第9話:投資家の盤上遊戯(インベスター・チェス)
私にとって、この世界は巨大な盤上に過ぎない――。
商工ギルドの最上階にある執務室。私はいつものように、世界中の金銭の流れを可視化する魔道具『真実の石板』を見下ろしていた。
無数に明滅する光の一粒一粒が、借金という鎖に繋がれた駒たちだ。彼らがどう動き、どうあがき、どう私の懐を潤すか。それを眺め、時に指先一つで干渉するのが私の愉悦であり、仕事でもある。
今から220日ほど前。その盤上に、奇妙な「新規の駒」が投げ込まれた。
【新規債務者検知】
氏名:鈴木 海人
種族:人間(異界:日本)
称号:多重債務者
初期負債額:金貨 70枚
(異界通貨:7,000,000円)
担保:魂(生命力変換可)
「……スズキ カイト? 奇妙な響きですね」
私は片眼鏡の位置を直しながら、その文字列を指でなぞった。
氏名欄には、この世界にはない複雑な象形文字が記され、そこには異世界の文字の発音を示す読み方が振られている。
契約魔法は、対象を絶対的に特定するために「真名」を要求する。どうやらこれが、彼の世界における正式な登録名のようだ。
「それに、金貨70枚……備考には700万円とありますが」
システムが弾き出した換算値によれば、彼が背負ってきた「円」という異界の負債は、こちらの世界で金貨70枚ほどの価値があるらしい。
異世界転移に伴う因果の清算か。その初期費用としてそれなりの借金を背負って落ちてくるとは、なかなかに不運な男だ。
だが、その程度の負債では面白くない。
この世界の法では、借金総額が金貨500枚(約5,000万円)を超えた時点で、対象を「奴隷」として扱うことが許可される。そこへ至れば、彼の人権は完全に剥奪され、死ぬまで労働力を搾り取れる永続的な資産(永続駒)となる。
金貨70枚は、単なる返済義務に過ぎない。彼が真面目に働き、運が良ければ数年で完済し、盤上から降りてしまう(ゲームクリア)可能性がある。
それでは、私の利益にならない。
「少し、手を入れて育てましょうか」
私は石板を操作し、彼のステータス(駒の性能)を表示させた。
魔力なし。スキルなし。体力も平均以下。
スラムという過酷なフィールドに放り出されれば、3日と持たずに野垂れ死ぬ最弱の駒だ。
だから私は、ゲームバランスを調整するように、最低限の「投資」を行った。
スラムを仕切る顔役に賄賂を渡し、「あの駒には手を出すな」と釘を刺した。
彼が飢え死にしそうになった夜には、賞味期限切れのパンを廃棄するようパン屋の店主に指示を出した。
路地裏で彼を襲おうとした雑魚敵を、私の部下に処理させたことも一度や二度ではない。
過保護にするつもりはない。あくまで、彼が借金という名の苗床の上で、金貨500枚という実をつけるまで「ゲームオーバー」にならないように管理しただけだ。
結果、この駒はしぶとく生き延びた。
私の思惑通り、その借金は雪だるま式に膨れ上がり……ついに金貨500枚を超えた。
こうして220日が経過した今、私の手元には極上の「借金奴隷」が完成したのだ。
†
さて、現在の手番に戻ろう――。
昨夜、私は盤上の情勢を揺るがす興味深い情報を入手していた。
貴族街に配置した情報網から、「アルニム伯爵家の『皇帝薔薇』が枯れかけている」という報告が上がってきたのだ。
あの薔薇は、以前カイトたちがバルディ家で手入れをしたものだ。
現在の所有者はエリーゼ・フォン・アルニム。盤上における強力な駒の一角だ。
(あの潔癖で責任感の強いお嬢様のことだ。薔薇を枯らせたとあっては、プライドが許さないでしょう)
彼女は必ず、解決策を探す。
そして、あの薔薇の手入れ経験がある人間は限られている。彼女の性格上、なりふり構わず当時の作業員――カイトを探し出すはずだ。
だが、カイトがどこかの現場で薄給の肉体労働をしていては、彼女が見つけられない可能性がある。
あるいは、仕事中に倒れて病院送りにでもなれば、それこそ無駄な手番消費だ。
彼には、暇で、かつ誰でも探しに行ける場所にいてもらわなければならない。
たとえば、スラムの路地裏のような。
そこへ、当のカイトがギルドの窓口へやってきた。
顔色は土気色。死相が出ている。
職員が、慌てて自分の窓口に近づいてくる彼に清掃の仕事を斡旋しようとしていた。職員としては、死なれては困るという人道的な判断だったのだろう。
だが、私はその様子を見下ろし、手元の通信用魔道具で職員の耳元に囁いた。
『――その男に仕事を渡すな。追い返せ!』
職員がビクリと肩を震わせ、困惑したように視線を泳がせる。
だが、上司である私の命令は絶対だ。
『聞こえなかったか? 例外は認めん。今すぐスラムへ帰らせろ!』
職員は一瞬躊躇したが、すぐに表情を引き締め、マニュアル通りの冷淡な態度を取り繕った。
そして私の指示通り、冷たく言い放つのが聞こえた。
「帰れ。顔色が死人のようだぞ。現場で倒れられたら、搬送費用で足が出る」
カイトは絶望に染まった目で職員を見た。その瞳の奥にある憎悪と無力感。
恨んでもらって構わない。
今ここで、たかだか銅貨数十枚(数千円)の日銭を与えることは悪手だ。
彼を野に放ち、エリーゼという太客に見つけてもらう。
最弱の駒を、最強の駒の目の前に移動させる。それこそが、彼が生き延び、私が巨額の利息を回収するための最善手。
これは賭け(ギャンブル)ではない。盤面を制するための、必然の布石だ。
†
そして、これまでの投資は見事な配当を生み出した。
深夜、私の元にカイトが再び現れた。
今度は窓口ではなく、緊急対応として私が直接カウンターに出向いた。
その手には、アルニム家の紋章が入った重厚な布袋。
中身は金貨30枚(約3,000,000円)。
素晴らしい成果だ。私が裏で手を回し、盤面を整えた甲斐があったというものだ。
彼はその金をカウンターに叩きつけ、処理を要求した。
まずは強制的に、本日分の利息と、削れた生命力の買い戻しが行われる。
問題は、残った約245万円の余剰金をどうするかだ。
賢い人間なら、この余剰金を「将来利息プール」に入れて4日間の安全地帯を買うか、一部を手元に残して栄養のある食事や回復アイテムを買うだろう。
だが、彼は迷わず言った。
「元金だ。全額、元金に入れろ」
私は呆れながら処理を実行した。
【本日の清算処理】
発生利息:549,214円
返済投入額:3,000,000円
余剰金:2,450,786円
【処理実行】
利息充当(生命力欠損補填):完了
生命力回収(回復):完了
【余剰金配分】
元金返済充当:2,450,786円
将来利息プール:0円
払い戻し(生活費):0円
【処理続行】
借金総額(更新):52,470,651円
現在の利息(更新):毎秒 約6.07円(▼0.29円/秒)
数字が更新される。
だが、私の表情が動くことはない。
元金が減ったとはいえ、奴隷身分が解除されるわけではない。
一度でも金貨500枚という絶対防衛線を超えてしまった以上、たとえ借金が1屑鉄貨になろうとも、完済するその瞬間まで彼は「奴隷」のままだ。
このルールこそが、盤上を支配する絶対的な掟。
それなのに、彼は明日の安息よりも、茨の道を選んだ。
せっかくの余剰金を、自分の首を絞める鎖をほんの数ミリ削るためだけに費やす愚かさ。それもまた彼の「味」だろう。
ボロボロになった彼が去った後、私は静かになったロビーで石板を磨き上げた。
「……先日、私が意図的に盤上に配置した重石――獣人の娘リナ。それに加え、今度はエリーゼお嬢様との縁、ですか」
私は顎に手を当て、次の手を思考する。
意識を失ったリナを、あえてカイトに押し付けたのは正解だった。
リナは、今の彼にとって守るべき存在であり、借金返済の最大の敵でもある。彼女という重石がいる限り、カイトは無理をしてでも稼ぎ続け、生命力をすり減らし続けるだろう。
さらに、彼らにパーティを組ませ、互いの借金状況を意識させつつ長く生かしておく今の形も、実に見事な配置だ。連帯債務に近い心理的拘束……これこそ、最弱の駒を逃がさないための最良の鎖となる。
一方でエリーゼは、カイトにとって金蔓になり得る強力な駒だ。だが、あの気難しい令嬢が、単なるスラムの借金奴隷にどれほどの執着を見せるか。今回の件で、多少なりとも情が湧いただろうか?
カイトとリナ。そこへ割って入るかもしれないエリーゼ嬢。
どの駒がどう動き、どちらとくっついても、あるいは破綻しても、そこにはドラマが生まれる。感情の揺れ動きは、時に人間に限界を超えた労働を可能にさせる。
「ふふ、どのように転んでも、私への利息(配当)が増えることには変わりありませんがね」
モニターに映る数字の羅列が、私には美しい盤面に見えていた。
「さあ、次はどんな手で楽しませてくれるのですか、カイト君」
貴方の人生を書いているのは、神でも運命でもない。
プレイヤーであるこの私なのですから――。




