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第8話:残り時間の価値

 視界が明滅している。


 心臓が止まるわけではない。だが、魂という燃料タンクの底に穴が空き、そこから生命力がドボドボと漏れ出している感覚がある。


 現在の借金総額は、私の魂が耐えうる限界値『約5,492万円』に張り付いたまま固定ロックされている。

 器が満杯のため、毎秒発生し続ける『約6.36円』の利息を、借金として上乗せすることができない。


 2日前、死ぬ思いで稼いだ金で作った「利息のプール(猶予期間)」は、とっくに底をついていた。


 昨夜、なけなしの小銭を叩きつけたが、それは焼け石に水で、その日発生した利息すら相殺できなかった。


 今は行き場を失ってあふれ出した利息が、契約の絶対ルールにより、私の生命力を直接削り取ることで清算され続けている。


 朝から何も食べていないこともあり、私の体力は限界に近かった。魔力などという便利なものを持たないただの人間である私の肉体は、生命力の徴収と空腹のダブルパンチで悲鳴を上げている。


 この程度で即座に死ぬことはないだろう。以前はもっと長い時間、この喪失感に耐えていた。だが、蓄積した疲労は確実に私の足を重くしている。このまま意識を失って倒れれば、そのまま野垂れ死ぬ未来が待っているだけだ。


 私は泥水のような唾を飲み込み、スラムの路地裏を這うように歩いていた。足が重い。



 †



 私はまず街の中心にある商工ギルドへ向かった。彼らは利息回収のためなら、どんな汚れ仕事でも斡旋してくれるはずだからだ。


 だが、窓口の職員は私の顔を見ると、冷淡に手を振った。


「帰れ。顔色が死人のようだぞ。現場で倒れられたら、搬送費用で足が出る」


 取り付く島もなかった。金になる仕事ほど、相応の体力を要求される。今の私には、そのスタートラインに立つ資格すらなかったのだ。

 今の私に仕事を斡旋しても、利息の回収がより困難になるだけと判断されたのだろう。


 搬送費用などと言っていたが、仮に費用が発生してしまったら、本来借金に上乗せすれば済む話だ。だが、それすらも行われなかったということは、私の姿がよほど危険な領域に見えているのだ。


 ギルドを追い出され、私はとぼとぼとスラム街へ戻ってきた。ここなら、ゴミ拾いやドブさらいといった、日銭にもならない仕事があるかもしれないと思ったからだ。


「……あ」


 路地のゴミ山に、人が倒れていた。


 男だ。身なりからして、落ちぶれた元冒険者か、賭けに負けたゴロツキだろう。ピクリとも動かない。


 私はふらつく足で近づいた。まだ温かい。だが、呼吸は止まっている。

 男の腰に、小さな革袋がぶら下がっているのが見えた。



《それを奪えば助かるぞ》



 頭の中で、粘着質で悪魔のような声が響いた。それは私の声だった。ギャンブルに負け、ヤミ金の取り立て屋たちの前で震えていた、あの時の情けない男の声だ。


 私は震える手を伸ばした。

 これを奪って返済すれば、今日削られた生命力を買い戻せる。余剰分で元金を減らせば、再び借金が満タンになるまでの「プール期間(安息)」を作れるかもしれない。


 いや、実際にはそんな金額が入っていないことはわかり切っている。

 ついに指先が革袋に触れる。


「う、ぅ……」


 不意に、死体の男の顔が歪んだ気がした。


 その顔が、傷つき、不安げに私を見上げるリナの顔に重なる。あるいは、いつか野垂れ死ぬ私自身の未来の顔か。


 私は弾かれたように手を引っ込めた。


「……くそっ」


 吐き気がこみ上げた。

 私は何をしようとしている? 人の尊厳を捨ててまで、ほんの数時間の安らぎを買って、その先に何がある?


 結局、私は革袋を奪えなかった。その場を逃げるように立ち去り、腐った板壁に背中を預けて座り込む。


 思考が鈍る。このまま眠れば、苦しまずに死ねるだろうか。それとも、意識を失ってもなお、心臓が止まるまで生命力を吸われ続けるのだろうか。


 意識が闇に沈みかけた、その時だった。


 ヒヒィン!


 場違いな馬のいななきが、スラムの静寂を引き裂いた。

 顔を上げる気力もない私の前に、豪奢な馬車が横付けされる。


 跳ね上げられた泥が頬にかかった。

 馬車の扉が開き、仕立ての良い服を着た男が二人、飛び出してくる。借金取りか。それとも、死体を回収する業者か。


 男たちは私の両脇を抱えると、ゴミ袋のように乱暴に馬車の中へ放り込んだ。


「見つけました!」

「生きているか定かではありませんが、確保しました!」


 男が誰かに報告している。


 放り込まれた馬車の中は、不思議と暖かかった。そして、濃厚な薔薇の香りが充満している。

 私は薄目を開けた。


 目の前に、蒼白な顔をした少女が座っていた。

 豪奢なドレスの裾を握りしめ、唇を血が出るほど噛み締めている。


「……生きて、いるわね?」


 エリーゼ・フォン・アルニム。

 以前、ロドルフという男爵家の子息にいたぶられそうになった私を結果的に救ってくれた伯爵令嬢だ。


 あの時は氷のような無表情だったが、今は余裕が完全に剥がれ落ちている。



 †



 馬車は深夜の石畳を、車輪が壊れそうな速度で爆走していた。

 揺れるたびに、私の減りかけた体力が削られていく気がする。


「ねえ、借金奴隷。死ぬのは許さないわよ。まだ仕事が終わっていないのだから」


 エリーゼは、半ばパニック状態のようだった。


「……なんの、用ですか」

「とぼけないで! 以前、あんたたちにバルディ家の屋敷で手入れさせた『皇帝薔薇カイザー・ローゼ』のことよ! あれを私の家に持ち帰ってから、ずっと元気がなくて、今夜になって急に枯れ始めたの!」


 彼女は私の胸ぐらを掴み上げた。


「私の管理が悪かったと言うの!? あの下品なロドルフの手から引き取って、屋敷の温室に移してからは最高級の待遇をしたわ! 高価な肥料を与え、風邪を引かないように温室を閉め切り、水だって欠かさずやったわ! それなのに、どうして!」


 私は朦朧とする頭で、彼女の言葉を咀嚼する。


 以前の記憶が蘇る。あの時、私は巨大な食虫植物の棘を磨かされた。ロドルフは雑に扱っていたが、エリーゼはその薔薇の品質に異様な執着を見せていた。だからこそ、自分の屋敷に引き取ったのだろう。


 最高級の肥料。閉め切った温室。欠かさない水やり。

 ……原因はそれだ。


「……屋敷に着いたら、すぐに温室へ案内してください」


 私がそう呟くと、エリーゼは私が何かを知っていると察したのか、御者台に向かって怒鳴った。


「急ぎなさい! 馬など潰れても構わないわ!」



 †



 アルニム家の屋敷に到着するなり、私は温室へ引きずられていった。

 そこは、蒸し風呂のような熱気と湿気に満ちていた。


 以前バルディ家で見たときは、触手のような蔦を蠢かせ、鋭利な牙を鳴らしていた『皇帝薔薇』が、今は見るも無残に首を垂れていた。


 葉は黄色く変色し、茎の根元は黒ずんでいる。


「見なさい! この惨状を! 明日は皇太子殿下が視察にいらっしゃるのよ……これが枯れたら、アルニム家は終わりだわ!」


 エリーゼが悲鳴を上げる。

 皇太子殿下の視察。なるほど、伯爵家としての面子が懸かっているわけだ。


 私はふらつく足で薔薇に近づき、土に指を這わせた。


 じっとりとした湿り気。腐敗臭。

 私はこの世界の植物学者ではない。だが、前世の記憶にある「植物」としての基本構造が同じなら、答えは一つ。


「根腐れだ」


 過保護すぎる愛情が、この化け物じみた植物を窒息させている。


「……窓を、全部開けてください」

「は? 何を言っているの? 夜風に当てたら、薔薇が風邪を引くわ!」

「いいから開けろ!」


 私は残った気力を振り絞って怒鳴った。

 エリーゼがビクリと肩を震わせる。


「こいつは……息ができないんだ。あんたが水をやりすぎて、空気を遮断したせいで、溺れかけている」


 私は近くにあった園芸用の小さな熊手を手に取ると、薔薇の根元の土を慎重に掘り返し始めた。


 本来なら近づくだけで襲ってくるはずの食虫植物が、全く抵抗しない。それほど弱っているのだ。


 固く締まった土をほぐし、空気を送り込む。腐りかけた根を傷つけないように、余分な湿った土を取り除き、乾いた赤玉土のような用土に入れ替える。


 これが正しい処置かは分からない。だが、人間も植物も、呼吸ができなければ死ぬ。それだけは変わらないはずだ。


「……お願い。助けて」


 背後で、エリーゼのか細く震える声が聞こえた。

 かつてロドルフを一喝した気高さはどこへやら、今はただ薔薇を案じる一人の少女になっていた。



 †



 作業を終える頃には、私の指先は泥だらけになり、視界は完全にモノクロになった。


 限界だ。

 私は土の上に倒れ込んだ。


「……ねえ、どうしたの? しっかりしなさい!」


 エリーゼの声が遠く聞こえる。

 薔薇の葉が、微かに持ち上がったように見えたのは、幻覚だろうか。


「……水は、やるな。明日の朝まで……乾かせ……」

「わ、わかったわ。約束する」


 エリーゼは私の顔を覗き込み、安堵と焦燥が入り混じった表情で従者を呼んだ。


「報酬を! 私の部屋の隠し金庫を開けなさい! 中身をすべてよ! 急いで!」


 彼女は屋敷のメイン金庫ではなく、自分の私室にある金庫を指定した。


 深夜に当主を叩き起こして本家の金庫を開けさせる時間すら惜しいのか、あるいは自分の責任で処理しようとしているのか。


 しばらくして、何かが私の胸元にドサリと投げ出された。

 前回の比ではない、重みのある布袋だ。ジャラリ、と鈍く重厚な金属音が鼓膜を揺らす。


「とりあえずの報酬よ。私の個人的な資金で申し訳ないけれど……薔薇を救ってもらった正当な対価だわ!」

「……っ、感謝します」


 私は震える手で袋の紐を解く。中身を確認するまでもない、莫大な量だ。

 伯爵家の令嬢とはいえ、一個人の少女がすぐに出せる金額としては破格だろう。


 今の私には「今」を生き延びる金が必要だ。

 私は袋を抱きかかえると、這うようにして立ち上がった。


「……あら、どこへ行くの? 休んでいけばいいじゃない?」

「ギルドへ……行きます。今すぐ払わないと、私が死ぬ」



 †



 馬車を出してもらい、私は意識が飛びそうになりながらも商工ギルドの夜間窓口へと滑り込んだ。


 カウンターに布袋を叩きつける。

 対応に出てきたのは、やはりあの男だった。


 片眼鏡モノクルを光らせた、私の債権者であるギルド幹部。


「おや、深夜にドブネズミが飛び込んできたと思えば……またあなたですか」

「……返済だ。いますぐ処理しろ」


 男は眉をひそめながらも袋の中身を確認し、手元の石板タブレットを操作した。


「金貨30枚(約3,000,000円)。……ほう、どこの屋敷から盗み出した金ですか?」

「……うるさい。早くしろ、命が持たない」


「いいでしょう。ではまず、契約の絶対ルールに基づき、本日の未払い利息分――現在あなたの生命力で代償されている分を最優先で清算します」


 男が石板を操作する。

 私の意思に関係なく、まずは「命の買い戻し」が強制執行される。


 石板が淡く発光し、計算結果が表示される。



【本日の清算処理】

 発生利息:549,214円

 返済投入額:3,000,000円

 余剰金:2,450,786円

【処理実行】

 利息充当(生命力欠損補填):完了

 生命力回収(回復):完了



 利息のプールが尽きてから数時間が経過していた。その間、毎秒約6.36円のペースで削られ続けた私の生命力――金額にして約55万円分が、この処理で買い戻された。


 その瞬間、身体の芯から温かい力が湧き上がってくる。

 肺の痛みが消え、鉛のように重かった手足に力が戻る。


「さて、まずは今日のマイナス分を補填し、生命力を回復させました」


 男は石板を指先で叩きながら、値踏みするような視線を向けてきた。


「残りの余剰金は約245万円。……どうしますか? このまま将来の利息としてプールしておけば、約4日半は働かずに寝て過ごせますよ?」


 悪魔の囁きだ。

 4日以上の安息。それは地獄のような日々を送る私にとって、喉から手が出るほど欲しいものだ。


 だが、それでは何も解決しない。

 私は迷わず、男の目を睨み返した。


「……元金だ。全額、元金に入れろ」


 男の片眼鏡がキラリと光る。

 その瞳に浮かんでいたのは、明確な失望と侮蔑だった。


「……また、元金を減らしますか。学習能力がないようですね」

「うるさい。早くやれ」


 プールしておけば、明日は楽ができる。だが、それでは何も変わらない。

 この呪いのような元金を、1円でも減らさなければ未来などないのだ。


「愚かですね。この約245万で、もっとマシな食事を買うなり、安息の日々を買うなりすればよかったものを。たまの息抜きに、娼婦を買ってもよかったのですよ」


 男は茶化しつつも呆れたように肩をすくめ、石板に指を走らせた。


「借金を返すために借金を返し、その過程で死にかける。……元金という『呪い』を解こうとあがく姿は滑稽ですな。私としては、ただ利息だけを搾り取れる家畜でいてくれるので都合がいいのですがね」


 男の言葉と共に、石板の表示が切り替わり、最も重要な更新が行われる。



【本日の清算処理】

 発生利息:549,214円

 返済投入額:3,000,000円

 余剰金:2,450,786円

【処理実行】

 利息充当(生命力欠損補填):完了

 生命力回収(回復):完了

【処理続行】

 借金総額(返済前):54,921,437円

 元金返済充当:2,450,786円

 借金総額(更新):52,470,651円

 現在の利息(更新):毎秒 約6.07円(▼0.29円/秒)



 心臓を鷲掴みにしていた万力が、ふっと緩む。


 借金の総量が限界値を大きく下回った。

 魂の器に、広大な「空き」ができたのだ。


 これで、この空き地が埋まるまでの数日間、私は生命力を削られることなく生きられる。


 男の言葉はまさに正論で、私の胸に突き刺さった。

 だが、私は言い返す気力もなく、ただ空になった袋を握りしめた。


「……ふふ」


 乾いた笑いが漏れた。


 死にかけの薔薇を救って、自分の寿命を4日分ちょっと延ばした。

 なんと滑稽な喜劇だろうか。



 †



「感謝するわ、借金奴隷。……名前は?」


 馬車で待っていたエリーゼが、ハンカチで私の顔の泥を拭いながら尋ねてきた。


 その瞳には、以前見たような冷ややかさはなく、安堵の色が浮かんでいた。


「……海人カイトです」

「そう。覚えておくわ、カイト」


 彼女は少しだけ頬を赤らめ、咳払いをしてから立ち上がった。


「さあ、馬車で送り届けてあげるわ。スラムの入り口までですけどね」


 私は空になった袋を握りしめた。

 これでしばらくの間、生命力を削られる恐怖に怯えることなく眠ることができる。


 だが、借金そのもの(元金)が減ったとはいえ、依然として5,200万円以上の巨額が残っている事実に変わりはない。

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