第四章『雨が止むころ』②
コンビニの隅にある、狭いイートインコーナー。
澪奈は、硬いプラスチックの椅子に腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めていた。
窓ガラスに反射した細長いテーブルには、無機質な椅子の影が規則正しく並んでいる。
雨は、いつの間にか止んでいた。
「……ちょっとは落ち着いたか?」
「はい、これ。酔い覚まし」
颯真はそう言いながら
今買ってきたばかりのホットコーヒーと
ミネラルウォーターをテーブルに置いた。
カップから立ちのぼる薄い湯気を見つめて、澪奈はようやく、自分の足が地についている感覚を取り戻した。
「……ありがとうございます」
「……さっきは、取り乱してしまって…ごめんなさい」
「全然、気にすることないよ。
けど、ふらふら歩いてる澪奈みつけて、
声かけようとしたらいきなり車道に出ようとするから、
ほんと焦った」
颯真はふっと笑い、澪奈の隣に腰を下ろした。
「……何かあった? 僕でよかったら話聞くよ」
澪奈は手元のコーヒーカップを両手で包み込んだ。
冷えた指先はまだかすかに震えている。
黒い液体の表面に、自分の頼りない顔が映っていた。
「なんか……もう、何もかもが嫌になってしまって…」
「前向きにならなきゃってわかってるんですけど、
どうしてもそれができなくて…」
颯真はなんとなく、察したように答えた。
「生きてたらそう思ってしまう時もあるよな。」
颯真はそう言って、自分のコーヒーを一口すすった。
ズズッ、という小さな啜り音が、静かな店内に妙にリアルに響く。
「前向きになれないときってさ……無理に立ち上がらなくていいと思うよ」
「え……?」
「無理に笑おうとするから、余計に苦しくなるんだと思う……
今、何か無理してること、ある?」
澪奈は一瞬、言葉に詰まった。
外を通り過ぎる車のヘッドライトが、白く長い光となって窓ガラスをなぞり、二人の間を通り過ぎていった。
その光が消え、再び元の薄暗さが戻ったとき、澪奈は消え入りそうな声で答えた。
「……仕事…ですかね」
「辞めたいのに辞められない状態なんです...」
「そうなんだね。…うーん…
色んな事情があるだろうし、僕は同じ立場ではないから偉そうには言えないけど…」
颯真は腕を組み、視線を天井の隅へ泳がせた。何か遠い記憶をたどるような目だった。
「人は誰も、環境と運命の設計者である―」
颯真はポツリと呟いた。
「えっ……?」
澪奈が聞き返すと、颯真はハッとして腕組みを崩しながら答えた。
「現実を変えたかったら、まずは強い意志を持て。って、ばあちゃんにはよく言われてたな…。
どこに向かいたいのかを明確にしてから行動することで、現実を望む方向へ動かしていけるんだ。って。」
颯真はそう言って、再び冷めかけたコーヒーを口に含んだ。
「強い意志…ですか?」
「そう。人生は大海原で航海するようなもんで、向かう場所が決まってないのに、ただがむしゃらに漕いでたら、そりゃあ荒波にのまれて誰だって疲弊する。
……今がつらいなら、まずは『どこへ行きたいか』をはっきりさせなきゃいけない。僕も進路でフラフラしてたとき、そうやって一喝されたよ」
澪奈は、コーヒーカップに視線を落としながら呟いた。
「向かいたい...場所...」
カップから立ちのぼっていた湯気は、いつの間にか薄くなっている。
「なんでも叶うとしたら、澪奈は、どうなりたい?」
(なんでも…叶う…?)
(そんなわけない…)
澪奈はその言葉を聞いて、反射的にそう感じていた。
その問いかけに、何度も願ってきた記憶が静かによみがえる。
(お母さんに怒られませんように)
(今日は認めてくれますように)
何度も願っては残酷な現実を目の当たりにしてきた。
澪奈はコーヒーを一口飲んで、ふぅっとため息混じりの息を吐きながら、考えた。
自動ドアが開き、チャイムの音が店内に響く。冷たい夜の空気が一瞬だけ入り込み、澪奈の頬を撫でた。
(だけど…
なんでも叶うとしたら、私は…どうなりたいんだろう…?
どこに…向かいたいんだろう…)
一呼吸置いた後、澪奈は静かに呟いた。
「どうなりたいとか、確かに、今まで考えたこともなかったです…。ただ、今を生きることにいっぱいいっぱいで……」
「でも…ホントになんでも叶うとしたら、我慢しなくていい場所で、自分らしく働きたい。ちゃんと一人の人間として、認めてもらえる場所で働きたいです」
「……いいと思う。我慢するために生まれてくる人なんていない。その願いは、きっと正しいよ」
颯真は優しく、けれど断定するように言った。
ふいに、窓の外の街灯がまたたき、濡れたアスファルトが宝石のようにきらめいた。
「あ、あと、よく言われてたのは…… 」
思い出したように颯真は言葉を付け足した。
「いい結果に狙いを定めても、思いがネガティブだと叶わない。思いという種の全てが、同種のものを生み出すんだ。とかなんとか言ってたかな……」
澪奈は、どういう意味だろう?と首を傾げた。
「まぁなんかよくわかんないけどさ、いい結果を得たいなら、ネガティブなことに囚われるなってことだと僕は思う」
そう言って颯真はくしゃっと笑った。
「なるほど……
確かに私、自分なんて…
ってずっと、マイナスにばっかり囚われていたかもしれないです…」
澪奈は呟き、純粋な疑問を投げた。
「けど…どうやってネガティブな気持ちにとらわれないようにしたらいいですか…?」
「毎日、ラッキーなことや感謝できることを探したり、
自分をほめて好きになることから始めるといいと思うよ。
不満や恐れで心を満たしているとさ、環境も全部その色に染まっちゃうから。頑張ってるつもりでも、マイナスの重りに引っ張られて、空回りしちゃうんだよ」
颯真は澪奈の目をまっすぐに見つめた。
「けど、澪奈の『ここじゃない』っていう直感は、絶対に間違ってない。もっとふさわしい場所が、きっとある。自分の感覚を信じて。」
「……はい」
澪奈は、彼の言葉を飲み込むように、ゆっくりと残りのコーヒーを啜った。
冷めて苦味の増した液体が喉を通るたび、胸の奥のドロドロとした塊が、少しずつ形を崩していくのがわかった。
カップの底を見つめながら、澪奈は小さく息を吐いた。
「……私、自分のことが嫌いで嫌いで……
もう、良くすること事態、諦めてたのかも…
けど…確かにそうですよね。悪いことに囚われすぎてしまってたって気づきました。」
澪奈は、空になったカップをテーブルに置いた。
窓の向こう、雨に濡れた街は、さっきよりもずっと静かで、どこか清らかなものに見えた。
「先輩の言葉聞けて、本当に楽になりました」
「そっか、よかった。」
「……雨、完全に止みましたね」
「そうだな」
二人はしばらく、止まった空気の中で窓の外を見ていた。
けれど、もうそこには重苦しさはなかった。
ただ、夜が明けるのを待つような、静かな時間が流れていた。




