第三章 『名を呼ばれる朝』②
第三章 『名を呼ばれる朝』① 〜の続き
視線をどこに置いていいのかわからず、澪奈は動揺を悟られないよう、前の椅子の背もたれへそっと視線を逸らした。
バスがゆるやかなカーブを描き、町を抜けていく。
少しの沈黙のあと、颯真がぽつりと尋ねた。
「三谷さんの下の名前、なんていうの?」
意外そうに顔を向けて、澪奈は小さく答えた。
「……澪奈、です」
「澪奈。いい名前だね」
その響きを確かめるように、ゆっくりと言う。
颯真は長い足を組み、前を向いたまま続けた。
「よく、うちのおじいちゃんに
親しくなりたい人を見つけたら、下の名前で呼びなさい、って言われてたんだ。
上の名前は社会の中での呼び名で、下の名前はその人自身の響きだから、仲良くなりたいときは下の名前で呼ぶのがいいんだって。もう亡くなってるんだけど、聖職者をやってた。」
「聖職者……?
先輩のおじいちゃん、宗教の人だったんですか?」
「そう。おじいちゃんもおばあちゃんもね。
ふとしたときに教えてもらったことを思い出すんだ」
「そうなんですね……。
私のお母さんも宗教をやってるけど、私は神様とか、見たことのないものは信じられなくて。宗教も、あまり興味が湧かないんです」
「そっか…僕も、はじめはそうだったよ」
「神様って響きに違和感を感じるならさ、
“宇宙”って言い換えたほうが、もしかしたらみんなが受け入れやすいのかもしれないね
神様がいる、というよりは……“在る”のほうが、僕はしっくりくるな
宇宙があることは信じられるのに、神様があることは信じられない、っていうのも不思議だから。」
颯真は静かに微笑んで、続けた。
「僕も聖職者になれって言われてたんだけど、それだけに縛られるのが嫌で断ったんだよね…
宗教は否定はしないけど、僕はこの世界にはもっと大きな“宇宙の法則”があると思ってるんだ。
だから今は、科学のほうを本格的に学びたいと思ってる。
そしたら大学の費用は自分で稼げって言われてさ。
働きながら学費を貯めるために、通信高校を選んだんだよね」
そして、思い出したように、声を落として言った。
「聖書にね、
“わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの”
って言葉があるんだ」
柔らかく、どこか祈るような声だった。
「“わたしのもの”って、所有するって意味じゃなくて──
“あなたは、わたしにとって大切な存在になった”
っていうことらしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、澪奈の胸の奥が、かすかに軋んだ。
——下の名前を呼ばれた記憶が、ほとんどない。
いつも“おい!”とか、“お前”だった。
だからだろうか。
その言葉が、やけにまぶしく聞こえた。
「……なんだか、深いですね」
澪奈はそう答えながら、胸の奥がわずかにざわつくのを感じていた。
澪奈は一瞬黙って考えた後、会話が途切れてしまわないように話を続けた。
「聖書、図書館で見つけて読んでみたけど、私にはちんぷんかんぷんでした。
正直、神様って、許せないことが多すぎるって思ってしまって……
これをしなさい、こうしなければ、って。
強制されている感じがして、途中で読むのをやめちゃいました」
「あれはね、たとえ話や比喩が使われていて、
ちゃんと伝承を受けないとわからないように書かれてる本らしいよ。
だからちんぷんかんぷんなのは自然なことだよ」
颯真は肩をすくめる。
「その道を極めた人が、聖書の真実を伝えるために
みことば(御言葉)を伝え広めているんだ、って。
よく聞かされてた」
少し間を置いて、続ける。
「僕は聖書の御言葉に詳しいわけじゃないけど、
神様っていう存在がいなかったら、この世界は説明がつかないことが多すぎるって、昔から思ってる。
人の身体とか、自然の摂理とか。
偶然にしては、できすぎてるって思わない?」
澪奈は、返事をしようとして言葉を探し、結局なにも言えなかった。
「だから、信じるか信じないか以前に、
もともと僕たちは“ひとつ”なんだってことを伝えてるんじゃないかな、って思うんだ」
颯真は少し照れたように言う。
「創世記にね、
“神は人をご自身のかたちとして創造された”
ってあるんだけど、
それってさ、
私の中にあなたがいて、あなたの中にも、私がいる。
そういうことなんじゃないかなって……」
澪奈は、静かに復唱した。
「……私の中に神様がいて、神様の中に、私がいる...?」
「うん。感覚的にだけどね」
颯真は澪奈のほうを見て、まっすぐ言った。
「そう考えたら、神様を信じる前に、まず自分を信じることのほうが大切な気がするんだ」
「自分を信じる……」
澪奈は小さくつぶやいた。
「私は、まだそれが、全然わからないかもしれないです……」
次は、戸塚高校前──戸塚高校前──
バスのアナウンスが流れ、澪奈ははっとして窓側の降車ボタンを押した。
「……先輩の下の名前、聞いてもいいですか?」
「僕は颯真。
そうまって呼んでくれる?」
「先輩に呼び捨ては、まだできそうにないです」
澪奈は焦りながら、はにかんだ。
「はは。そっか。
急に名前で呼んでって、距離感バグってるよね」
そう言って、颯真はくしゃっと無邪気に笑った。
バスが目的地に着き、二人は並んで降りる。
校舎へ向かって歩き出したとき、颯真がふいに言った。
「澪奈。
今日は会えてよかった。また話そうな」
その呼び方に、胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
「……はい」
澪奈は動揺を隠すように、微笑んだ。
バスの窓に映った自分の顔が、
さっきよりも、ほんの少しだけやわらかく見えた。
──自分の名前を、まっすぐ呼ばれる感覚。
それが、こんなにもあたたかいものだったなんて。
ほんの少しの会話。
けれど澪奈の心には、確かに小さな光が差し込んでいた。




