猫と鴉とお狐様①
「──それで、梨玖さんはきちんと教室に向かわれましたの?」
「うん。僕と氷川先輩で着替えさせて、朝ごはん食べさせて、朝礼までに送ってった。ばっちりだよ」
連休が明けた高等部、一年C組の教室。自習時間のクラスは静かで、ほとんどの生徒は立体映像の教科書と睨めっこしてる。
競技祭の華やかな空気が去って、そろそろ中間テストが迫ってくる気配。
そんな教室の隅っこで、僕は彩葉さんと、それから賀茂君たちいつもの面々に今日の梨玖ちゃんについて報告する。
「確か、『体の成長が足りなくて、天照大御神の神性に負けてる』んだっけ?」
向かいの席で水瀬さんがうーんって腕組みし、
「そういうのあるんだね。名家の子って大変だねー」
隣の黒川君も「本当だね」ってうなずく。この二人は僕がメッセージで送った説明を信じてくれたみたい。
だけど、さらに隣の賀茂君はいかにも「そんなことあるか?」って言いたそうな顔。
取ってつけたみたいな説明だなっていうのは僕も思うけど、「天照大御神が勝手に動いた」っていうのは高天原の結構重要な機密で生徒会長にも学園長にも口止めされてるから仕方ない。
あの後もう一日寮のベッドで休んで、梨玖ちゃんはすっかり元気になった。さらに次の日は連休の最後の一日で、僕と先輩と梨玖ちゃんはもう一度ショッピングモールに行って今度こそ必要なものを買い揃えた。
そんなこんなで、連休明けの今日は梨玖ちゃんの学園生活初日。
今頃は、中等部の教室で真面目に授業を受けてるはずだ。
「それで? 宗一郎さんと夏乃様が生活指導員に任命されたと澄葉姉様から聞いていますけれど」
彩葉さんが縦ロールの長い髪を指先で弄ぶ。梨玖ちゃんの事情については押見副会長から聞いてるらしくて、賀茂君に口を開く隙を与えずさっさと話を進めてくれる。
「うん。とりあえず、規則正しい生活からだって先輩が言ってた」
生活指導員って言っても僕も先輩も自分の授業は受けなきゃいけないから、指導は朝と放課後、それから休みの日が中心になる。
最初の目標は梨玖ちゃんが毎日宿題をやることと、寝坊せずに教室に行くこと。
宿題の方は学園の自習室を借りて僕と先輩で交互に面倒を見て、朝は二人で女子寮まで迎えに行って──ってことになると料理部に使える時間が減ってしまうねって、先輩はちょっと残念そうだった。
「とにかく、元気になったなら良かったよ」
黒川君がふんわりと笑い、
「宗一郎君は自分のテスト勉強もあって大変だよね。僕たちに手伝えることがあったらなんでも言ってよ」
「そうだよ御厨君! わたし、こう見えても小さい子の相手得意なんだから!」
「待て水瀬。お前もテストやばいだろ。特に世界神学史と符術理論」
「ぐはっ!」
ぼそっと呟く賀茂君に、水瀬さんがわざとらしく胸を押さえて机に突っ伏す。彩葉さんと黒川君が顔を見合わせて小さく笑う。
教室のあちこちからも聞き耳を立ててたらしい誰かの笑い声。なんだか和やかっていうか、いかにも「学生」って雰囲気。
釣られて僕も、声をあげて笑ってしまう。
考えてみたら高天原に来てからの一ヶ月は、事件だの特訓だの競技祭だので慌ただしく過ぎてしまった。それはもちろん楽しくて先輩のご飯は美味しかったけど、そろそろ普通の高校生っぽい時間もあって良いはずだ。
窓の外に広がる鎮守の森には、春真っ盛りのうららかな日差し。
放課後は先輩と梨玖ちゃんと三人で散歩してみようかなんて僕はぼんやりと考え──
目の前を横切って駆け抜ける影。
大きな白い狐の背中で、梨玖ちゃんがべーっと舌を出した。
*
「え……」
思わず声を上げるのが、精一杯だった。
ぽかんと口を開ける僕の見つめる先、窓の向こうで、二メートルくらいある狐は光の尾を引いて生い茂る木々の上を軽やかに飛び渡った。
ただの狐じゃない。いや、もちろん狐にしてはちょっと大きすぎるんだけどそういう問題じゃなくて、輝く白い毛並みの先が半透明に透き通って燃え盛る炎みたいに揺らめいてる。
鋭い二つの目はいかにも理知的で、どこか神々しい雰囲気。ぴんと立った両耳の上には狐の頭と同じくらいの大きさの、太陽を模した光の紋様が浮かんでる。
でもって、そんな狐の背中にぴたっと張り付いてるのが梨玖ちゃん。
セーラー服のスカートを風になびかせ、神符を挟んだ右手の指先をものすごいスピードで動かしてる。
「──こら待て! 待ちたまえ梨玖君! 教室に戻るんだ!」
いきなり右手側、中等部の校舎の方角から声。瞬きする僕の目の前を、今度は大きな黒い鴉が猛スピードで通りすぎる。
背中に仁王立ちしてるのは、間違いなく氷川先輩。
両手の神符を目にも止まらぬ速さで動かし、光で編まれた符術の鎖を次から次へと生み出しては梨玖ちゃんめがけて投げつける。
「やだよーだ! 度会梨玖、お腹が痛いので今日は早退しまーす!」
梨玖ちゃんは一直線に空を貫く何十もの鎖をすれすれでかわし、
「さあ飛べ、日輪! お散歩の時間だよ!」
小さな手が神符を払うと、白い狐が木の枝を蹴って大きく跳躍する。たぶん「日輪」っていうのが名前なんだろう。狐の式神が空中でくるりと身を翻すと、飛び散った光がちょうど前脚を支える位置にガラスみたいな半透明の階段を形成する。
白い狐が光で編まれた階段を駆け上がる。一つ跳ねるたびに階段の踏み板は光に弾けて、狐の行く手に新たな道を生み出していく。
「あ! こ、こら!」
慌てた声を上げた先輩が神符を払うと、大鴉の式神「夜羽」が翼を素早く羽ばたかせる。黒い体が急加速と旋回を組み合わせた複雑な軌跡を描き、白い狐に追いついて先へと回り込もうとする。
だけど、狐の式神「日輪」の動きはそれよりなお早い。
黒と白、二つの光が絡み合う螺旋を描き、鎮守の森の上に鮮やかな軌跡を描き出す。
「うわぁ! すごい、何あれ!」
「氷川執行役員だ! 相手は……あれ、例の度会家のやつじゃないか!?」
教室のあちこちから声。みんなが窓に駆け寄って口々に騒ぐ。もちろんうちのクラスだけじゃなくて隣とか上とかの別な教室でも生徒が窓から顔を突き出してる。
と、いきなり僕のスマホに着信音。
慌てて小さな端末をポケットから取り出し、画面の表示に目を丸くして、
「先輩──!?」
『やあ御厨君。見ての通りなんだ、少し手伝ってくれたまえ』
慌てて窓の向こうに目を凝らす。とんでもないアクロバット飛行を続ける大鴉の上で姿勢を低くして、先輩は片手で神符を操りながらもう片方の手でスマホを耳に押し当ててる。
『梨玖君の「日輪」は式神っていうより天照大御神の眷属みたいなものでね、機動力は私の夜羽よりも上だ。強行手段に訴えて怪我をさせるわけにもいかないし、このままでは埒が開かない。……そこで、君の出番というわけさ』
「え、でも……」
思わず言葉に詰まってしまう。火之迦具土神なんか呼んだら確実に梨玖ちゃんに大怪我をさせてしまうし、だからって僕の符術や式神が役に立つとは思えない。
と、スマホの向こうでくすりと笑い声。
大鴉の上の先輩が、僕に向かって親指を立てて見せた。
『大丈夫。ただ、ちょっとだけ貸してくれればいいんだ。……きみの式神、たま君をね』




