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第四章 『雨が止むころ』①

三月⸻


商店街は閑散としていて、人影もまばらだった。

十人ほど座れるバーの店内はガランとし、静まり返っている。


いつのまにか、澪奈は一人でバーを任されていた。


トイレ掃除をし、テーブルを拭き、スーパーで買ってきたつきだしを皿に並べる。

店頭に立ち、声を張らない客引きをする。


「売り上げが前月の半分だ。

このままじゃ家賃も出ない。


チャージ料を上げろ。


もっと客を呼んでこい」


「……はい」


「あ、そうだ。別の店にも応援に行ってくれない?」


「……はい」


返事をする声は、もう自分のものじゃないみたいだった。

気づけば、考える前に頷く癖がついていた。




手伝いに行った先のスナック


「おっ、今日若い子いるじゃん!」


「なになに〜新人さん?なんて名前?」


「瞳です」


澪奈は夜の店では、瞳という源氏名を名乗っていた。


「瞳ちゃーん! 一緒にカラオケ歌おう〜」


三十歳も年の離れた男と、古い曲を一緒に歌う。

マイクは、誰のものか分からない甘ったるい匂いがした。


不意に腰に手を回され、作り笑いがひきつった。


苦痛の時間をやり過ごし、ガランとしたバーへ戻る。

服に残る匂いが、なかなか消えなかった。



私は……いったい、ここで何をしているんだろう。


誰かのいいなりになるのが嫌で家を出たのに、

これじゃ結局何も変わってない……。




誰もいない店内で、携帯が鳴った。


「はい」


「瞳ちゃん、店の手伝い、どうだった〜?」


社長の声。

居酒屋にいるようで、後ろはガヤガヤと騒がしい。


「もう……行きたくないです……

触られたりするのは嫌で……」


「そんなさぁ、減るもんでもないんだからさぁ〜

頼むよ〜。ママもまたお願いねって言ってたし」


「……はい」


「じゃあ来週もよろしくね。

今日は人通りもないからもう上がっていいよ。お疲れ」


そう言って電話は切れた。


澪奈は無音になった携帯電話を見つめながら、

頭の中で呟いていた。


(もうこの仕事は辞めたい……でも……)


(家も携帯も、社長名義だもんな……)



そして、手に持っていた携帯電話の発信履歴から、

咲良の名前を押して、電話をかけた。


中学を卒業した今も、

心が壊れそうになると、

澪奈は決まって咲良を呼び出していた。


そのたびに咲良は会いにきて、

一緒に店に立ち、付き合ってくれていた。


コール音が鳴る。

一拍、息を止める。


「……はい」


五度目のコールで、咲良は電話に出た。


「咲良、今から来れる?

一人はもう……限界でさ」


「ごめん……お父さんに怒られるから、もう行けない……」


「なにそれ……私のこと、裏切るつもり?」


「……ごめん」


プッ……プープー。


通話は、あっけなく切れた。


澪奈は何度も掛け直すが、咲良は出ない。


「あいつ……まじで、なんなの」


携帯を握りしめ、一瞬だけ迷ってから、

澪奈はそれを壁に投げつけた。


(守られてる人は、いいよな……)




バーの奥で、冷蔵庫のモーター音が低く唸っている。


澪奈は一人きりのバーのカウンターで、

グラスに口をつけた。



(子どもを愛していない親はいない)


いつか誰かが、そんなことを言ってたっけ


(嘘だね……)


仮に、ほんのわずかな愛情があったとしても、

伝えられなければ、それは無いのと同じだ。




数時間がたち……

ふいに、胸の奥から黒い感情が溢れ出す。



(もう……疲れた)



頭の中が、静かに遠のいていく。


バーの鍵を閉め、外に出ると、雨が降っていた。

細かい雨が、街灯の光をにじませている。


アスファルトに跳ね返る水音が、耳の奥でくぐもった。



商店街を抜けた先の大きな交差点は

信号が赤に変わったところだった。


白い線が、水に滲んで揺れている。

澪奈は傘も持たず、ふらふらと車道に近づいていく。


車の音が近づいてくる。

濡れた道路を走る、タイヤの音。


雨の冷たさも、頬を打つ感覚も、はっきりしない。



一歩……

二歩……



車が行き交う道路へ、足を踏み出す。



一瞬、誰かに呼ばれた気がした。


けれど、音は、澪奈の世界からすでに消えていた。



⸻もう……自分なんて……

   どうなってもいい。



三歩目を、踏み出した次の瞬間


「危ない!!」


突然、強い力で後ろに腕を引っぱられ、

誰かに背中がぶつかった。



耳を裂くようなクラクション。


目の前スレスレを、大きなトラックが水しぶきを上げて通り過ぎていく。


遅れて、心臓の音だけが響いた。

ゆっくりと、引っ張られた方を振り返る。


雨に滲んだ視界の向こうで、

澪奈は颯真の顔をとらえた。


「……せん、ぱい……」


声は、雨音に溶けて消えた。


「お前、何やってんだよ!!」


澪奈はビクッとして、咄嗟に

「ごめんなさい……」と掠れた声をもらした。


そして、ハッと我に返り、


唇を噛んだ後、潰れそうな声で叫んだ。


「……ほっといてよ!!

生きてたって何にもいいことなんてないんだから!」


澪奈は潤んだ目を見られないように顔を伏せた。


「うわっ、酒くせぇ……」


颯真は顔をしかめたまま、手を離さなかった。


濡れて、冷たいはずのその手は、

澪奈にとっては暖かすぎて、少し怖かった。



颯真の後ろには傘がひっくり返り、

掴まれていない手首にはコンビニの袋がぶら下がっている。



「何があったか知らねぇけど……

もっと自分を大事にしろよ」



「知らない!

自分なんて……大嫌いなの!


もう存在もしていたくない!


だから、ほっといてよ!!」


精一杯の声を振り絞っても、その声は震えていた。


掴まれた腕を振り解こうと、必死にもがく。

だが、びくともしない。


足元がふらつき、うまく力が入らない。


「ほっとけられるわけねぇだろ!」


ぐっと強く引き寄せられ、

体が前に傾いた、その瞬間⸻


気づいたときには、

澪奈は颯真の胸に抱きしめられていた。


雨に濡れた服越しに、心臓の音が伝わってくる。

早くて、乱れていて、

それが自分のものなのか、彼のものなのかもわからない。


逃げたいのに、

その腕の中から、動けなかった。


「澪奈。そんなこと言うなって……

生きててよかったって言えるまで、生きてみろよ……」


その温もりに、張り詰めていた緊張が解けていく。


溜まっていた感情が一気に溢れ出し、

澪奈は颯真の腕の中で、

「ひっ、く……うぅ……」と、声を漏らした。


大粒の涙が溢れ出ては、雨と一緒に流れ落ちていく。


颯真の温もりだけが、

確かなものとして、そこにあった⸻

第四章 『雨が止むころ』②へ続く

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