神話の空で君に出会う④
意識を失っていたのはほんの一瞬だった。
耳を打つ激しい風の唸りに、僕は慌てて目を開けた。
「って、うわ……!」
視界いっぱいに広がるのは澄み渡った青い空。自分が真っ逆さまに落下しているのにようやく気付く。
「落ち着きたまえ、御厨君」
背後のすぐ傍から先輩の声。驚いて振り返ろうとした瞬間、体が何か柔らかい物の上に着地する。
おそるおそる体を起こし、思わず瞬き。
前後左右に広がるのはふさふさとした黒い羽の絨毯。
乗客を逃がすのに使った大鷲じゃない。もっと大きな、十メートルくらいはある鴉の背中に自分が座っているのにようやく気付く。
たぶんだけど、これは先輩が展望デッキに残してきた高位の式神。
と、隣で同じく起き上がった先輩が僕の腕とか体とかにぺたぺたと手を触れ、
「無事だね? 怪我はないね? よし!」
「は……はい」
僕はぼんやりとうなずき、すぐに我に返って、
「先輩! 天鳥船は!」
「あー……それなんだけどね」
表情を強張らせた先輩が、人差し指をぴっと真上に立てる。
きれいな細い指が示す先を視線でたどり、息を呑む。
頭上の遠くには、溶けて崩れかかった天鳥船の船体。
全長一キロ近いその船体を丸ごと腹の中に包み込んで、さらに倍以上もある半透明の巨大な魚が悠々と空を泳いでいる。
鯨とかイルカとかそういう雰囲気の魚が、体の左右から三本ずつ突き出たとんでもない長さの鰭を翼みたいに揺らめかせる。
いや、目を凝らしてよく見れば、鰭の真ん中から先の方は鱗じゃなくて輝く虹色の羽根に覆われてるのが分かる。
巨大な魚が体全体を大きくくねらせ、空の遠くに顔を向ける。
高度二万五千メートル、大気圏と宇宙の境目、高天原があるはずの方角に向かって、大魚が六枚の鰭をゆっくりと羽ばたかせる。
「あれが……鯤?」
「だね。鰭の半分くらいは鵬のようだけど」
足下の鴉が黒い翼で強く大気を打つと、視界が一気に上昇する。耳をつんざく風切り音。すさまじいスピードで飛翔した大鴉はあっという間に天鳥船──いや鯤を追い越して、はるか上空で静止する。
上から見下ろす大魚の背中は、生き物っていうよりどこかの山脈か、陸上スポーツの競技場みたい。
と、いきなり頭上から男の声。
「無事か」
慌てて見上げる僕の前に、極彩色の鳥──迦楼羅がゆっくりと降下する。
鴉に比べるとかなり小さい鳥の背には、直刀を携えた狐面のリーダーの男。
周囲には他にも数羽の鳥が浮かんでいるけど、背中に乗ってる連中は誰も彼も傷だらけで、アサルトライフルも捨ててきたみたいだ。
「なんとかね」
先輩が肩をすくめて、
「そちらは? 逃げるなら今のうちだと思うのだけど」
「そうもいかん。……見ろ」
男が示す先を見下ろし、息を呑む。
半透明な大魚の背中には、白く輝く円盤状の構造物。
それが天鳥船から切り離された展望デッキだって気がついた瞬間、全身から血の気が引く。
「な、なんで! 脱出できたんじゃ……!」
「あれには最低限の移動能力しかないんだよ、御厨君。本来はその場に浮かんで助けを待つための物だからね。おそらく距離が近すぎて、鯤の顕現に巻き込まれてしまったんだ」
完全に大魚の体内に取り込まれてしまった展望デッキに、無数の細い光の糸で編まれた体組織が絡みつく。
鯤が少し体を動かすたびに、展望デッキを構成する屋根とか床とか柱とかに細かいひびが走る。
一際強い羽ばたきの音。鯤の体の左右から突き出た六枚の鰭が根元まで虹色の羽に覆われ、一キロメートルはあろうかっていう巨大な翼に姿を変える。
完全な魚類だったはずの顔の先端は鋭くとがって、今や鳥のくちばしみたい。
翼を大きく羽ばたかせた鯤が、空に向かってすさまじい勢いで加速を始める。
「ああもう! 少し大人しくできないのかな!」
叫んだ先輩が両手で印を結ぶと、大鴉が鯤の動きに合わせて加速する。
慌てて黒い背中にしがみつく僕。
その隣で、先輩が当たり前みたいな顔で立ち上がる。
細い指が神符の束をばらまくと、数百の符は互いを光の線でつなぎ合わせて一本のロープみたいになる。
眼下に向かって一直線に放たれたロープが鯤の巨体に絡みつく。
途端に、インクを吸うみたいに黒く染まって崩れ落ちる神符のロープ。
かすかに表情を歪めた先輩が指を組み替えると、神符のうち一番近い位置にある一枚だけがロープから離れて先輩の手に戻る。
「……なるほど。やっぱり、鯤を国之常立神に突っ込ませるつもりだね」
符の表目に浮かぶ光の文字を見つめた先輩が息を吐き、
「まあ当然か。そもそもあれを襲撃するというのが君たちの当初の主張だったんだから」
「我々は天鳥船を暴走させ、最初の予告通りあのプラントを襲撃した。作戦に加わったメンバーは全員死亡。……そういう筋書きか」
後に追いついた狐面のリーダーの忌々しそうな声。
そうだよ、ってうなずいた先輩が口元を皮肉っぽく歪め、
「君たち神格解放戦線の戦力を大幅に削ぎ、同時に私たち学園の不手際を問う。この天鳥船の警備は学園が主導で行う取り決めだからね。……まさに一石二鳥というわけさ」
「あの……先輩……」
僕は鴉の背中に座ったまま呆然と巫女装束を見上げる。
頭の中が混乱して、話について行けない。
いや、状況は分かってるつもりだ。これは手の込んだ陰謀で、先輩や学園の生徒会はもちろん神格解放戦線も騙された。この狐面の人たちが天鳥船を襲撃するように仕向けた誰かがいて、その誰かは船を化け物に変えて高天原に突っ込ませようとしてる。
それはわかる。
だけど──
「御厨君。これが、きみが来てしまった世界だよ」
息を吐いた先輩が僕を見下ろす。
少しの沈黙。
先輩は何だか困ったみたいに肩をすくめて、
「量子神道の最高学府たる高天原学園、そこに通う子弟たちが代表する現代の貴族──神職。この世界にはね、なんとかそいつらの権威を削ぎたい、そのためなら何をしても構わないって思ってる連中が山ほどいるんだ」
「……何ですか、それ」
自分でも思ってもみないくらい低くて、硬い声。
「御厨君……?」
予想外の反応だったんだろう。先輩が目を丸くして、
「気持ちはわかるよ。いきなりこんなことを言われても困るよね。でも大丈夫。きみは、この私が責任を持って……」
「そうじゃなくて!」
勢い任せに立ち上がる。
先輩の巫女装束の腕を強く掴んで、日本人形みたいな綺麗な顔をぐいっと睨み、
「おかしいじゃないですか! なんでそんなことに無関係な人が巻き込まれなきゃいけないんですか!」
「え……」
量子神道が生まれてからほんの五十年、世界は何もかも変わったんだって祖父ちゃんは言ってた。
平等とか平和とかそういうのはどこかに吹き飛んで、みんなが力を求めて、強い神を扱える名家の血筋は偉いっていうことになって。
神職は権力を手に入れて、戦争が始まって、終わって、日本は勝ったけど世界の半分が焼け野原になった。
すごい神職だった祖父ちゃんは本当はずっと高天原に呼ばれてて、その誘いを死ぬまで断り続けた。
田舎の小さな神社で困ってる人を助けるだけの毎日。
そんな祖父ちゃんは戦争で父さんと母さんを亡くした僕を拾って育てて、色んな事を教えてくれた。
普通の心を持てっていうのが祖父ちゃんの口癖だった。自分が神卸が使えるとか、他の人よりずっと強いとか、世界は複雑で難しいとか、そういうことを全部脇に置いて、ただ良いことを良いと思い、悪いことを悪いと思える大人になれって。
その祖父ちゃんが心の中で言ってる。
お前は、今、怒るべきだって。
「あなたたちもですよ! 楽しく遊びに来ただけの子供が、どうして怖い目に遭わなきゃいけないんですか!」
この言葉は、神格解放戦線のリーダーに対して向けた物。
狐面の男は無言。顔を逸らさずに、迦楼羅の背中からただ真っ直ぐに僕を見下ろす。
と──
「そうとも、きみの言う通りさ!」
先輩の細い指が、腕を掴んだままの僕の手を握る。
慌てて手を離す僕に、先輩はどうしてだかものすごく嬉しそうな顔で、
「だから必ず助けよう。きみと私でね!」
「は、はい!」
片目をつぶって見せる先輩に、僕は勢いよくうなずく。
「……どうするつもりだ」
「もちろん直接攻撃さ! この化け物に潰される前に展望デッキを切り離す。あとは成り行きだ!」
狐面の男の問いに、先輩は神符の束を空中に次々にばらまきながら、
「どう見ても警備部が来るまで保ちそうにないからね。私たちでなんとかするのが最善だよ。……それで、きみはどうするんだい? テロリスト君。尻尾を巻いて逃げるというなら、今の私たちには後を追う余裕はないけれど」
返るのは微かな刃鳴りの音。
男は腰の鞘から引き抜いた刀を肩に担ぐみたいにして片手で構え、
「我らの不始末だ。我らの手で片付けねば信条を見失う」
胸の前で印を組み、迦楼羅の翼を大きく広げて、
「こちらは奥から攻める。手前は任せた」
言うと同時に翼が羽ばたくと、轟音と共に空を貫いた鳥の姿はすでに遙か眼下、大魚の背中に接触する位置にある。
展望デッキの直径はせいぜい百メートルほど。半透明の魚に埋め込まれたその姿は離れたこの場所からは小さなコインみたいに見えるけど、近くに舞い降りた鳥と比べるとやっぱり大きな構造物なんだっていうことがわかる。
「毘沙門天顕現」
男が神符をばらまくと、空中で貼り合わさった符が輝く鎧をまとった仏教の神像を形作る。
背中に光る輪、「光背」が輝く。
仏教の最も名高い軍神、毘沙門天は地響きと共に鯤の背に降り立つと、手にした三つ叉の槍を半透明な大魚の体に深々と突き立てる。
鯤が巨大な体を激しくよじり、見る見るうちに速度が弱まる。全長数キロの輝く大魚は空中で胴体を折り曲げるみたいにくねらせ、自分自身の背中、鱗の一枚よりも遥かに小さな僕たちを見上げる。
「さあ、始めるよ!」
先輩の声と同時にものすごい風が顔に叩きつける。巨大な翼を羽ばたかせた鴉がほとんど自由落下で大魚目がけて突撃する。
昔の映画の空飛ぶ円盤みたいな展望デッキがみるみるうちに目の前に迫る。
小さく笑った先輩の両手が柏手を一つ。
瞬間、周囲にばらまかれた無数の神符が、一つ残らず長大なライフル銃に姿を変える。
「八幡神!」
放たれたおびただしい数の銃弾が、半透明な鯤の背中に雨あられと降り注ぐ。
大気を構成する分子をクォークのレベルまで分解して再構成することで生み出された指先ほどの鋼鉄の弾が、大魚の神性を貫き、展望デッキの外周沿いの部分を鑿を突き立てるみたいに少しずつ削り取っていく。
「御厨君、きみも!」
「はい!」
先輩の声に応えて制服のポケットから神符の束をつかみ出す。数十枚の符を目の前に放り投げ、反対の手でスマホを取りだして祝詞詠唱のアプリを起動する。
形を成すのは、僕の身長の三倍はある馬鹿でかい銃。
手のひらを添えて、光で編まれた半透明の銃に名前を与える。
「──火之迦具土神!」
巨大な銃が輝く白い金属をまとって顕現する。
鳴り響く甲高い衝撃音。
爆発的な神性が大気を加速してプラズマ化し、放たれた荷電粒子の奔流が、鯤の背中を巨大なレーザーメスみたいに切り裂いていく。
「すごいね御厨君! それがきみの本来の神卸かい?」
先輩の歓声にうなずく。天鳥船の狭い船内では出力を絞ったプラズマナイフしか使えなかったけど、ここでなら出力全開でぶっ放せる。
白く輝く荷電粒子砲に手を添えてゆっくりと旋回させ、展望デッキに当たらないように慎重に大魚の背中を焼き切り──
背後で、寒気がするような轟音。
振り返った視界を覆い尽くして、巨大な壁みたいな鰭が、僕と先輩目がけて横なぎに迫る。
一瞬呆然と目を見開き、すぐにその鰭が大魚の背中から生え出した物だっていうことに気づく。
関東に東京タワーっていう戦前の遺物があるけど、ちょうどあれと同じくらい。
鱗と羽にでたらめに覆われた鰭が、唸りとともに斜めに振り下ろされる。
「こいつ!」
叫んだ先輩が右手で印を組むと、羽ばたいた鴉が危ういところで鰭の真上に飛び上がる。
一瞬遅れて激しい轟音。
目標を失った巨大な鰭は、あろう事かそのまま真っ直ぐに、鯤自身の背中に激突する。
鳥のくちばしみたいに尖った鯤の口から甲高い悲鳴が迸る。展望デッキが激しく揺れ、白くて平べったい屋根に亀裂が走る。
見つめる先、砕けた大きな窓の向こうには、取り残された乗客たちの姿。
鯤の輝く体に閉じ込められた先、展望デッキの中で、小さな男の子が必死の形相で何かを叫んでいる。
「頭が悪いのかな! この魚は!」
先輩の叫び。僕もまったく同じ気持ちで、轟音と共に振り上げられる巨大な鰭を見上げる。
見渡す先、地平線みたに広がる鯤の背中には、次々に突き出す様々な形状の鰭。
こんな物を好き勝手に振り回されたら、展望デッキが保たない!
「作戦変更だ、御厨君!」
叫んだ先輩が足元の鴉を操って、展望デッキの上を大きく飛び越える。
眼下には、振り下ろされる鰭を押しとどめる毘沙門天と、鰭に向かって刀を突き立てる狐面の姿。
「役割分担だ! テロリスト君!」
先輩は生み出した何百っていう機関銃で巨大な鰭に銃弾の雨を降り注がせ、
「囮は私たちが請け負う! きみは展望デッキを!」
うなずいた狐面が鰭から刀を引き抜き、懐から取り出した神符を周囲にばら撒く。生み出された様々な式神──っていうか仏教の神性が、鯤の背中を切り裂き、あるいは引きちぎって展望デッキを引き剥がし始める。
苦悶の叫びを上げた鯤が無数の鰭を振り回して展望デッキ目がけて次々に振り下ろす。先輩と呼吸を合わせて荷電粒子砲をぶっ放し、そのことごとくを撃ち抜いていく。
目まぐるしい戦いに息が止まりそうになる。
神卸は空間から無限にエネルギーを生み出してくれるけど、僕の集中力は無限じゃない。
本来は神社の静かな空間で行う深い瞑想を、激しく動きながら続けているみたいな物。
制御を誤れば神卸を維持できなくなるどころか、最悪、神性に呑まれて意識とか存在とかが消し飛ぶ。
一分、二分、いやもっと。全力で集中を維持し続ける僕の眼下で、いきなり状況が変化する。
まとわりつく光のほとんどを切り離された展望デッキが、鯤の動きに合わせて大きく傾く。
やった、って思わず拳を握った瞬間、鯤がいきなり激しく身をよじる。最後に数本だけ残っていた光る糸が残らずちぎれて、円盤みたいな展望デッキが大きく空中に投げ出される。
鯤の巨体が、流れる水みたいな動きで前後に反転する。
いつの間にか猛禽みたいに変化した巨大な目に、はっきりとした殺意が宿る。
ほとんど物理的な圧力をもって叩きつける轟音。
巨大な翼が、空中に取り残された展望デッキ目がけて容赦なく振り降ろされる。
とっさに叫びの形に口を開きかけ、それより早くものすごい風圧が全身を叩く。足元の鴉がすさまじい勢いで羽ばたき、矢のように空を貫いて鯤の翼と展望デッキの間に飛び込む。
衝撃に振り落とされそうになり、必死に踏みとどまる僕。
その前で、仁王立ちになった先輩が無数の神符を投げ上げる。
光の線が神符と神符を繋ぎ合わせ、僕たちの頭上に巨大な結界を描きだす。
みしり、っていう重苦しい異音。
透明な結界が、壁どころかほとんど山みたいな翼を真下から受け止める。
「……重……い……」
苦しそうに呻いた先輩が一歩後ずさる。細い指が次々に印を組むと、袖から飛び出した神符が結界に張り付いて構造を補強していく。
だけど、足りない。
結界の表面にガラスを砕くみたいなひびが走って、神符が少しずつ黒く染まっていく。
我に返って荷電粒子砲を操り、巨大な翼の表面に光の奔流を叩きつける。六千度の高温で放たれたプラズマが虹色の翼を貫き、神性を消し飛ばして──
その傷が瞬く間に修復する。
まるで攻撃なんか無かったみたいに、荷電粒子に打ち抜かれたはずの翼が元通りになって結界にのしかかる。
なんで、って考えた瞬間、すぐに気付く。この大魚はただの伝説の生物じゃない。天鳥船の祈願炉──東方神域戦争を生き抜いた伝説の戦艦の、しかもリミッターを外されて暴走した主動力から無限とも言える神性を絶えず供給され続けている。
その出力が時間と共に増大を続けて、とうとう臨界を越えた。
僕の火之迦具土神はもう、こいつにまともなダメージを与えることが出来ない。
全力で放った荷電粒子の光が巨大な翼にわずかな傷を穿つけど、周囲から集まった神性がその傷を完全に修復してしまう。
叫びそうになるのを必死に堪えて、光の槍を叩きつけ続ける。
他に出来ることがない。
式神を呼び出すとか、結界を張るとか、そういう普通の方法で先輩をサポートすることが僕には出来ない。
背後で迦楼羅の羽ばたく音。遅れて飛来した狐面の男が数十の仏教の神像を生み出して巨大な翼を受け止めようとする。
その全てが、瞬く間もなく消し飛ぶ。
山みたいな翼が一際眩く輝くと、光に溶けた神像が残らず鯤の一部に取り込まれる。
「っ……!」
苦しそうな先輩の声に、ガラスを百万枚まとめて叩き割るみたいな甲高い音が重なる。全ての神符が瞬時に真っ黒に染まり、砕けた結界が光の粉を振り撒いて落下する。
慌てて両手をのばし、よろめいた先輩の体を背中から抱き止め──
轟音と共に動き出す鯤の翼。
無数の虹色の羽に覆われた山みたいなその威容が、僕たちの頭上に容赦なく迫る。
先輩の口から小さな祝詞の声。細い指がぎこちなく印を結ぶと、鴉の体が風船を針でつついたみたいに爆ぜて、おびただしい量の黒い糸状の存在へと姿を変える。
蜘蛛の巣みたいな黒い糸が翼に絡みつき、膨大な質量と神性の塊を空中に縛り付ける。
僕と先輩はその糸の端、より合わさった小さな黒い布にかろうじて立っている。
不快そうに身をよじった鯤が、顔をゆっくりとこっちに向ける。
殺意に満ちた猛禽の目が、正確に先輩を捉える。
輝く巨大な翼の表面が無数の鱗に塗り変わり、刃みたいな鋭い鰭が黒い糸の隙間を縫って次々に生え始める。
「これは……大ピンチだね……」
呟いた先輩が片手で印を結びながら、もう片方の手で神符を一枚つかみ出す。
ふわりと宙を漂った神符が、なぜか僕の足に貼り付く。
「先輩?」
「御厨君。作戦変更だよ」
思わず声を上げる僕に、先輩は輝く翼と無数の鰭を静かに見つめたまま、
「それはパラシュートみたいな物だよ。短い時間だけど空を飛ばしてくれる。君はすぐにここから飛び降りて、高天原から向かって来ている警備の部隊に合流するんだ」
「な、何を言ってるんですか!」
「大丈夫。幸い、あの魚は私にお熱みたいだからね。私がここに留まれば、君には目もくれないよ」
黒い糸が次々に鰭に絡みついて動きを封じるけど、足りない。
ああもう、って呟いた先輩が両手の印を素早く組み替えながら、
「バイト代は……そうだね。生徒会にでも請求してくれたまえ。会長は嫌な顔をするだろうけど、副会長は話の分かる人だから」
「でも!」
「頼むよ」
ようやく、先輩が僕を振り返る。
夜の星空みたいな、輝く黒い瞳。
先輩は疲労が色濃くにじんだ口元に不敵な笑みを浮かべて、
「私は氷川の名前はあまり好きじゃないんだけど……それでも、出会ったその日に後輩を死なせたとあっては三名家の名折れだからね」
さあ、っていう先輩の声。弾けてちぎれ飛ぶ黒い糸を薙払って、無数の鰭が刃みたいに閃く。
僕は一度だけ目を閉じ、足元を強く蹴って──
「な……」
突き出した両手に軽い感触。
先輩の細い体を勢いよく突き飛ばして、振り下ろされる無数の鰭の下に身代わりに飛び込む。
呆然と目を見開いた先輩が、青空を下へ、刃の届かない場所へと逃れていく。
あーあ、って心の中でため息。
たぶんこれは失敗で、間違い。
祖父ちゃんに見られたら、後で絶対に説教されると思う。
だけどやってしまった物は仕方ない。
だって体が勝手に動いてしまったから。
今日初めて出会ったこの人を、守ろうって思ってしまったから。
目の前には閃く刃の切っ先。せめてもの抵抗に抜き放ったプラズマナイフが、輝く鰭の膨大な神性に消し飛ばされる。
無我夢中で掴んだ神符の束が、手から離れて飛び散る。
やっぱり痛いのかな、なんて思考。
僕は喉元まで迫った死を為す術無く見つめ──
衝撃。
眩い光が視界を塗りつぶし、意識が白く染まって、そして。




