第三章 『名を呼ばれる朝』①
中学を卒業した春──
澪奈の心は、家庭という環境から、静かに離れ始めていた。
日曜日だけ登校する通信制高校に通い始め、平日はバイトを掛け持ちする生活。
給料日になるたび、店長からもらった封筒を、そのまま母の前に置いた。
中身を確かめることもなく、道代は受け取った。
それが、当たり前のことだと思っていた。
稼げるようになったら、そうするものなのだと。
数ヶ月が経った頃、澪奈は決意して口を開いた。
「……家を出たい」
自分の意思を母に伝えることができたのは、それが初めてだった。
道代は目も合わせず、吐き捨てるように言った。
「勝手に出ていけ。金は一銭も出さん。保証人にもならん」
(あれだけ出ていけって言ってたのに……
この人は、私がどうなれば満足なんだろう……)
家族分の食事を作って、そうじも洗濯も、
全部、私だけの仕事。
どれだけ一生懸命尽くしても、笑顔ひとつ、
この十六年間、自分に向けられたことはなかった。
だからその言葉を聞いても、
澪奈の中で何かが変わるということもなく、
ただ報告をしただけにすぎなかった。
「出ていけ」
と言われ続けてきたその言葉だけが、
澪奈の中で、正しさとして残り続けていた。
⸻
そんなある日のこと──
バイト先のたこ焼き屋の社長が、めずらしく現場に顔を出し、声をかけてきた。
「バーもやってるんやけど、人が足りないんよ〜。
三谷さん、手伝ってくれない?」
澪奈は一瞬ためらいながらも、
住む家と携帯の保証人になってもらえるなら……と提案した。
そうして数週間後、
アパートの鍵と携帯電話を受け取り、
ようやく家を出ることができたのだった。
だが、現実は想像よりもずっと厳しかった。
夜の街で客に笑いかけ、売り上げのために酒を飲む。
夜から朝方までの生活。
光熱費、食費、洋服代、教材費。
そして、学校に提出しなければいけない山のような課題。すべてが重く、肩にのしかかる。
それでも、後悔はなかった。
──あの家にいるよりは、まだマシだ。
※
家を出て、八ヶ月が経ち、
澪奈は十七歳になっていた。
日曜の朝。
三畳半のアパートで、澪奈は夢を見ていた。
「お前なんて、何やってもできない!」
「早く出ていけ!」
母の声。
「客を連れて来い!」
「こんな売り上げじゃ足りない!」
社長の声。
暗闇の中で、それらは黒い影となって追いかけてくる。
逃げても、逃げても。
――ここから出して。
どこに行っても、ただつらいだけなの?
誰か……助けて。
そのとき、一筋の光が差した。
まばゆい光の中から、
どこか懐かしい人影が、澪奈に向かって
そっと手を差し出す。
おいで。
見えなくても、出口はいつだって
君のすぐそばにあるからね。
温かな感触に包まれ、澪奈はその手を取った。
ピピピピ。
ピピピピ。
アラームの音で目が覚めた。
頬が濡れている。
枕の端まで、涙がじんわりと染みていた。
天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……不思議な目覚め……」
そう呟いて、アラームを止める。
まだ、手に温もりが残っている気がした。
古びたアパートの室内。
年期の入った畳の部屋は、
小さなこたつと布団、教材の束で埋まっていた。
時計を見ると、登校時間ギリギリだった。
「……やばい!!
バスが来ちゃう!! 遅刻する!」
慌ててリュックに教材を詰め込み、コートを羽織る。
髪もとかさず部屋の扉を開け、
薄暗い階段を勢いよく駆け下りた。
外に繋がる一階の重い扉を開けると、
二月の冷たい風が一気に頬を冷やす。
「……さむっ!!」
澪奈は思わず、コートの襟に頬をすぼめた。
薄いコートの下は、薄手のトレーナーにジーンズ。
寒さが身に染みる。
散歩中の老人の横を全速力で走り抜け、
横断歩道で息を切らしながら、信号が変わるのを待った。
向かいのバス停には、
ちょうどバスが到着するところだった。
信号が変わり、なんとかバスに滑り込む。
日曜の朝は、ゆっくりと動いている様子で、
息を切らしている人は澪奈くらいだった。
バスに間に合ったことに安堵しながら、
澪奈は一番後ろの窓際に腰を下ろす。
今朝までバーで働き、
帰ってきて眠れたのは三時間ほどだった。
朝から疲れた……
荒れた息を整えながら、窓の外を眺める。
車が行き交うたびに、
落ち葉が風に舞って、彷徨っていた。
公園では子どもたちが追いかけっこをし、
女性が犬を散歩させている。
カフェの看板が開店準備を始め、
商店街のシャッターが、ゆっくりと上がる。
外に流れていく景色は、
どこか遠い場所のもののようだった。
ビー。
三つ目の停留所。
バスが停車し、老夫婦が降りていった。
そのすぐ後に、ひとりの男性が乗ってきた。
明るい茶色の髪。
ラフなパーカー。
背の高いシルエット。
(あ、あの人……知ってる)
通信制高校の一年から四年の合同体育で、
一度だけチームを組んだ、名前だけ知っている相手。
けれど──どことなく、忘れられなかった横顔。
目が合う。
「……神崎先輩?」
彼は驚いたように目を見開き、ふっと笑った。
「おぉ、三谷さん。偶然だな」
そう言って、当たり前のように
澪奈の隣に腰を下ろした。
思いがけない展開に、澪奈は少し緊張しながらも口を開く。
「覚えていてくれたんですね」
「もちろん。前にチーム組んだとき、
転ぶほど必死だったから、印象に残ってて……」
そう言って、颯真は屈託なく笑った。
その笑顔はどこかあたたかく、
見ているだけで、安心できる気がした。
「えっ、つまずいたの見られてたんですか……
恥ずかしい」
照れくさそうに言いながら颯真の顔を見ると、
まっすぐにこちらを見つめていた。
その瞳は優しさで満ちていて、
温かい春の日差しのように柔らかかった。
トクン……
澪奈は、冷え切った心が、
一瞬だけ熱を帯びたのを感じた。
第三章 ②へ続く




