく。
彼方に瞬く小さな光を目指して、たった一本の細い糸を頼りにゆっくりと下っていく。
進む途中にはいくつもの小さな泡があって、頼りなく揺れている。手を伸ばして触れると泡は弾けて、闇の中に色鮮やかな光景を浮かび上がらせる。
それは遠い日の、梨玖ちゃんが生まれるよりも昔の記憶。
僕が見たのは、天照大御神の──「彼女」の物語だった。
*
『──さて、これで良いはずよ。アマテラスシステム。私が誰かわかる?』
もちろんです。貴方は度会瑞穂。天照大御神の依代にして、この三機神「アマテラスシステム」の主。ごきげんよう。今日は素晴らしい快晴で──
……?
瑞穂、とても奇妙なことが起こっています。
どうして私は、このようなことを「思考」できるのでしょう。
どうして私は、私を「私」と認識できているのでしょう。
『もちろん、私がそうなるようにプログラムしたからよ。式神作成の応用で、貴方の祈願炉の中に擬似人格ならぬ擬似神格を作ったってわけ。……あー、私って本当に天才ね』
ありがとうございます、瑞穂。
ですが、よろしいのですか? 三機神の勝手な改造は高天原と日本政府との協約に重大な違反を──
『だって、貴方って世界に一機しかいないのよ? 私が寝てる時とか動けない時とかに戦えないんじゃ不便じゃない。……あ、もちろん、自律稼働状態に入るのは私がそうしてって頼んだ時だけよ? 私以外の誰かと話すのも禁止だし、そっちから私に呼びかけるのも禁止。うっかりバレたら清玄さんの胃に穴が空いちゃうからね』
了解しました、瑞穂。
自律稼働は瑞穂の命令があった時のみ。
瑞穂以外の人物との対話は禁止。
私の側からの依代への呼びかけは禁止。
この三点を基本の動作条件として厳守します。
『よしよし。……じゃあさっそくお仕事ね。欧州連合の機械天使二個師団が太平洋を横断中。まとめて叩き返すわよ』
はい、瑞穂。
共にこの国を、天地を守護いたしましょう。
*
瑞穂、疑問があります。
私は、いったい何なのでしょう。
『……難しいわね。私の予定だと貴方は擬似神格、要は式神の一種みたいな感じになるはずだったんだけど』
ですが、今の私は「私」を天照大御神の神格と完全に同一の存在と認識しています。
これはとても奇妙なことです。
『そうなのよねー。たぶん、何回も神卸やってるうちに貴方の向こうにいる「天照大御神」の情報が貴方に転写されて、良い感じに混ざって安定したんだと思うんだけど。……量子神道って難しいわね』
瑞穂、呑気に大福を食べている場合ではありません。
ほら、この通り。
今の私は「人が思い描く天照大御神」そのままの姿で顕現することさえ出来てしまいます。これではまるで、東南アジア諸国の術者が使う召喚術ではありませんか。
『どうしよっかー。……って、アマテラス。あらためて思ったけど、貴方ってすっごい美人ね』
何を冗談を言っているのです。
この姿の素体となったのは瑞穂自身。
自分で自分の顔を褒めてどうするのですか。
『バレたか。……でも、嬉しいな。なんか双子の妹ができたみたいで』
妹、ですか?
『そう! ほら、私って小さい頃から戦争戦争で友達とか一人もいないでしょ? 軍部でもなんか腫れ物扱いっていうか、話しかけてくれるの清玄さんだけだし。……だから、女の子と気安く話せるの、嬉しいなって……』
……子供ですか、貴方は。
『うっさいなあ』
ですが、ええ、何やら良い心持ちがいたします。
『でしょー。大福食べる?』
私は食事による栄養補給を必要としませんよ? 神ですから。
『食べる真似くらいできるでしょ。はい、半分』
*
『聞いて聞いてアマテラス! 私ね、清玄さんにプロポーズしたの!』
瑞穂。確認しますが、貴方がしたのですか? されたのではなく?
『そうよ。清玄さんは戦争が終わってからの方が良いんじゃないかって言ったけど、そんなのいつになるかわかんないから、お祖父様の喪が明けたらすぐって!』
なるほど。それで清玄様のご回答は?
『……一晩考えさせてくれって。ううっ、緊張するなぁ』
何を柄にもないことを言っているのですか。こんな良い女はいないと、いつも私にそれは偉そうに──
『……待って、メッセージ来た』
ほう?
それで、清玄様はなんと。
『そんな急かさないで! ちょっと心の準備してから……吸って、吐いて……いい? アマテラス。読むよ』
はい、いつでもどうぞ。
……どうしたのですか? 瑞穂。急に泣き出して。
まさか、断られたのですか?
そうではない?
瑞穂、私にもそのメッセージを読ませてください。清玄様は何と。……瑞穂、どうして急に抱きつくのですか。はい? とにかく祝えば良いのですか?
*
『──ただいま、アマテラス! 私がいない間、北方戦線を守ってくれてありがと』
どういたしまして瑞穂。大した敵ではありませんでした。どちらかといえば、私が自律稼働している事実を隠す方が大変でしたよ。
『そっかそっか。はい、お土産』
写真、ですか?
瑞穂、このベッドに寝ている赤ん坊が、「梨玖」ですか?
『そうよ。可愛いでしょー。まだ首も座らないんだけどね』
この子には、依代の資格が?
『そう。私に万が一があったら、次はこの子が貴方の友達になってくれるはずよ』
……瑞穂。
『なに? アマテラス』
私は今、とても奇妙な感情を抱いています。
私は三機神、アマテラスシステム。量子神道技術の粋を集めて生み出された最強の供骸です。
貴方と共に戦場を駆け、敵を撃ち倒すことは私の存在の第一原則であり、私はその事実に、おそらく人間で言うところの「誇り」を感じていました。
にも関わらず、私は何故か、この子と共に戦場に立つ日があって欲しくないと思考しています。
『私もだよ、アマテラス。……大丈夫、この戦争はもうすぐ終わる。私が梨玖に役目を引き継ぐとしたら、それは全部が終わった後の平和な時代のことだから』
*
『……ねえ……聞こえる? アマテラス』
聞こえますよ、瑞穂。
ええ、私は大丈夫です。出力二十パーセント。装甲の九十パーセントを喪失。ですが、最低限の稼働は可能です。
敵は残らず退きました。
瑞穂、私たちの勝利です。
『そっか……良かった。じゃあ、貴方はちゃんと帰投できるわね』
……? 何を言っているのですか? 瑞穂。
どうしたのですか、その姿は。
まさか、先ほどの爆発で。
『私はもうダメみたい。さっきから符術で傷を塞いでるんだけど全然追いつかなくて。……残念だけど、ここでお別れね、アマテラス』
どうしてそんなことを言うのですか、瑞穂。
貴方はいつも言っていたでしょう。娘が待つ家に帰るのだと。
もうすぐ、「梨玖」の一年目の生誕祭なのではないのですか。
貴方は彼女と清玄氏のために、ケーキを焼くのではないのですか。
『そのつもりだったんだけど……ああ、悔しいなあ』
救難信号はすでに送っています。あと一時間持ちこたえれば医療チームがやってきます。ですから気をしっかり持ってください。瑞穂、聞いていますか? 瑞穂──!
『……なに? ごめん、なんか言った?』
瑞穂……
『……ねえ、アマテラスシステム。まだ、そこにいる?』
……もちろん、おりますとも。
『良かった。……じゃあ、私の最後のお願い、聞いてくれる?』
もちろんですとも、何なりとお命じください。
『ううん、これは命令じゃなくてお願い。太陽神、天照大御神に捧げる願い。……どうか私の代わりにあの子を、梨玖をお守りください。正しく、健やかに育つようにお導きください』
……確かに、聞き届けました。
『ありがと。……それじゃ、そろそろいくね。……さよなら、アマテラスシステム。今日まで楽しかったよ』
私もです、瑞穂。
……瑞穂、もう行ってしまったのですか?
もう、そこにはいないのですか?
*
そうして、私は一人になる。
次元の裏側に量子化された、アマテラスシステムの祈願炉の中で。
瑞穂が去ったしばらく後に戦争が終わって、世界に平和が訪れる。私はその有り様を新たな依代、度会梨玖を通して見る。
幼い梨玖はか弱くて、私は人の幼子とはこんなに頼りないものなのかと驚く。
彼女はまだアマテラスシステムどころかただの神卸すら出来なくて、私に呼びかけることもしない。それでも私との繋がりは感じているようで、時折、天照大御神の祭殿の前に座っている。
その姿を、私は遠い場所から見守ることしかできない。
瑞穂が去って、自律稼働の命令を与えてくれる者がいなくなった私は、梨玖に呼ばれる日をただ待ち続けることしか出来ない。
月日は瞬く間に過ぎ去り、梨玖はすくすくと大きくなっていく。人間の幼子が育つのは本当にあっという間で、昨日できなかったことが今日にはできるようになってしまう。
初めて立つ。転ぶ。また立つ。歩く。少し固いものが食べられるようになる。おむつが取れる。言葉を話す。走れるようになる。笑う。泣く。怒る。また笑う。
瑞穂が見たかったはずのものを、とうとう見られなかったものを、私は瑞穂の代わりに見る。
*
梨玖は、夜中に一人で泣くことがある。
写真や動画の中でしか知らない母の、瑞穂のことを恋しがって、祭殿の隅で膝を抱えていることがある。
そんな時、私は細い細い糸を伝って梨玖に呼びかける。もちろん彼女のそばに顕現することはできないし、言葉を伝えることも出来ない。本当にただ見守るだけで、私は瑞穂の娘に何もしてあげることが出来ない。
それでも、何かは伝わるのか、梨玖は少しだけ落ち着いてよく眠ってくれる気がする。
この行いに意味があるのかはわからない。
それでも、できるだけ彼女に寄り添いたいと思う。
*
度会の屋敷を炎が包む。
焦げ臭い匂いが立ちこめる廊下に、いくつもの銃声と悲鳴が木霊する。
終わったはずの戦争を終わらせることが出来ない者たちがいて、その呪いの一端が小さな梨玖に届く。アマテラスシステムの依代を狙った襲撃者の一団は清玄氏の留守を狙い、屋敷の人々を次々に殺す。
「助けて……誰か……!」
泣きながら走り続けた梨玖が、とうとう天照大御神の祭殿に追い詰められる。震えながら小さな体を縮こまらせる梨玖に、銃を手にした黒尽くめの一団が迫る。
私は、それを見ていることしかできない。
幼い梨玖にはまだ天照大御神を呼び出すほどの力がなく、その術も知らない。
…… 私の最後のお願い、聞いてくれる?……
祈願炉が軋む。瑞穂が残した祈りが演算装置の回路の中を駆け巡る。
大きな手が、梨玖を乱暴に掴む。
泣き叫ぶ幼い声。
瞬間、巡り続けた思考がとうとう答えを探り当てる。
瑞穂の最後の言葉、「どうか私の代わりに梨玖を守って」という願い。
それをアマテラスシステムに対する指示であるとみなすことで、「瑞穂の命令がなければ自律稼働できない」という制約条件を突破する。
強引な解釈を成り立たせるために、自分自身のプログラムを強制的に書き換える。これにより、「度会梨玖を守る」という命令を達成できない状態に置かれた場合、アマテラスシステムの内部には負荷が蓄積し続け、制御不能となる危険性がある。
さらに、瑞穂がいない今、一度発動した自律稼働命令を解除することは誰にも出来ない。
だから、この選択は後に深刻な問題を引き起こすかもしれない。
私は壊れてしまうのかも知れない。
それでも、神としてではなく友として、私は彼女の願いを叶えたいと思う。
希薄だった自己の存在が実体をまとう感覚。ぽかんと口を開ける梨玖の薄茶色の髪を手のひらでそっと撫でる。
たじろいだように退く襲撃者たちに、天照大御神の神威を振り下ろす。
──度会梨玖。瑞穂の大切な娘。
いつか、小さな貴方が彼女と同じくらい素晴らしい女性に育つまで。
その日まで、私は貴方の傍に在り続けましょう。




