基礎から学ぶ量子神道
~第二幕、開幕~
高天原学園料理部の朝は早い。
そして、修行を始めたばかりの見習い神職みたいに規則正しい。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、御厨君」
高等部の校舎を通り過ぎて鎮守の森を進んだ先、古びた小さな倉庫の前で氷川先輩が笑う。割烹着姿の先輩は金属扉の前を箒で掃き清める手を止めて、懐から神符を一枚取り出す。
集まった葉っぱや木の実がくるくると空を舞って、森の中に帰って行く。
「こういうことは最初から符術に頼るんじゃなくて、自分の手を動かしてこそ御利益があるというものだからね」
先輩がさらに符を動かすと、光る文字で編まれた五芒星が、錆びた扉の表面に一瞬だけ浮かんで消える。
重苦しい響きと共に開かれる扉の向こうには、狭いながらもきちんとした和式の玄関。
奥の台所からは、ふんわりと紅茶の良い香り。
「今日の朝ご飯はフレンチトーストだよ。御厨君は好きかい?」
「初めてです! 映画では見たことありますけど」
「おや、それは光栄だね」
ふふっと笑う先輩と一緒に部室の扉をくぐる。
朝七時。新しい一日の始まりだ。
*
新入生歓迎競技祭の大事件から、もう四日が過ぎた。
八岐大蛇の降臨がイベントって説明されたおかげで学園は何事も無かったみたいに日常を取り戻して、そのまま五月の初めの連休に突入していた。
今日は五月三日、日曜日。高天原の学生はそこそこの割合がこの四日間の連休を利用して帰省してるらしくて、遠くから聞こえる運動部の朝練の声がいつもより小さい。
僕と先輩はどっちも学園に居残り組。
連休が終わったらすぐに、一学期の中間テスト一週間前の期間が始まってしまうのだ。
「それじゃあ、やろうか。今日は量子神道基礎のおさらいだよ」
「う……」
朝ご飯が済んだ部室の座卓の前、なぜか先生っぽい白衣とだて眼鏡に着替えた先輩の隣で僕は身をすくませる。口の中に残ってるフレンチトーストのとろける甘さと紅茶の素敵な香りがどこかに吹っ飛びそう。
「そういえば聞いていなかったけど、御厨君は量子神道の理論は」
「……苦手です。すごく」
僕は祖父ちゃんに神卸を徹底的に叩き込まれたし、先輩に教わったおかげで式神や符術も使えるようになった。だけどそれはものすごく感覚的っていうか「自転車の乗り方」みたいなもので、具体的に何をどうやってるのか説明しろって言われてもいまひとつわからない。
その辺の理論的な裏付けを高校生にも分かる範囲で数式とかあんまり使わずに説明してくれるのが「量子神道基礎」の授業。
なんだけど、どうもその辺の内容は中等部で全部一回やってるみたいで、先生も「みんなわかってるよね?」みたいな勢いで話をどんどんすっ飛ばしてしまうから、僕もなんとなくわかったような気になって、実際は一つも頭に入ってないうちに気がついたらテスト目前になってしまった。
先生にもらった補習の教材? 先輩と供骸操作の特訓するのに必死で後回しにしてました。ごめんなさい。
「とりあえず教科書を順番に読んで行こう。……大丈夫、最初のテストは中等部のおさらい中心だからね。一夜漬けでもそうそう赤点は取らないよ」
はあ、って呟き、座卓の上の水晶板を操作して立体映像の教科書を呼び出す。
「えっと、『一章、神性ヒルベルト空間の構造と神卸の概論』……」
なになに?
相対論的量子力学、すなわち「場の量子論」とのアナロジーにより、時空間全体に遍在するあらゆる神性の存在確率をx、y、z、tの関数と見なした物を「神性波動関数」という?
でもって、この神性波動関数に祝詞演算子を作用させ、神職ベクトルとの内積を取ることで特定の座標に特定の神性を局在化する演算を「神卸」という……???
「先輩。僕、だめかもしれません」
「まあまあ、一から順番に説明しようか」
先輩はくすくすと笑い、細い指で半透明の教科書をなぞって、
「つまりね、量子神道では『全ての神様は、特定の神格を持たずに混ざり合った状態で、ありとあらゆる時間、空間にうっすらと広がって存在している』と考えるんだ」
世界に八百万の神あり、万物一切に神性あり──この基本の考え方を二十一世紀の物理学と数学の理論に基づいて拡大再解釈したのが量子神道だ。
そこでは、全ての神様は混ざり合い、濃淡のある波みたいな状態で世界全体を覆ってる。
これが神性波動関数。そして、神様が一柱も顕現していない状態が神性基底状態、数式で書くと「|0⟩」だ
「つまり、神様は神様として居るんじゃなくて、名前も何も持ってないただの神性として空気みたいにその辺をふわふわしてるんですか?」
「あるいは、光みたいにと言っても良いかもしれないね。そして、この波動関数に祝詞演算子が作用することで、神性波動関数の中から特定の神格が励起する。……そこにさらに神職による『名付け』が掛け合わされることで、ようやく神様は特定の時間、特定の場所に、特定の神格を持って固定されるというわけさ」
先輩の指が空中に波線を描く。
世界を満たす神性の海。
そこに「⟨shinsyoku|」って書かれた棒人間が「O_norito」って書かれたボール投げ込むと、透明な波から赤線で描かれた波が浮かび上がって神様っぽい小さな人型に姿を変える。
──神卸: ⟨shinsyoku | O_norito |0⟩ ──
数式だか記号だか何だかもよく分からない文字が、僕の前でくるくると回る。
「量子神道において『名付ける』ことと『祈る』ことと『観測する』ことは同じ意味を持つんだ。その行為が世界に遍く広がる神性波動関数の位相を局在化させ、私たちが思う形の『神』を顕現させる。つまるところ、神性というのは意味を定義されない情報の塊と考えるといいのかも知れないね」
「えっと……」
最後の方はよく分からないけど、なんとなく分かった。
神様は、誰も呼び出していない状態では名前を持たない神性の波。
そこに神職が祝詞で呼びかけて名前を付けると、特定の神様が顕現する。
「……なんでこんなにややこしい説明で、ややこしい数式使うんですか?」
思わず愚痴ってしまう。もうちょっとわかりやすい言葉で、簡単に説明してくれれば十分なのに。
と、先輩があははって笑い、
「御厨君は神卸が専門の感覚派だからねぇ。……これらの知識はどちらかというと、式神作成や新しい符術の開発、供骸の設計なんかに必要になるんだよ」
見せてあげよう、って言った先輩が神符を取り出して指先で払う。途端に強い羽ばたきの音があって、黒い大鴉の式神が窓の外にふわりと降り立つ。
その姿が、無数の光る文字に解ける。
文字は窓を素通りして残らず部屋に飛び込み、何百、いや何千枚っていう小さな画面を形作る。
それぞれの画面には細かな数式がびっしりと書き込まれて、たまに日本語の説明も混ざってる。画面同士は絡み合った細い糸で複雑につなぎ合わされていて、全体で一つの大きな仕組みになってるのがわかる。
「これ……」
「私の式神、『夜羽』の構造式だよ」
先輩は糸を指先でたぐって何本かちょいちょいとつなぎ替え、
「式神は神性波動関数にどういう演算子を作用させるかっていう数式の集まりだからね。要はコンピュータのプログラムみたいな物なんだ。御厨君のたまだって、本当は同じように分解できるんだよ」
「そうなんですか!?」
思わず叫んでしまう。知らなかった。いや、ほんとは知ってないといけないんだろうけど、全然気がついてなかった。
「まあ、たま君はこれほど複雑ではないけどね。……式神作成にも段階という物があって、より高機能、高効率を求めるなら、単にプログラムを書き換えるだけじゃなくて『自分の式神に最適化された仮想の量子コンピュータ』そのものをゼロから設計しなくてはならないんだ。私の『夜羽』はその段階だね。今の設計になるのに二年もかかった。自信作だよ」
はー、って感心。正直半分くらいしかわからないけど、先輩がすごいっていうのはよくわかる。
量子神道について知れば知るほど、みんなが先輩を天才って褒めるわけだって納得してしまう。
そんなすごい人に直接教わってるんだから、僕ももっと頑張らなきゃ。
「まあ、私の式神ともかく、ここまでが一章の内容だよ。どうかな? 質問があれば何でも聞いてくれていいけど」
「質問、ですか……」
僕はちょっと首を傾げ、ふと思いついて、
「先輩。結局、神様って何なんですか?」
あらためて考えてみると不思議だ。僕は「火之迦具土神」っていう神様が確かにいると思っててその力を借りてるけど、量子神道の理屈だと神様っていうのは「人間が何もないところから想像で勝手に作った」って言ってるみたいに聞こえる。
確かに僕も、神様が自分の意思で話すとか勝手に動くみたいな経験はない。
だけど、本当にそういう理解で良いんだろうか。
なんて考えてると先輩がふふっと笑い、
「とても良い質問なんだけどね、その答えはまだはっきりと決まってはいないんだ。量子神道の世界では『神性という情報の海に人類が神という形を与えた物が神だ』っていうことになっているけど、それだと例えば国之常立神や三貴人みたいな特別な神が強い力を持つ理由が説明できない」
「……強い神様だとみんなが思うから強い神様なんだ、じゃ説明にならないってことですか?」
「少なくとも『古事記や日本書紀に書かれているから』だけじゃ不十分だっていうのが、研究者の共通の見解だね。人間を遙かに超えた力と意思や感情を備えた『神様』が少なくとも歴史上のある時点まではいたんだって考えなきゃ辻褄が合わないことが色々ある。……他の色んな物理学の法則と同じで、量子神道もまだまだ発展途上なんだ。私たちは神様に呼びかけることで世界を操作する方法を見つけたけど、どうしてそんなことが出来るのかが完全に解明されるのはこれからということさ」
なるほど、ってうなずく。つまり、分からないことはたくさんあって、僕から見たら何でも知ってそうな先輩とか大人の研究者の人たちとかもまだまだ勉強の途中ってことなんだと思う。
「毎日少しずつ積み上げろ、ですね」
「そういうことさ。御厨君のお祖父さまは本当に良いことを言うね」
先輩は神符を払って式神の構造式を消し、
「さて、じゃあ次の章に移ろうか。急がないと御厨君が積み上げる時間が足りなくなってしまうからね」
はい、ってうなずいて教科書のページをめくる。
にこにこと笑った先輩が手を伸ばして僕の頭を撫で──
急に、先輩のスマホから古めかしい女性ボーカルの呼び出し音。
慌てた様子で手を引っ込めた先輩が、あたふたとアイコンを操作して立体映像の小さな画面を呼び出す。
『おはようございます、氷川さん。朝早くにお呼び立てして申し訳──』
声が止まる。
押見澄葉副会長が、生徒会室を背景に、まあ、って瞬きを一つ。
『もしかしてお邪魔でしたの? なんてことでしょう、わたくしとしたことが』
「だだだだ大丈夫だとも!」
先輩はだて眼鏡をあたふたと外し、
「どうしたんだい? 副会長直々なんて、よほど緊急の案件なんだろう」
『ええ、まあ……』
返ってくるのは、なんとも歯切れの悪い声。
思わず首を傾げる僕の前で、副会長はものすごく困った顔でため息を吐いた。
『実は……度会梨玖さんの復学が決まりましたの』




