氷川先輩の夕ご飯
陶器の四角い皿に置かれた焼き鮭から、ほわりと湯気が立ち上った。
僕は座卓の前にちまっと正座して、いかにも脂が乗っていそうなぷりぷりの切り身に思わず「わぁ」って声を漏らした。
向かいに座った氷川先輩がふふっと口元に笑みを浮かべる。大変だった入学初日が終わってもう夕方。僕は先輩にお呼ばれして、またしても料理部にお邪魔している。
窓の向こうから差し込む夕陽が、二つ並んだ黒漆の盆を照らす。
さらっとした畳の感触が、今日もやっぱり気持ちいい。
「御厨君も疲れているだろうからね、今日は軽い和食にしてみたよ。お口に合うと良いのだけれど」
先輩は慣れた手つきでおひつのご飯を茶碗によそい、どうぞって僕に差し出してくれる。薄茶色の炊き込みご飯の中にはわらびや筍が入っていて、祖父ちゃんと山菜採りをしたのを思い出す。
続けて先輩が白磁の器から蓋を取り除けると、漂う上品な出汁の香り。
つやつやと輝く黄色い茶碗蒸しに、思わず目を丸くしてしまう。
「さ、遠慮なく召し上がれ」
「は……はい! いただきます!」
大慌てで両手を合わせ、箸と茶碗を手に取ってとにかく炊き込みご飯を一口。
途端に口の中いっぱいに広がる芳醇な香り。
山菜のしゃきしゃきした歯応えと薄く醤油味がついたご飯の旨味をよく味わってからゆっくりと飲みくだす。
「ど……どうかな」
「美味しいです」
おそるおそるっていう感じの先輩に答え、すぐにこれだけじゃ足りないなって気づいて、
「すごく優しいっていうか、落ち着くっていうか。いくらでもおかわりできそうです」
祖父ちゃんと一緒に食べたご飯を思い出す。もちろん、先輩が作ってくれたのの方が何倍も美味しくて味に深みがあるんだけど。
「そうだろう? そうだとも! 素材の声を聞くのがコツなんだよ!」
と、たちまち弾ける声。
先輩は嬉しそうにうんうんと何度もうなずき、ちょっとだけ胸を張って、
「二日も続けて肉だとお腹がくたびれてしまうからね、今日は消化に良いメニューにしたんだけど、喜んでもらえて光栄だよ!」
はい、ってうなずいて次々に箸を動かす。茶碗蒸しの中には海老や鶏肉や銀杏がごろごろ。鮭の切り身には少しだけ醤油をさした大根おろしが添えられていて、濃厚な脂をさっぱりと喉の奥に流してくれる。
山菜も鮭も茶碗蒸しの具も、素材の味が生きててすごく新鮮。
って、あれ?
「先輩、この材料ってどこから来たんですか?」
昨日のすき焼きの時は他に色々考えることがあって思いつかなかったけど、どうしてこんなに食材が豊富なんだろう。
高天原は地上から二万五千メートルも離れてる空の上の人工島。空輸で運んでくるなんてことになったらものすごく大変なんじゃ……
「もちろん高天原の中からだよ」
と、返ってくるのは意外な答え。
首を傾げる僕に先輩はくすっと笑い、
「実はね、この高天原という島は広いのはもちろん、上下にもかなり分厚いんだよ。私たちの足元には何層もの地下空間が広がっていてね、それぞれの層が牧場だったり田畑だったり、あるいは魚の養殖場になったりしているというわけさ」
「そうなんですか!?」
これにはびっくり。高天原は完全な六芒星型の人工島で端から端まで二十キロか三十キロくらいあるはずだから、それと同じ広さっていったら僕の小さな村が何百個入るか見当もつかない。
「この時期は第二層の田んぼで自動制御の式神が朝から晩までせっせと田植えをやっていてね、なかなか壮観だよ。他にも、その山菜は第四層の山林で採れたものだし、鮭は第三層の人工の海と川で養殖されていてね──なんと、夏には海水浴もできる」
へー、って感心。流石は高天原。何もかもが僕には想像もつかない規模だ。
なんて考える僕の前で、先輩はようやく自分でも箸を手に取って炊き込みご飯を口に運び、
「素晴らしい。我ながら完璧だね」
うんうんとうなずき、ふと真面目な顔を作って、
「そういえば、御厨君は競技祭に出場すると聞いたけれど、本当かな?」
「はい。クラスのみんなに説得されて」
競技祭っていうのは黒川君が言ってた「新入生歓迎競技祭」のことだ。
毎年四月の終わり頃に開催される高天原学園の恒例行事。
普通の学校で言うところの体育祭がもうちょっとお祭りっぽくなったやつで、要するにみんなでわいわい模擬戦をやろうっていう話なんだって、水瀬さんがものすごく気軽に言ってた。
競技祭には幼稚園から大学部までの全部の学年が参加して、専用の会場を舞台にクラス対抗で量子神道の技を競う。
初等部や中等部の子のためのイベントも用意されるけど、一番盛り上がるのは高等部の対戦で、一年から三年までの各クラスが四人一組のチームを出し合ってバトルロイヤルで優勝を争うらしい。
戦場は地下にある遮蔽物だらけの模擬都市──ってことは、先輩が言ってた牧場とか魚の養殖場みたいにそういう階層が広がってるんだと思う。
チームにはそれぞれ一体の供骸が貸し出されて、出場者はそれを中心に戦略を組み立てる。
供骸を操る一人以外の三人は式神や符術、神卸なんかを使って供骸の動きをサポート。
供骸が完全に行動不能になったチームは脱落で、最後の一チームになったら試合終了。一番たくさんポイントを稼いだチームが優勝ってことになる。
って聞くとなんだかきちんとした大会みたいだけど、実際には本当にお祭りっていうか、学年を超えてお互いの実力を見つつ親睦を深めるっていうのが趣旨らしい。
当日は屋台もたくさん出るし、試合の実況解説は慣例で生徒会役員が務める。
中には出場予定のなかった生徒が飛び入りで乱入して、勝ち負けがうやむやになった年もあったとかなかったとか。
ちょっと不安だけど、楽しそう。
田舎では中学を卒業するまでずっと学校で一人きりの生徒だったから、そういうお祭りって憧れる。
「懐かしいね。私も去年、出場したよ」
「そうなんですか」
目を細める先輩に、僕は鮭をぱくっと一口。
「それで、どうだったんですか? やっぱり大活躍?」
と、返るのは意味深な笑み。
氷川先輩はゆっくりとお茶を一口すすり、
「優勝した」
「すごい!」
思わず箸を置いて拍手する。さすが先輩。優勝したってことは今の三年生やその上の学年の人たちも倒したわけで、やっぱりこの人、天才なんだ。
「そうとも、もっと褒めてくれたまえ!」
先輩はどやっと胸を張り、
「あれは我ながら素晴らしい戦いだったよ。最後は私が供骸に八幡神を卸してね、一点狙撃で三年生の供骸を仕留めたんだ」
はー、って思わず感心。
と。
「……けれど、少し心配だよ」
得意満面だった先輩が急に真面目な顔になる。
すべすべの細い指が僕の頬をそっと撫でる。
心臓がどきっと音を立てる。
そんな僕の顔を先輩は心配そうに覗き込み、
「御厨君は神卸しか使えないんだろう? 本当に大丈夫かい?」
「それは……はい」
先輩の言う通り、僕は他のみんなに比べて出来ることがあまりにも少ない。符術も式神操作も使えないし、供骸だって神威解放を使っためちゃくちゃな扱いしか出来ない。
特に最後のは問題。なぜかは競技祭のルールを考えればわかる。
供骸は一つのチームに一体だけ貸し出される。
そして、自分たち以外のすべての供骸を「完全に動けなく」したチームが優勝になる。
供骸を倒されて神卸が解除されてしまうと、術者はその日のうちにもう一度供骸を起動することはできなくなる。だけど、供骸の機体部分さえ無事なら、そこに別なメンバーが自分の神を卸すことでチームはもう一度戦うことができる。
つまり、このルールは四人チームの全員が供骸を操作するのが大前提になる。
僕は神卸だけじゃなく、供骸の操縦者としてもメンバーに数えられている。
「御厨君のチームメイトは? そのあたりの相談はしたんだよね?」
「試合までに練習してくれればいいって言ってました。最悪、神威解放しか出来なくても切り札になるからって」
返ってくるのは小さなため息。
先輩は難しい顔で自分の唇に指を当て、ふと首を傾げて、
「けれど、やっぱり不思議だね。……御厨君はどうして神卸以外の技を使えないんだい?」
え、と僕は思わず瞬きし、
「それは……なんか相性が悪いっていうか、向いてないんだって祖父ちゃんが……」
「そうなんだろうけどね、それでは説明がつかないんだよ」
先輩は僕の顔をまっすぐに見つめて、
「知っているかもしれないけどね、神卸というのはそもそも符術や式神操作より遥かに難しいんだ。いくら得手不得手があると言っても、本当に全く出来ないというのは筋が通らないんだ」
確かにそれは賀茂君やみんなにも言われた。だけど祖父ちゃんはそれで良いって言ってくれたし、高天原に来るまで気にしたこともなかった。
なんだかものすごく不安になる。
と、髪に触れる柔らかい感触。
ふっと優しく微笑んだ先輩が、僕の頭をよしよしと撫でる。
「そうだね……。良い機会だから、私が少し見てあげよう」
瞬きする僕の前で先輩が静かに立ち上がる。セーラー服のポケットから神符を一枚取り出し、僕の後ろに回り込んで滑らかな動作で腰を下ろす。
「先輩?」
「静かに。ゆっくりと深呼吸をして」
言われるままに息を吸い込んだ瞬間、背中にぎゅっと柔らかい膨らみを押し当てられる感触。
たおやかな白い手が僕の体を後から抱きしめて、制服の胸に神符を滑らせる。
「あ、あの!」
「集中して。……わかるかい? 心臓の近くに熱が集まるのが。それをもっとはっきりと意識するんだ」
ふんわりと花畑みたいな良い匂い。間近で感じる先輩の体温に頭の中が真っ白になる。
それでもどうにか深呼吸して、心臓の鼓動を必死に落ち着ける。
と、急に「な……」と絶句する声。
神符を動かしていた先輩の手が急に止まる。
「どうかしたんですか? 先輩」
「あ……! いや違う! なんでもないんだ!」
正面を向いたまま声だけで問う僕に、先輩は咳払いして、
「少しわかったよ。……御厨君、きみは火之迦具土神との結びつきが強すぎる。その結びつきが他の神性との繋がりを弾いてるんだ」
え、って思わず声。
慌てて振り返ろうとした体を、細い腕に強く押さえられてしまう。
「強すぎるって……あるんですか!? そんなこと」
「普通はないね。少なくとも私は初めて見たよ」
困惑したみたいな先輩の声。
と、神符を操る指が僕のおへその上あたりでぴたりと止まり、
「……けれど……うん、たぶんこれはラッキーだね。きみと火之迦具土神との繋がりには、端の方に少しだけ綻んだ部分がある。そこを切り離して安定化させれば──」
……えっ……!
「せ、先輩!? 切り離すって!」
「大丈夫! 私を信じて!」
珍しく切羽詰まった先輩の声。抱きしめる腕の力が強くなる。
思わずぎゅっと目をつぶり、両手を強く握りしめる。
体の中で何かが引き絞られる感触。まぶたの裏で炎の糸が渦を巻いた気がして──
その糸が、切れる。
おそるおそる目を開ける僕の胸を、細い指がそっと撫でる。
「もういいよ、御厨君。……上手く行った」
慌てて肩越しに振り返った先には、汗がにじんだ先輩の顔。
きっとものすごく難しい作業だったんだろう。先輩は深く息を吐いてから一つうなずき、
「試しに式神を呼んでごらん。大丈夫。きっと上手く行くはずだよ」
ほら、っていう声に促されて神符を一枚取り出す。先輩が座卓の上にスマホを置いて、高圧縮の祝詞を流してくれる。
「畏み畏み──」
意を決して胸の前で柏手を二つ。
瞬間、指先の神符から光があふれる。
光は僕の膝の上で収束して、手のひらくらいの子猫の姿を描き出す。
何度も繰り返した光景。だけど、今回は違う。
描かれた形が、艶やかな茶色の毛並みをまとって安定する。
息を呑む僕の膝の上で、生み出された子猫が自分の前足をぺろぺろと舐める。
「あ……」
その姿を、僕は呆然と見つめる。
胸がいっぱいになって、上手く言葉が出て来ない。
「せ……先輩、僕……」
「そ……そうだね!」
先輩は僕の体からするりと腕を解き、小さな猫を見下ろして、
「初等部の低学年くらいの出来栄えかな。きみの体質だとこんな物だね。……まあ大丈夫! 式神としては弱くても、供骸の操作の練習には──」
最後まで聞かずに、ぐるりと先輩に向き直る。
両腕を思いっきり広げて、すらりとした体を真正面から抱きしめてしまう。
「み、みみみ、御厨君!?」
「ありがとうございます──!」
そう叫んだきり、華奢な肩に顔を押しつけて動けなくなってしまう。
子猫が尻尾で僕の膝をちょんと叩く。
涙が出そう。祖父ちゃんが見たら喜んでくれたかな。
「……あ……あのだね……御厨……君……」
先輩の声がすごく小さく聞こえる。
いけない。我に返って慌てて体を離し──
思わず瞬き。
目の前には、耳たぶの先まで真っ赤になった日本人形みたいな顔。
先輩はどうしたら良いのか分からないっていう感じで、セーラー服のスカートをもじもじと握りしめている。
「ち……違うんだよ……御厨君。……そうじゃなくて……自分から抱きつくのは平気だったのに……君からは、思ったより恥ずかしくて……」
……うわ……
いきなり顔が熱くなる。何を言ったら良いか分からない。
と、膝の上の子猫が、にゃあ、と鳴き声。
瞬きした先輩が、赤い顔のままふふっと笑い、
「……とにかく、今日は大進歩だね。だけど油断してはいけないよ。君はまだ式神操作の入り口に立っただけだし、符術も覚えないといけないんだからね」
慌てて背筋を伸ばし、はい、ってうなずく。そうだ。競技祭までに覚えないといけないことは山ほどある。
「先輩、本当にありがとうございました。僕、がんばって」
「それじゃあ、明日も同じ時間に集合だ。遅刻は厳禁だよ」
当たり前みたいな声。
えっ、って瞬きする僕の頬を、細い指がちょんとつついた。
「もちろん競技祭まで毎日特訓するとも。……この私が指導するんだからね。狙うは優勝だよ!」




