猫と鴉とお狐様③
「おはよう梨玖ちゃん。いい天気だね」
「……うーい、おひゃようございまひゅー……」
生活指導員の朝は早い。そしてうちの田舎で毎朝ホッホーって鳴いてるキジバトみたいに規則正しい。
午前七時。中等部の女子寮の前には動きやすいジャージ姿の僕と、同じくジャージ姿の梨玖ちゃん。
ちょっと離れた場所には運動部の朝練らしい子が何人かいて、不思議そうにこっちをちらちらうかがってる。
水瀬さんとか賀茂君とかに言われて初めて知ったんだけど、競技祭の一件で僕は中等部でもそれなりに有名になってるらしい。
そんな僕と、こっちも有名人の梨玖ちゃんが朝早くから一緒にいるんだから、目立って当然。
まあ良いや。とにかく、本格的な生活指導の記念すべき初日だ。
「……夏乃姉はー?」
「今日は欠席。生徒会長に呼ばれたって。……はい、差し入れ」
先輩から預かったおにぎりを差し出すと、梨玖ちゃんは半分寝ぼけた顔のままかぷっとかぶりつく。
小さな口がむぐむぐ。
「……昆布おいしー……」
「だね。はい、たま」
ポケットから取り出した神符をさっと払い、子猫の式神を呼び出して梨玖ちゃんの頭に乗せる。梨玖ちゃんは「わ」って声をあげ、茶色い毛並みを嬉しそうに撫でる。
「じゃ、行こうか」
「ふえーい」
二人並んで走り出す。
たったったった、と軽快な足音。五月の朝の空気はひんやりと気持ちい。
学校に行く前にランニングをしようっていうのは僕のアイディアだ。昨日の一件でたまを梨玖ちゃんに貸すことになったわけだけど、僕はまだ眠ってる間は式神を維持することができないから、毎朝梨玖ちゃんに子猫を預けに来ないといけない。
それならついでに軽く運動しようっていう話。
意外にも梨玖ちゃんは乗ってきてくれて、今朝というわけだ。
「梨玖ちゃんは運動好き?」
「……嫌いー。疲れるし」
そっか、って笑う。観光旅館みたいな女子寮から中等部の校舎の前を通って森を抜ける広い参道へ。一周一キロくらいの軽いコース。大きな鳥居を幾つもくぐり、あちこちに置かれた社の前で手を合わせる。
「……ねー」
「うん? どうかした?」
「宗一郎はさー、どうやってここまで来たの?」
「どうって、高等部から走って」
「ええ……?」
梨玖ちゃんがなぜかものすごくげんなりした顔をする。高天原は端から端まで二十キロくらいある大きな人工島。学園の施設はその西半分、鎮守の森の中に点在してるわけで、僕の部屋がある高等部の男子寮と中等部の間だけでも二キロか三キロくらいは距離がある。
けどまあ、どうってことない。
祖父ちゃんと田舎で暮らしてた頃は修行だって言って毎日朝ごはんの前に裏山を一周してたわけで、高天原に来てからはちょっとサボり過ぎなくらいだ。
「なに? 宗一郎ってドMなの?」
「どえむ?」
なんだろう、よくわからない。
と、急に悪い顔をした梨玖ちゃんがポケットから神符を取り出してさっと払う。
あふれた光が小さなスニーカーの表面に紋様を描くと、いきなり梨玖ちゃんの足が加速する。頭に乗ったたまが「みゃっ」と悲鳴をあげ、薄茶色の髪にしがみつく。
「ちょ、ちょっと待って! 符術は反則!」
「知らないよーだ。ほら! 追いついてみなよ!」
*
「おかしい──っ!!!」
甲高い叫び声が、鎮守の森に響いた。
ランニングコースの参道の端っこ、大きな木の根元に座り込んで、梨玖ちゃんは息も絶え絶えって感じで両腕をぶんぶん振り回した。
「なんで!? なんで符術使ったボクがこんなに疲れてんのに宗一郎はへっちゃらなわけ!?」
「鍛え方、かな」
符術を使った梨玖ちゃんは確かに速いから短距離だと引き離されてしまうけど、気にせず同じペースで走ってればそのうち背中が見えてくる。
そんなことを何回か繰り返すうちに、梨玖ちゃんはすっかりへたばってしまってご覧の有り様というわけだ。
「あーむかつくー! なんだよー! どんな修行したらそんなんなるんだよ──!」
「どんなって……歩いたり、走ったり?」
この一ヶ月でなんとなくわかってきたんだけど、高天原の学生は意外と体を鍛えてない。
九条君くらいになると流石に別だけど、水瀬さんや彩葉さん、賀茂君なんかも、うちの田舎の山で一晩中化け物と戦えって言われたら途中で根を上げると思う。
いや、よく考えたらこれは僕の方がおかしいっていうか、受けてきた修行の違いなのかもしれない。
祖父ちゃんって超実戦派っていうか、「体が資本。最後は体力と根性がある方が勝つ」っていうのが基本だったし。
「歩ける?」
「歩けないーっ! 日輪呼ぶのも無理──!」
ぷうっと頬を膨らませる梨玖ちゃんに、しょうがないなあって背中を差し出す。梨玖ちゃんは「うげ」ってうめき声を上げてから、しぶしぶって感じで背中におぶさる。
「梨玖ちゃんも鍛えるといいよ。……山籠りとかやってみる?」
「やだ! 絶対いや!」
*
「もーやだ! なんだよこれ! 全然わかんない!」
放課後の学生食堂に甲高い声が響く。白い丸テーブルにおしゃれな椅子が並ぶ食堂はこの時間はカフェ営業になっていて、初等部から大学部まで色んな学生が楽しそうに談笑したり立体映像のゲームに興じたりしてる。
僕は梨玖ちゃんと向かい合わせに座って中等部の宿題と睨めっこ。
周りには暇つぶしだって付き合ってくれた賀茂君たちが集まってる。
「見せてみろ。……『神性場の密度をa、神職の反応率をbとした時、時刻tにおける神卸の効率を求めよ』? 度会、これ基本だぞ」
「ほんとだー。梨玖ちゃん、教科書ちゃんと読んでないでしょう」
「あーもーうっさい!」
賀茂君と水瀬さんの声に梨玖ちゃんは両手をぶんぶん振り、
「めんどくさいめんどくさい! こんなのわかんなくても全然困らないよ!」
「いけませんわよ梨玖さん。そうやって基礎を疎かにしていると、思わぬところで足元をすくわれますわよ。……そうですわよね? 宗一郎さん」
ねえ、ってこっちを振り返る彩葉さん。
それに、僕は冷や汗をだらだら流しながら、
「ごめん……僕もわかんない」
「宗一郎さん!?」
「宗一郎君!?」
目を見開く彩葉さんと、ついでに黒川君。
「いや待って。それはまずいよ宗一郎君。これ、中等部の教科書だよ?」
「だ、だって! こんなの高等部の教科書には出てこないし、祖父ちゃんにも習ってないし考えたこともないし!」
ええー、ってその場の全員の声。梨玖ちゃんの頭の上でたまが能天気に「みゃん」って声をあげる。
「なんというか……実戦派の欠点だな、これは」
賀茂君が、ううむ、って口元に手を当て、
「ちなみになんだが、御厨、神卸はどうやってるんだ?」
「どうって……なんとなく『あ、神様いるな』って思って、えいってやったらわって出てくるだけっていうか……」
「それ! ほんとそれ! みんな難しく考えすぎだって!」
梨玖ちゃんとお互いに手を差し出して、がっと固い握手。
「澄葉姉様も小さい頃にそんなことをおっしゃっていましたわね……」
彩葉さんがちょっと遠い目をして、
「けれど、テストはそれでは通りませんわよ? なんとかいたしませんと」
「むーっ」
ぷうっと頬を膨らませる梨玖ちゃん。
と──
「おや、やってるね。感心感心」
「あ、先輩」
「夏乃様!」
ぱっと顔を輝かせた彩葉さんが場所を譲る。
氷川先輩は「ありがとう」って微笑んで梨玖ちゃんの後ろから身を乗り出し、
「どれどれ? ……ああ、なるほど」
立体映像の教科書に丸とか四角とか矢印とかを書き足して、
「これでわかるんじゃないかな。梨玖君も御厨君も」
「……ああ!」
思わず声を上げてしまう。先輩が描いてくれたのは梨玖ちゃんが解こうとしてる問題をそのまま模式図にしたものなんだけど、確かにわかりやすい。
「なんだそういうことかよー!」
梨玖ちゃんが光学式の筆をさっさと動かして解答を入力し、
「夏乃姉、なんでこいつらaとかbとか難しいこと言うの? 夏乃姉が教科書作ってよ」
「そういうわけにはいかない。今はそっちの絵で良くても、いずれはそっちのaとかbとかが必要になるのさ」
あはははと笑う先輩に、頬を膨らませる梨玖ちゃん。
と、水瀬さんが感心した様子でうなずき、
「氷川執行役員って理論も完璧なんですねー。公式暗記しただけじゃ絶対出てこないですよ、その説明」
「基礎があってこそ、応用が効くものだからね」
微笑んだ先輩がふと首を傾げ、
「ところで水瀬美羽君。以前から思っていたのだけれど、その『氷川執行役員』というのは堅苦しすぎる。……どうだろう、『氷川先輩』、もしくは『氷川さん』というので」
「えっ──!」
本気でびっくりしてる声。
水瀬さんは大慌ての様子で両手をばたばたさせ、
「い、良いんですか!? わたしなんかがそんな馴れ馴れしく!」
「きみはいったい私を何だと思っているんだい?」
氷川先輩がいかにも大人っぽい笑みで、
「御厨君の友人なら私にとっても可愛い後輩さ。遠慮なく呼んでくれたまえ」
わぁい、っていう歓声。
水瀬さんが隣の賀茂君の両手を掴んでぶんぶん振り回し、
「なんかすっごいやる気出てきた! 梨玖ちゃん、どんどん行こう!」
*
中華皿に丸く盛られた炒飯から、ほわりと湯気がたちのぼった。
すっかり日も暮れて、いつもの料理部の部室。思わず喉を鳴らす僕に、先輩はスープの小さな椀を差し出した。
「すまないね御厨君。初日だっていうのに任せきりにしてしまって」
いそいそと台所に引き返した先輩が、中華鍋とお玉を両手に戻ってくる。なんだろうって首を傾げる僕の前で、先輩は細切り肉がたくさん入った餡を炒飯になみなみと注ぐ。
……餡かけ炒飯……!
噂には聞いたことがあるけど、実物は初めて。
わあ、って歓声を上げてしまう僕に、ふふっと笑った先輩がエプロンを外して席につく。
「さあ、召し上がれ」
「いただきます!」
ぱらぱら炒飯ととろっとした餡をスプーンですくい、ふーふーと息を吹きかけて一口。
たちまちあふれる旨味の洪水に、目を丸くしてしまう。
「先輩! こ、これものすごく美味しいですね!」
「そうだろうとも。自信作だよ」
微笑んだ先輩が自分でも炒飯を一口。
「……なるほど! これは我ながら会心の出来だね!」
「はい!」
しばらく、お互いに無言でスプーンを動かす音。
ようやく一息ついたところで顔を上げ、
「そういえば、梨玖ちゃん、大人しく部屋に帰りました?」
「もっと遊びたいってゴネていたよ。……まあ仕方ない。夜間外出禁止というのが中等部の寮の決まりだからね」
そうなんですか、って僕はスープを一口。
「梨玖ちゃんも一緒に食べられれば良いんですけど」
「……あ」
途端に、ぽろっとスプーンを落とす先輩。
どうしたんだろうって首を傾げる僕の前で、日本人形みたいな端正な顔がそわそわと部室を見回し、
「うっかりしていた。……御厨君、きみが料理部に入部したことは、しばらく梨玖君には秘密にして欲しいんだ」
「え」
思わず声。
視線で問う僕に先輩はものすごく気まずそうな顔で、
「実はだね、梨玖君にはもう何年も前に入部のお願いを断っているんだ」
「な、なんでですか!?」
「色々あったんだよ! あの頃はまだ私も初等部の子供で、なんというか、精神的に余裕がなくてだね!」
あわあわと両手を振る先輩に、僕も釣られてあわあわしてしまう。確かに大事だ。僕がここにいるのを見られたら。
「一ヶ月くらいでいいんだ! 梨玖君には私から折を見て説明するから」
「あ────っ!!!」
この世の終わりみたいな叫び声。
いつの間にか玄関に入り込んだ梨玖ちゃんが、鬼の形相で僕を睨みつけた。




