第7話:持たざる私と持たざるリナ
鼻を突くカビと湿気の臭いで、私は目を覚ました。
板切れを継ぎ接ぎしただけの天井。隙間風が吹き込む、スラムの我が家だ。
重たい頭を振って身を起こそうとした瞬間、右腕に柔らかな重みを感じて動きを止める。
視線を落とすと、そこには銀色の髪から突き出たふたつの獣耳があった。
リナだ。薄汚れた毛布にくるまり、私の腕を枕代わりにして規則正しい寝息を立てている。
昨晩の記憶が蘇る――。
ギルドから譲り受けた廃棄予定の超低級ポーションは、文字通りゴミ同然の効果しかなかった。傷口も少ししか塞がらず、体力を回復させるも程遠く、彼女は私の目の前で糸が切れたように意識を失ったのだ。
あの男――片眼鏡をかけた商工ギルドの幹部は、厄介払いとばかりに彼女を私に押し付けた。
『死なれると資産価値がゼロになりますからね。あなたが管理しなさい。その方が、あなたも必死に働くでしょう?』
そんな意図が透けて見える采配だった。
私は唾を飲み込み、隣で眠る少女を観察する。
彼女が着ているのは、拾ってきたサイズの合わないボロボロのシャツ1枚だけだ。毛布がはだけ、無防備な太ももが露わになっている。
何より、私は知っている。この布切れの下に、彼女が下着など身につけていないことを。
シャツの裾から覗く白くなめらかな肌。慎ましい膨らみに合わせて上下する胸元の布地。
まだ彼女との間に肉体関係はない。だが、この無防備すぎる姿は、朝特有の生理現象も相まって、私の劣情を強烈に刺激した。
(……金さえあれば、こんなボロ布じゃなく、もっと肌が透けるような薄いネグリジェを着せて……)
「……少しくらい、いいよな?」
私は、己のそそり立っている愚息に手を伸ばそうとした。この時ばかりは、粗末な衣服であることに感謝してもしきれない。
その時、リナの獣耳がピクリと動いた。
(あ、あぶねぇ……)
閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、眠気を含んだ瞳が私を捉える。
「……ん。……カイト、さん?」
「お、おう」
彼女が身じろぎした拍子に、シャツの襟元が大きく広がる。見えそうで見えない、その境界線に私の視線が釘付けになる。
リナは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに自分の格好と私の視線の先に気づいたようだった。
彼女はほんの少し頬を染め、ふわりと微笑んだ。
「おはようございます、カイトさん」
その反応はあまりに自然だった。
「……ああ、おはよう。体調はどうだ」
「おかげさまで。昨日は、ありがとうございました」
リナは身軽な動作で起き上がると、乱れた銀髪を手櫛で整えた。その仕草だけで、薄暗いボロ小屋が少しだけ華やいで見える。
彼女は出口へと向かい、一度だけ振り返った。そして、背伸びをするように私に顔を近づける。
チュッ、と軽い音を立てて私の頬に唇を押し当てた。
「いってきます。私も、頑張って働きますから」
柔らかい感触と、獣人特有の甘い匂いを残して、リナはスラムの雑踏へと消えていった。
彼女がどんな仕事をして、どうやって金を稼ぐのか。それを問う権利は私にはないし、知る由もない。
ただ、頬に残った感熱だけが、冷え切った私の心臓を少しだけ温めていた。
†
感傷に浸っている暇はない。私にも毎秒、死の足音が迫っている。
商工ギルドの重厚な扉をくぐると、奥の執務スペースから昨夜の男が現れた。
胸元に幹部の証である金色のバッジを輝かせ、片眼鏡の奥から値踏みするような視線を向けてくる。
「おはようございます。昨日の今日で、よく生き延びていますね」
今日も嫌味な奴だ。
「……仕事だ。何か入っているか」
私は期待を込めて尋ねた。
先日、私の寿命を大きく引き延ばしてくれた彼女――エリーゼからの指名は入っていないか。あるいは、それに類する貴族からの割の良い依頼はないか。
「残念ながら、あなたをご指名のような奇特な依頼はありません」
幹部の男は、まるで私の淡い期待を見透かすように冷淡に言った。
「ですが、一般公募よりはマシな仕事があります。港湾区での荷運びです。報酬は悪くありませんよ」
男は依頼書をカウンターに滑らせ、淡々と条件を告げる。
「日給、銀貨50枚(50,000円)。運搬量による歩合はありませんが、完遂すれば即金で支払われます」
「……銀貨50枚!?」
私は思わず息を呑んだ。
スラムでゴミ漁りをして得られる金は、運が良くても銅貨5枚(500円)程度。命がけの汚れ仕事を自力で探しても、せいぜい銀貨数枚(数千円)がいいところだ。
それが、ただ荷物を運ぶだけで銀貨50枚。本来なら、ギルドに太いパイプを持つ熟練労働者しかありつけない案件だ。選り好みしている場合ではない。
私はその依頼書をひったくるように受け取り、現場へと走った。
†
現場は活気に満ちていた。
大きな木箱が山積みにされ、多くの労働者が汗を流している。
私は指示された区画で作業を始めたが、すぐに息が上がった。
当然だ。私の体は、これまでの過酷な生活と、幾度も利息として生命力を削り取られてきたダメージでボロボロなのだ。石のように重い手足を動かすだけで精一杯だった。
「おっさん、遅えよ!」
「お、おっさ……」
隣で作業をしていた若い男の声が飛ぶ。
見れば、犬の耳を持つ獣人の少年だった。まだ10代半ばだろうか。
彼は私よりも一回り大きな木箱を軽々と担ぎ上げ、飛ぶような足取りで運んでいく。
その肌には生気が満ち、瞳は希望に輝いている。
種族としての身体能力の差、そして何より借金などないのだろう。借金がないだけで、これほどまでに生物としての活力が違うのか。
「……くそっ」
対抗心と焦りで無理やり体を動かそうとしたが、足がもつれて無様に転倒した。
木箱が音を立てて崩れ落ちる。
「おい! 商品になんてことしやがる!」
現場監督の怒号が飛んだ。
結局、私は昼を待たずに現場を追い出された。
『あのガキの半分も働けねえ奴に払う金はねえ!』という罵声を背に受けて。
†
「……期待外れですね」
ギルドに戻ると、幹部の男は片眼鏡の位置を直しながら、心底呆れたように言った。
私は泥と埃にまみれた体で、ただ俯くしかない。
「これでは投資の回収すら危うい。どうしますかね」
彼の言葉には、人間に対する情など微塵もない。あるのは資産の運用益に対する執着だけだ。
紹介料を取らなかったのも、私を長く生かして搾取し続けるための計算だろう。
生かさず殺さず。ギリギリのラインで私を管理することこそが、彼らの利益なのだ。
「次がラストチャンスです。これを失敗すれば、もう紹介できる仕事はありませんよ」
男が放り投げたのは、羊皮紙の切れ端のような依頼書だった。
薬草の仕分け。
先ほどの荷運びよりもはるかに低賃金。子供でもできる単純作業だ。
「報酬は出来高制ではなく固定で、日給は銀貨1枚と銅貨5枚(1,500円)。今のあなたに見合った金額ですね」
銀貨50枚(50,000円)から、わずか銀貨1枚と銅貨5枚(1,500円)へ。
だが、今のボロボロの私に拒否権はない。
「……やります」
私は屈辱を噛み殺して、その紙を掴んだ。
†
日が沈む頃、私は再びギルドにいた。
得られた報酬は、まさに雀の涙だった。
受け取った小銭を即座に返済用ボックスへと叩き込む。
魔道具の水晶が冷たく発光し、ログを映し出した。
【本日の清算処理】
発生利息:343,440円
返済投入額:1,500円
不足金:341,940円
【処理実行】
利息充当:未達
生命力回収(回復):不可
【現在の借金状況】
借金総額:54,921,436.93円
(前回比:変動なし ※魂の限界値ロック中)
現在の所持金:0円
次回の利息支払い(生命力徴収再開)まで:残り約3時間
現在の利息:毎秒 約6.36円
「……そうなるよな」
一日中働き、泥にまみれ、罵倒され、それでも手に入れた金は利息の足しにすらならなかった。返済額の数百倍の速度で、利息が私の将来(寿命)を食いつぶしている。
先日、貴族令嬢からの報酬で買い戻したはずの時間は、働いている間に砂のように指の間からこぼれ落ちていた。
手元には、もう1円も残っていない。
猶予が尽きれば、またあの、心臓を直接握りつぶされるような痛みが始まる。
私は鉛のように重い足取りで、暗闇に包まれたスラムへと戻っていく。
明日の朝、目が覚める保証はどこにもない。
あの獣人の少年の、生命力に満ち溢れた笑顔が、呪いのように脳裏に焼き付いて離れなかった。
†
数刻前。
私は、商工ギルドの片隅で重い息を吐いていた。
「ほら、今回の報酬だ。嬢ちゃんは相変わらずいい仕事をするな、感心するよ」
窓口の職員の恰幅のいい中年男性が、カウンターに硬貨を積み上げた。
今日の仕事は、貴族街から流れ出る廃棄物の処理場での分別作業だった。
鼻が曲がるような悪臭と、少しでも気を抜けば指を飛ばされる危険な機械の選別ライン。
けれど、獣人の身体能力を持つ私にとっては、そこまで苦ではない。
「ありがとうございます……」
私は銀貨12枚を受け取った。
スラムの住人にしては、破格の稼ぎだ。カイトさんが見たら驚くかもしれない。
けれど、私の手元にこの金が残ることはない。
私はその足で、壁際に設置された返済用の魔道具へと向かった。
硬貨を投入口へ滑り込ませる。チャリン、という音が虚しく響く。
水晶に、私個人の借金状況が表示される。
『返済を確認しました』
数字が変動する。
けれど、その桁数はあまりに多く、今日稼いだ銀貨など、砂漠に水を撒いた程度にしか感じられない。
かつて、私は借金が膨らみすぎ、法律上の奴隷となるラインを超えてしまったらしい。
そこから必死に返し続けている。
元金が減っているのか、それとも利息で相殺されているだけなのか。あるいは、もうすぐ終わるのか、永遠に終わらないのか。
それを考えることすら、今の私には恐ろしかった。
(……あの人)
ふと、昨晩のカイトさんの姿が脳裏をよぎる。
あるいは、その横に立っていた、片眼鏡の冷徹な男の姿も。
あの男が何者かは知らないけれど、纏っている空気から、私たちを縛り付ける側の人間だということはすぐに分かった。
カイトさんもまた、私と同じ地獄の中にいる。
私は唇に手を当てた。今朝、彼に口づけをした時の熱が、まだ微かに残っている気がした。
「……明日も、生きなきゃ」
持たざる者同士。
傷を舐め合うだけの関係かもしれない。
それでも、あの温もりがあるだけで、私は明日もまた、この過酷な現実の中で必死に食らいついていける気がした。




