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Moon Vail

作者: 山吹 ことり
掲載日:2026/06/18

 病院の朝は、早い。


 廊下には消毒液の匂いが薄く残り、

 ナースステーションの奥で、短い声が行き交っていた。


 白衣の袖。

 足音。

 どこかで鳴る、呼び出しの音。


 その奥にある検査室だけは、

 少しだけ夜に近い。


 検査室の照明は落とされている。

 モニターだけが、静かに光っていた。


 朔は装置を立ち上げ、条件を確認する。

 ゲイン、深度、フォーカス。

 指は迷いなく動き、画面の像が整っていく。


 患者には、必要なことだけを伝える。

 声は低く、短い。

 感情を含める理由はない。


 プローブを当てる。

 皮膚越しに、わずかな体温が伝わる。

 画面の中では、白と黒がゆっくりと流れていた。


 午前の検査は、予定どおりに進んだ。

 予約表の上から順に、空欄を埋めていく。


 朔は同じ動作を繰り返す。

 説明は短く、声量は一定。

 プローブを当て、像を追い、必要な断面を保存する。

 数値に迷いはなく、再撮は要らない。


 時計を見る。

 遅れはない。

 次の患者までの数分で、装置を一度落とす。


 昼休憩。

 白衣を脱ぎ、ポケットの中身を入れ替える。

 自販機の前で、迷わず同じ飲み物を選ぶ。


 椅子に腰を下ろし、キャップを回す。

 喉を通る感覚だけが、午前と午後を分けていた。


 今日は、このあと夜勤が入っている。

 休むための時間だと、頭では分かっている。

 それでも、完全には切り替えない。


 午後も、夜も、

 同じ部屋で、同じ画面を見る。


 廊下の向こうで、看護師の声がする。

 指示の確認、呼びかけ、短いやり取り。

 内容までは意識に入らない。

 音としては聞こえているが、意味は拾わない。


 朔の前には、やるべき順番が並んでいる。

 画面に表示された項目を、上から処理していくだけだ。

 決められた操作。

 決められた時間。


 レールから外れる理由はない。

 外れたところで、行き先が変わるわけでもない。


 プローブを当て、像を整え、保存する。

 必要な断面だけを残す。

 判断はしない。

 判断は、この部屋の外で行われる。


 廊下の向こうから、少し高めの声が聞こえた。

 指示でも、呼びかけでもない。

 短い確認の声。


 朔は、無意識に顔を上げる。

 モニターから視線が外れるのは、一瞬だけだ。


 聞き慣れない。

 それだけの理由で、視線が動いた。


 すぐに、画面へ戻る。

 深度を調整し、像を寄せる。

 保存。


 新しい職員は、珍しくない。

 入れ替わりも多い。

 覚える必要はない。


 廊下の声は、また雑音に戻る。

 検査室には、機械音だけが残った。

 看護師の足音が近づき、また遠ざかる。

 朔は顔を上げない。

 画面の白と黒だけを追っている。


 仕事は、予定どおり進む。

 それ以上でも、それ以下でもない。




 静かな夜だった。


 呼び出し用のPHSがポケットに入っているのを確認して、

 朔は中庭に出る。


 建物の中とは違い、外の空気は重い。

 冷房で冷えた体に、夏の湿気が戻ってくる。


 足元に敷かれた砂利が、わずかに鳴る。

 歩くたび、軽い音が一つだけ残った。


 ベンチに腰を下ろす。


 顔を上げても、空は暗い。

 雲が低く、光は届かない。


 見えるものは、何もない。


 空を見上げたまま、朔は耳を澄ます。

 風の音に、車の走行音が混じる。

 どれも一定ではなく、すぐに形を失う。


 ふと、思い出す。

 子どもの頃のこと。


 院内で開かれた、小さなコンサート。

 古いマイク。

 小さな手が、軽いリズムを刻む音。

 鍵盤をたどる、たどたどしい指。


 拍手もまばらで、誰も評価しなかった。

 ただ、音だけが残っていた。


 今も、同じだ。


 ポケットの中で、指が小さく動く。

 頭の中で音を鳴らす。

 ずれていれば、そこで戻す。


 合っていれば、

 ごく短く、息を混ぜる。


 声は、形になる前に消える。

 誰かに届けるためではない。

 ただ、戻すための動作だ。


 それは、夜勤の途中にできた、短い癖だった。


 ポケットの中で、PHSが短く鳴る。


 朔は立ち上がる。

 空を見上げるのをやめ、来た道を戻る。


 夜も、仕事は続く。




 検査室に静かに戻る。


 照明は昼よりも落とされていて、

 必要な分だけを照らしている。


 夜間の救急検査は、件数が少ない。

 その分、一つ一つが急を要する。

 迷う時間はない。


 朔は白衣の袖を整え、装置を立ち上げる。

 条件設定は最小限。

 昼に比べて、言葉も動作も削られていく。


 説明は短く、

 指示は単語だけになる。


 プローブを当てる。

 像を出す。

 保存する。


 それで足りる。


 朔は視線を戻し、

 次の検査に入る。


 装置の音が、一定のリズムで続く。

 画面の白と黒が、淡々と流れる。


 レールの上で仕事は進む。

 夜も、予定どおりだった。




 夜勤の途中、

 何度か、中庭のほうで声を聞いた。


 宵子は立ち止まり、耳を澄ます。


 はっきりとは聞こえない。

 風に紛れる程度の、短い音。

 人の声かどうかも分からない。


 最初は、気のせいだと思った。

 夜勤では、そういうこともある。

 疲労が、先に音を作ることもある。


 それでも、また聞こえる。

 おばけかもしれない、と思う。


 少し、怖い。


 それなのに、足が向く。

 意識する前に、体が廊下を外れている。


 中庭に出ると、声は途切れる。

 何もない空。

 重い夜気。


 耳を澄ます。


 風が揺れる音の奥で、

 もう一度、声がする。


 歌だ、と分かる。


 整えられたものではない。

 誰かに聞かせるためでもない。

 ただ、音を探すような声。


 それを聞いた瞬間、

 思い出す。


 子どもの頃。

 長い入院。

 病棟の片隅で開かれていた、小さなコンサート。


 ずっと聴いていたくなるような、

 きれいな声だった。


 誰にも言わず、

 次に聞ける日を、密かに楽しみにしていた。


 もう一度、歌に意識が向く。


 低い声だ。

 大人の声。


 それなのに、

 聞いたことがある。


 胸の奥で、何かが先に反応する。


 あ、と、思う。

 これは、まずい。


 理由は言葉にならない。

 ただ、本能的にそう感じる。


 それでも、離れられない。




 あれから、夜勤のたびに、同じ場所で歌声を聞いた。

 

 行ってはいけないと、分かっている。

 それでも、足が言うことを聞かない。


 人の気配が薄れた廊下が、

 いつもより広く感じた。

 

 今日は、本当に、だめ。


 意識的に、中庭を避けようと思った。

 それが正しいと、分かっている。

 でも、気になる。


 もう一度だけ、行ってみようか。

 きっと、人はいない。

 ただ、通りすぎるだけ。


 小さな通路を進む。

 足元の砂利が、からりと鳴った。


 静かな夜に、その音だけが浮いた。

 宵子は一瞬だけ立ち止まり、それから歩き続けた。


 誰も、いない。


 あの頃と、変わらない中庭。

 懐かしさが込み上げる。

 

 子どもの頃、病院の中庭で

 開催されたコンサート。


 同じくらいか、少し年下の子どもたち。


 軽いリズムを楽しそうに刻む子。

 ピアノを弾く子。


 歌を歌う、子。


 宵子は、客席に座って聞いていた。

 きれいな声。

 ずっと、聴いていたいと思った。


 一度しか、聞くことはできなかったけれど。 


 気がつけば、

 外灯の下まで歩いていた。

 

 この先には、道がない。


 宵子は振り返る。

 誰もいない。


 一息。


 薄いメロディを思い出して、歌う。

 声量は小さい。


 そう、こんな歌だった。


 もう一息だけ、

 吸おうとしたその時。


 からり、と

 小さな砂利の音を聞いた。


 夜気に触れた指先が、わずかに震える。


 それでも、

 歌うのをやめられない。


 あと一息だけ。


 静かに、音を吐く。

 そして、


 音が鳴った方向を、

 ゆっくりと見た。


 まずい。

 駄目だ。


 頭では、分かっている。

 それでも、目が離せない。


 見つけてしまったから。




「……すみません」


 思ったよりも、小さな声だった。

 震えないように、ゆっくりと口に出す。


「うるさかったですか」


 白衣の、技師。

 何度か、見かけたことがある。


 一瞬迷った様子。

 短く、硬い声。


「……別に」


 その様子に、

 思わず、小さく笑ってしまった。

 

 慌てて、次の言葉を足す。


「よかった。

 ここ、静かだから」


 相手が、

 少し引いたのがわかった。


 少し、視線を下げる。

 次の言葉を探す。


「……歌、好きなんですか」


 沈黙が落ちる。


 踏み込みすぎた。

 心臓が、静かに鳴る。


 焦りだけが先に立つ。

 言葉は、喉の奥で止まったまま。

 返事を待つしかない。


 相手が、少し戸惑ったように見えた。

 それから、口を開く。

 

「……嫌いじゃない」


「そうなんですね」


 これ以上は、駄目。

 でも、確認せずにはいられなかった。

 いつも、聞いていた歌声の主を。


「いつも、ここで

 歌っていたのは、あなた?」


 答えは、ない。

 雲の切れ間から、欠けた月が顔を出す。

 淡い光が、相手の横顔を照らしていた。


「……きれいな声だなって」


 沈黙に耐えきれず、言葉を重ねた。

 視線を合わせるのが、怖くて思わず下を向く。

 

「……聞いてたのか」


 明らかに動揺した声。

 

「少しだけ」


 これ以上は、駄目。

 でも、もう少しだけ。


「前にも、聞いたことがあるような気がして」


 言ってしまってから、指先が冷える。


 相手の表情が、変わる。


 その沈黙が、答えだった。


 言葉を返さなかったことも、

 視線を逸らさなかったことも。


 ここで終わらせるなら、

 今しかないと分かっていた。


 それでも、


 その場を離れるという選択だけが、

 もう、見えなくなっていた。


 超えてしまった。

 自分から。


 ぬるい空気を吸い込んだ瞬間、記憶が重なる。


 小さなステージ。

 古いマイク。

 拙い歌声。


 「……仕事に、戻る」


 短く言葉を残して、

 相手は背を向けた。


 足音が、廊下に溶けていく。


 宵子は、その場を動けない。


 追いかける理由はない。

 呼び止める言葉も、見つからない。


 ただ、

 胸に残った音だけが、消えなかった。


 


 あの日以来、

 白衣の技師とは顔を合わせていない。


 朔。彼の名前。


 分かった瞬間、

 何かが片づいた気がした――

 そう思い込もうとしていた。


 さよならを言えずに退院して、

 引っ越して、

 それきりになったこと。


 その引っかかりに、

 名前をつけられただけだ。


 終わったことにして、

 生活とは切り離した場所にしまう。

 そうすれば、平気でいられる。


 そう思うたび、

 胸の奥にだけ、薄い違和感が残った。


 残業終わり。

 静かな場所が欲しくなる。


 音があれば、なおいい。

 なければ、それでもいい。


 中庭には、


 昨日も、

 その前の夜も、

 誰も来なかった。


 それだけのこと。

 ……それだけで済むなら、よかったのに。


 雲の切れ間から、

 丸くなった月が顔を出す。


 宵子は、小さな通路を通って中庭に出た。

 そのまま、空を見上げる。


 遠くで砂利の、乾いた音がひとつ聞こえた。


 振り向く前に、

 口元が、わずかに緩んだ。


 こんな時間に来る人は、限られている。


 期待しているのが分かってしまって、

 自分に腹が立つ。


 それでも、

 息を吐いて、言う。


「……やっぱり。

 来る気がしてた」




 朔が、なにか言いたげに言葉を切る。

 宵子は、その言葉を待たずに口を開いた。


「今日も歌わないの?」


 軽く言ってみる。


 朔は、少しだけ眉を寄せ、

 小さく息を吸った。


「やめとく」


「そっか」


 宵子は、

 それ以上は触れず、月を見上げる。


 朔は何も言わず、裏側のベンチに座る。

 背中合わせになり、視線は合わない。


 しばらく、無言。


 風が植え込みを揺らす。

 葉擦れの音が、夜気に混じる。


 遠くで、機械の低い唸り。

 病院が、眠らずに呼吸している。


 宵子は、ベンチの縁に指先を置き、

 小さく息を吐いた。


「……勝手に、いなくなっておいて」


 子どものような、

 小さな声。


 宵子は、すぐには返さなかった。

 子どもの頃の話だと、ゆっくりと理解する。


 否定する言葉はある。

 謝ることもできる。

 理由だって、いくらでも並べられる。


 けれど、

 どれも今は違う気がした。


 宵子は、月を見たまま、静かに言う。


「……そうだね。

 だからまた、偶然見つけて、つい嬉しくて」


 声の調子は、

 自分でも驚くほど、軽かった。


 後ろで、

 静かに息を吸う音が聞こえた。


 声を張らない。

 夜を壊さないように、そっと音が置かれる。


 歌。

 メロディはあの頃と同じ。


 思わず、音を合わせてしまう。

 軽い気持ちで。迷いなく、自然に。


 声は、重ならない。

 先に出た音の隙間に、あとから静かに乗る。


 ハモリというほど整っていない。

 確かめ合うような、応答に近い音。


 宵子は、息を詰めない。

 無理に合わせようともしない。


 ただ、そこにある音を受け取って、

 返す。


 それだけなのに、

 胸の奥が、静かに揺れた。


 終わり際、

 宵子は自然に声を引いた。


 夜気の中に、

 まだ音が浮いている気がした。


 背中越しに、気配が伝わる。

 動いていないのに、距離が近い。


 どちらともなく、小さく笑う。


 宵子は、月を見上げたまま、ぽつりと言う。


「……一人で歌ってたんだね」


 返事はない。


 けれど、

 否定されない沈黙だった。


 宵子は、指先に残る感覚を確かめる。

 冷えたベンチの縁。

 夜の空気。


 そして、

 もう戻れない音。


 気づいてしまったから。


 この夜が、

 ただの偶然では終わらないことを。




 ナースステーションでは、

 いつものように小さな噂話が回っていた。


「今日の担当、朔さんだったよね」


「うん。楽だった」


 誰かが笑って言う。


「クールだけど、仕事が的確でさ。

 無駄なこと言わないし」


「検査、早いよね。

 安心感ある」


 肯定的な声ばかりが続く。


 宵子は、カルテを整えながら聞いていた。


 名前が出るたび、

 昨夜の音が、胸の奥で小さく揺れる。


 あの声。

 あの沈黙。

 背中越しの気配。


 それらは、

 ここでは何一つ語られない。


「理事長の息子さんでしょ」


 声が、少しだけ潜む。


「そうそう。

 なのに、なんで検査技師なんだろ」


「進路で揉めたって聞いたよ。

 医者でも経営でもなくて、技師選んだとか」


「変わってるよね」


 誰かが肩をすくめる。


「でもさ、結局は戻るんじゃない?

 将来は経営のほう行くって」


「許婚もいるらしいし」


 別の声が、軽く笑う。


「やば。

 出世ルート確定じゃん」


 冗談めかした空気。


 羨望と、少しの距離。


 宵子は、

 モニターから視線を外さない。


 知らなかった話ばかりだった。


 理事長の息子。

 将来。

 許婚。


 どれも、

 昨夜の中庭にはなかった言葉だ。


 あの場所にいたのは、

 ただ、歌う人だった。


 名前も、肩書きも、

 未来の話もない。


 音だけがあった。


 宵子は、

 ペンを置く。


 胸の奥に残った違和感を、

 言葉にしないまま、飲み込んだ。




 空の下のほうに、月があった。

 満ちる途中でも、欠けきったあとでもない。

 半分だけ残した光が、静かに浮かんでいる。


 強くは照らさない。

 影を消すほどでもない。

 ただ、そこにあると分かる程度の明るさ。


 夜を支配するには足りなくて、

 見上げる理由だけを残している。


 宵子は、その形を確かめるように目を細めた。

 欠けた側が、なぜか落ち着く。


 夜勤の休憩中、

 中庭に来るのが、いつの間にか日課になっていた。


 理由は、特にない。


 静かだから。

 空が見えるから。


 それ以上の理由は、用意していない。


 砂利を踏む、

 からりとした音がひとつ。


 宵子は振り返らずに、月を見上げている。


 背中側のベンチに、衣擦れの音。

 風が植え込みを揺らし、どこかで金属音が鳴った。


 昼間の噂話が、頭をよぎる。

 ちり、と胸の奥が小さく音を立てた。


 名前。

 肩書き。

 将来の話。


 月の下では、

 どれも遠い。


「……後悔してない?」


 宵子が、ようやく口を開いた。


 背中越しの声は低く、慎重だった。

 気遣いではない。確かめる声だ。


「何を」


 朔は短く返す。


 宵子は一瞬、

 言葉を探すように視線を落とした。


「歌ったこと」


 すぐには返事がなかった。


 風が、植え込みを揺らす。

 葉擦れの音が、一拍分だけ間を埋める。


 朔は、背中を預けたまま、視線を動かさない。


「……してない」


 言い切るには、少し遅い声。


 宵子は、それを追わない。

 問い返しもしない。


 ただ、月を見上げたまま、頷く。


「よかった」


 後悔していない。

 だから正しい、というわけでもない。


「……でも」


 続けるつもりはなかった言葉が、

 喉の奥に残っていた。


 口に出してはいけない。

 そう思いながら、それでも。


「これ、戻れない気もする」


 言い終わったあと、

 胸の奥が静かになる。


 朔は、すぐには答えない。


 否定もしない。

 肯定もしない。


 ただ、夜の空気を一度吸って、吐く。


「たぶん」


 朔は、それ以上を足さなかった。


 宵子は、少し困ったように笑う。

 視線は、月から外さない。


「私、責任感じたほうがいい?」


 できるだけ、軽く。

 冗談みたいな調子で。

 

「関係ない」


 強めの口調に、思わず振り返る。


「俺が選んだ」


 宵子は、その言葉を逃がさないように聞いた。

 視線が、朔の奥を測る。


「……選ぶ、って」


 宵子は、静かに続ける。


「怖くない?」


 これ以上は、だめ。

 聞くと、きっと戻れなくなる。


「怖い。でも、

 失うほうが、怖い」 

 

 宵子は、振り向き、

 ゆっくりと呼吸を整える。

 

「……何を?」


 朔はすぐに答えない。

 静かに息を吐き、そして小さく俯いた。




 会食の場は、静かだった。

 声を張る必要がない程度に、天井が高い。

 グラスが触れる音だけが、一定の間隔で響いている。


 朔の父が、上機嫌で口を開いた。


「まあ、いつまでも現場を回るわけにもいかないだろう」


 前置きはない。


「技師の仕事も、若いうちはいい経験になる。

 ただ、その先をどうするかは、そろそろ考えておくべきだな」


 場に、軽い笑いが落ちる。

 同意の空気が、自然に広がる。


 朔は何も言わない。

 グラスを傾け、静かに口をつける。


「外の世界を見るのも、勉強のうちですから」


 向かいの席から、穏やかな声が続いた。

 声の調子は丁寧で、否定はない。


 だが、逃げ道もない。


 朔の父が、間を置かずに言う。


「落ち着く時期が来れば、

 自然と次の段階に進むものだ」


 異論は想定していない言い方だった。


「ええ、落ち着けば」


 間を受け取るような声が、静かに続く。


「あとは、二人の今後についても

 ゆっくり考えてもらえれば」


 提案の形をしているが、

 前提はすでに共有されている。


 視線が、正面で一度だけ合う。

 驚きも、戸惑いもない。


 娘の将来を預かる側の目だった。


 朔は、何も答えない。

 グラスを傾け、静かに口をつける。


 レールは、すでに敷かれている。

 踏み外す想定は、最初からない。




 店を出る頃には、

 空が、昼の色を手放し始めていた。


 小さく息を吐き、空を見上げる。

 三日月が、淡く浮かんでいた。


 店の前には、迎えの車が静かに停まっていた。


 名前が呼ばれる。

 確認するまでもない。


 抗うほどの理由は、

 まだ、用意されていない。


 でも、


 そのまま車に乗れば、

 戻る余地がなくなる気がした。


 朔は、小さく会釈をして、

 その場を離れる。


 行く宛はない。

 ネクタイを緩め、なんとなく歩く。


 何も考えたくなかった。


 人の流れに身を任せる。

 信号待ちの足音、通り過ぎる会話、

 意味を持たない音が、重なっていく。


 不意に、

 その中で、少しだけ高い笑い声を拾った。


 反射的に、視線が動く。


 雑踏の向こうに、

 宵子の姿があった。


 隣にいる男が、少しだけ振り向く。


 街灯を受けて、

 赤茶色の髪が、薄く光った。


 宵子が、何かを言う。

 声は届かない。


 けれど、

 その口の動きだけが、

 妙にはっきり見えた。


 コウタ。


 聞こえたわけではない。

 それでも、

 名前だけが、朔の中に残った。


 楽しそうだ。


 二人で笑っている。

 自然で、無理がない。


 朔は、足を止めない。

 声をかける理由が、どこにもない。


 自分が、割り込める場所じゃない。


 そう言い聞かせたまま、

 背中を向けて歩き出す。


 一歩。

 もう一歩。


 理解している。

 それでも、

 視線だけは、どうしても離れなかった。

 

 宵子が、ふと何かを言う。

 コウタは、一瞬考えてから、答える。


 そのやり取りが、遠くてもわかる。


 丁寧だ。

 間違えない。

 彼女を傷つけない答えだ。


 ――正しい。

 正しすぎる。


 自分には、ああいう返しはできない。

 間を置くことも、含みを残すことも。

 

 欲しいものを前にしても、

 立ち止まるしかない。


 気づけば、

 戻るという発想は、もうなくなっていた。

 

 朔は、静かに視線を切ろうとした。


 ――でも、だめだ。


 考えるより先に、

 足が前へ出る。


 息が乱れ、

 呼ぶつもりのなかった名前が、

 喉の奥までせり上がる。


「宵子」


 自分でも驚くほど、体が先に動いていた。


 まっすぐに宵子の手を取る。

 迷いはない。


 宵子は、目を丸くしている。


 朔は、口を開きかけた。

 けれど、喉の奥で、すべてが崩れ落ちる。

 どの言葉も形にならない。


 謝罪も、説明も、浮かばない。


 何も言わないまま、

 宵子の手を引く力だけが、わずかに強くなった。


 振り返らない。


 コウタがどんな顔をしているのか、

 考えることさえできなかった。


 空には、

 欠けたままの月が、何事もなかったように浮かんでいた。




 宵子は、声を出さなかった。


 驚きは、確かにあった。

 けれど、それより先に、指先に伝わる体温を確かめるように、視線が落ちる。


「……朔?」


 呼びかけは、かすれていた。


 朔は、振り向かない。

 周囲を見ることもしない。


 ただ、手を引いたまま、歩き続ける。


 宵子は一歩遅れてついてきた。

 状況を測りかねているのが、歩幅でわかる。


「ちょっと……」


 言葉は、途中で途切れた。

 拒む声にならない。


 朔の背中は、固かった。

 怒りでも焦りでもない。

 張り詰めているのに、行き先が定まっていない。


 角を曲がり、

 人通りが一段落ちる。


 そこで、ようやく、朔は足を止めた。


 手は、まだ離さない。


 言葉を探している、というより、

 言葉にしてしまえば壊れるとわかっている沈黙だった。


「……見えたから」


 それだけ、絞り出すように言った。


 宵子は、続きを待つ。

 待ててしまう自分に、少し驚きながら。


「笑ってた」


 それ以上、続かない。


 言い訳も、説明もない。

 ただ、事実だけ。


 宵子は、ようやく状況を理解する。


 さっきの光景。

 雑踏。

 他愛のない会話。


「……それで?」


 問いは、優しかった。

 朔の指が、わずかに震える。


 声が低くなる。


「引き返すって、決めてたのに」


 宵子は、目を伏せた。

 理由になってしまったことを、悟る。


「放して」


 朔の手が、一瞬だけ強くなる。


 けれど、次の瞬間、力が抜けた。


 宵子の手が、自由になる。

 空気が、戻ってくる。


「ごめん」


 遅すぎる謝罪だった。

 宵子は、答えない。


 代わりに、少しだけ距離を取る。


 これ以上近づけば、

 これ以上離れれば、

 どちらに転んでも、戻れなくなる。


「……今は」


 宵子が、言葉を選ぶ。


「今は、だめ」


 拒絶ではない。

 保留でもない。


 ただの、現実だった。


 朔は、頷いた。


 納得したわけではない。

 でも、理解はしている。


 その夜、二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。


 宵子は、先に歩き出す。

 振り返らない。

 振り返れば、何かを選んでしまうと分かっていた。


 朔は、その背中を追わない。

 足は動かない。

 呼び止める理由を、最後まで持てなかった。


 人の流れが、二人の間に入り込む。

 数歩の距離は、すぐに意味を失う。


 宵子の姿が、雑踏に溶けて見えなくなる。


 朔は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。




 病院は、いつも通り動いている。


 廊下の照明。

 消毒の匂い。

 ナースコールの音。


 朔は、決められた手順をこなす。

 確認し、記録し、次へ進む。


 仕事は、滞らない。


 会えば、また踏み込んでしまうと分かっていた。

 だから、宵子には会わない。

 中庭にも行かない。


 月が今、どんな姿をしているか、

 朔にはわからない。


 詰所では、いつもと同じ音がしていた。


 プリンター。

 足音。

 誰かのため息。


 宵子は、記録を入力しながら、背後の会話を拾ってしまう。


「ねえ、あの動画見た?」


 小さな声。

 でも、隠す気もない。


「歌のやつでしょ」

「そうそう。夜のやつ」

「声がいいって、結構回ってるみたい」


「でも、顔ぜんぜん分かんない」


 誰かが肩をすくめる。


「誰だか分かんないから、余計すごいんじゃない?」


 笑い声が混じる。


 宵子は、手を止めない。


 記録を終え、

 次の画面に切り替える。


 噂は、止まらなかった。

 名前の出ない話題として、同じ動画が流れている。


「また回ってきた」

「これ、同じやつ?」


 誰かが画面を確かめる。


 夜の映像。

 暗くて、ぶれていて、逆光。

 顔は、やっぱり分からない。


「でも、声は分かるよね」


 そう言われて、

 別の誰かが笑う。


「分かるっていうか、残る」


 宵子は、手を止めない。


 業務を続けながら、

 再生された音だけが、少しずつ近づいてくるのを感じる。


 誰のものでもないはずの声が、

 勝手に、居場所を作り始めている。


 噂は、まだ軽い。

 でも、消えもしない。




 会食の場は、静かだった。

 声を抑えることが、最初から前提になっている。


 天井は高く、

 グラスの触れる音だけが、間を測るように響いていた。


 笑い声が落ちる。

 朔は笑わない。


 グラスを傾け、料理を口にする。

 咀嚼して、飲み込む。


「ところで」


 間を置かず、言葉が続く。


「最近、

 声のある動画が出回っているようですが」


 言葉のあと、

 向かいの席で、誰かがスマートフォンを操作した。


 短い沈黙。


 次の瞬間、

 小さな音が、テーブルの上に落ちた。


 風の音。

 ざらついた夜の気配。

 そして、声。


 朔は、グラスに触れたまま動きを止めた。


 知らない音だった。

 いや、知らないはずがなかった。


 自分の声だ。


 いつ撮られたのかも分からない。

 誰が撮ったのかも分からない。


 ただ、

 そこにある声だけは、

 否定できなかった。


 向かいの席で、許婚と目が合った。


 驚きも、戸惑いもない。

 先に知っていた人の顔だった。


 朔だけが、

 一拍遅れて、その場に追いつけずにいた。


 朔の父は、それを正面から受け取らなかった。


 曖昧に受け流しながら、

 話題を少しずつずらしていく。


 触れるべき部分だけを、

 きれいに避ける。


「小さい頃は、

 よくコンサートを開いて遊ばせたものだったな」


 懐かしむように言う。


 思い出話としては、穏やかすぎるほどで、

 答えにはなっていなかった。


 相手の目の色が、ふと変わる。


 朔は、何も答えない。


 会食は、

 それ以上深まらないまま終わった。




 店を出る頃には、夜になっていた。


 小さく息を吐き、空を見上げる。


 月がない。


 店の前には、

 迎えの車が静かに停まっていた。


「朔、乗れ」


 断る余地のない声だった。


 黙って、車に乗る。


 ドアが閉まった直後、

 朔の父が低い声で言う。


「おまえだな」


 確認に近い口調だった。


 喉の奥が、わずかに詰まる。


 否定する言葉を探した。

 けれど、すぐに消えた。


 違う、と言えば嘘になる。

 分からない、と返すには、

 もう声が知られすぎている。


 少しの沈黙のあと、

 朔が口を開こうとした、その瞬間。


 着信音が、車内に落ちた。


 古い友人からの連絡だった。


 朔は、画面を一度確認し、

 迷いながらも電話に出る。


「……はい」


「動画。

 お前だよな」


 一瞬、息が止まる。


 まただ。


 さっきまでテーブルの上にあった声が、

 今度は別の場所から追いかけてくる。


「……今、少し話せるか」


「要件なら」


 短く返す。


「すでに、かなり回ってる」


「……ああ」


「意図的じゃない、よな?」


「違う」


 短い沈黙。


「業界が、声の主を探してる」


「この動画の主と、

 俺たちのバンドを一緒に動かす話が来てる」


 朔は、答えない。


 名前を確認する必要はなかった。

 重要なのは、そこではない。


「……条件は」


「公開のタイミングを揃える。

 表には出さない。最初は、動画企画からだ」


「切り分けない、ってことか」


「そうなる」


 少しだけ、間が空く。


「悪いが、このチャンスを逃す気はない。

 スノフレを止めたくない」


「話し合いに来てほしい」


 朔は、返事に詰まる。


 敷かれたレールから外れるつもりはない。


 外れたところで、

 行き先が変わるとは思えなかった。


 それなのに、

 胸の奥だけが、静かにずれている。


 面倒なことになった。

 そう判断しているはずなのに、

 どこかで、音が始まる気配を待っている。


 あの声を、もう一度。

 一人ではなく。


 指先に、

 じんわりと汗がにじんだ。

 



 数枚の資料を確認し、低く息をつく声があった。


「……本当に、

 遊びは大概にして欲しいものだな」


 動画の拡散の詳細。

 音楽業界の動き。

 同時期デビューを控えたバンドの名前と顔写真。


 資料は、座席の横に投げられる。


 紙の端が、みちるの足元でわずかにずれた。


 返事はしない。

 けれど、視線だけが落ちる。


 Snow flakes。


 資料の中で、その名前が何度か繰り返されていた。


 動画の声は、

 ただの噂では済まなくなっている。


 止めることはできる。

 止める側に立つこともできる。


 父の言葉に頷けば、

 たぶん、そのほうが簡単だった。


 けれど、みちるは頷かなかった。


 朔を庇う言葉も、

 資料を拾い上げる動作も、

 選ばなかった。


 ただ、窓の外へ視線を戻す。


 それでも今は、

 何も言わないことを選ぶ。


「みちる、聞いているのか」


 名を呼ばれて、

 みちるは、ようやく視線を向けた。




「……歌は、

 一人では歌わない」


 小さく。

 だが、はっきりと口に出す。


「それでもいい。

 切れないところまで来てる」


 また、沈黙。


「検討する」


「頼む」


 最後まで聞かず、電話を切った。


 通話が切れたあとも、

 しばらく、画面を見たまま。


 沈黙が続く。


「朔」


 名を呼ばれて、

 朔は、ようやく視線を向けた。 


 手のひらに、じんわりと汗が滲む。

 小さく息を吐き、呼吸を整える。


 断ることはできる。


 今なら、まだ戻れる。

 予定どおりに進んで、

 何もなかったことにすればいい。


 そのほうが正しい。

 そのほうが、誰も困らない。


 けれど、

 あの声を思い出してしまった。


 一人では歌わない。

 そう口にした瞬間から、

 もう、理由はそこにあった。


 選ぶつもりはなかった。

 外れるつもりもない。


 それでも、

 終わりまでの時間を、

 ただ通り過ぎるものにはしたくなかった。


 一拍。


「一年だけ、時間をください」


 視線は前を向いたまま。


「一年です。

 終わったら、

 きちんと進めます」


 返事はない。

 朔は、最後まで視線を動かさなかった。




 朝の空気は、いつもと同じだった。

 病院の裏口。消毒液の匂い。白衣の袖を通す動作。

 身体は迷わず動いている。


 業務は滞りなく進んだ。

 判断も、応答も、これまでと変わらない。


 一年。

 父親に口にした、その言葉。


 猶予として与えられた時間。

 自由ではない。期限だ。


 諦めたはずだった。


 なのに、期限が置かれた瞬間、

 思考が引き戻されている。


 最初から、

 終わると分かっているなら。


 思い出してもいい、という理屈が、

 判断を、静かに裏返していく。


 音の感触。呼吸の位置。

 声が出る直前の、わずかな間。

 そこに、誰かがいる感覚。


 声を合わせたときの感触を、

 まだ、正確に思い出せてしまう。


 一人では、歌わない。


 仕事を終え、白衣を脱ぐ。

 ロッカーの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 朔はスマートフォンを手にして、

 小さく息を吸う。


 これは、再開ではない。

 約束でも、期待でもない。


 一年だけ。

 終わりがある前提で、触れるだけだ。


 そう言い聞かせながら、

 指先が震えていることから、

 目を逸らせなかった。




 約束の時間より、少し早かった。


 朔は立ち止まり、

 腕時計を見るでもなく、視線を上げる。


 来ると決めた。

 それだけで、今日は十分だと思った。


 人の出入りは少ない。

 静かすぎもしない。


 選んだ理由を、考えないようにする。


 足音。


 振り返る前に、分かってしまう。


 気配が、近づく。


「……久しぶり」


 声は、想像より近かった。

 朔は一拍置いてから、振り向く。


 それ以上、言葉が続かない。


 視線が合う。

 すぐに、逸れる。


「入る?」


 宵子が先に言う。


「……ああ」


 並んで歩き出す。


 距離は、自然に保たれる。

 近くも、遠くもない。


 扉が閉まる音で、外の気配が切れる。


 席に着いても、すぐには話が始まらなかった。

 注文を済ませ、飲み物が届く。


 その間も、宵子は何も聞かない。


 朔のほうが、先に口を開いた。


「一年だけだ」


 考えてきた言葉だった。

 けれど、整え直す余裕はない。


「最初から、期限が決まってる」

「延ばすつもりも、続ける約束もしない」


 宵子は視線を上げない。

 否定も、肯定もしない。


「一緒に、音をやりたい」


 そこまで言って、言葉が止まる。


 宵子が、ようやく顔を上げた。

 朔は、深く息を吸う。


 ここから先は、

 条件でも提案でもない。


「……一年分の時間を」


 声の速度を、落とす。


「俺に預けてほしい」


 朔は目を逸らさなかった。


 宵子はカップに指を添え、

 中身が減っているのを確かめるように、一度だけ視線を落とす。


 条件は、軽すぎるほどだった。

 逃げ道ばかりが、先に目に入る。


 それが、少しだけ引っかかった。


 真剣なのか、そうでないのか。

 測りかねるほど、整いすぎている。


 ただ、

 1年、という期間に

 少しだけホッとしている自分に気づく。


 私は、ずるい。

 

 宵子は、小さく息を吐いた。




 向かいに座った担当者に、

 朔は先に前提を伝えた。


 活動期間は、一年。

 準備に時間をかけるのではなく、

 動く期間そのものが一年だということ。


 契約や数字の話は出なかった。


 代わりに、

 距離感だけが整理されていく。


 期間。

 扱い。

 関わり方。


 宵子はほとんど口を開かず、

 最後に一度だけ頷いた。


 打ち合わせは、それで終わる。


 関係者用の部屋が並ぶ廊下は、

 思ったよりも静かだった。


 人の気配はあるのに、

 誰も長居をしない。


 廊下の先から

 足音が、ひとつ。


 ――彼だ。


 反射的に顔を上げて、

 宵子は一瞬、息を止めた。


 見慣れた姿が歩いてくる。


 廊下の照明を受けるたび、

 赤茶色の髪が、かすかに光って見えた。


 派手ではない。

 けれど、角度が変わると、

 あの頃よりも少しだけ赤い。


 知らない時間が、

 そこに混じっている気がした。


 ケーキショップの小さな席。

 向かい合って、甘いものを少しずつ崩した時間。


 好きな本の話。

 読み終えたあとに残る言葉の話。


 何かを言いかけて、

 言わずに目を細める横顔。


 長い時間ではなかった。

 けれど、

 忘れてしまうには、

 覚えていることが多すぎた。


 距離は、まだある。

 声が届くほどではない。


 それでも、

 身体のほうが先に反応した。


 コウタさん。


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 呼吸が、わずかに浅くなる。


 会っていない。

 あれ以来、一度も。


 ここで会うとは思っていなかった。

 準備も、心構えもない。


 歩幅を変えるべきか、

 立ち止まるべきか。


 一瞬、判断が遅れた。


 その間に、

 視線が、合う。


 宵子が足を止めた瞬間、

 向こうも同時に立ち止まる。


 逃げるほどでもなく、

 踏み込むほどでもない距離。


 宵子は、唇をわずかに開いた。

 息だけが先に漏れる。


「……久しぶり、ですね」


「まさか、

 こんな形で再会するなんて」


 距離の測り方だけが、分からない。


 相手は一度、視線を落とす。

 それから、ゆっくり顔を上げた。


「……ですね」


 それ以上、続けなかった。


 宵子は息を吸う。


「あの――」


 何かを言おうとした、その瞬間。


 彼は、

 ほんの小さな動きで、

 片手を上げた。


 止める、というより、

 待って、に近い仕草。


 同時に、

 目で伝える。


 今は、ここじゃない。


 宵子は言葉を飲み込んだ。


 数秒。


 何も言わない時間が流れる。


「……頑張りましょうね」


 業務用の言葉。

 逃げでも、拒絶でもない。


 交わらない、合図。

 宵子は、小さく頷く。


 それ以上は、もう、ない。




 生活のリズムが、静かに変わった。


 昼は病院。夜は音。

 夜勤には、もう入らなくなっていた。


 企画が動き出し、日々の密度が増していく。

 音合わせ。曲作り。

 気づけば、毎晩終電ぎりぎりまでスタジオに籠もっている。


 二人きりの空間。

 眠気は溜まる。身体は正直だ。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 忙しさの中に、ほんの少しだけ楽しさが混じっていることを、

 宵子は自覚してしまっている。


 今日は朝から、動画企画の会議が入っていた。


 顔出しはしない。

 その前提で、どう音を届けるか。

 朔は一つひとつ、慎重に確認していく。

 言葉は多くないが、判断は迷わない。


 距離は変わらない。

 けれど、守られているのだと分かる。

 その感覚が、少しだけ心地よくて、宵子は視線を落とした。


 制作側との打ち合わせは続く。

 細部を詰める段階に入り、時間は押し始めていた。


 途中、朔がスタッフに呼ばれる。

 詰める項目が多そうだ。


 視線が合い、短く合図が送られた。

 先に戻っていてほしい、という意味。


 宵子は頷き、静かに立ち上がる。

 控室へ向かう廊下を歩きながら、足音だけが響いた。


 生活は変わった。

 戻れないほどではない。

 けれど、確かに、もう前と同じではなかった。




 控室には、先客がいた。


 みちるは、すでに椅子に座っている。

 テーブルの上には、カップが一つだけ置かれていた。


 名刺も、紹介も、ない。

 それでも――

 ここにいることを、許されている人だと、宵子は分かってしまう。


 みちるは立ち上がらない。

 宵子を見て、軽く会釈するだけだった。


 誘いは、最小限。


「少し、休みます」


 主語も、目的もない。

 誘いと呼ぶには、あまりに曖昧な言葉。


 宵子が返事をしなければ、

 それで終わる空気。


 けれど宵子は、

 立ち去れない。


 午後の光は、ブラインド越しに均等に落ちていた。

 控室は、必要以上に静かだった。


 宵子は、カップを両手で包む。

 白い陶器の温度が、指先にだけ残る。


 向かいに座る女性は、背筋を伸ばし、ゆっくりとカップを口に運んだ。

 動作に、迷いがない。


 しばらく、他愛のない話が続く。

 今日の予定。

 移動のこと。

 最近、忙しいらしい、という話題。


 どれも、角が立たない。


「……お仕事、大変ですよね」


 みちるが、穏やかに言った。


 宵子は、曖昧に笑って頷く。


「でも、終わりは決まっているんでしょう?」


 問いかけではなかった。

 確認でもない。


 ただ、そういうものとして、置かれた言葉。


 その中に、自分だけが最初から数に入っていないような静けさがあった。


 宵子は、一瞬、言葉を探す。

 探していることを悟られないように。


「……そうですね」


 そう答えるしかなかった。


 みちるは、それ以上踏み込まない。

 頷いて、カップに視線を落とす。


「終わったら、戻られるでしょうし」


 未来形。

 当然の前提。


 その言葉が、宵子の中に静かに沈む。


 否定もされていない。

 比べられてもいない。


 けれど、

 ここに自分の居場所がないことだけが、

 分かってしまう。


 みちるは、紅茶を一口飲み、

 小さく息をつく。


 それだけ。


 後ろで、ドアの開く音がした。


 みちるは立ち上がらない。

 カップを置いて、ただ一言だけ。


「おかえりなさい」


 宵子は、カップを置かない。

 笑顔も崩さない。


 ただ、

 胸の奥で、何かが静かに刺さったまま、

 動くことができずにいた。




 ノートは、二人の間に置かれていた。


 朔がペンを走らせる。

 迷いなく、言葉を足し、線を引く。


 視界の端で、宵子が覗き込む気配がする。

 邪魔にならない距離。

 けれど、近い。


 顔を上げた瞬間、

 思ったよりも距離が詰まっていることに気づく。


 一瞬、思考が遅れる。


 胸の奥に、引っかかるものがある。

 さっきまで、意識していなかったはずの感触。

 消えない、とげのような違和感。


 朔は視線を戻し、何もなかったように息を整える。

 気づかれてはいけない、というより、

 気づいてはいけない、と思った。


 声を出す。


 宵子の声が、重なる。


 合わせたわけでもないのに、

 音が自然に並ぶ。


 ブースの照明が少し落とされる。


 朔はヘッドホンをつけ、立ち位置を確認する。

 正面に自分のマイク。

 少し斜め前に、宵子のマイクが立っている。


 カウントが入る。


 朔が先に出す。

 整えない。今の声のまま。


 一拍遅れて、宵子が重ねる。


 息を吸うタイミングが揃う。


 フレーズが伸びるにつれて、

 声の高さだけでなく、呼吸の位置まで近づいていく。


 視線は譜面に落ちたまま。

 それでも、相手の存在が分かる。


 音が、寄ってくる。


 合わせた覚えはない。

 離そうとした覚えもない。


 ハモりが続く。

 気持ちよく、自然に。


 フレーズの終わりで、

 どちらかの息が先に尽きる。


 音が切れる。


 一拍。


 インカム越しに、エンジニアの声が入った。


「今の、もう一回いきましょう」


 現実が戻る。


 朔は軽く頷く。

 宵子も何も言わない。


 立ち位置は、そのまま。


 二人の視線が、

 遅れて、合った。


 スタジオを出ると、夜の空気が思ったよりも重かった。

 人の流れに紛れ、二人は並んで歩く。


 駅前はまだ騒がしい。

 話し声。笑い声。

 遠くで鳴る音楽が、雑踏に溶けている。


 肩が触れそうで、触れない距離。

 歩幅は自然に揃っていた。


 吹き抜ける風が、熱を攫う。

 さっきまで張りついていた感覚が、少しずつほどけていく。


 宵子が、息を整える。

 朔も、無意識に深く息を吸った。


 信号待ちで、足が止まる。

 視線は前を向いたまま、言葉は出ない。


 空には、

 輪郭の淡い光が、薄い雲に紛れている。


 欠けきらず、満ちきらないまま、

 光だけを薄く残して。


 少し気を抜けば、

 夜の中に溶けてしまいそうな月だった。


 青に変わる。

 また、歩き出す。


 風は冷たくなり、

 街の熱気は背中に残ったまま、離れていった。




 発売日の朝、CDショップの棚に、新譜が並び始めた。


 Snow flakesのコーナーは、すぐに人が集まった。

 試聴機の前で足を止め、数曲聴いて、そのまま一枚取る。


 その隣に、同じサイズのジャケットがある。

 名前も、説明も、最小限だった。

 ジャケットに顔はない。


 足を止める人がいる。

 手に取って、裏を返す。


「Moon Veil」


 少し考えて、レジに向かう。


 棚の在庫が、

 Snow flakesから減り、

 少し遅れて、隣も減っていく。


 試聴機の前に、人が集まる。


「……こっちも、いい」


「ハモり、やばくない?」


 小さな声。

 イヤホンを外した瞬間、もう一度再生される。


「息、ぴったりすぎる」


「どっちがメイン?」


 答えは出ない。

 どちらでもあるし、どちらでもない。


 SNSに、短い感想が流れる。


 顔出しなし。

 正体不明。

 なのに、妙に距離が近い。


 声が重なるところで、

 同じ言葉が繰り返される。


「この人しかいない、って感じしない?」




 午後の回診が一段落したころ、

 ナースステーションで、また小さな声が上がった。


「ねえ、動画の声の人さ」


 カルテをめくりながら、誰かが言う。


「デビューしたらしいよ」


 断定ではない。

 聞いた話を、さらに又聞きにした程度の響き。


「CDも出てるって」


「へえ……」


 宵子は、ペンを止めない。

 記録の続きを淡々と埋めていく。


 誰の名前も出ない。

 ユニット名も、ここでは言われない。


 ただ、

 動画

 デビュー

 そんな言葉だけが、作業の合間に混じる。


 呼び出し音が鳴る。


「失礼します」


 宵子は立ち上がり、

 噂をその場に残したまま、廊下へ出た。


 病院の一日は、

 何もなかったように続いていく。




 門を抜けると、敷地の奥に灯りがあった。

 必要な場所だけが、静かに照らされている。


 実家に戻るのは、久しぶりだった。


 玄関は広く、靴音が少しだけ響く。


 ダイニングには、すでに食事が整えられている。

 香りは控えめで、盛り付けは簡潔だった。


 家の中に、生活の雑音はない。

 整えられた空間が、そのまま時間を止めている。


 席に着くと、

 いつの間にか、グラスに水が注がれていた。


 父は向かいに座り、

 母は斜めに位置を取る。


 誰も急がない。

 誰も、待たせない。


 しばらく、食器の音だけが続く。

 音も、必要な分しか立たない。


 朔は、何も言わない。


 父は、指先でナプキンを整える。

 グラスに触れることなく、手を止める。


「外の空気は、どうだ」


 一言。


 母は何も言わず、

 グラスに触れてから、そっと視線を戻す。


 また、食器の音が続く。




 活動は、大詰めに入っていた。

 小さな打ち合わせが、淡々と続く。


 引き留めの声があり、

 継続を匂わせる言葉もある。


 それでも、

 踏み込むことは、できなかった。


 小さく息を吐き、

 打ち合わせ部屋を出る。


 廊下には、次の打ち合わせを待つ人影が見えた。


「……久しぶり」


 朔は思わず、声を掛ける。

 ハヤテは、顔を上げ、静かにこちらを見た。


 金色の髪。

 耳元のピアス。


 記憶にある子どもの頃の姿とは、

 ずいぶん違う。


 バンドを続けているらしいことは、

 どこかで聞いていた。


 それでも、

 実際に目の前に立つ姿は、

 噂よりもずっと遠くまで来た人のように見えた。


 自分にはできなかった歩き方をしているようで、

 少しだけ眩しい。


「……だな」


 ハヤテはそう返しただけだった。


「俺、進めたこと、後悔してない」


 朔はすぐには返さず、

 短く頷いた。


「止まる理由はなかった」


 その言葉は、

 少しだけ痛かった。


 自分にはいつも、

 止まる理由ばかりが先にあった。


 言葉にするつもりはなかった。


 羨ましかったことも、

 勝手に距離を取ったことも、

 今さら並べるには遅すぎる。


 それでも、

 何も言わないまま終わらせるには、

 受け取ったものが大きすぎた。


 視線を外したまま、

 朔は静かに言う。


「感謝してる」


 その言葉に、

 ハヤテの目が、わずかに揺れた。


 返す言葉が、

 一瞬だけ遅れる。


「諦めてたものが、

 掴める場所まで来たのは

 ……お前が進めたからだ」


「誰かのためじゃない」


 返事は早かった。

 けれど、声は少しだけ乾いていた。


 ハヤテは視線を外し、

 耳元のピアスに触れかけて、

 やめる。


「分かってる」


 朔は、短く返した。


「それでも。

 俺は、あの時に進まなかったら、

 たぶん一生、あのままだった」


 一度、言葉を切る。


「結果として、感謝してる」


 それ以上は言わない。


 ハヤテは、

 一度だけ息を吸った。


「……そっか」


 それだけだった。


 打ち合わせ室のドアが開く。

 ハヤテは小さく手を上げ、

 振り向かずに中へ入っていった。




 気づけば、季節が一つ巡っていた。


 高い空に、月がある。

 雲の切れ間から、途切れ途切れに顔を出しては、

 また隠れる。


 仕事は、淡々と進んでいた。


 資料を確認し、

 必要な指示を出し、

 決めるべきところだけを決める。


 特別な達成感も、

 大きな失敗もない。


 日程は埋まり、

 次の予定が、静かに差し込まれていく。


 次の予定に目を移す。

 白衣を脱ぎ、タクシーに乗った。


 店内には、音がほとんどなかった。


 高い天井から落ちる照明は柔らかく、

 白い床に、淡く反射している。


 白を基調にした空間で、

 布の擦れる気配だけが、ゆっくり動く。


 みちるが、カーテンの奥から出てくる。


 一歩、足を運ぶ。

 裾が遅れて揺れ、

 その動きに合わせて、光が柔らかく滑る。


 ドレスは派手ではない。

 余計な装飾もない。


 けれど、線がきれいだった。


 鏡の前で、

 みちるは立ち止まる。


 視線を下げ、

 指先で布を軽くつまみ、

 位置を確かめる。


 スタッフが、

 無言で裾を整える。


 朔は、少し離れた位置から見ている。

 近づきもしないし、

 離れすぎてもいない。


「どう?」


 問いかけは、確認に近い。


 朔は、首を傾けずに答える。


「いいと思う」


 それ以上の言葉は出ない。


 みちるは、もう一度鏡を見る。

 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。


 それから、こちらを見ずに言う。


「……決めたの?」


 朔は答えない。

 けれど、その沈黙は、逃げではなかった。


 みちるは、納得したように頷いた。




 朝の支度は、以前と変わらない。


 髪をまとめ、白衣を羽織り、

 ポケットの中身を確かめる。

 手順に迷いはなく、動作は静かだった。


 病棟は、今日も同じ音を立てている。

 足音。

 ナースコール。

 遠くで閉まるドアの気配。


 宵子は業務をこなす。

 呼ばれれば応じ、必要なことだけを伝える。

 特別な集中をしているわけではない。


 ただ、最近、

 一日の終わりを数える癖がなくなっていた。


 以前は、

 夜の予定を意識していた。

 スタジオに向かう時間。

 終電までの余白。


 今は、

「今日は、ここまで」

 そう思う瞬間が、自然に来る。


 詰所で記録を入力していると、

 誰かが、小さく声を落とした。


「最近、あのユニット、見ないね」


 宵子は、指を止めない。


「一時的だったんじゃない?」


 別の声が続く。

 確かめるでもなく、興味も長くは続かない。


 話題はすぐに切り替わり、

 別の患者の話になる。


 それでいい、と宵子は思った。


 終わりが決まっているものは、

 いつか話題にならなくなる。

 それは、自然なことだ。


 昼休憩。

 窓際の席で、コーヒーを一口飲む。

 苦味が、いつもよりはっきりと口に広がる。


 携帯を取り出す。

 通知は、業務連絡が一件。


 音のことではない。

 それを確認してから、

 画面を伏せる。


 会おうと思えば、会える。

 連絡を取ろうと思えば、できる。


 それでも、

 「次」を考えなくなっている自分に、

 宵子は気づいていた。


 寂しさは、ない。

 少なくとも、そう呼ぶほどのものではない。


 期待も、

 持たないほうがいいと、分かっている。


 ただ、

 期限があると知っているものを、

 期限どおりに扱っているだけだ。


 午後の業務に戻る。

 白衣の袖を直し、足を踏み出す。


 生活は、静かに続いている。


 終わりに向かっていることを、

 声に出さなくても、

 ちゃんと分かりながら。




 スタジオは、夜になるほど音が落ち着く。


 外の騒がしさが壁に吸われ、

 ブースの中には、必要な音だけが残る。


 朔は譜面をめくり、

 ペンで一箇所だけ、線を引いた。


 修正ではない。

 確認に近い印だった。


 期限は、頭に入っている。

 数えなくても、分かる。


 終わりがあるから、

 今やっていることに意味が生まれている。


 録り直しは、三回。

 それ以上はしない。


 良し悪しではなく、

 今の声かどうかで判断する。


 マイク越しに、宵子の声が聞こえる。

 安定している。

 無理をしていない。


 それでいて、

 以前よりも、わずかに距離が近い。


 合わせにいってはいない。

 引き寄せてもいない。


 ただ、同じ時間を共有しているだけだ。


 それで十分だと、

 朔は思っていた。


 インカム越しに、スタッフの声が入る。


「今日は、ここまでで大丈夫です」


 時計を見る。

 終電までは、まだ余裕があった。


 それでも、

 続きをやろうとは思わなかった。


 終わりが決まっているものを、

 引き延ばす必要はない。


 音を止め、

 ヘッドホンを外す。


 ブースの扉を開けると、

 宵子が振り返った。


 言葉は交わさない。

 視線だけで、十分だった。


 朔は、

 この一年を、

 残すためではなく、

 終えるために使っている。


 その覚悟だけは、

 最初から、変わっていなかった。




 ブースの照明が、いつもより低かった。


 最終日だと聞かされたのは、

 前日の夜だった。


 特別な空気はない。

 スタッフの動きも、言葉も、

 いつもと変わらない。


 宵子はヘッドホンをつけ、

 立ち位置を確認する。


 譜面は、もう見なくてもいい。

 歌う順番も、呼吸の位置も、

 身体が覚えている。


 カウントが入る。


 朔が、先に声を出す。

 整えない。

 今日の声のまま。


 一拍遅れて、

 宵子が重ねる。


 音が、静かに合う。


 合わせようとしたわけではない。

 けれど、ずれる理由もなかった。


 フレーズが進むにつれて、

 空間の密度が変わる。


 音が、逃げない。

 残そうとしていないのに、

 消えもしない。


 最後の音が、落ちる。


 一拍。


 インカム越しに、

 エンジニアの声が入った。


「……OKです」


 それだけだった。


 朔は、何も言わずに、

 マイクから一歩、下がる。


 ヘッドホンを外し、

 ケーブルをまとめる。


 迷いがない。


 宵子は、その動きを見ていた。


 終わった、と理解するより先に、

 終わらせに来ていたのだと、

 分かってしまう。


 この一年は、

 続けるための時間ではなかった。


 引き延ばすためでも、

 選び直すためでもない。


 きれいに終えるための時間だった。


 朔は、こちらを見ない。

 それが、答えだった。


 呼び止められていない。

 次の話も、用意されていない。


 宵子は、ヘッドホンを外す。


 音が消えると、

 部屋は、急に広く感じた。


 寂しさは、湧かない。


 ただ、

 自分はこの一年に

 置かれていただけなのだ

 という事実が、

 静かに残る。


 それでいい、と宵子は思った。


 それ以上を望んでいたら、

 この音は、きっと崩れていた。


 ブースを出る。


 廊下の先で、

 スタッフが次の段取りを話している。


 日常は、すでに動いていた。


 宵子は、立ち止まらない。


 振り返らずに、

 その流れに戻っていく。


 終わったことを、

 声に出す必要はなかった。


 ちゃんと、

 分かってしまったのだから。




 スタジオを出ると、

 夜の空気が思ったより近かった。


 機材の片づけが始まり、

 人の声が点々と落ちている。


 二人は、並んで歩く。


 距離は、今までと同じはずだった。

 肩が触れない位置。

 意識すれば保てる距離。


 宵子が、歩きながら言う。


「……今日で、一区切りですね」


 確認ではない。

 感想に近い。


 朔は、すぐに返さない。


 歩幅が、ほんのわずかに揃う。

 近づいたわけじゃない。

 ただ、間が詰まった。


「そうだな」


 それだけ。


 信号で足が止まる。

 並んで立つ。


 宵子は前を向いたまま、続ける。


「音、きれいでした」


 評価でも、労いでもある言葉。


 朔は、息を一つ吐く。


「……崩れなかった」


 自分に言い聞かせるみたいな声。


 青に変わる。


 歩き出す、その瞬間。


 人の流れに押されて、

 宵子の腕が、朔の袖に触れかける。


 ほんの一瞬。


 布越しに、体温が分かる距離。


 宵子は、反射的に身を引いた。


 朔は――

 避けなかった。


 触れなかった。

 でも、動かなかった。


 その一拍が、すべてだった。


 宵子が、息を整える。


「……ここで」


 駅の入口。


 朔は、視線を落とさずに頷く。


「うん」


 引き止めない。

 でも、背を向けるのも遅い。


 宵子は、軽く会釈をする。


「ありがとうございました」


 礼としては、少し柔らかい。


 朔は、一歩だけ前に出かけて――

 止まる。


 言葉は、出ない。


 宵子は、その一歩を見てしまう。


 だから、振り返らない。


 改札へ向かう。


 朔は、追わない。


 触れなかった。

 触れなかったから、

 まだ、音だけが残っている。


 ヴェール一枚分の距離で。




 夜の病院は、昼よりも音が少ない。

 照明は落とされ、必要な場所だけが白く残っている。


 宵子は、最後の確認を終え、詰所を出た。

 廊下を曲がり、エレベーターを待つ。


 ふと、ガラスに映る自分の姿が目に入る。

 白衣の上からコートを羽織り、髪はきちんとまとめられている。


 変わらない。

 少なくとも、外から見える部分は。


 エレベーターが到着し、扉が開く。

 中に入った瞬間、ポケットの中で、携帯が一度だけ震えた。


 業務連絡ではない。

 それだけで分かる。


 画面は見ない。

 見なくても、誰からかは分かってしまう。


 来ないと思っていたわけではない。

 来ると期待していたわけでもない。


 ただ、

 「この時間には、期待しない」

 そう、どこかで決めていただけだった。


 扉が閉まる。

 エレベーターは、静かに降り始める。


 その途中で、宵子は気づく。


 期待していない、と思っていたのは、

 何も望んでいない、という意味ではなかったことに。


 触れたいわけではない。

 踏み込みたいわけでもない。


 ただ、

 まだ、同じ空気の中にいるかどうか。

 それだけを、無意識に確かめていた。


 携帯は、そのまま静かだった。

 追いかけるような振動はない。


 それでいい。

 そう思う自分と、

 それでも少しだけ、歩調を緩めている自分がいる。


 エレベーターが止まり、扉が開く。

 外の夜気が、静かに流れ込んだ。




 休日の夕方の駅前は、

 人の流れが絶えなかった。


 肩が触れそうな距離を保ちながら、

 人はそれぞれの行き先へ流れていく。


 その流れの縁で、

 一台の車が、静かに速度を落とす。


 車が止まり、ドアが開く。


 みちるは周囲を見回すことなく降り、

 流れの中に入らず、その場に立った。


 背中はまっすぐで、無駄な動きがない。


 誰かを待つというより、

 ここにいることが決まっている人の立ち方だった。


 ほどなくして、

 その立ち位置に向かう足音がひとつ、混じる。


 視線を巡らせることもなく、

 人の流れを一つ避け、

 自然な歩幅のまま、距離が詰まる。


 朔だ。


 足を止め、みちるの隣に立つ。


 守られている、とか。

 選ばれた、とか。

 そういう言葉では足りない。


 宵子は、呼吸をひとつ整える。


 胸の奥が、静かになる。

 何かがほどける音はしない。


 ふいに、

 引かれた手首の感触だけが、遅れて浮かぶ。


 けれど、

 それはもう、引き留める理由にはならなかった。


 ただ、重ねて持っていた感情が、

 一枚ずつ、役目を終えていく。


 宵子の視線の先で、

 みちるが、わずかに顔を上げる。


 朔に向けて、ほんの短い一言。


「……時間、ちょうどね」


 それだけ。


 朔は頷く。

 迷いはない。


 二人は並んだまま、歩き出す。

 速度も、歩幅も、初めから揃っている。


 宵子は、追いかけない。


 呼び止める理由も、

 確かめる必要も、もうなかった。


 自分が立っていた場所が、

 間違っていたわけではないと分かる。


 ただ、

 ここではなかっただけだ。


 人の流れに紛れ、

 二人の背中は、ほどなく見えなくなる。


 宵子は、しばらくその場に立ってから、

 静かに踵を返した。




 朝の支度は、いつもと同じだった。


 髪をまとめ、白衣を羽織る。

 ポケットの中身を確かめ、靴音を抑えて廊下を歩く。


 病棟は、変わらない音を立てている。

 足音。

 ナースコール。

 遠くで閉まるドア。


 宵子は業務をこなす。

 呼ばれれば応じ、必要なことだけを伝える。


 特別な集中も、特別な欠落もない。


 昼休憩。

 中庭の前を通り過ぎる。


 足は、止まらなかった。


 午後、窓の外を見る。

 空は高く、光は柔らかい。


 夜。

 仕事を終え、建物を出る。


 自動ドアが閉まる音が、背後で途切れる。

 外気が、白衣の名残を静かに冷ました。


 見上げると、月があった。

 薄いヴェールが、一枚だけかかっている。


 輪郭は分かる。

 光も、確かに届いている。


 それで十分だった。


 宵子は立ち止まらず、歩き出す。


 生活は、続いていく。


 触れなかったものも、

 触れなかったままで、

 ちゃんと、そこにあったと知りながら。


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