猫と鴉とお狐様②
『……それじゃあ始めるよ。御厨君、準備はいいね?』
スマホ越しに聞こえる先輩の声に、耳が痛くなるような風の唸りが混ざった。
僕は「はい」ってうなずき、指先の神符を構えた。
自習時間の教室を飛び出して駆け上がってきた校舎の屋上。コンクリートの床にぴたっと身を伏せ、慎重にタイミングをうかがう。
見下ろす先、校舎の前に広がる鎮守の森の上には、飛び交う白い狐「日輪」と黒い大鴉「夜羽」の姿。
鴉の上の先輩がちらっとこっちに視線を向ける。対して、狐の上の梨玖ちゃんは気づく様子もなく得意満面の顔で神符を振り回してる。
……三、二、一。今……!
梨玖ちゃんの注意が完全に先輩に向いた一瞬。神符を狐のちょうど真上に放り投げ、両手で印を結ぶ。
……来い、たま……!
神符からあふれた光が複雑な紋様を描き、すぐに手のひらくらいの茶色い子猫を生み出す。僕の式神「たま」は空中でぱちっと瞬きし、そのまま真っ直ぐ下へと落ちていく。
くるっとしたふわふわの尻尾が、白狐の式神「日輪」の鼻先をかすめる。
「……え……?」
輝く背中に張り付いていた梨玖ちゃんがぽかんと口を開け、
「猫ちゃん? なんで? どっから出てきたの!?」
茶色の子猫はみゃぁぁぁぁって情けない声をあげ、四つ足をばたばたさせながら鎮守の森目がけて真っ逆さまに落ちていく。
いや、別に僕がそういうふうに操ってるんじゃなくて、たまにはそもそも空を飛ぶ能力なんかないんだから、空中に顕現させたらそのまま重力に引っ張られるのは当たり前なんだけど。
「うわぁぁぁ!!!」
たちまち、梨玖ちゃんがものすごい悲鳴をあげ、
「あああああ危ない日輪追っかけて早く──!」
小さな両手が神符をものすごい勢いで振り回す。白狐の式神が混乱したみたいに前脚と後ろ脚をばたばたさせ、ほとんど転げるみたいにして光の階段を駆け降りていく。
後を追って急降下する黒い鴉「夜羽」の上で、氷川先輩の意地悪な笑み。
ほんの数分前、スマホの向こうで先輩が言ってた言葉を思い出す。
『──良いかい? 梨玖君はね、小さくてふわふわした可愛い生き物にものすごく弱いんだ』
白狐の式神はあっという間に子猫と同じ高さに追いつき、神性の光をたなびかせた前脚で小さな体を受け止めようとする。
その度に子猫はひらっと身を捻り、輝く脚のすぐそばをすり抜けてしまう。いや、そうなるようにたまを動かしてるのは僕なんだけど。
「あーも──っ!!」
梨玖ちゃんの悲鳴。完全にたまをただの猫だと思い込んでる。
本当に、先輩の言ってた通りだ。
『──梨玖君はね、物心ついた頃には天照大御神を呼べるだけの神性を備えていたんだ。その後も度会の御当主やお弟子さんに囲まれて育ち、学園に入った後も優秀な学友に恵まれた。……つまりね、彼女は「ものすごく弱い式神」というのを見たことがほとんどないんだ』
日輪の白い脚がたまの小さな体をかすめるたびにお互いの神性が干渉して光が散ってるんだけど、その光は日輪の強すぎる神性に紛れてほとんど見えない。
これこそが、先輩が立てた作戦の肝。
僕の式神は持ってる神性が小さすぎて、天才少女の梨玖ちゃんにはただの猫と区別がつかないのだ!
「……先輩。僕、自信がなくなってきました」
『大丈夫だよ御厨君! きみは発展途上なんだから。まだまだこれからだよ!』
ちょっと悲しくなってしまった僕を先輩が励まし、
『さあ行くよ。「可愛いは正義大作戦」フィナーレだ!』
「は、はい!」
指先に神符を構えて意識を集中。僕とたまとそれから先輩、三つを繋ぐ細い糸をイメージする。
先輩が神符の束を放り投げ、両手で複雑な印を結ぶ。
狙い澄ましたタイミングで、梨玖ちゃんの両手がとうとうたまの小さな体を受け止める。
同時に鳴り響く柏手の音。
先輩が両手を強く打ち合わせると、たまの体から吹き上がった神性の光が無数の神符を取り込んで複雑な紋様を描き出す。
「うわ──! な、なんだよこれ!」
「かかったね梨玖君!」
ものすごいドヤ顔の先輩が左右の手で次々に印を結び、
「たま君がどんなに弱くても式神であることに変わりはないからね。御厨君の許しを得ればこの通り。私が符術を使うためのアンテナとして機能するわけさ!」
光の紋様は無数の鎖に姿を変えて、白狐の式神「日輪」をがんじがらめにする。「この!」って叫んだ梨玖ちゃんが神符を取り出そうとするけど、鎖は瞬時に小さな両手を縛り上げてしまう。
そのまま狐ごと木の枝に吊り下げられて、呆然となる梨玖ちゃん。
肩に飛び乗ったたまが、柔らかそうな頬をちろっと舐めた。
*
「さて、反省したかい? 梨玖君」
「……しましたー……」
とりあえずってことで、一年C組の教室に戻ってきた。
自習時間も終わりかけのクラスの隅っこ、仁王立ちで腕組みする氷川先輩の前で、梨玖ちゃんはむっすーっと膨れっ面をした。
ちょっとかわいそうだから先輩にお願いして拘束は解いてあげて、代わりにたまを膝に乗せておいた。重石代わりになったのかはわからないけど、梨玖ちゃんはとりあえず大人しく椅子に座ってる。
「なんてことでしょう。復学初日に授業をさぼって大騒ぎだなんて」
歩み寄った彩葉さんが深々とため息を吐き、
「梨玖さん。あなた、ご自分の立場がおわかりになっていらっしゃいませんの?」
「わかってるよ! 彩葉姉はうっさいなあ!」
梨玖ちゃんのオレンジ色の瞳がぎろっと彩葉さんを睨む。
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
と、黒川君が横から割って入り、
「そもそもどうして授業を抜け出したりしたんだい? 誰かに意地悪された?」
「違う!」
ものすごい勢いで顔を向ける梨玖ちゃん。
と思ったら急にうつむいて、
「ただ……みんながすごい心配して色々言ってくるのが、なんか嫌で……」
賀茂君と水瀬さんが顔を見合わせる。聞き耳を立ててるクラスの他の子たちからも「わかるー」みたいな空気が流れる。
「えっと……わたしから梨玖ちゃんのクラスの子に言ったげようか? ほら、わたし去年まで音楽部の副部長だったから知ってる子もけっこういるし」
「よせ水瀬、余計に話がこじれる。こういうのは自然に任せるのがいいんだ。自然に」
「なんでよー。賀茂君冷たいー」
わいわいと言い合う二人。
と、「ふむ」って呟いた先輩が梨玖ちゃんの前にしゃがみ込み、
「不安かい? 神卸に失敗するんじゃないかってことが」
小さな体がびくっと震える。
顔を背ける梨玖ちゃんに、先輩はため息を吐いて、
「クラスの人間関係のこともあるだろうけど、それだけじゃないね。梨玖君は心配なわけだ。何か起こって友人に迷惑がかかるのが」
……そっか……
考えてみたら当たり前だ。梨玖ちゃんはアマテラスシステムの事件のせいで半年も学校を休んで、度会の家で処置を受けてやっと戻って来られたんだ。
なのに初日にショッピングモールであの騒ぎ。不安になって当然だ。
だけど、どうしたら良いんだろう。
考えてみるけど何も思いつかない。要は、梨玖ちゃんがアマテラスシステムに引っ張られずにちゃんと自分の神卸を制御できるようになれば良いんだろうけど。
「わ……!」
急に梨玖ちゃんの声。膝の上で丸くなってたたまが小さな手をちろっと舐める。
こいつは式神のくせにけっこう自由に動いて、しょっちゅう普通の猫っぽく振る舞う。
そういう意味だと、制御できてないのは僕も同じだ。
「この子、名前は?」
「たま」
「……何それ、変な名前」
ふん、って言い捨てた梨玖ちゃんが、茶色の毛並みをそっと撫でる。口調はぶっきらぼうだけど、手つきは優しい。
と──
「そうだ」
先輩がぽんと手を叩き、
「梨玖君、しばらく御厨君に、たま君を貸してもらうというのはどうだろう」
「「え?」」
同時に声を上げる僕と梨玖ちゃん。
「夏乃姉? 貸すって……この子、ボクが連れて行っていいの?」
「そうだよ。梨玖君が真面目に授業を受けるなら、私が先生に話して教室に連れて行けるようにしてあげよう」
先輩が神符を取り出してさっと払うと、茶色の子猫から細い糸が一本するっとのびる。糸は梨玖ちゃんの右手の小指に結びつき、僕からたま、たまから梨玖ちゃんっていう一つなぎの経路が作られる。
「たま君の神性を感じるかい? 梨玖君が扱う日輪や天照大御神よりずっと小さくてか弱いだろう。きみは今日から、その今にも消えそうな神性を知覚し続ける。……これは修行だ。梨玖君が神性の繊細な操作を学んで、自分の神を正しく制御できるようになるためのね」
腕組みした先輩が今度は僕の方を向き、
「同時にこれは御厨君の修行でもある。きみはたった今から、常にたま君の存在を維持し続けるんだ。授業中も、お弁当を食べてる時間も、お風呂に入ってる時もずっとね」
ええ、って思わず声。
そんな僕の前で、あはは、と笑った先輩が柏手を一つ叩いた。
「では早速始めよう。……梨玖君。たま君が消えてしまったら遠慮なく御厨君に文句を言いに来てていいからね?」




