処刑寸前で聖女を剥奪されましたが、祈りを止めたのはあなた達ですよ?
本作は、全五幕で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
第一幕 公開断罪
春の花の匂いがした。
鎖の錆と群衆の汗と何かが焦げた臭いが混ざり合う広場の中で、それだけが場違いなほど澄んでいた。石段の縁の割れ目から、一本の雑草が小さな白い花を咲かせていた。踏まれてもいないし、抜かれてもいない。誰も気にしていないのだ、と私は思った。
鎖は両手首と首元に巻かれていた。石畳の冷たさが膝を通じて骨の奥まで染み込んでいる。中央広場の石段に跪かされて、もう一刻は経っただろうか。
春先だというのに、身体が震えるほど寒かった。いや、寒いのではないかもしれない。三年間、ほとんど眠れていない。食事も、ここ数か月はまともに取れていない。身体の奥底にあるはずの熱が、とうに尽きかけていた。
「——罪状を読み上げる」
衛兵隊長の声が広場に響いた。羊皮紙を広げる、乾いた音。
「聖女アルシエラは、虚偽の神力をもって王家を欺き、国庫より不正に礼遇を受け、かつ隣国エルディア連邦の諜報機関に王都の防衛機密を流した。これは王国への反逆である——」
笑えてしまうほど、でたらめな内容だった。
神力が虚偽。では、三年間、毎朝日が昇る前から跪いて祈り続けた、あの疲弊は何だったのか。祈るたびに頭の芯がじわりと痛んで、食事を喉に通せない夜が続いて、右の視野が霞むようになっていったのは、何のためだったのか。
でも、反論はしない。この場で何を言っても、都合よく解釈されるだけだと、私は理解していた。
「反逆者め!」「偽物の聖女が!」「殺せ!」
罵声が波のように押し寄せてくる。何かが頬をかすめた。石。小さな石が、何か所か当たっている。痛みはある。ただ、それより先に、なぜか申し訳なさに近い感情が湧いた。この人たちは、私が偽物だと本気で信じている。信じさせられている。
そのとき、人垣が割れる気配がした。
「アルシエラ——!」
母の声だった。
私は咄嗟に顔を上げた。白髪の混じった栗色の髪。深いしわの刻まれた、しかし気品を失っていない顔。母が群衆を割って前に出ようとして、衛兵に腕をつかまれた瞬間が、私の目に焼きついた。
「離しなさい、あの子は——あの子は本物の聖女だ、証明できる、だから——」
衛兵は、一言も答えなかった。ただ、母の頬を平手で打った。
乾いた音が、広場に響いた。群衆が、わずかに静まった。母は石畳に手をつき、よろめきながらも倒れなかった。口元に血が滲んでいた。
私の視界の端が、少しだけ滲んだ。
泣かない。今は泣かない。
瞬きを一度だけして、私は正面を向いた。
石段の上、緋色のマントをまとった人物が立っている。三年前より少し背が伸びたが、立ち姿の傲慢さは何も変わっていない。王太子レオンハルト。かつて私の婚約者だった人。
視線が合った。彼は、何の感情も乗せていない目で、私を見下ろした。
「アルシエラ」
声は冷静だった。芝居がかった冷静さ。聴衆に聞かせるための、よく通る声。
「お前は偽物だ」
広場が、どよめく。
私は口を開かなかった。何も言わなかった。ただ、静かに彼の顔を見ていた。
あの目は、三年前から知っていた。私を道具として見る目。役に立つ間は丁寧に扱うが、不要になれば躊躇なく捨てられる。婚約を申し込まれたときも、神殿で初めて祈りを捧げたときも、私は薄々気づいていた。気づいていて、それでも祈り続けた。この国の民を守れるなら、と思っていたから。
馬鹿だった。
馬鹿、というより——幼かったのだと思う。
「本日をもって、お前との婚約を破棄する」
さらなるどよめき。歓声も混じっていた。
それから、彼の隣に立っていた女性が前に出た。私と同い年か、少し下だろうか。黄金色の巻き毛。薄いピンクのドレス。微笑み方が、絵画の聖女像に似ていた。
「こちらがミレイユ。神が認めた、真の聖女だ」
群衆が沸いた。歓声と拍手。
私はミレイユを見た。彼女は私と視線が合うと、わずかに顎を引いた。勝者の余裕のような微笑みではなく——どこか、気まずさに似た表情だった。
次の瞬間、衛兵が私の左腕をつかんだ。
「紋章焼印の儀を執り行う」
私は抵抗しなかった。神官が歩み寄ってきて、左の手首を取った。三年前の叙任の日から刻まれた、薄い金色の聖女紋章がある。
焼き鏝が近づいてくる。
熱さが皮膚に触れた瞬間、私は息を止めた。焼ける臭いが鼻の奥を刺した。焦げた皮膚の、甘ったるい、吐き気のする臭い。それが自分の腕から上っているとわかったとき、私の視界は確かに白く滲んだ。
視野の端で、ミレイユがかすかに顔を背けるのが見えた。ただ一瞬。しかし、その動きは素早すぎた。驚いた人間の反応ではなく——備えていた人間が、それでも耐えきれなかった反応のように見えた。
声は、出さなかった。
一歩間違えれば気を失いそうな痛みの中で、私はただ、石畳の一点を見つめていた。
やがて焼き鏝が離れた。左手首に、黒い焼け痕が残った。聖女紋章は、消えた。
歓声が続く中、私はゆっくりと口を開いた。
「……では」
声は出せた。想像より、ずっと穏やかな声が出た。
「……では、もう祈りません」
それだけ言って、私は黙った。
近くにいた衛兵が、怪訝そうに眉を寄せた。群衆のいくつかの声が途切れた。しかし大半は、その言葉の意味を受け取らなかったようだった。当たり前だ。聖女が祈らなくなれば何が起きるか——それを理解できるのは、この場ではほとんどいない。
「神託が下り次第、処刑を執行する。それまでは地下牢に収監する」
衛兵に引き立てられながら、私は一度だけ振り返った。
母が、まだ石畳に手をついていた。血の滲んだ口元で、何かを言おうとしていた。私には声は届かなかった。ただ、唇の動きだけが見えた。
——ごめんなさい。
違う、と思った。謝るのは私のほうだ。あなたは何も悪くない。
でも、その言葉を届ける方法が、今の私にはなかった。
第二幕 真実と決断
地下牢は、思っていたより静かだった。
湿った石壁。藁の上に粗末な毛布。松明の光だけが揺れている。左の手首は晒し布を巻かれたが、動かすたびに鈍く熱を持った。
ここへ来て、二日が経った。
食事は一日一度、パンと水だけ。眠れない夜は慣れっこだったから、その点は特段困らなかった。困ったのは、何も考えることがない、という状況が初めてだったことだ。三年間、祈りの時間と儀礼と報告書と、次の祈りのことで頭が埋まっていた。何もしなくていい時間が、こんなにも奇妙に感じられるとは思わなかった。
鉄格子の向こうで、足音がした。
衛兵の交代時刻には早い。私は目を細めた。
「眠っていましたか」
声は低く、落ち着いていた。松明を手にした影が、格子の前に立った。年は二十代後半。深い紺色の外套。実務家の顔つきをした、細身の男だった。
「眠れる状況ではないので」と私は答えた。「あなたは誰ですか」
「エルディア連邦、宰相のディルクと申します」と男は言った。声に演技がなかった。
「罪状に名前が出ていましたね」
「ええ。誠に不名誉な使われ方でした」
彼は格子に近づいた。それから——少しためらうように——廊下の両側に目を向けた。
衛兵が遠いことを確かめてから、声をわずかに低めた。
「少し、お話しできますか。時間があまりありません」
私は毛布の上で背を起こした。「どうぞ」
沈黙が一呼吸、落ちた。
「聖女様は」ディルクは言った。「ご自身の祈りが何を消費しているか、ご存知でし
たか」
「……神力、でしょう」
「神力は」と彼は続けた。「何から来るか」
私は少し考えた。神学の教本には、魂の清純さから、と書いてあった。でも実感は違った。祈るたびに、身体の芯から何かが削れていく感覚。じわじわと、三年かけて。
「……寿命、ですか」
ディルクは即答しなかった。
少しの間、松明の炎を見ていた。それから、私の左手首——包帯に巻かれた、焼け痕のある手首——に視線を落とした。
「正確には」と彼は言った。声が、わずかに落ちた。「魂の総量です」
私は何も言わなかった。
「一般的な聖女の場合、神殿の結界が祈りを増幅・変換するため、消費は微々たるものです。日々の祈りで、寿命が目に見えて縮むようなことはない」
一拍、置いた。
「しかしヴァルシア王国の結界は、そうではありません」
また、沈黙があった。
ディルクは格子から少し離れ、廊下の端に目をやった。それから戻ってきて、今度は声をさらに抑えた。
「古い王家の術式が、祈りを増幅する過程で——源泉になっている魂ごと、圧縮して搾り取る構造になっています」
私は、自分の右手を見た。
三年前より細くなっていた。骨の形が、皮膚の上からわかる。右の視野は半年前から霞んでいる。食事が喉を通らない夜が、いくつあったか、もう数えていない。
「それを知っていて、王家は私に祈らせていたということですか」
「知っていた者がいたかどうかは、断言できません」ディルクは静かに答えた。「ただ、術式を記録した古文書は神殿の七層目の書庫に存在していた。調べれば、わかることでした」
気づかなかったのではなく、調べなかった。
私は左手首の晒し布を、無意識に指先でなぞった。
「最後に」とディルクは言った。「もうひとつだけ」
一呼吸おいた。
「聖女様が今の状態で処刑されれば、魂の消費は完全には止まらず、残滓が王国の結界に絡み取られます。逆に言えば——今ここで、祈りを『止める』という意思決定をした状態で生き延びれば、結界との繋がりは緩やかに切れる」
「私が祈りをやめれば」と私は言った。「国は」
「三か月以内に結界が機能を失います。その後、外縁部から魔物が。さらに時間が経てば、疫病と飢饉」
私は彼の目を見た。
「あなたは、私に国を見捨てさせに来たのですか」
「そうは言っていません」ディルクは即座に答えた。「事実をお伝えに来ました。聖
女様がどうされるかは、聖女様が決めることです」
長い、沈黙があった。
松明が揺れた。石壁の染みが、光の角度で形を変えた。
私は、自分の内側を確かめるように、ゆっくりと目を閉じた。
国を守りたかった。それは嘘ではない。民が傷つくのは見たくなかった。今でもそれは本当だ。でも——私は三年間、己の魂を削りながら、「偽物」と言われた。母を殴られ、石を投げられ、鎖をかけられた。そして今、正式に聖女の資格を剥奪された。
あの人たちが守れという国は、私を捨てた国だ。
そしてあの人たちは、今も自分たちが何を失いつつあるか、理解していない。
「……私は、選びます」
自分の声が、牢の中に静かに落ちた。
「祈りを、やめます」
言葉にしたとたん、胸の中で何かが解けた。締め付けていた何かが、ゆるゆると緩んでいく感覚。
後悔は、不思議なことに、なかった。
ただ、深い——安堵があった。眠れない夜を何百と重ねて、自分でも気づかないうちに積み重なっていた疲労が、少しだけ息をついたような。
「……逃げ道は、ありますか」と私は言った。
「こちらが用意しています」ディルクは鍵束を取り出した。
第三幕 祈りを止めた後
エルディア連邦の首都は、王都より小さかった。しかし空気が違った。人々の顔に、あの独特の張り詰めた疲れがなかった。
私はディルクの手配した屋敷に身を置き、少しずつ体調を取り戻しながら、ヴァルシア王国の様子を断片的に聞いた。
脱出から七日後。
エルディアの情報員からの報告書が届いた。ディルクが短く読み上げた。「王都の北門付近で、結界の光が揺らいでいる様子が確認された」
私は茶を飲みながら、その言葉を聞いた。
「そうですか」
それだけ答えた。
一か月後。
今度は手紙だった。ヴァルシアとの国境警備隊からの報告が添付されていた。ディルクは私に読ませるか迷ったらしく、少し間を置いてから渡してきた。「……魔物の小集団が、東部の村二か所を襲った。村人に死者が出た」
私はその報告書を最後まで読んだ。
死者の数が書いてあった。見知らぬ人々の名前が書いてあった。子供の名前もあっ
た。
胸が、痛くないといえば嘘になる。
しかし私は、視線を上げてディルクを見た。「私は祈らなかっただけです。彼らに石を投げたのは、私ではありません」
ディルクは何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
二か月後。
疫病が東部から広がっている、という噂をエルディアの市場で耳にした。商人たちがヴァルシアとの取引を控える話をしていた。「あの国、結界が落ちかけてるんじゃないか」「聖女を処刑しようとしたからだろう」
私はその会話を横切りながら、足を止めなかった。
三か月後。
飢饉の情報が届いた。魔物の侵攻で耕作地が荒れ、流通が途絶えた地域が出ている。ヴァルシア王家は近隣諸国に援助を要請したが、ほとんど断られたと聞いた。
夜、一人になってから、私は窓の外を見た。
エルディアの夜空は、星が多かった。王都では、煤と人の熱気で空が濁っていたから、こんなに星が見えるとは知らなかった。
胸の奥に、かすかな罪悪感はある。消えたわけではない。
でも揺らいではいない。
私はただ、祈らなかっただけだ。それで国が傾くような構造を作ったのは、私ではない。
第四幕 三年後
エルディア連邦の春は美しかった。
神殿の広場に植えられた白い花が、今年もいっせいに開いている。祈りの間から見えるその景色を、私は毎朝楽しみにしていた。
三年が経った。
私はエルディア連邦の守護聖女として、この国の結界を守り、毎朝祈りを捧げていた。
違うのは、疲弊しないことだ。
祈りを終えた朝も、身体は軽かった。頭の芯が痛むことはなく、食欲もあり、夜は眠れた。右の視野の霞は、エルディアへ来てから半年で消えた。ディルクの言った通り、この国の結界術式は祈りを正しく変換する。魂を圧縮して搾り取るような真似はしない。
「今朝も調子は良さそうですね」と、執務棟から歩いてきたディルクが言った。
「ええ」と私は答えた。「不思議なくらい」
「不思議ではありません。正常な状態ですよ」
そう言いながら彼が差し出してきた書類を受け取ったとき、執務棟の入口で、人が止まっているのに気づいた。
衛兵に案内されて立っている、見覚えのある人物。
三年前より、ずいぶん細くなっていた。頬が落ちて、顎が尖り、目の下に深い影がある。緋色のマントは着ていたが、生地が傷んでいた。靴に土がついていた。
王太子レオンハルト。
ディルクが私の隣で小さく息を吐いた。「昨日から面会を求めていました。決定は聖女様に委ねます」
私は書類をディルクに返した。
広場を横切った。
レオンハルトが気づいて、こちらを向いた。かつて何の感情も乗せていなかった目が、今は複雑なものをたたえていた。安堵と、羞恥と、何か焦燥めいたものが混ざっていた。
私が三歩手前で立ち止まったとき、彼は——膝をついた。
石畳に、両手をついた。
「頼む」
声が、掠れていた。
「祈ってくれ」
広場が静まった。エルディアの衛兵たちが、異様なものを見るような目でその光景を見ていた。
私は彼を見下ろした。
三年前、逆の構図があった。私が跪かされ、彼が上から見下ろした。あの日の石畳の冷たさを、今でも皮膚が覚えている。左手首の焼け痕も、今もある。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「……祈りを止めたのは、あなた達ですよ?」
声には、何も乗せなかった。
怒りも、嘲りも、感傷も。ただ事実として、空気の中に置いた。
レオンハルトが顔を上げた。何か言おうとして——言葉が出なかったようだった。
私は少しの間、沈黙した。
それから、視線を広場の向こうへ向けた。
エルディアの東、遠い山並みの稜線に、今朝から黒い霞がかかっていた。国境に近い斥候から報告が届いていた。大規模な魔物の群れが結集している、と。
私はゆっくりと目を閉じた。
祈りのための姿勢を取った。両手を組む。意識を、この国の結界の網目へ沈める。ここへ来て三年、繰り返してきた動作。エルディアの土地の記憶が、私の祈りに応えてくる。
光が、広場から滲み出した。
白い光が地面を伝い、城壁を駆け上がり、地平の彼方まで広がっていく。
遠く、山並みの向こうで、何かが砕けるような音がした。魔物の気配が、一息に散った。
私はゆっくりと目を開けた。
手先に、ほんの少しの痺れ。それだけだった。かつてなら三日は寝込んでいたはずの、大規模な祈りの後に。
「……これが、私の祈りです」と私は言った。
声は、穏やかだった。
第五幕 後悔地獄
レオンハルトはエルディアに三日留まった。
その間に、ディルクが彼にいくつかの文書を見せた。私が関わる必要はなかったので、私は同席しなかった。
三日目の夜、ディルクから報告を受けた。
「かなり、来る前と印象が変わっていました」と彼は言った。抑揚を抑えた声で。「魂の消費の記録を見せたとき——まず、叙任時の年齢を確認されました」
私は茶を一口飲んだ。
「十五だったことを、知らなかったのでしょう」
「おそらく。その後、三年分の祈りの記録を見たいと言われました」
「……記録」
「毎月の祈りの報告書です。聖女様が記入し、王太子殿下が署名していたもの」
私は少しの間、黙っていた。
三年分。三十六の月。私の署名が入った報告書に、彼は毎月、自分の名前を書いていた。一度も、内容を精査することなく。
「一年目と三年目の記録を並べて見たとき、しばらく何も言えなかったようです」
ディルクは続けた。「筆跡が、別人のように変わっていたので」
私は窓の外を見た。エルディアの夜。星が多い。
「……そうですか」
それだけ言った。
翌朝、レオンハルトが私に面会を求めてきた。
庭の東屋で会った。彼はゆうべより顔色が悪かった。目の下の影が濃い。どこかが固まって、乾いたように見えた。眠れなかったのだろう。眠れたとしても、深くは眠れなかったのだろう。
「……知らなかった」
開口一番、そう言った。
「神力が寿命だったことも。術式が魂を削り取っていたことも。俺は——本当に、知らなかった」
「そうでしょうね」と私は答えた。
責めるような言い方ではなかった。ただ、そうだろうと思っていた。知っていてやらせたなら、もう少し手が込んでいたはずだ。
「それでも」と彼は続けた。声が、震えていた。「俺は、お前を偽物と言った。母上を——庶民の前で打たせた。聖女紋章を焼いた。処刑しようとした」
「そうですね」
同じ調子で答えた。
しばらく、沈黙が続いた。
彼の視線が、私の左手首に落ちた。晒し布の下の、焼け痕のある場所。それからすぐに逸れた。また落ちた。また逸れた。意識して逸らしているのに、意識とは別のところで吸い寄せられているようだった。
「俺は」と彼は言った。声がかすれた。「あの日——」
そこで、言葉が止まった。
続きは来なかった。来られなかったのだと思う。
「お前は、怒らないのか」
私は少し考えた。
「怒っていないわけではありません」と私は言った。「ただ、あなたに怒りをぶつけても、何も変わらないと思っています。母の頬に残ったものは、消えません。私の手首の跡も、消えません。三年間の疲弊も、戻ってきません」
一呼吸おいた。
「あなたが私の祈りの記録に署名を入れた月が、三十六回あります」
レオンハルトが、目を伏せた。
こちらから言わなくても、わかっていたはずだ。三十六という数字は、すでに彼の中に刻まれていた。それでも口に出した。消えないようにするために。
遠くから、エルディアの市場の声が聞こえてくる。活気のある、朝の喧騒。
「聖女様」と彼は言った。初めて、そう呼んだ。「……戻ってきてくれ」
私は答えなかった。
しばらく、鳥の声を聞いた。風が花の匂いを運んでくる。
——戻る先に、何があるか。石畳の冷たさ。鎖の重さ。焦げる臭い。眠れない夜と、かすんでいく視野と、削れていく命。あるいは今、あの国は国民に何を言われているのだろう。廃嫡の噂はディルクから聞いていた。王太子の失態を責める声が王都を覆っていると。
同情は、少しある。でも、同情は答えにはならない。
「お断りします」
一拍置いて、静かに言った。
「あなたの国に戻る理由が、私にはありません。私はここで、この国のために祈ります。それが私の選択です」
レオンハルトは、しばらく動かなかった。
それから、静かに立ち上がった。何も言わなかった。それが彼なりの返答だった。
去り際に一度だけ振り返って——また頭を下げた。今度は土下座ではなく、深いお辞儀だった。
私は、それを黙って受け取った。
最終幕 静かな幸福
庭園の白い花が、まだ咲いていた。
夕暮れの光の中で、ディルクが水を撒いている花壇の縁に、私は腰を下ろしていた。特に用事があるわけではなかった。ただ、ここにいるのが心地よかった。
「王太子殿下は今朝、国境を越えました」
水差しを置きながら、ディルクが言った。
「そうですか」
「会ったのですね」
「少しだけ」
彼はそれ以上聞かなかった。私もそれ以上話さなかった。ディルクはそういう人間で、私はその按配が気に入っていた。
風が、花の匂いを連れてきた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」と私は言った。
「どうぞ」
「あなたが最初に地下牢に来たとき」私は空を見上げた。夕暮れの橙と、夜の青が溶け合うあたり。「私に事実だけ伝えて、選択は委ねた。あれは——本当に、私が決めることだと思っていたのですか。それとも、こうなることを見越していましたか」
ディルクは少し間を置いた。
「七割は、あなたが正しい選択をすると思っていました」
「残り三割は?」
「あなたが、戻ることを選ぶ可能性も、ゼロではなかった」
「……戻っていたら、どうしましたか」
「何もしません。それもあなたの選択だから」と彼は言った。「ただ、非常に惜しいと思ったでしょう」
私は少し笑った。笑ったのが久しぶりすぎて、自分でも少し驚いた。
「エルディアに来て三年、この国は良くなりましたか?」と私は聞いた。
「なりました」ディルクは即答した。「作物の収量が上がりました。魔物の被害が減りました。それより何より、人の顔が——以前より穏やかになった気がします。それがあなたのおかげかどうかは証明できませんが」
「祈りに、そこまでの力はないでしょう」
「結界の安定が民の生活を支え、民の安定が私の国の礎になる。あなたが守っているのは、そういうものですよ」
私は、花壇の白い花を見た。
守られている。この国に来てから、初めてそれを感じた。自分の祈りが圧縮されず、歪められず、正しく届いている感覚。それがこんなにも心地よいとは、三年前の私は知らなかった。
「ディルク」と私は言った。
「はい」
「あなたは前に言いましたね。今度はあなたの祈りを守ると」
「覚えていてくださいましたか」
「覚えています」
私は視線を花から彼へ向けた。
「守られるより、隣に立ちたいのです」
ディルクが、私を見た。
何かを言おうとして——珍しく、言葉に詰まった。この三年で初めて見る表情だっ
た。
「……それは」と、少し間を置いてから彼は言った。「受け取っていいですか」
「どうぞ」と私は答えた。
夕暮れの空が、少しずつ暗くなっていく。
エルディアの夜空は、今夜も星が多いだろう。私はそれを、ここで見る。鎖も、焼き鏝も、罵声も、ここにはない。
疲れてはいない。消耗してもいない。
私はただ、生きている。
自分が選んだ場所で、自分が選んだ人の隣で。
それで充分だと、今の私は思う。
それ以上を望むのは——もう少し先の話でいい。
エピローグ
ヴァルシア王国を覆っていた聖なる結界が消失してから、半年が過ぎた。
かつて「聖華の都」と称えられた王都は、いまや見る影もない。空は常にどんよりとした灰色の雲に覆われ、浄化の失われた大地からは、どろりとした瘴気が立ち上っている。
街角では、慣れない「魔物避けの香」を焚く煙が絶えず、人々の顔からは生気が失われていた。
「……ひどいものですね」
王都の裏路地、泥にまみれた石畳を歩きながら、フードを深く被った男——ディルクが低く呟いた。
その後ろで、同じく顔を隠したアルシエラが静かに頷く。
隣国エルディア連邦の全面協力のもと、二人は密かに国境を越え、かつての母国へと足を踏み入れていた。
王太子レオンハルトがエルディアにまで押しかけてきたあの日から、ヴァルシアの崩壊は加速した。新聖女ミレイユは、膨大に膨れ上がる結界の維持費(神力)に耐えきれず、三ヶ月前に廃人同然となって倒れたと聞く。いまや王宮は、他国への泣きつきと、国内の暴動鎮圧に追われ、監視の目はざるのようだった。
二人が目指したのは、王都の外れにある古びた別邸。
アルシエラの母・エレーナが、娘の「処刑(という名の中放逐)」のあと、反逆者の身内として軟禁されている場所だ。
庭園の木々は枯れ果て、崩れかけた門を抜ける。
窓から漏れる細い灯りを頼りに、アルシエラは震える手で扉を押し開けた。
「……母様?」
部屋の隅で、古い手桶を抱えて座っていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
やつれてはいるが、その瞳にはまだ、あの日広場で叫んだ時と同じ、強い意志の光が宿っている。
「……ああ、アルシエラ。夢を見ているのかしら。それとも、お迎えが来たの?」
「いいえ、母様。迎えに来たのは、私です」
アルシエラがフードを外すと、白銀の髪が月光に透けた。
母の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「生きて……生きていてくれたのね。どこにいるのかも分からず、毎日、神様ではなくあなたの無事だけを祈っていたわ……」
「ごめんなさい、遅くなって。……ここはもう、長くありません。一緒に行きましょう」
再会を喜ぶ時間は、一刻もなかった。
ディルクが外の様子を伺いながら、短く促す。
「アルシエラ、追手が来る前に。——エレーナ様、これをお飲みください。体力を回復させる薬です」
エレーナは震える足で立ち上がり、娘の手をしっかりと握りしめた。
アルシエラは、去り際にもう一度だけ、窓の外に見える王宮を振り返った。
かつて自分が命を削って守った場所。
今、そこにあるのは、自業自得という名の静かな破滅だけだ。
祈りを捧げる対象は、もうここには何一つ残っていない。
数日後。
エルディア連邦の国境を越え、陽光あふれる草原に辿り着いた時、エレーナは生まれて初めて見る「本物の春」に目を細めた。
「空が……あんなに青いのね。アルシエラ」
「ええ。これからは、誰かのために祈らなくていい。ただ、自分の幸せのために笑っていい場所です」
ディルクが、少し先で待っている。彼の横には、新しい生活のための馬車が用意されていた。
背後で滅びゆく王国は、もう遠い霧の向こうだ。
アルシエラは母の手を引き、光の中へと一歩を踏み出した。
そこには、数字でも祈りでも測れない、ただ穏やかで確かな、本当の幸福が待っていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「処刑寸前で聖女を剥奪されましたが、祈りを止めたのはあなた達ですよ?」、いかがでしたか?
スカッとした!と少しでも思っていただけたなら、
評価(下の方にある☆☆☆☆☆)や感想で教えていただけると、本当に飛び上がって喜びます。
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております^^




