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第一章 『祈りの届かない家』

──魂はね、

経験することを望んでいるんだよ。


経験なくして、自分の本当の望みには気づけないから。

欲望は、ハメをはずせば悪にもなる。

けれど、自分の行きたい場所へ導く光にもなる。

どうか──あなたは光のほうへ。


やわらかな声が、海の底で生まれた気泡のように、そっと耳の奥へ届いた。


誰の声かもわからない。だけど、どこか懐かしい。


「……誰……?」


     *


第一章 『祈りの届かない家』


耳鳴りの中で、現実の音がゆっくりと戻ってくる。

ぼやけた視界の中、怒鳴り声が突き刺さった。


「お前なんて──産まなければよかった!」


母・道代のその声で、澪奈は一瞬、意識を手放していたことに気がついた。


その直後、ほうきの柄が振り下ろされる。


やめて──!


鈍い衝撃が頭蓋に響き、視界がぐらりと揺れた。


道代は何事もなかったようにタバコへ火をつける。

紫煙がゆっくり立ちのぼり、古びた天井へ吸い込まれていった。


そこにあったのは、感情をなくした他人のような

──空っぽの大人の横顔。


その人の手で、心の奥の色がひとつずつ消されていく気がした。


(私だって……産まれなければよかった)

何度そう思ったか。勝手に産んでおいて──。


島の北側は、泣き声さえどこにも届かない。

潮風に焼けた壁、軋む木戸、鼠の足音。

夜はただ、港のボートの揺れる音だけが澪奈を慰めた。


八歳の澪奈は、雑巾で古い床を必死にこすっていた。

節目に入り込んだ黒ずみはびくともしない。

冷たい水で指先の感覚が失われ、腫れた手がじんじんと疼く。


「何も綺麗になってない。お前にやるメシはないからな。」


その一言で、身体がびくりと縮こまる。

止めればもっと酷いことになる──それを知っていた。


(どうすれば許されるの……?)

(私が悪い子だからいけないの……?)


(だったら私は、どうして、生まれてきたんだろう……)


その疑問が浮かぶことさえ、悪いことのように思えた。


澪奈には、歳の離れた兄が二人と、年子の兄・隼人がいる。

兄たちはお菓子を食べ、テレビの前で笑っていた。

けれど、澪奈だけが何も許されなかった。


父は「出張」で家にいない。

たまに帰ってきた時に見せる、後ろめたそうなはにかんだ笑顔だけが澪奈にとっては唯一の救いだった。

けれど、そのわずかな温もりもすぐに、両親の口論の怒号にかき消された。


道代が澪奈にむかって怒鳴るのは、決まって父がいないとき。


「布団で寝るな! お前にはそんな資格はない!」


叱責が響くたび、澪奈は洗面所の冷たい床で膝を抱えうずくまって眠った。


この家はどこにいても息がつまる。

私の居場所なんてどこにもない──



ある日のこと──

16時の門限に数分遅れただけで、道代の指が無言で澪奈の腕を掴んだ。


「遅い。約束くらい守れ。」


仏壇の前にある火のついた蝋燭を手に取り、

道代は淡々と澪奈の腕を固定した。


「いやだ……‼︎」


ぽたり──

熱いロウが落ち、皮膚の上で小さくはじける。


じゅっ。


「熱い!やめて……!もう遅れんから!!」


「まず、ごめんなさいやろうが!」


「ごめんなさい……ごめんなさい‼︎」


叫んでも、道代の表情は動かない。

それはもう“罰を与える人間”ではなく、“心のない機械”のようだった。


腕の赤い痕が、ひりひりと熱を帯びていく。


(……ほんの少し遅れただけなのに)


その火傷は、澪奈の心にも静かに刻まれた。


隼人がぽつりと疑問を投げかけた。


「なんで澪奈にだけそんな厳しいん?

 おかんも昔、そんなことされよったん?」


短い沈黙。


道代はタバコを灰皿に押しつけた。


「いや、別に……うちは普通やった。あんたは黙っとき」


灰皿の煙の向こうで、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。

思い出しかけた何かが、すぐに固く閉ざされる。


隼人はそれ以上言わなかった。

小さな横顔には、ゆっくりと諦めの色が滲んでいた。



道代は機嫌が悪くなると、決まって言った。


「言うことが聞けないなら出て行け! お前なんか、いらんのや」


怒鳴る日もあれば、ため息のように吐き捨てる日もあった。


夜、家が静まり返った台所の隅で澪奈は膝を抱える。

壊れたおもちゃみたいに「出て行け」が頭の中で繰り返される。


そのとき胸の奥に落ちた冷たさは、涙より重かった。

だんだん、何もかもが嫌になっていく。


澪奈は立ち上がり、包丁を手に取った。


──もう疲れた。


お母さんを殺してしまおうか。


けれど、この包丁に切れ味がないことを澪奈はよく知っていた。何度か自分の手首で試していたから。


指が震える。胸の奥で黒い波がざわついた。


──あの人を殺せば、楽になれる。


そう思った瞬間、頭の奥にふっと言葉が浮かんだ。


──その道の先に、光はない。


海の底で生まれた気泡のような声がよみがえる。

懐かしいのに、知らない声。

でも──どこか自分に似ていた。


──憎しみからは何も生まれない。

  あなたは行きたい場所にいける。

  どうか、光のほうへ。


包丁を握る手から力が抜けた。


刃は床に触れる前に、澪奈の指の間からそっと滑り落ちた。


(……今のは……なんだったんだろう)


涙が勝手に流れては落ちていく。

言葉にできない感覚に、少しだけ救われた気がした。



(この家を出ていこう。私はここにはいちゃいけない)


それは反抗ではなく──“居場所を諦める決意”だった。



朝になると、道代は仏壇の前でぶつぶつと何かを唱えていた。

隼人と澪奈は隣の部屋で小さくボールを蹴り合う。

祈り声とボールの音が、妙なリズムで混ざった。


「……あれさ、宗教っていうらしいで」


隼人はボールを蹴りながら、小さくそう呟いた。


「宗教…?神様って……おるん?」


澪奈は首を傾げるそぶりをみせた。


「さあな。でも“信じる者だけ救う”神様なんて、なんか変やろ」


隼人はそう言いながら、溜まった不満を蹴散らすかのように勢いよくボールを蹴った。


そのボールは澪奈の股の下をすり抜け、壁に当たって隼人の元に返っていった。


(神様なんて…)


私は信じてないからいつも辛いんかな...


澪奈は、心の声が実際の声になってしまわないように、何も思っていないような顔をして次のボールを待っていた。


神様がいるなら...もっと温もりを感じられる場所へ私を連れて行ってほしい...


そんなことは叶わないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。



その夜、澪奈は母から隠れるように、隼人の部屋の押し入れに布団を持ち込んだ。



いつもの冷たい床ではないことに、罪悪感のようなものを感じながら横になった。


狭くて暗いその空間が自分だけを守ってくれるような気がして、安心した。



澪奈はそっと目を閉じる。


(お母さんは……何から救われたいんだろう…)


(信じとったら、いつか救われるんかな……)


答えは、きっと聞けない。



遠くで聞こえるボートの軋む音。

海辺のさざ波の音が、誰の声よりも優しく澪奈の耳に微かに響く。


澪奈の心には、静かに決意が芽生えていた。


(早く大人になって、この家からでていくんだ。

誰にも怒られない自由がほしい…)



(それで...私を私として認めてくれる誰かに…

いつか愛されたいな…)



声にはできなかった小さな願いが、静かな海へゆっくりと溶けていく。



それが「祈り」なのだということは

そのときの澪奈は、まだ知らなかった──


最初は心理的に重いかもしれませんが、希望や光を感じとってもらえる作品にしたいと思っています^_^

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