母と神③
意識が途切れていたのは、ほんの一瞬だった。
頬を撫でる冷たい風の感触に、僕はきつく閉じていた目を慌てて開いた。
「御厨君、大丈夫かい──!?」
「は、はい」
先輩の声にうなずく。僕たちを乗せた大鴉の式神「夜羽」はいつの間にか闇色の空の只中にあって、広げた翼に風を受けてゆったりと旋回している。
頭上に目を凝らせば、高天原の全長二十キロの偉容が空を悠然と漂うのが見える。
完全な六芒星型の浮遊島の底にはたぶん何百メートルかある穴が空いていて、僕たちはそこから飛び出したんだろうっていうのがわかる。
穴の近くには色鮮やかな鳥の式神。背中に立った学園長と清玄さんが両手の神符を払い、落下途中の無数の岩塊や瓦礫を支えて穴の方へと巻き戻していく。
近くで同じく式神に乗ってるのは祭殿で見た研究員っぽい人たち。両手に構えた神符から広がる光の糸が空中に巨大な投網を形成して、逃げ遅れたらしい何十人かの兵士とか作業員っぽい人たちを支えてる。
「先輩、あの人たちは……」
無意識に拳を握りしめる。封印の間の祭殿には儀式のためにかなりの数の人が集まってたはずだ。
その誰か一人でも大怪我をしたり、死んでしまったりしてはいないだろうか。
胸が潰れそうになる。
もちろんその人も心配だけど、そんなことになったら梨玖ちゃんが帰って来られなくなる。
「全員無事だ。確認が取れた」
背後から投げられる声。慌てて振り返る僕の前で、人の倍ほどもある大きな鹿の式神がすたりと虚空に「着地」する。
背中にはスマホ片手の秩父会長。
後ろで神符を構える押見副会長の顔は、たぶん緊張と疲労で強張ってる。
「今しがた連絡が入った。ほとんどの者は崩落を逃れて地上に脱出したそうだ。取り残された一部もあの通り。……問題はあの狐面だが、どのみち、上手く逃げおおせているだろう」
会長がスマホを式服の袖にしまい、僕にうなずいて、
「わかったな、御厨。……度会は、まだ大丈夫だ」
「はい!」
強くうなずき返す僕の頭上で激しい衝撃音。天蓋みたいに空を覆う高天原の向こうから、二つの巨大なシルエットが星明かりの下に飛び出してくる。
輝く黄金の鎧を身にまとった巨人と、漆黒の鎧を身にまとったもう一体の巨人。
三機神、アマテラスシステムとツクヨミシステム。
冴えざえとした月の光が、全長三百メートルの二体の偉容を照らす。
とうとう全身を顕現させたアマテラスシステムの姿はまさしく太陽の女神。重厚な黄金の装甲はいかにも機械的でありながら、同時に天照大御神の姿の時にまとっていた太古の装束の優美さを兼ね備えている。
背中には太陽を模した煌めく飾り。円形を基本にした飾りからは数十の砲塔が等間隔に突き出している。輝く巨体の周囲には何百枚っていう鏡が浮かび、惑星の軌道みたいにぐるぐると巡っている。
対するツクヨミシステムは競技祭で見たのと同じ姿。漆黒の装甲に覆われた中性的な体はアマテラスに比べるとすらりとした外観で、背には三日月を模した飾りを背負っている。
両手には機体そのものよりも長大な漆黒の杖。
押見副会長が両手の神符を払うと、轟音と共に翻った杖が正面から飛来した巨大な光の槍を打ち払う。
「行けるか? 押見」
「やってみせますわ!」
会長の声に叫び返した副会長が、神符を指先に挟んだままの両手で複雑な印を結ぶ。
鳴り響く軋んだ金属音。
空の月から降り注ぐ光が瞬時に神術の帯に姿を変えて、アマテラスシステムの全身に絡みつく。
「さあ! ここは夜と月の化身たる月読命とわたくしの領域! 昼と太陽の女神は大人しくなさいませ!」
黄金の機神は激しく身をよじり、全身の拘束を振り解こうとする。その度に副会長の指先の神符に光が走り、たおやかな唇から「くっ!」っていう呻きが漏れる。
ツクヨミシステムはアマテラスの正面、数百メートルの距離を隔てた位置で杖を構えたまま。今ならどんな攻撃でも当たるはずなのに、漆黒の巨人はそれ以上は何もしようとしない。
……そっか……!
一瞬首を傾げそうになるけど、すぐに納得する。アマテラスシステムは自分の内部に梨玖ちゃんを取り込んでしまっている。
下手に直接攻撃なんか加えたら、あの子がどうなってしまうかわからない。
けど、それならどうしたら──
「澄葉さん──!」
先輩の叫び。押見副会長が目を見開くより早く、アマテラスシステムの背中に輝く太陽の飾りに光が満ちる。
視界を白く染める眩い閃光。
数十の砲塔から放たれた光の槍が周囲を巡る鏡に跳ね返り、ツクヨミシステムめがけて雪崩を打って降り注ぐ。
副会長が素早く神符を払うと、アマテラスシステムを拘束していた光の帯が瞬時に形を失う。
月の光がツクヨミシステムの正面に集積して巨大な盾を形成する。
月の紋様が描かれた半透明の盾がアマテラスの砲撃を残さず受け止め、内部に吸収して同化する。
拘束を逃れたアマテラスシステムが巨体に似合わない凄まじい速度でツクヨミシステムの周囲を旋回しながら、光の槍を雨あられと振り注がせる。鏡に跳ね返った光のいくつかは目標を大きく逸れて高天原の方向、空中に支えられたままの兵士たちの方に向かう。
……危ない……!
考えるより早く体が動く。
僕は印を結んだ両手を無我夢中で突き出し、
──重厚な機械の駆動音。
突如として闇空に出現した赤と白の巨大な手が、光の槍を寸前で受け止めて握り潰す。
「ナイスだよ御厨君!」
叫んだ先輩が神符の束を僕の背中に押し当てる。スサノオシステムの構造が安定し、左右の腕の肘から先が顕現する。
だけど、競技祭の時より明らかに出力が弱い。
もしかしたら先輩を守るためじゃないからかも──そう考えた瞬間、秩父会長のスマホから着信音が鳴り響く。
『お待たせっす! 準備完了!』
スピーカー越しに響く戎会計の声。うなずいた会長の視線に釣られて僕も周囲の空に視線を巡らせ、
目を見開く。
星明かりの空には、いつの間にか無数の鳥や獣の式神。
その背中で神符を構えた神職たちが、一斉に柏手を叩く。
ほとばしった光が空中で互いにつなぎ合わさり、巨大な円筒形の結界になってアマテラスシステムとツクヨミシステムを取り囲む。さらに外に、また外に。都合七重、直径数キロの結界が、成層圏の向こうから眼下の彼方の海面までを一直線に貫く。
『周辺二百キロ以内の船舶、並びに航空機退避完了。……副会長、いつでもどうぞ』
スピーカー越しに中臣書記の声。
うなずいた押見副会長が、一度だけ強く目を閉じる。
「梨玖さん。……痛くしませんから、少しだけ我慢してくださいまし」
たおやかな両手が神符の束をばら撒くと、天高くに舞い上がった何百、何千枚っていう数の符が円筒形の結界の表面に張り付く。
結界によって円形に切り取られた星空に、精緻な光の紋様が浮かぶ。
降り注ぐ月光が、星々の光が、紋様を通して残らず結界の内部に収束する。
「いきますわよ! ── 諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓え給い清め給え──!」
天から地までを一直線に貫いて、黒い光がほとばしる。夜の闇みたいな漆黒でありながら確かに輝くその光がアマテラスシステムを直撃し、黄金の装甲を表面から削り取り始める。
苦痛に耐えかねたみたいに身をよじるアマテラスシステム。その姿が少しずつ薄らぎ、不規則に明滅する。
半透明になった巨体の内側、ちょうどお腹のあたりに、丸くなって倒れ伏す女の子の姿が見える。
「長くは保ちませんわ。──氷川さん! 宗一郎さん!」
「心得たとも!」
「はい!」
先輩と一緒にうなずき、スサノオシステムの両腕を動かす。赤と白の巨大な腕を引き戻し、円筒形の結界の外から梨玖ちゃんに狙いを定め──
「な……」
爆ぜる神性の光。
アマテラスシステムの心臓、祈願炉を中心に、真昼の太陽みたいな輝きがほとばしる。
眩い光は降り注ぐ月光を瞬く間に押し戻し、空に浮かぶ紋様を塗り潰して消し去ってしまう。
ガラスを叩き割るような凄まじい音が響き渡り、天地を貫く円筒形の結界が粉々に粉砕される。
光はいっそう強く、周囲の全てを白く染め上げていく。
何が起こっているのかわからない。
アマテラスシステムの胸の前には、輝く小さな球体。
黄金の腕が高く頭上を示すと、球体は拡大しながら天に向かって登っていく。
「……まさか、それが出来るなんてね」
呆然とした先輩の呟き。
驚いて振り返る僕を、焦りを帯びた瞳が見返し、
「御厨君、『四大力』はわかるよね?」
「え? は、はい。もちろん」
質問の意図がわからずにうなずく。四大力って言ったらもちろん物理学の根幹を成す四つの基本の力──つまり『重力』『電磁気力』『強い力』『弱い力』のことだ。
量子神道はもちろん神術、つまりは神秘とか奇跡とかの技なんだけど、同時に科学でもあるから物理学の原理からは逃れられない。どんなにすごい神様を呼び出したって、世界が四つの力に支配されてるっていう根本のところは変わらない。
だけど、その話と目の前のこの状況に何の関係が──
「三貴人が持つ最大の権能はね、四大力を意のままにすることなんだ。……たとえばスサノオシステムはとんでもない大きさの物を無理やり受け止めたり吹っ飛ばしたり出来るだろう? 御厨君は意識していないと思うけれど、あれは全て電磁気力の制御なんだ。物質を構成する原子と原子の間に働く相互作用を書き換えることで、運動量を擬似的に誤魔化しているんだよ」
「そうなんですか!?」
先輩の説明に目を丸くしてしまう。確かに天鳥船で鯤と戦った時も、競技祭で八岐大蛇を鎮めた時も、スサノオシステムは自分よりも遥かに重くて大きな相手を軽々と受け止めて吹っ飛ばしてた。
さすがは須佐之男命って感心してたけど、そんな秘密があったなんて。
でも、じゃあアマテラスシステムが生み出したあの球体は?
「それと同じく、梨玖さんのアマテラスシステムが受け持つのは『強い力』──またの名を『核力』。原子核の内部で陽子と中性子を、あるいはそのさらに内側に隠れたクォークを結びつける力ですの」
独り言みたいに呟いた押見副会長が、神符を素早く動かす。大きく後方に退いたツクヨミシステムが、僕たちをかばう位置に壁みたいに立ちはだかる。
これまで一度も見たことがない、険しい顔。
淡い菫色の瞳が見上げる先、空の月を完全に覆い隠して、輝く球体が世界を煌々と照らした。
「その権能の究極がもたらすのは無制限の核融合──すなわち、太陽の創造ですわ」




